慈眼
母の米寿の祝いには、私ひとりが参加することになりました。病気の主人を家に残すのは気が引けましたが、長女のいずみが、「気にしないで行って来たらいいよ」といってくれたので、一泊で大野町の実家へ帰ることにしました。実をいうと、ここ数週間、田舎に一人で住んでいる母のことばかり思っていました。子供の後押しは正直嬉しかった。
私の生家は、電車、バスを乗り継ぎ、それから山道を一里以上も歩かなければたどり着けない大分県の山間にある部落です。急激な過疎化が進み、高齢者が一人で住む家がほとんどという集落です。外灯や信号機などはもちろんなく、道幅も狭く車が離合するのも困難なほどの険しいところ。なにより携帯電話が不通なのですから、どれほど辺境の地であるかご想像がつくことと思います。片側は杉林に覆われた山が迫り、反対側は大きくはありませんが清流を見下ろす渓谷となっています。今は川の水も少なくなり、川舟を浮かべたり泳いだりする姿も無くなりましたが、私が子供の頃は魚釣りや川遊びが一番の楽しみでした。
今日は車ではなく、JRの駅から一日二便のバスを乗り継ぎ、三十年いや四十年ぶりに懐かしいバス停に降り立ちました。停留所前の小学校はもう二十年以上も前に廃校になっています。その割には古ぼけた様子がなく、今も子供たちが授業を受けているのではないのかと思えるほど美しいのです。きっと村の催事などに使っているのでしょう。バスが去ったあとの静けさを打ち破るように、木枯らしが鳴きました。短い秋は知らぬ間に通り過ぎ、寒い冬が顔をのぞかせていました。
静かな山道を私は黙々と歩きました。聞こえるのは不連続に吹く風に木々の葉が擦れ合う悲しげな音と渓流のせせらぎ、それに山鳥の鳴き声です。人に会わない寂しさはまるでなく、道端に咲く名もない花に心を癒される自分が可愛く思えました。
主人が病んでから心が刺々しくなっていたせいか、まわりがまったく目に入らない生活をしていました。今、わが身を包む自然に感謝する素直な自分がいました。勝手な想像ですが、四国を巡礼するお遍路さんの心境とはこういうものなのかと、何かの答えにたどり着いたような達成感に包まれ、不意に笑みがこぼれました。しばらく行くと、川が道から左へ逸れていく。その川と道との間に細長い田畑が続く。私の両親が大切に育てていた土地です。この田舎町に育った私と弟二人が当時大学まで進学することができたのは、この田畑のおかげです。秋の稲穂が実る時節は、黄金色に輝く見事な光景でした。父が元気な頃には、派手ではありませんが、それなりの年行事を催していました。その原点である土地も、今は雑草が生い茂る荒地に様変わりしていました。イノシシに荒らされ放題。寂しい限りです。
十年前の晩夏、雨が降る夜更け、父はこの道路から畑へ農耕機と共に転落。擁壁と機械とに挟まれて圧死しました。イノシシ除けの松明を灯す油を足しに母が一人出たのを、足が悪くなっていた父が機械を杖代わりにして追っていったのです。雨が降り出したのが気になって、雨合羽を届けてやろうと思ったらしいのです。八十八になっていた父はほとんど外出することはありませんでした。それなのにどうしてあの日に限って、しかも夜遅く、家を出たのか、今もって父の行動は謎です。転落直後、父はまだ息があったらしく、母は父を呼びながら、ずっと手を握っていたといいます。すぐに救急車を呼べばいいと思うでしょうが、真っ暗闇の中、苦しむ父を置いて母はその場を離れることができなかったのでしょう。たとえ家に戻ったとしても暗闇を二十分近くは歩かなければなりません。母は父の意識が無くなるまで、しっかりと手を握り続けました。
今、ちょうど父が転落した擁壁の上に立っています。そんなに高くはありません。屈みこめば確かに機械に挟まれた父の手を握ることができるでしょう。事故当初は、雨が降る暗闇の中、ここで父の死に目にあった母の気持ちを思うといたたまれなかった。それでも最近は、つれあいと死の直前まで添い遂げることができた母を羨ましく思うことがあります。人はこの世に生まれるとき、「おぎゃー」と大きく息を吐いて誕生します。そして死するときは、息を静かに吸って旅立ちます。この姿をそばで見守ることを看取るといいます。私は擁壁の上にひざまずき、連理となった両親の魂に合掌しました。
私は再び歩き始めました。道は徐々に登り坂になりながら細くなります。日が差し込まない木陰道の先に、雨を背に受けながら歩く母の姿が見えたような気がしました。その背を目指し、私は黙々と歩きました。疲れはまったく感じません。悶々としていた心の内が晴れていくような爽快さを感じていました。誰にでもなく、今、この山道を歩いていることに感謝していました。
竹林が続く道を抜けて、幅が少し広くなり始めたあたりから光が差し込んできました。道の右前方の高台に実家が見えます。実家の登り口の同級生の二階建て住居は、もうずいぶん前に空家になっています。無機質なコンクリートと電気音に包まれた都会に憧れ、部落の若者たちは町へと出て行きます。そして残った年寄りが生を全うし終えると、その住家は廃墟となるのです。自然豊かな豊穣の土地が過疎化によって捨てられていきます。人間が本当に大切にしなければならないものとは一体? いや、自分も故郷を捨て都会に憧れた一人です。偉そうなことがいえる立場ではありません。
実家の前の急坂を登り終えると、縁側に腰をかける母の姿が見えました。私は無意識にハンドバッグを胸に抱え、親子対面には不自然な深いお辞儀をしました。家に帰るのにお辞儀をしたのは初めてでした。
「おまえ、どげえして帰ってきたんか」
母は私の歩く姿をこの高台から見ていたのでしょう。
「バス停まりから歩いたよ」
私は母から少し離れて腰をおろしました。
「昼からこげえ風が強うなって、そんな格好で、寒うなかったかえ」
私は薄手のカーデガン一枚の軽装でした。 主人の介護疲れから私は主人同様軽いうつ病に罹っていました。以来、どうしたわけか季節感が乏しくなっているようです。
「かあさんこそ、ここにずっと座っていたら冷たいじゃろ」
「じいさんと一緒じゃけん。寒うない」
「それは、どうも……」
自分の母ながら、顔や手に刻まれた深い皺に人生の深さを感じます。野に育った人の強さは、軟弱な温室育ちとは違います。今、母は農作業などほとんどしていないのですが、家の周りで身近な野菜を栽培しているので、以前と同じ野良着を身につけていました。
「博之さんは来んのかえ?」
子供を連れて里帰りした時も、母はきまって主人のことを気にとめました。
「身体の調子がよくないので、今回は遠慮しときます。お母さんにはくれぐれもよろしくとのことです」
私は頼まれもしていない言伝を口にしました。
「調子悪いっち、どげえな」
母の眉間に深い皺がよりました。
「風邪を引いたみたい。病院で薬をもらっているから大丈夫」
「ならよか、それにしても旦那が悪いのにノコノコ出てきてつまらん子やな。帰って看病せぇ。わしの祝いなんて、どげえでもええが」
母は杖をついて立ち上がり、向かいの便所横においてある焼却炉代わりに使っているドラム缶の側まで行き、廃材をくべました。
「騒動してわしの祝いなどせんでもええ!」
母は捨て台詞を残して家に入りました。私も母に続き、勝手口の土間から部屋に上がり、居間に腰を下ろした母とはべつに仏間へ行きました。線香を焚き、リンを打つと、広い仏間に予想以上に大きな音が鳴り響きました。自分で驚いて顔を上げると、父の遺影が私を見下ろしていました。
六十三で定年退職し、二度目の春を迎えた今年、勤勉に一秒の狂いもなく時を刻むように、四十年間働き続けてきた主人が、突然壊れました。
外食産業が全国展開され始めた頃、主人はそのプロジェクトの責任者として各地を転々としました。日本全国を飛び回っていた主人は、一年の半分は家にいませんでした。おかげで安定した収入にはまったく文句のつけ所がありませんでした。しかしその代償として家族は父不在の寂しさを強いられました。私はその孤独を癒すために子育てに熱中しました。そうすることが寂しさを相殺できる唯一の方法だったのです。
長女のいずみは自動車教習場の事務として就職し、まもなく職場結婚しました。初孫もでき、平穏に暮らしています。しっかり者の娘はなにかと実家のことを気づかってくれました。電子部品メーカーに勤務している長男の隆之は来春結婚の予定です。婚約者は以前からつき合いのあるお嬢さんなので安心しています。できれば主人には結婚式まで何ごともなく頑張ってほしかった。
一人で家に残り、自由生活を送るようになった主人は、半年足らずで変貌しました。粋にスーツを着こなし、おしゃれを自負していたエリートサラリーマンが、四六時中、着古したポロシャツとパジャマのズボン姿で過ごすようになりました。朝、顔も洗わず、髭も一週間に何度かしか剃らず、朝から酒を飲み、テレビの前で横になるのが習慣となってしまいました。体重も勤めていたころから十数キロ増えたようです。
有り余る時間がいけないのだと思い、自冶会の集会や回覧板の配布を主人の仕事にしてみました。元気よく仕事を引き受けてくれたのも束の間、主婦連の井戸端会議や地区内に起きる隣人トラブルなどを目の当たりにし、ご近所との付き合いについていけないと愚痴をこぼしました。期待はしていませんでしたが、地域デビューは三カ月足らずで見事失敗に終わりました。
今年になって連日不眠が続き、血圧が異常に上昇しました。何もしていないのに新聞を持つ手が震えだし、蛍光灯の電球や時計の電池交換もできなくなりました。そして酒を飲むとわけもわからず泣きだしました。お酒が原因だと思い、一度、家にあるお酒をすべて処分しました。それ以来、私のいうことはまったく聞かなくなりました。
隣町に嫁いでいた娘のいずみを呼び寄せ、主人を説得、ご近所にあるかかりつけ医とは別の病院で診察を受けさせました。診断結果はアルコール依存からのうつ病。医師からは入院を勧められましたが、主人は首を縦に振ろうとはしませんでした。隆之だけがどうした訳か入院に反対、主人に同調しました。主人は息子の手を握り、病院の受付でやっぱり泣きくずれました。
結局、自宅療養と通院で治療を受けることになりました。医師からは、「酒をやめること、投薬治療を欠かさないようにすること」この二つをきつく言い渡されました。いずみからは、「ママがしっかりしなくちゃだめよ」と励まされましたが、隆之は何も話しませんでした。
治療をはじめても、主人の不眠は続きました。夜中に何度も目を覚まし、蒲団に端座してうつむいています。そのまま朝を迎えることもしばしば。何も話さない主人の胸中を思うと不憫でしたが、その沈黙が私への不満ではないのかと日ごと疑心暗鬼になっていきました。声をかけても返事も無く、先日などは、「あなたのためにおいしいお茶を買ってきました」と言っただけで、鬼の形相に豹変し部屋に閉じこもってしまいました。
主人の徘徊が始まったのは八月の終わりでした。医療センター行きのバスを待っていると、つくつく法師が朝からうるさく鳴いていました。じっとりと汗のにじむ暑い日でした。病院に一番乗りし、二人で待合席に腰掛けました。いつもは大きな音で唸っている外来患者用のテレビもまだついてなく、エアコンも入っていないのでしょうか、異様に静かでした。主人は腕を組み、瞳を閉じていました。私も気だるい空気に包まれているうちに目の前が白くなっていました。
しばらくして気がつくと隣にいるはずの主人がいなくなっていました。職員さんにもお願いして院内を捜索しましたが、主人を見つけることはできませんでした。国立の大病院です。本気で探せば一日かかっても時間が足りないでしょう。多少、心が病んでいるとはいえ、そのまま行方知れずになるほど痴呆ではありません。私は診察の断りを入れて、ひとまず家に帰ることにしました。
家に戻った私は、主人の友人と主人が立ち寄りそうな店に電話をいれました。行方知れずになったとはいえないので、ちょっと急用ができたといって平静を装いました。結構な時間を要しましたが、主人の情報を得ることはできませんでした。
「そういえば長い間、会っていませんね」というのが、先方のきまった返事です。仕事を辞めて二年足らずだというのに、主人の存在感がずいぶんと薄くなっていることに愕然としました。夕方になっても主人は帰りませんでした。この暑い中をいったいどこへ行ったのだろう。私は心配の深さに溺れそうなほど息苦しさを感じていました。また目の前が白みかけた時、電話がけたたましく鳴りました。
駅前の映画館の支配人からでした。主人が館内で酔いつぶれ、大きな声をあげているということでした。私は外出せず自分の部屋でテレビを見ていた隆之に頼み、駅前まで車を走らせてもらいました。
館内に飛び込むと、封切の昭和初期を舞台にした人情劇が流れていました。映画館の古さとあの独特の臭いが、不思議に映像とマッチしているのが可笑しかった。昭和を感じさせるこの古びた映画館は、主人とつき合い始めた頃に訪れて以来でした。映画好きの主人とのデートはほとんどが映画鑑賞。洋画好きの主人についていくのは大変で、外国人俳優を覚えるのがひと苦労でした。どうして主人があんなに映画好きだったのかは知りません。もともと自分の家族のことや過去をあまり語る人ではありませんでした。
館内をよく見ると観客はほとんど無く、一番前の左端席のところに非常口の照明に照らされた主人らしき姿が見えました。私は駆け寄りぼんやりと焦点の定まらぬ瞳でスクリーンを眺めている主人の肩を軽く叩きました。主人はうなずくだけで振り向こうとしません。
「おとうさん、ねえ、おとうさん。帰りましょう、ねえ」
そういって私は主人の隣の席に腰をおろしました。
「まだ飲む。おまえも飲め」
主人はスクリーンから目を離そうとせず、焼酎のワンカップを私の顔の前に突き出しました。
「飲めません」
「つまらん。おまえは、しんけんつまらん」
「おとうさん、どうしたの、なにがあったの」
私は主人の胸の内が知りたく懇願しました。
「おまえにはわからん。なんもわからん。それでええんや」
主人は吐き捨てるように言いました。私は焼酎のワンカップを主人の手から取り上げると無言で飲みほしました。胸が焼けるように酒が体を貫いていきました。主人の覚めた視線を感じたら無性に悔しくなり、涙があふれ出ました。
「バカか、おまえは!」
主人の怒鳴り声が静かな館内に響いていました。
あの日以降、主人は通院を辞めました。病院へ行くことを勧めもしませんでした。主人は部屋に閉じこもり再び酒を飲み始めました。どこへも行かないかと思えば突然、家を飛び出し、前にも迷惑をかけた映画館で以前にも増して泥酔し器物を破損する事件を起こしました。そうかと思うと、酒に酔ったまま自分の卒業した小学校の校庭に現れたり、商店街の店主をわけもなく怒鳴りつけたりと、主人の行動は、まるで予測がつかなくなっていました。四十年近く共に暮らしてきましたが主人を苦しめているものが一体何なのか、私にはまったくわかりませんでした。
そして秋の終わり、主人は癌を発病しました。
「病名は膵臓癌です。ご主人の腫瘍は膵臓の尾部、奥の脾臓側にあります。頭部にできた場合は十二指腸の一部とともに切除しますが、尾部は症状があまりなく、発見されたときはかなり進行しています。よくないことにご主人の場合は黄疸が出始めています。尾部の場合、黄疸が発症するのは末期と判断するのが妥当でしょう。現状から判断して切除手術は困難と考えます。このまま放置すれば腸管へ転移して腸閉塞を起こすことも考えられます。まずは抗がん剤と放射線の併用による治療が必要であると考えられます」
私は主治医の告知に言葉を失っていました……。
「なんかあったのかぇ」
母が、仏間で物思いに耽っていた私の後ろに控えていました。
「べつに……」
「家に帰ってまで、とぼけんでええ!」
母に隠す必要はありませんでした。実家へ帰ってきた本当の理由は母に相談することだったのですから。
「実は博之が定年で仕事をやめてから、ちょっとおかしくなったんよ。心の病気いうのかな、なにもかもやる気を無くしてしまって、お酒ばかり飲んで。それに癌」
「心の病気じゃと、なんでまた……博之さんがええ、癌? あんなに颯爽とした人が、たった二年足らずで、ええ、どげえしたら、そうなるんかえ。お前、そばにおっちょって、何をしちょったんか」
母と話しているうちに、また、悲しくなってきました。バス停まりから家まで歩いてきたときの爽快感は消え失せていました。
「わたしは今まで必死になって家庭を守ってきました。あの人が仕事をやめてからも一生懸命、世話をしてきたわよ、あの人には何の苦労もかけてないわ」
ムキになっていた。母にも責められると思うととてもやりきれなかった。
「それに、母さんみたいに父さんと死ぬまで一緒にいた人と、私たちみたいに離れ離れで暮らしてきた人とは違うのよ。あの人の心の中まで私にわかるはずないでしょ!」
不思議なくらい矢継ぎ早に、言葉が飛び出し、主人に対してものすごい怒りが込み上げてきました。
「好きで一緒になったもんが、なんちゅうこというのか、離れておっちょったから何も知らん、帰ってきて、さて困ったじゃ、話にならん。お前は博之さんのなにや。 嫁じゃないんかえ。ずいぶんえらそうに、いったいお前は何様じゃ」
「なにさま?」
「たしかに博之さんが留守の間、家のことを任されて、ようがんばったお前はたしかに立派じゃった。二人の子供もよう育てた。ほめてやる。じゃがの、自分のしてきたことを、鼻にかけたらいけん」
「鼻にかけたりしてないわ!」
鼻にかけたりしてはいなかったが、家のことはすべて自分の責任であるという自負はありました。
「じいさんが嘆えちょるわい」
私は唐突に父の話を切り出した母がおかしくなったのかと思いました。
「関係ないでしょ、いま、お父さんの話なんかしてないの」
「いや、よう聞け、じいさんが、どうしてトップ当選した町会議員を一期で辞めたか知っちょるか」
母の話がどんどんそれていく。いよいよ母までが痴呆になったのでしょうか。そういえば弟の房雄が母の様子が最近おかしくて、何度も何度も同じことを電話してくるといっていました。
「お母さん、大丈夫? いま、お父さんはどうでもいいの。博之のことを話しているの」
「……」
母は答えずためいきをついた。
「お父さんが議員を辞めたのは、人つき合いが嫌いだったから疲れたんでしょ。叔父さんたちがみんなそういってたじゃない」
「んや、違うんじゃ。他人さまから『先生、先生』いわれてるうちに、どんな人でも自分が偉い人になったように勘違いしよるもんじゃ。人は自分で偉い人じゃ思うたら、それだけで人を見下ろし傷つけるもんじゃいうて、じいさんの口癖やった」
「それがどうだっていうの?」
「お前もがんばってきた事は立派なことじゃが、家の主人は、あくまで博之さんや。勘違いしたらいけん。主人は、お前ではない」
「……」
ボケてなどいなかった。
「それから、わしが、お前たちの世話にならんのは、お前たちに遠慮してだけのことやない。住み慣れたところの風の匂いがちがうんじゃ。もちろん時がながれゆくのも違う。お前たちの住む街のように、あんなにいそがしく時が走りよったら、命ちぢめてしまう。博之さんが、とまどうのもあたりまえじゃ。自分の家じゃいうても、今まで暮らしてきたところとは勝手が違うんじゃ。相手の身にもなってやれ。ええか、これから先、博之さんの風上に立っても、風下に立ってもいけん。添い遂げるいうのは、横にならんで、そばにおることじゃ。意見はするな」
昨日まで流してきた涙と違う涙が、ぽろぽろとこぼれでました。
「ええ歳して泣く子があるか。武雄がもうすぐ来るよって、送ってもろうて、今日はこのまま帰れ。明日は来んでええ」
「でも」
「今日、来てくれたそれだけでええ」
母は口を真一文字に結んで、何度も首を縦に振りました。
「わかった。そうする。かあさん、ひとつだけ聞いていい」
「なんかえ」
「父さん、死ぬ前になにか言った?」
「なにもいわんかった。じゃけど、最後に、わしの手をきつう握ってくれた」
それから母は「カッ、カッ、カッ」と山にこだまするカラスのような声をあげ、満面に笑みを浮かべました。
父の弟の武雄叔父にJRの駅まで送ってもらい、ほんの数時間の帰省は母に叱られるために帰ったようなものでした。それでも心を覆っていた疑心が少し晴れたような心持になっていました。
私は自宅の最寄り駅を降りて主人がよく徘徊する場所を辿ってみようと思いました。色々とご迷惑をかけているので、のん気にご挨拶というわけにはいきませんでしたが、母の言葉を聞いて主人が意味も無く幾度も足を運んでいるのでは無いような気がしました。それと母がいった「離れておっちょたからなにも知らん?」が耳について離れませんでした。たしかに母のいうとおり、主人が何を考え、何をしようとしているのか考えてもみませんでした。仕事を失って、途方に暮れ、ただ単になまけ癖がついてしまったのだと決めつけていました。よく考えてみれば、そんな一方的に思い込んでいる人間を相手に心を開くわけはありません。トゲは私の言葉ではなく私の心の中にあったのです。
私は駅前通りの主人が何度も迷惑をかけている映画館に手土産を持って訪れました。
「先日はたいへんご迷惑をおかけし本当に申し訳ございません」
私は入場券を買う窓口に、駅構内で買った焼菓子の詰め合わせを差し出し、ガラス窓の向こうに座っている支配人さんへ頭を下げ、丁重に詫びました。
「そんなに度々、お詫びに来てくれなくても結構ですよ。佐川さんとは、縁、浅からぬ仲なんですから」
白髪の小柄な支配人さんはいつもと同じベストに蝶ネクタイのおしゃれな姿で立ち上がり、丁寧にお辞儀をされました。
「縁、浅からぬ?」
主人と縁があるなどというのは初めて聞いた話である。そういえば、どうしてあの日、わが家の連絡先を知っていたのか。あのときは動転していて気にもとめなかった。元々、主人は仕事以外ではほとんど口をきかない無口な人でしたから。
「奥さんはご存じなかったのですか」
「ええ、まったく。そんなこととは知らず本当に失礼しました」
「いえいえ、先代の私の父がここの支配人だった頃、もうずいぶん昔の話ですけど、佐川さんのお父さんがここでアルバイトをしてくれていたそうです。アルバイトといっても駅まで自転車でフィルムを取りに行ってもらう仕事がほとんどだったといっていました。昔は、映画のフィルムは汽車に乗って町へ届けられていましたからね」
「そうなんですか。義父が?」
「仕事をしても金は要らない。映画を見せてくれたらいい。そういってアルバイト代も取らなかったらしいです。学校を出て所帯をもってからも、息子の博之さんが入部していた少年野球や自冶会の役員など広く人の世話をしておられたからね。この映画館にも博之さんをよく連れてきていたようですよ。自慢の息子だったんでしょうね。若くして死んだのが惜しいと、生前私の父がよく話していました」
主人は自分の父を嫌っていたようでした。仕事もせずにボランティアにあけくれ、家はいつも火の車、母を泣かせ続けた道楽者だったと口癖のようにいっていました。
「俺は親父のような生き方はしない。仕事を立派に勤め上げ、金の苦労など妻には一切させない」
結婚前にそう宣言した主人の口から、以後義父の話を聞くことはありませんでした。
映画館を辞して、海岸線を自宅の方へ歩きました。とても歩いて帰られる距離ではありません。なのに、どうしてか足が止まろうとしませんでした。近所の子供たちを抱きしめる義父の姿がうっすらと脳裏に浮かび上がっていました。
主人から聞かされていた話と映画館の支配人の話はずいぶんと違っていました。肉親の目と他人の目が違って見えるのは至極当然のことなのかも知れません。父を反面教師として仕事に没頭してきた主人の気持ちがわからないでもありません。それでも人に尽くし続けた義父の生き様も魅力的だと思う。死してなお身内だけではなく、人々の記憶に残る人生を送るなど並の人間にできることはではありません。きっと人々の感謝は尊敬へと変わったに違いないでしょう。
しばらく行くと学校の校庭から野球をする子供たちの声が聞こえてきました。主人が卒業した小学校です。推測ですが、主人の徘徊のルートに入っていたこの学校にも義父との思い出があるのだと思いました。主人は、目標とした父を失い、そして唯一の誇りであった仕事も失い、自分を見失ってしまったのでしょう。きっと偉大な義父との戦いが、主人の生きがいだったのです。
私は主人とは違い、父をライバルのように思ったり、反面教師として自分の生き方に影響を与えられたりしたという思い出はありませんでした。私はただ黙々と田畑を耕す両親を見て育ちました。家族を養うというのは日々自然の中で汗を流すこと。言葉少なだった父は、背中で自分の生きざまを語っていました。種田山頭火が好きだった父は、朝、きまって田畑に出かける前に、土間に掛けた額縁の色紙「黙って今日の草鞋履く」という句を口にして家を出ました。句の意味を話して聞かせるような父ではなかったので、子どもの頃は、この句に込められた深い内容は理解できませんでした。自分の人生を実感する年頃になってこの句の意味を知りました。どんな逆浪が人生を遮ろうとしても人は生きていかねばなりません。生きるために生まれてきたのが生物である人間の宿命なのです。人が今日を一日、生きるために最初にするのが草鞋を履くという行為です。愚痴をいわず、今自分にふりかかるすべてを背負ってでも、黙って人生を受け止める。強い覚悟と悟りに近い諦観の極致にたどりついた人格者の真理です。そんな真理には死んでもたどりつくことはできない私が父への反発など持つはずがありません。父は近寄りがたくはありませんでしたが、どこか遠い人でした。一度、議員をした時期がありましたが、その人生のほとんどが百姓だった父が、どうして放浪の詩人山頭火を好きになったのか、母に聞いたことがあります。
「おとうさんは、ほんとうは教師になりたかったんじゃ。学校を出て教員資格も取っていた。でもそうはできんかった。長男は早く嫁をもらい農家を継ぐのがあたりまえ。おとうさんは愚痴一つもらさず、この家を継いだ。人生を奔放に生きた山頭火がうらやましかったんじゃないかぇ」
その時、私は母の言葉に打ちのめされた気分でした。そういえば、私も下の弟二人も好きな人生を歩んできました。父は、子どもの誰ひとりにも農家を継ぐことを強要しなかった。進路はすべて本人の意志に任せてくれました。主人の父と私の父、ふたりの父の面影を偲びながら、私は日が暮れるまで、白球を追う子供たちを眺めていました。
精密検査の結果を聞きに病院へ行く日、長男の隆之が自分の車で私たちふたりを運んでくれました。先日、主人の検査結果を事前に聞くため、いずみと隆之をつれて病院を訪れました。精神的に不安定な主人に癌の告知など残酷すぎると子供たちは反対しましたが、担当の医師は、「癌と戦うという目標を掲げることによって生きる意志を芽生えさせるという考え方が現在では主流です。又、そうでなければ苦しい治療を乗り越えてはいけません」と、私たちを説得しました。
私も嘘をつき通し、このままズルズルと癌に引きずりまわされて後悔するよりも良いと判断しました。同時に自分の惑いも払拭したかった。どうあれ、いかなる事態になろうとも、自分が引き受ける覚悟はできていました。
「俺、これから仕事に行くから。おふくろ、あとはよろしくな。それから親父、がんばって」
隆之はそういって父を励ましました。
「おう。だいじょうぶや」
主人もめずらしく手をあげて笑顔を見せました。孝之の車が見えなくなるまで主人はその場を離れようとしませんでした。車が消えると主人の表情が曇りました。
総合受付に並んだ再診受付機に診察券を挿入して受診表を受けとると、カウンターの職員に保険証を提示しました。
「はいけっこうです。今日は、検査がありませんので、二階の消化器内科へ、これを出してください」
エスカレーターに乗ると主人は私の手を握り締めました。表情とは裏腹に主人の手は暖かかった。受診表を窓口に出し、ふたり並んで待ち合いのソファーに腰をおろしました。
「四十番の方、二番の診察室へどうぞ」
患者は番号で呼ばれます。呼ばれた患者は黙って立ちあがり診察室に消えていきます。
「まるで死刑判決を待ってるみたいやな」
主人がぽつりといいました。
「縁起でもないこといわないでください」
「……」
口を閉ざした主人の横顔を見ていると、たまらなく哀しくなってきました。予約時間を十分少し過ぎた頃に主人の番号がコールされました。
私に話すときには真剣そのものだった主治医が笑みを浮かべ、主人の前に立って話し始めました。
「佐川さん、検査の結果は陽性でした。病名は膵臓癌です。ステージは4。正直に申し上げますが末期がんであると推測されます。膵臓の奥にできているので手術は困難ですが治療方法はあります。対処療法になりますが、今すぐ症状が急変するということはありません。癌とつきあいながらじっくりと直していきたいと思います」
癌の告知を受けても、主人は別段驚いた風も無く、穏やかな表情で耳を傾けていました。そういえば今日の医師との面談を事前に話したときから、主人の表情に変化が見られました。口数は以前とかわりが無かったのですが、眉間に皺を寄せたような怒りの表情が消えていました。
「抗がん剤と放射線療法ですので、しばらく通院して治療にあたることも可能です。背中の痛みについては痛み止めの薬を出しますので軽減できると思います。通院が大変であるということでしたら入院して治療を始めても結構です」
主人は医師を見つめたまま一言も答えませんでした。私は、このまま主人を入院させたら二度と心が重なりあうことは無いと思いました。
「主人はまだこのように元気ですし、通院しての治療をお願いします」
医師はうなずき、隣の看護師に小さな声でなにやら医学用語を耳打ちして部屋を出ました。院内の息苦しさから開放されたい気分だったので、診察室を出て、トイレ脇の非常用の通路から中庭に出ました。部屋は暖房が効いていてずいぶん暖かでしたが、外はひんやりとして心地よかった。十二月だというのに中庭のためか思ったより寒くはありませんでした。
幾人もの死を見届けてきたであろう花を落とした桜の老木が私たちを見下ろしていました。しばらく枝を広げただけの桜の木を見つめた後、ペンキを塗りなおしたばかりの長椅子に二人で腰をおろしました。
「いよいよ、もうおしまいやなぁ」
「弱気なことをいわないで」
私は胸が熱くなって涙がこぼれそうになりました。
「所詮、俺は、親父をこえられんかった……」
うつむいた主人の瞳から涙がこぼれおちていました。やはり義父が主人の大きな壁となって聳え立っていたのです。そのことが退職以後の主人の惑いと苦しみの原因だったのです。身勝手な想像で主人を中傷し非難してきた自分を恥ずかしく思いました。
「ねえ、あした、子供たちを連れてお義父さんのお墓参りに行きましょうよ」
私は偉大な義父を弔うことが主人の苦しみを共有できることだと思いました。
「お前には苦労をかけたな」
主人は私の手を強く握り締めました。これからどうなるのか、まったく先は見えませんでした。それなのに、なぜか、私に悲愴感はありませんでした。添い遂げるという意味を知った今、逆に沸々と生きる意欲が湧き上がってきました。主人との残りの人生をしっかりと全うしなければならない。強く生きる意志を私自身が身を持って示さなければならない、そう心に誓いました。
「おとうさん、来年の春には、きっと、ここに、満開の桜が咲きますよ。一緒に花見をしましょうね」
「そうやなぁ。隆之の結婚式もある」
「そうそう」
菩薩のような穏やかな表情をした主人の瞳に、私の小さな顔が映っていました。
〈了〉
〈注釈〉慈眼仏・菩薩が衆生を慈しみ憐れんでみる目