因果応報の末路
「離婚して欲しい。」
「え?」
夫から突然告げられた。
「君は何も悪くないんだ。悪いのは僕だ。」
「理由を教えて?」
夫は覚悟を決めた顔でこう言った。
「好きな人がいるんだ。彼女は今、妊娠してる。僕の子供だ。」
目の前が真っ暗になった。
次に目が覚めた時、私は自宅のベッドにいた。
いつも夫と寝ているベッド。
夫婦の営みはほとんどなかった。
ただ、横に並んで眠るだけのベッド。
夫の浮気にはとっくに気付いていた。
3年ほど前から夫はスマホを気にするようになった。
いつもはテーブルの上に投げっぱなしでほとんど手にする機会はなく、あっても仕事の電話やメール、LINEに応じる位のものだった。
しかしある時から、お風呂にはいる時にもスマホを脱衣場に持ち込み、トイレの時でさえも持ち歩くようになった。
私は不安になり、夫が寝てしまってから、彼のスマホを見たことがある。
ところがスマホにロックを掛けていた。
完全に黒だろう。
今までスマホに無頓着で拘りなどなかった夫が、始終大切に持ち歩き、掛けたことのなかったロックをして、私に知られたくない誰かと連絡を取り合っている他ないと思った。
それからと言うもの、彼の全てを疑ってみると、次から次へと浮気の証拠が出てくる。
最終的には、出張だと言っていた日に、若い女の人と夜に歩いているところを、私の友人に見られ、彼の浮気は確定となった。
友人が言った。
「まだ20代じゃないかな?たぶん会社の後輩とかじゃない?水商売の雰囲気の子じゃなかったもの。」
それを聞いて、やっぱり夫は若い女の人が良いのだと思った。
なにせ私と出会った時も、私は22歳と若かったのだから…。
「男の人って、なんで若い方に行くのかな?どうせ相手もそのうち年を取っていくのに。」
そう、若さは永遠ではない。
人生の中で、ほんの一瞬だけの輝きだ。
しかし夫はいつまでも気持ちが若いのか、やはり自分よりも年下の女の子と浮気をしていた。
夫の一緒になって10年。
子供はいない。
しかし、二人でそれなりに楽しく過ごしてきた。
私自身、夫に不満などなかった。
しっかりと働いてくれ、着実にキャリアを伸ばし、今や課長にまで上り詰めた。
42歳でこの地位にいけるのは、会社の中でも珍しい方で、友人からも「出世コースまっしぐら」と言われていた。
それも、夫の決め細やかな仕事振りの結果だと彼の上司に誉められていた。
その決め細やかさは家でもそうで、私の誕生日などの記念日を欠かしたことがない。
それは、浮気が発覚した今でも変わらなかった。
夫は上手く私に浮気の事実を隠している。
それならそれで良いと思った。
私の事を愛しながら、他の人を愛せるなら…それで良いと…。
ベッドから起き上がり、リビングにいくと、テーブルに置き手紙があった。
「しばらくの間、家には帰らない。離婚する気になったら連絡が欲しい。」
自分勝手な人だと改めて感じた。
昔からそうだ。
一つの事に夢中になると、周りが見えなくなる。
そして、自分の中に「正義」を作り、それにしがみつく。
夫は昔からそんな人だ。
今回も相手に子供が出来たことで、自分の中で「子供を見捨てることなんて出来ない」と言う「正義」を自分の中に作ったのだ。
そう思うと、腹が立つ。
なぜ私が夫の「正義」の犠牲にならなくてはいけないのか?
私の中で、どす黒い何かが渦巻きだした。
「離婚に応じます。」
その言葉に、夫との話し合いの席はすぐに作られた。
どうも焦っているようだ。
私と早く離婚して、まだ子供みたいに若い女と籍を入れたいのだろう。
まぁ、相手が妊娠してるのだから、焦るのも仕方がない。
私は家から遠いカフェに呼び出された。
ご近所さんの目を気にしてのことなのか、相手の女の体を気遣い、彼女の家の近くのこの場所にしたのか…真実はどちらでも良いけれど…。
彼女と一緒に来て欲しいと言ったのは私だった。
離婚するにしても、どんな女なのか見てみたかったからだ。
友人が言っていた通り、まだ若い。
年を聞くと、24だと言う。
大学生の頃に夫の会社にバイトとして入り、そのまま就職。
2年後の今秋に妊娠。
会社から見ても、早すぎる寿退社になるだろう。
彼女は私を目の前に、不安そうにしている。
それもそうだろう。
彼女の若さで、浮気相手の正妻とご対面なんて修羅場ははじめでだろうから…。
それに比べ私は、こんな場面でも落ち着いたものだ。
こんな事は32歳にもなれば、経験済みなのだから、怖くもない。
「離婚に応じます。そのかわり、条件があります。」
私がそう言うと夫は眉間にシワを寄せた。
「条件て?」
私は少し息を大きめに吸い、言った。
「子供をおろしてください。そしたら、離婚に応じます。」
二人とも息を吸うのを忘れているのかと思うほど、まったく身動きを取らなかった。
私がこんな事を言うとは、想像もしていなかったのだろう。
しかし、私だって女なのだ。
若い女に夫を取られた悔しさはある。
それに、私は夫の子供を生めなかった。
それなのに…。
「何驚いているの?今さら。」
夫にすっかりと冷めてしまった私には怖いものなんて何もないのだ。
どうせ離婚したら二度と会わない。
なら、今この瞬間に言いたいことは言っておかねば、もうそのチャンスはなくなるのだ。
「あなたにとっては、二度目でしょ?こんな事を言われるのは。」
私から冷淡な声色が発せられる。
(あぁ、こんな声になるのね。誰でも。)
私は自分の声の冷たさに驚きつつも、その事実を実感した。
(今の私は、あの時のカノジョと同じだ。)
私は夫との結婚前に会った、カノジョを思い出していた。
あの時のカノジョは、今の私のように無表情に冷たい声で、夫の子供を妊娠した私に言ったのだ。
「子供をおろして。そうしたら、離婚するわよ。」
と…。
「お前…。」
夫は奥歯をきつく噛んで、私を睨む。
<お前は悪くない。>そう言ったくせに、そんな顔で私を見るのね。
「お嬢さん。折角来てくれたから教えてあげるわよ。私たちのなれそめ。」
「やめろ!」
夫は思わず立ち上がった。
一瞬にして、周りの視線が夫に注がれる。
それを気にして夫は再度椅子に座った。
「私たちは、もともと不倫から始まったのよ。」
私のその言葉に、若い彼女は目を見開いた。
「私が22歳の時に、今の会社で知り合ったの。大学を卒業してすぐに就職した。でも、その年の秋には彼の子供を授かった。でもね、彼にはすでに家庭があった。そこで、彼は奥さんと別れて私と一緒になるって言ってくれたわ。そして、二人で奥さんに土下座をして、お願いしたのよ。離婚してくださいって。」
彼女が唾を飲み込むのがわかった。
隣では夫が頭を抱えている。
そんな夫を見るのはこれで二回目。
あの時の彼と何も変わっていない。
「そうしたら、奥さんに言われたの。じゃあ、子供をおろしてください。そしたら、離婚に応じますってね。」
あの時の私はバカだった。
奥さんに愛想をつかしていた夫の言葉を信じ、彼を奥さんから救わなきゃと思っていた。
私が夫に幸せを与えるのだと。
だから、赤ちゃんよりも夫を選んだ。
「彼を愛しすぎて、私は奥さんに言われた通りにしたわ。でもね、私は二度と子供が生めなくなったのよ。」
黙って話を聞いていた彼女は、無表情で夫を見た。
しかし、夫は目を合わさず下を向いている。
「あなたはそれほどまでに、彼を愛しているの?」
私の問いに彼女は黙り込んだ。
今、激しく後悔をしているのだろう。
夫の事を美化しすぎていた自分に気付いたのだろう。
でも、お腹には夫との子供がいる。
おろす勇気もないだろう。
まだ若い彼女を見ていると、子供を諦めた後悔が広がっていく。
宿った子供に罪はない。
むしろ、幸せを手にしなければならない。
「冗談よ。」
私はため息混じりにそう言った。
すると、彼女は弾かれてみたいに顔を上げた。
「おろさなくても離婚するわよ。本当の事をいうと、もう愛情なんてないのよ。あなたとの事を知ったときから…」
私は伝票を持って立ち上がった。
「あの!」
「何?」
「どこまで冗談なんですか?今の話。」
彼女のまっすぐな目をみていたら、昔の自分と重なった。
一生懸命に夫を信じていた頃の私と。
「全部よ。」
これで良い。
私の人生に夫はもう必要なくなった。
夫は昔から変わらない、バカな男なのだ。
若い女が好きで、自分勝手で、「正義」に格好つける。
そんないつまでも自分を変えられない情けない男だった。
あんな男こちらから、のしをつけて差し上げるわ。
私はなんだか晴れやかな気持ちでカフェを後にした。
離婚が決まって、私はすぐに荷物をまとめた。
まだ住居も決まっていないので、仕方なく実家に戻った。
今実家は父、母だけではなく、兄の家族が一緒に暮らしている。
事情を知った兄のお嫁さんは、私の味方をしてくれ、お陰で実家暮らしも肩身の狭い思いをせずに過ごせていた。
そんなある時、兄の幼馴染みのケイちゃんがお酒を飲みに実家を訪れた。
「みなちゃん、帰ってきたんだって?いろいろ大変だったね。」
そう言いながら、ケイちゃんは豪快にビールを平らげる。
私は空になったケイちゃんのコップにビールを注ぎながら言った。
「まだ全部片付いてない。離婚届け書かなきゃ。」
「まだ書いてなかったのか?」
一緒にビールを飲んでいた兄が口を挟む。
私は自分のコップにもビールを注いだ。
「まだ向こうが送って来ないの。今それどろこじゃないんじゃない?相手は妊娠してるし。」
「えっ?!なんだよ!それ!みなちゃんみたいな綺麗な奥さんがいて他で子供を作ったのか!」
ケイちゃんは恥ずかしい位の大声で驚く。
「まぁ、因果応報てやつだな。」
兄が冷静に呟く。
確かにそうだ。
私だって不倫をし、夫の元奥さんから夫を奪った。
しかも同じ様に妊娠して。
まったく同じことを繰り返している。
まさに因果応報だ。
でも、違うとも言いたい。
「私は子供を犠牲にはさせなかったわ。」
私の呟きに、兄もケイちゃんも静かになる。
「みなちゃん、それで良いんだよ。」
ケイちゃんは身長180㎝の大きな体を丸めて、私に目線を合わせた。
「どんなにひどい目に合わされても、自分が悲しかったことを誰かにさせたら、みなちゃんが後悔する。それこそ、因果応報だ。」
「そうだぞ。お前の選択は正しい。間違いに気付いたんだから。」
ケイちゃんも兄も、過去の私を責めたりはしなかった。
だからなのか、それともアルコールのせいなのか、私の舌は回った。
「でも最後に、仕返ししたわ。私と不倫してたこと、子供をあきらめたこと、全部彼女に教えた。でも、結局冗談よって言っちゃったけどね。」
私は悔しさをビールで流し込んだ。
「みなちゃんは優しいからな。同じ境遇の彼女に同情したんだろ?別に、冗談にしなくても良かったろうに。元旦那がみなちゃんを裏切った事に変わりはないんだから。」
そう言ってケイちゃんはビールを一気に飲み干した。
そして子供の頃から変わらない笑顔で私の肩を叩いてこう言った。
「みなちゃんは男をみる目を養わなきゃな!側に良い男がいるだろう?」
ケイちゃんは酔っぱらいのおじさんみたいにおどけてみせた。
人から見れば私の重い過去も、明るく変えてくれる。
それがケイちゃんの優しさだ。
「誰の事かな?」
そんなケイちゃんに救われて、私もおどけてみせて、そして兄も含めて三人で大笑いをした。
数日後、私は夫と正式に離婚した。
私はそろそろ仕事を決めて、実家を出ようかと考えていた。
「みなちゃん、ちょっと良いかな?」
いつも明るいケイちゃんが、神妙な面持ちで私に会いに来た。
私はケイちゃんをいつもの居間に通した。
ケイちゃんは私と卓上テーブルを挟んで座り、辺りを見渡した。
「今は私しか居ないよ。」
「そうか。じゃあ、ちょうど良いかな。」
「どうしたの?」
「勝手に悪いとは思ったんだけど…」
何でもハキハキと言うケイちゃんには珍しく次の言葉を躊躇っていた。
「何?」
「俺、みなちゃんの元旦那さんの会社と取引があってさ。」
そう言われて思い出した。
ケイちゃんは個人で会社を起こしている。
まだ小さな有限会社だが、社員も3名程雇っていて、ケイちゃんは小さな会社の社長になったんだと、何年か前に兄から聞いていた。
「俺んとこの製品を気に入ってくれてる人が居るんだけど、その人みなちゃんの元旦那さんの会社の人で、その人にいろいろ聞いたんだよ。」
「うん。」
「でさ、元旦那さん、どうやら首になったらしい。」
「え?」
「理由は色々あるらしいんだけど、その理由の一つに俺んとこの会社との取引が関係してて。俺、担当者さんに言っちゃったんだよ。」
ケイちゃんは真面目な表情でこう言った。
「うちの製品を扱う会社に不誠実な人が居るような所とは、取引したくないってさ。」
「え?」
「自分でも大きく出てしまったなって思ったよ。でもさ、やっぱり許せなくて。みなちゃんを裏切った旦那さんの事。そんな人が上に居るような会社と繋がりたくなかったんだ。そしたら、担当者さんが焦って、俺の話を聞いてくれて。みなちゃんには悪いと思ったんだけど、みなちゃんの過去の事も含めて、洗いざらい喋ったんだよ。そしたら、社内会議になったらしくてさ。それで、旦那さん…首になったみたいで。」
私は開いた口が塞がらなかった。
ケイちゃんはなんて大胆な事をするのだろう。
自分の大切な会社の取引に、自分の私情を挟むなんて。
下手をすれば、取引先を失くしかねない。
「みなちゃん、ごめんね。勝手に喋っちゃって。」
そう言ってケイちゃんは大きな体を小さく丸めて、私に土下座した。
「ケイちゃん、すごいね。」
私はそんな感想しか出てこなかった。
「あんな大きな会社を動かしたんだね。」
そうだ。
小さな会社が、大きな会社に楯突くなんてあり得ないし、そんな会社を揺るがすほど、ケイちゃんの会社の製品は素晴らしい物なんだと分かる。
いや、もしかしたらケイちゃんの人柄の良さが会社を動かしたのかも知れない。
それほどまでにケイちゃんの会社は、ケイちゃんは信用され、買われているのだ。
「そんなことないよ。でもさ、俺はみなちゃんが辛い思いをしてきたことを知ってるし、みなちゃんの本当の良さも分かってるつもりだ。そんなみなちゃんが傷つけられて、我慢できなかった。」
ケイちゃんのまっすぐな瞳と言葉は、私の心を揺さぶった。
「みなちゃん。こんな時に言うこっちゃないんだけど…。」
ケイちゃんは改めて私を見詰めた。
「みなちゃん、これからは俺との未来を想像してみないか?俺ならみなちゃんをずっと愛していける。自信あるよ。なんせ、もう何十年も片想いしてきたんだから。」
そんなケイちゃんの告白に私は何年ぶりかに、満たされていた。
ケイちゃんはずっと私の事を想ってくれていた。
その事実に、こんなにも心が満たされる。
私は32歳にして初めて、愛されることの充実感と幸せを感じた。
結果的にケイちゃんは私の仇を取ってくれた。
別に元夫が不幸になれば良いとか思った訳じゃないけど、ある意味制裁を受けたことは、私の心を晴らしてくれた。
詳しく聞けば、元夫が会社を追われたのには他にも理由があった。
元夫は決め細やかな仕事振りで評判だったが、それも部下をこき使い、パワハラ紛いな事をして得た評価であることが分かったらしい。
部下に深夜遅くまで仕事をさせ、その間自分は例の彼女と会っていた様で、ケイちゃんの告発を受け問題を重くみた会社が社内調査を始めると、その犠牲になっていた部下が会社に告白したのだと言う。
元夫の本性を改めて知った私は、やはり男をみる目がなかったのだと実感した。
「まだまだみなちゃんも若いって事さ。」
ケイちゃんは豪快に笑いながらそう言った。
45歳のケイちゃんからしたら、私なんてまだまだ人生経験の浅いひよっこらしい。
「彼女は大丈夫かな?」
元夫と結婚を考え、子供を宿した彼女はどうなったのか?ふと、心配になった。
「結婚はせずに、子供を一人で生む決心をしたみたいだよ。」
ケイちゃんが優しい声で教えてくれた。
ある意味、彼女も元夫に上手く丸め込まれた被害者なのかも知れない。
「ご両親が力になってくれるみたいだし。あの男はちゃんと慰謝料と養育費を払うように、裁判所から言われてる。お互い不倫の代償は大きいけど、親としての責任は果たしていくみたいだ。」
「そう。」
私はケイちゃんと並んで目の前に広がる町を眺めた。
子供の頃、兄と私とケイちゃんと三人でよく遊んだ丘に久しぶりに来てみた。
眼下には懐かしさと少しばかりの変化を遂げた町の景色が広がる。
「私も変わらなきゃ。」
この町と同じ様に、私も時計の針を進めなければ。
「俺が一緒なら、新しい道を歩けるさ。」
自信満々にケイちゃんはそう言う。
本当にケイちゃんを私の人生に巻き込んで良いのだろうか?
そんな思いが私の中を駆け巡る度、ケイちゃんは変わらない豪快な笑顔を私に向ける。
「ありがとう。」
今はそんな言葉しか言えないけど、いつかケイちゃんの想いに向き合える日がくれば良い…私はそう思うのだ。
因果応報。
元夫との生活は、奪えば、奪われた。
ではケイちゃんとの未来は?
与えられた愛情を、返すことが出来れば…。
今はこの先をまだ想像できない。
でもいつか、応えることができたら…
私の未来はまだ始まったばかりだ。
読んで頂き、ありがとうございました。