第1話 魔女との出会い
1月某日。僕は道に迷っていた。
「人生の」とか、そういう枕詞はつかない。比喩ではなく、本当に文字通り道に迷っていた。
とある長野県の山に来ていた。登山だ。現代人が冬山に登る理由なんて、雪山登山か狩猟か、自殺くらいなもんだろう。僕は猟銃なんて持ってないし、積極的に死ぬ理由はなかった。
山に登ることが趣味で、写真を撮ることが仕事だった。だから、雪山を写真におさめようと登るのは、僕にとって冬の恒例行事だった。
知識も装備もそれなりにあるつもりだった。ピッケルも十二本爪のアイゼンも持っていたし、磁北線を引いた地形図とコンパスもあったし、非常食もたんまりあった。
あった。あったのだ。過去形だ。非常食は、もうなくなった。
もう一面の銀世界を彷徨って、十日になる。正確には、この四日間は歩いていない。斜面で足を滑らせて、骨を折ってしまった。おそらくだ。もしかしたら折れていないのかもしれないが、とにかく歩けない。痛くて痛くて仕方がないので、寝袋と保温シートにくるまってぼうっとするしかなかった。
周囲はガスに包まれている。登山用語で、ガスとは霧のことだ。この数日間ずっとガスガスで、周りの景色が見えない。
また雪が降ってきた。ずっと動いていないので、ゴーグルにもアウターにも雪が積もってきた。それを払う気にもなれない。
いつまで経っても消えないガスと、音もなく降る雪を見ていると、まるで別世界に迷い込んだようだ。眠たくなってきた。寝袋に入っていても、靴下を重ね履きしても、体の末端は冷気に耐え切れなくなっていた。寒くて冷たくて痛いのに、どんどん瞼は重くなる。
積極的に死ぬ理由はなかった。でも、消極的になら死んでもいいかという、鈍色の人生への諦めがあったのは事実だ。
ただただ両親への申し訳なさに目頭が熱くなった。三十にも満たないで先立つのは、情けないことだ。登山保険には入っているから、許してくれ。あんまり一人暮らしの男の部屋を漁ってくれるなよ。そんなことを考えながら、今はもう、雪の下のふきのとうのごとく眠るしかなかった。
*
頭を覚醒させたのは、ごんごんと頭を叩く衝撃だった。
目を開けるより前に、熱さが体中を覆った。あんなに寒い、冷たいと思っていたのに、気づけば汗だくになっていた。不快だ。なんだってんだ。
僕は手袋を外して、口元を覆っていたバラクラバを下げて、ゴーグルを脱いだ。
瞬間、日光が網膜を刺した。まぶしい。目を細める。なんだってんだ。
瞳が光に慣れたのを確認して、恐る恐る目を開く。
目の前に女の子がいた。
冗談のようなとんがり帽子をかぶった女の子だった。薄紫色の切りそろえられた髪は、つばの広い帽子とローブの襟によってほとんど隠されている。腕に抱えた杖は木の先に青い水晶玉がついていた。
「起きましたか?」
眠たげな水色の瞳が一瞬僕をとらえて、すぐに瞼の裏に隠された。僕がなにか言葉を発する前に、拒絶するように右手を振った。
「ああ、いいですいいです。どうせ『どうして死なせてくれないんだ』とか言い始めるんでしょう? こっちはあなたみたいなのを何人も見送ってきているんです。お見通しですよ」
続いて杖を旗のように振ると、バチバチとプラズマのようなものが弾けた。
「死ぬなら山向こうの砂漠で死んでください。川の横で死なれると水が穢れます。大体なんです、その芋虫みたいな姿……なんですか、コレ? 変わった斧ですね……死ぬ気ならコレ、もらってもいいですか? 埋葬と祈りぐらいはやりますよ」
少女は、杖先を僕のピッケルに向けて、宙に浮かせていた。ぶぅんとパソコンを起動するような音がかすかに聞こえる。
幼さを残しながらも気だるげな声だ。ほんの少しかすれているような味わい深い声色だ。その音色を無視して、周りの景色を見回した。
森だ。見たことのない森にいた。どれぐらい見たことがないかというと、一目でここが地球でないことがわかるような森だった。まず空に月よりも大きな星が出ていた。白色で輪っかがあり、月よりも五倍ほど大きく見えた。木々の葉は色あせた桜色と藤色が混ざり、枝はサンゴ礁のようにいくつも分岐しながら空に伸びていた。目の前を流れる川は、常夏の沖縄のような海色をしている。
「ちょっと」
少女が杖で僕の頭を小突いてきた。いつの間にか瓶を片手に持っていた。
「生きているなら、会話をしてもらわないと困りますよ」
僕は、数秒パクパクと口を動かした後、ありきたりな言葉をこぼした。
「……ここは、どこですか?」
困惑する僕に対して、少女も困惑した様子で返した。
「どこと言われても……名もなき森ですよ。強いて言うならイデ山脈から流れるとある川筋です。記憶が飛んでいるんですか?」
少女が瓶を渡してきたので、わけもわからないまま受け取った。
「あの、……記憶がないかも、いや、錯乱状態かもしれないです」
「そうですか、とりあえずそれを飲んでください」
瓶の中身を見る。少し振るとわずかな粘性を持ちながら、波打つたびに紫色の光が瞬いた。
僕はどうしてよいのかわからず、直接飲んでいいのか、とジェスチャーしてみせた。少女は両手でどうぞどうぞと返してきたので、そのまま一気に飲み込んだ。
焼けるような喉の痛みにむせ返った。
「こら! そんな一気に飲む愚か者がどこにいますか!」
そういって、慌てて革製の入れ物を取り出した。きゅぽんと音を立てて栓を開けて、僕の口元に流し込んだ。生温いが馴染んだ水の味だ。安堵する。
「勘弁してくださいよ。貴重な飲み水なのに」
僕は二、三口含んで礼を言って、道に迷ったことを伝えた。
いや、もう道に迷ったどころの話じゃないことはわかっていた。どうすればいいのかわからず、少女の名前を聞いた。
「私はディミトラですよ。ディミトラ・オクロウリー・ル・ガラニス。山麓に居をかまえる魔法使いです」
「ま、魔法使い!?」
「どこに引っかかっているんですか。こんな格好で魔法使い以外の何物だと?」
少女は両手を広げてみせた。紺色のぶかぶかのローブで体系はわかりづらいが、背丈は僕の肩にも届かない程度だ。
死にかけて幻惑を見ているのだろうか。あるいはここは天国か、地獄か。
もう考えるのも面倒だ。なにをどうすればよいのかわからず、僕はまた目を閉じようとした。
しかし三度、ごんごんと頭を叩かれた。
「だから死ぬなら山向こうにしてくださいよ!」
*
「どうにも嘘くさいですねぇ」
ディミトラさんは僕の75リットルのザックの中身を物色しながら、顔をしかめている。
僕はキャタピラのついたダンゴムシみたいな乗り物で運搬されていた。内装はぶよぶよと柔らかく、ディミトラさんの声かけに頭をもたげてキュイキュイと鳴いていたので生き物なのかもしれない。なんにせよガタガタと揺られながら、ディミトラさんの住まいへと向かっているようだ。異様に明るい川に沿って進んでいく。つんと鼻につく香りが、川の流れから漂っていた。
ディミトラさんはふんぞり返って杖をこちらに向けてきた。
「ふざけているなら命がなくなりますよ?」
ふざけてないから、その杖を下げてください。
「おんやぁ? 魔法の経験がないのに、この杖が危ないことはわかるんですかぁ?」
「アニメとかで見たことありますよ。きっと火とか氷とか出すんでしょう?」
「そんな野蛮なものは出しませんよ。高出力で雷を呼び出すだけです」
充分野蛮だよ。両手を上げて全力で首を横に振ったのが功を奏したのか、ディミトラさんは杖を下げて、代わりに先ほど乱雑に広げた装備群を杖でなぞっていく。寝袋も着替えも湿気てふにゃふにゃだ。アイゼンの爪についていた雪は解け切って、泥だけが付着していた。ピッケルはもう自分のものだと言わんばかりに、ディミトラさんの腰元に置かれている。
そのうち、ショルダーバッグをコンコンと叩いた。
「これはなんですか?」
カメラバッグだ。雪山で滑落したときも、こいつが木に引っかかったのが原因なのだ。忌々しいが、僕の生活を支えた相棒でもあるので無碍にはできない。
「カメラってなんです?」
写真を撮るものだ、というと、今度は「写真ってなんです?」ときた。埒が明かないので試しにディミトラさんに向けてカメラを構えた。慌てた様子で杖を振るう。
「妙な真似をしたら雷を落としますよ?」
カメラを知らない者からすれば、これは銃のように見えるかもな。いや、そもそもこの世界には銃はないのか。そんなことを考えながらシャッターを切った。
画面を確認する。とんがり帽子を目深にかぶり、不審げに口をとがらせているディミトラさんが映し出されている。さすが×××社のカメラだ。滑落して、別世界に移動してもなお機能している。
ディミトラさんに、撮影した写真データが映し出された画面を見せる。
「……誰です? これ」
あんただよ。
「私って、こんなにちんちくりんですか?」
頷きかけて、しかし未だ心臓を捉えている杖先を見て、曖昧に首をかしげる方向にシフトした。
ディミトラさんはカメラを胸元でくるくる回して、多角的に観察している。
「つまりは即座に高精度の絵がかける魔法って認識でいいですか?」
今度は自信満々に頷いた。見た目はちんちくりんだが、頭はいいのかもしれない。
ディミトラさんは、ふむぅ、と息を漏らしてから、こちらにカメラを向けた。
しばらく静止して、聞いてきた。
「——どうやって使うんです?」
右上のボタンを押すんです、と伝えると、「ボタンってなんです?」ときた。そこのでっぱりのことだと伝えると、人差し指が動いて、パシャリとシャッター音が響いた。
ディミトラさんは画面をのぞき込んで、すぐに下唇をぬっと突き出した。その表情のままカメラをこちらに返してきた。画面を確認すると、斜めになってピントがぼけた僕の姿が映っていた。ピンボケしていても、髭が伸びきっているのがわかった。顎に手を当てる。剃らなければ。
ディミトラさんは、頭をかく代わりなのか、帽子をずりずりとかぶり直した。
「ん~、言語の不一致具合がいかにも、なんですよねぇ。まるで別世界から来た人間と話しているような……」
だからさっきからそう説明しているのだ。
「でも、だとしたらあなた、相当な外れを引きましたね」
外れって?
ディミトラさんは空を見上げながらつぶやいた。
「この世界は、あと五年で滅びる運命ですから」
*
湖畔に建てられたディミトラさんの小屋は、お世辞にも綺麗とは言い難かった。どこからか隙間風が通り抜け、床の材木は湿気ていた。踏み込むたびにぎぃぎぃと音が鳴る。部屋の隅に置かれた紙の束に、ぴとんぴとんと雫が落ちている。
「仮の住まいなんですよ、ここは。まあ、一夜過ごすだけなら充分ですよ——」
そう言った瞬間に、バキメキっと音を立てて床が崩れて、ディミトラさんの姿が目の前から消えた。
視線を下げると、下半身が床下に飲み込まれていた。悪態をつきながらうんうん唸って、やがて観念したのか、両手をこちらに向けてきた。引っ張り上げる。抱き上げると異様に軽い。雪山装備一式のほうが重いんじゃないか。
「ありがとうございます。——しばらく私と一緒にいるといいですよ」
両脇を抱えあげられたまま、ディミトラさんは提言した。
「焦ったって仕方がないですからね。その写真? 旅の道中で使いたい場面があるんです。そのあと、この大陸いちばんの街に案内します。異世界にかんする資料があるとしたら、トキオの古書館ぐらいなもんです。私の名前を言えば、使わせてもらえますよ」
自慢気に語った後、首を傾げた。
「そういえば、まだあなたの名前を聞いていませんでしたね」
そうだった。僕は軽く頭を下げながら名乗った。
「三鷹壮太です」
ディミトラさんは相変わらず眠そうな目つきのまま、出会って初めてその小さな口を緩ませた。
「よろしくですよ、ミタカ」
それから右足で僕の脛を蹴った。
「さっさと降ろしなさい」
短編形式で更新していきますので、軽い気持ちで読んでみてください。




