感情って何(哲学)
「色々考えたけど、オレイユが最初に学ぶべきはまずプラスの感情だと思うんだよね」
「それは喜びとか?」
「そうそう。感情を学ぶにはやっぱり体験するのが一番だし、私と一緒に喜びの感情を共有する体験をしようと思う。ではここで問題。人はどんなときに喜びを感じるでしょう」
私の問題にオレイユはうーむと首を捻る。そしてしばしの間自身の体験を思い返す。
「うーん……異端者や邪教徒を狩ったとき?」
「いや、それは審問官だけかな。ていうかそれは本当に喜びなのかな。もし喜びだとしたら人としてちょっと歪んでると思うけど」
育った場所が悪いかな。教会って一番教育にいい場所だと思うんだけど。というか何で偉い神官が教育に失敗した相手を中身高校生の私が教育し直さないといけないんだろう。
「そうなんだ。あ、炊き出しの手伝いしたときとか来てくれた人たち喜んでくれてたかも」
「そうだね、お腹が空いてるときにご飯が食べられると嬉しくならない?」
そう言えば来たときは空腹で倒れてたな、と思い出す。あれも油断した私を不意打ちするための演技だったのだろうけど。
「どうだろう。確かに空っぽだった身体が何か温かい物で満たされていくような感覚にはなるけど」
オレイユはそのときの食事を思い出しながら述べる。とりあえず食事には喜びを感じてくれているようで少し安心した。
「そう! それは多分喜びに非常に近い現象だと思う。という訳で最初の練習はおいしいものを食べるところから始めようと思う」
「おいしいものをもらえるなら嫌ではないけど」
「じゃ、ご飯出来たら呼ぶから。勝手に食べないでおいてね」
「分かった」
そうと決まると私は早速リーナのところに向かう。領主になって分かったのだが、この領地においしい料理を出してくれる高級店のようなしゃれたものは存在しない。従って一番おいしい料理はこの館で提供されるものとなる。そしてここの料理は大体リーナが作ってくれている。
ちなみにお金の余裕がある訳ではないから普段は質素なものしか作ってもらっていない。私は館中を歩き回ってリーナを探した。現在勤務している人はそんなに多くないが、領地が広いので館も結構広い。全盛期はこの部屋が全部使われていたのだろうけど、今では空室や物置になっている部屋が目立つ。
リーナはその中の一室で掃除中であった。
「リーナ、お願いがあるんだけど」
「はい、何でしょう」
リーナは手を止めて振り返る。ちなみに余分な人手を雇っている訳でもないのでリーナも結構忙しかったりする。
「今日の夕飯は最大限おいしいものを作ってくれないかな?」
「珍しいですね! アルナ様が贅沢するなんて」
リーナにまで驚かれている。
「違う違う、私のためじゃない。オレイユもなかなか壮絶な人生送ってるようだから、少しはいい思いさせてあげようと思ってね」
「ええ……あの女のためですか」
リーナが少し嫌そうな顔をする。何気にリーナのこういう表情は初めて見た。でも、嫌いなのは分かるけど、浮気相手みたいな言い方しなくても。
「大丈夫だって。私もむざむざ殺されるつもりはないから。それにリーナ、せっかく料理得意なんだからたまには本気出させてあげないともったいないなって」
「もう、お上手ですね。分かりました、私の本気をお見せします……あ、でも掃除が」
リーナは掃除中の室内を見渡す。
「大丈夫だって。どうせ大して使わないんだから多少汚くても」
「いや、それもそれでどうかと」
その夜。出来ました、とリーナから報告があったので私はオレイユを連れてホールのような部屋に向かった。いつもは部屋で仕事したり誰かとしゃべったりしながら食べることが多いので、この部屋は使わない。
おそらく晩餐会的なものに使うことを想定しているのだろう、かなり広い室内に大きな四角いテーブルがある。当然私が領主になってからそんな会は開かれたことがない。
そしてリーナがホテルのルームサービスとかに使うような手押しの台車に料理を載せてきてくれる。こうしてみるとリーナは貴族の屋敷のメイドさんみたいだな。いや、本当に貴族の屋敷のメイドさんなんだけど。
「では最初の料理ですが、燻製ベーコンと特製チーズのサラダです」
そう言ってリーナは私たちの前に大きなお皿を置く。みずみずしい野菜にベーコンとチーズが混ざっていて、ドレッシングが掛けられている。しかもご丁寧にもリーナが私とオレイユの皿に取り分けてくれる。
オレイユは一瞬だけ神に祈りを捧げると、サラダに手をつける。見るからに信仰してないけど形だけ捧げました、という雰囲気の祈りだ。
私も食べてみると、カリカリしたベーコンとシャキシャキした野菜(レタス?)にチーズの深い味わいがマッチしてとてもおいしかった。オレイユを見るとすでに皿が空になっている。それを見てリーナが大皿からお代わりを取り分けようとする。私はそれを手で制す。
「残り全部私にちょうだい」
「え?」
リーナが思わず聞き返す。それと同時にオレイユがこちらを見る。その目にはほんのかすかにではあるが敵意のようなものが見受けられた。
「今ほんのちょっとでも私に苛ついたでしょ」
「いや……どうかな」
オレイユは首をかしげる。
「苛ついたって認めないとお代わりは全部私が食べるけど」
私の言葉にオレイユは少し思考する。
「……別に苛ついてはないけど、そう言わないと食べられないなら苛ついているのかもしれない」
あくまで感情なんてないというスタンスを貫くか。ただ、苛つこうが苛つくまいが、すでにサラダをお代わりしたいと思った時点で私の勝ちである。
「はい。リーナ、いいよ。私としてはどちらかというと、苛ついたかどうかよりも、サラダをお代わりしたいと思ったその気持ちを感情だと認識して欲しい」
「……! なるほど」
オレイユははっとした様子になる。そしてお皿によそわれたサラダをぱくぱくと食べた。
さらにその後もスープ、すごく柔らかいお肉のステーキ、高級な生ハムのようなものを挟んだサンドウィッチ、そしてデザートのケーキが次々と運ばれてくる。私はいちいちそれらの感想をオレイユに聞きながら食事をしたし、時々あえて味を貶めるようなことを言ってオレイユの反応をうかがったりもしてみた。
これはあくまで個人の意見だけど、感情というのは認識だと思う。今考えていることが「喜び」だと認識すればそれは喜びになる。名前がついてなければ感情未満の快不快のような、もっと原初の感覚に留まってしまうのではないか。つまり、私としては色々な感覚を味わわせてそれがどういう感情なのかを教えてあげたい。
「という訳で、何となく喜びというものの雰囲気は分かった?」
「分かった」
オレイユは素直にこくりと頷く。
「じゃあ最後にもう一回。このケーキを食べてどう思う?」
「生クリームが泡みたいに軽くてすごくおいしい。食べていると幸せな気持ちになる」
言いながら、オレイユの表情にはかすかに変化が出ているような気がする。そんなオレイユの言葉にリーナも相好を崩す。が、すぐに神妙な表情になった。
「良かったです、私のお料理をそう言っていただいて。そしてこの前はすみませんでした」
「別に謝らなくても。私が領主さんに害を為そうとしているのは事実だから」
「いえ、そのときは話の通じない化物のように思っていたのですが……おいしい物を食べておいしいって思えるのならあながち違う人間ではないのかもしれないな、て」
「……そうかな」
そう言ってオレイユは俯いた。それでも結局私は任務を遂行するから。オレイユの横顔はそう言っているようにも見えた。