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あふれるもの、満たすもの

作者: 雨森 夜宵

「永井くん」

「ん?」

「僕、席探してくる」

「うん」

 頷いてみせると、紗綾はブーツの音をこつこつと残しながら去っていった。席を探してから買おうと思うのに、いつも忘れてしまうのはどうしてだろう。

「はい、ツナレタスでーす」

 ピンクのエプロンをしたいつもの店員が、同じ色の包装紙に包んだクレープを金属のスタンドにすぽっとはめた。今日のはちょっとツナが多いような気がする。

「お後少々お待ちくださいね」

 ニッコリと笑った店員の女性に会釈して、僕はじっとクレープの焼かれる光景を眺めていた。くるり、と広げられるクレープの生地を眺めるのは何となく面白い。さっきの映画で紗綾が随分と泣いていたことを思い出す。比較的子供向けのファンタジー映画で、僕としては特に泣くところもなかったけれど、紗綾はもうずっと目元にハンカチを当てっぱなしだった。果たしてあの映画の何割を紗綾は見たのだろう。これが意外にも覚えているから不思議だ。五秒に一度は洟をすするような有様だったのに、後から聞くとかなり細かいところまで覚えていて驚く。泣いていれば頭の中はいっぱいいっぱいにならないから、むしろ冷静に見られるのだと紗綾は言ったことがある。初めて言ったのはいつだったろう。あまりに何度も聞いたものだから、忘れてしまった。



 紗綾は本当によく泣く。

 声もなく、顔も歪ませることなく、時には微笑みさえ浮かべながら、泣く。ほろり、ほろりと、頬に涙の筋がつく。雫は顎の先へ伝い、胸元に流線型の染みを作る。そうやって紗綾は泣く。前触れもなく唐突に、欠伸をするほどの自然さで。


 何でもないのに泣いてるわけじゃないんだよ、と紗綾は言った。高校二年の時だったと思う。いつものようにショッピングモールの映画館で映画を見た後、これもいつものように、フードコートでクレープを食べながら。紗綾はよく食べる。ツナとレタスのクレープを食べて、それからバナナとキャラメルにホイップをこれでもかと乗せたクレープを食べていた。僕はいちごとチーズケーキの入ったのをひとつだけ。それでも僕らの食べ終わるタイミングはほとんど同時で、どこか負けたような気分になったのを覚えている。その時に紗綾はツナのクレープを食べながら何か、どうでもいい、他愛ない話をしていたのだ。そして喋りながら、唐突に泣いた。ほろほろと泣きながら紗綾は話し続け、その一つめのクレープを食べ終え、そうして残った包み紙をくしゃりと握りこんで、まるで言い訳のように言ったのだった。

「何でもないのに泣いてるわけじゃないんだよ」

 鞄からタオルハンカチを取り出して乱暴に目元を拭う。紗綾がまだメイクというものをしなかった頃だ。

「ごめん永井くんティッシュ持ってないかな」

「使い切ったの?」

「いや忘れた」

「珍しいね」

 言いながらポケットティッシュの使いかけを引っ張り出すと、ありがとう、と言うなり周りが振り返るほど盛大に鼻をかんだ。もう何度か鼻をかんでからティッシュを丸めて、ついでに次のティッシュで口元を拭いて、仕上げにハンカチで頬を拭いた。

「何だっけ」

「何でもないのに泣いてるわけじゃない、って」

「ああ、うん。そう」

 すん、と鼻を鳴らす。

「心の容量が小さいんだ。多分。普通の人がお風呂の浴槽くらいなら、僕のは多分洗面桶くらい。……ああ、洗面桶って、あれね。柄のついてるやつじゃなくて、平たくて浅いやつ。タオルを浸すやつ」

「うん。わかるよ」

「そう?」

「タオルを浸すやつでしょ」

「うん。そう。それ。だから、お湯が溢れやすい」

 紗綾はもうひとつのクレープを両手に持って、大きく一口頬張った。これでもかと整った歯型が残る。ほとんど表情を動かすことのない紗綾の、目尻と頬とが僅かに緩んでいた。一番上のホイップが、かかったキャラメルソース共々紗綾の口に吸い込まれていく。

「……何の話だっけ」

「浴槽と風呂桶の話」

「ああ。そうか」

「そうだよ。器の大きさの話」

「うん。そう。僕の器は小さいの。その小さい器の奥から感情が沸いてきてる。喜びもそうだし、悲しみもそう。あとなんかもっと、掴みにくいものもある。重たくて透明で、とろっとした……葛湯みたいな。葛湯分かる?」

「知らない。何それ」

「あー。そう。じゃあ今度家で作ろう」

 言ってから紗綾が真顔のままクレープにかぶりつき、口の横にクリームをつけたのを覚えている。口の端のほくろの、その少し上だ。


 紗綾はそのことを覚えていて、映画を見た次の次の週くらいに、紗綾の家で葛湯を飲んだ。紗綾の父は働きに出て不在で、一緒に住んでいる父方の、ミヨさんという名のおばあちゃんがそれを作ってくれた。ミヨさんは二年前に亡くなったけれど、あの時葛湯の入ったコップを差し出した細い手はよく覚えている。紗綾は変な子だけどこれからもよろしくね、と僕の手を握った、その手のひらは見た目に反してふっくらと柔らかかった。その時も紗綾は泣いた。恥ずかしかったのかもしれない。板の間には立派な仏壇があって、そこにもミヨさんは葛湯を上げていた。あそこにいるのはおじいちゃんかと僕は訊いた。母さんもいるよ、と紗綾は言った。紗綾の母はお産の時に亡くなったのだった。

「これだけ医療が発達したって、人は死ぬ時は死ぬんだなって思った。呆気なく。誰だって。勿論、いつそうなるのかは分からないけど。でも、死ぬ時っていうのがあるんだ。多分」

 紗綾は泣きながらそう言って、葛湯をふうふうと冷まして口に含んだ。

「……その涙は、葛湯?」

「ん?」

「その、今溢れ出しているのは、葛湯なのって」

 紗綾は小さく首を傾げ、こくりとそれを飲み干した。

「どうかな。葛湯かもしれないけど。もっと、甘くないものかな。レモネード、とか」

「酸っぱい?」

「ん。そう。酸っぱい。酸っぱくて、あと、ちょっとうわあってなるくらい、苦い」

「全然葛湯じゃないね」

「そう、確かに。葛湯じゃない」

 紗綾はそう言って笑った。珍しく、本当にはっきりと微笑んだ。あまりにもあたたかいあの微笑みは、思い出すだけで心が震える。紗綾のその顔に、僕は、不思議と満足しなかった。

 もっとだ、と誰かが囁いているような気がした。その声は少しずつ大きくなっていって、紗綾の話しかけてくる声をかき消してしまいそうなくらい大きくなった。もっとだ。もっとだ。紗綾はもっと笑える。もっと、腹の底から、涙が出るほど笑うことができる。


 紗綾のおばあちゃんがとてもよく笑う人だったからかもしれない。

 ははは、と笑いこそしなかったものの、ミヨさんはいつも微笑んで、笑うときには口元に手を当てて、肩を揺らすようにして笑うような人だった。少し背中の曲がった姿は昔の美人画のようで、真っ白な髪は柔らかく波打っていた。綺麗な人だった。肺炎になって入院して少し痩せてしまって、それでもやはりミヨさんは綺麗だった。食欲がない、食べられない、と言いながら、温かい緑茶と葛湯だけは微量ながらも最後まで口にしていた。時折、葛粉を買っていってミヨさんの病室で作っていた。黒糖を入れるのがミソなの、とミヨさんが言うから、瓶に入れた黒糖を病室の引き出しに入れておいて、ミヨさんと僕らの分のコップを置いて、スプーンを置いてと、そうこうしているうちに葛湯セットがそこに出来上がってしまったのだった。

ミヨさんはよく喋る人ではなかった。僕らは病室へ行って、ぽつり、ぽつり、話をした。ミヨさんはそれを静かに聞いていて、時折相槌を打ったり、質問をしたり、少し感想を言ったりした。全体にミヨさんは聞き上手だったのだ。おかげで僕も聞き上手になった。紗綾はそうでもなかった。

「真剣に聞かないのがコツなの」

 くすくすと、ミヨさんは笑って言った。その日、紗綾は大学で遅くまで講義に出なければならなくて、そこへ行ったのは僕だけだった。ひとりでミヨさんの病室へ行くことは、僕の中で当たり前になっていた。斜めに起こしたベッドを背もたれに、ミヨさんはあの細い手を緑茶入りの湯呑で温めていた。笑うと少し、水面が揺れた。

「真剣に聞くとね、自分の方で言いたいことが出てきちゃうのよ。あの子なんかそう。ちゃんと聞くから、それはどういうことなのとか、自分はそう思わないとか、色々言いたくなっちゃうのね。でも、話している人は自分の言いたいことがあるわけでしょう。オチのようなもの。そこに辿りつく前に別の話をしてしまうと、不完全燃焼になってしまう」

「分かります」

「そう?」

「はい。紗綾とミヨさんの話を聞いてると、特に」

「まあ。でも、そうね。分かりやすいでしょうね。不思議と私に似なかったのよ、あの子は。お母さん譲りかしら」

 ふふ、とミヨさんは笑った。それから、徐に身体を起こそうとして、僕は湯呑をサイドボードへ逃がしてからその背中を支えた。骨の浮き上がった背中だった。しっかりと起き上がると、ミヨさんの息は僅かに上がっていた。

「ごめんなさいね。家族でもないのに」

「でも、家族みたいなものですよ。僕にとっては」

「あら、ずるい言い方」

 少し笑ってから、ミヨさんはふと真剣な顔をして、僕をまっすぐに見た。すっと、僕の背筋が伸びた。畳の上なら正座していたかもしれない。

「大紀さん。あなた、紗綾がちゃんと笑ったところを見たことがある?」

 ずっと気にしてきていたことを、ミヨさんは知っていたのかもしれないと思った。

「微笑んだところくらいなら、ありますけど」

「声を上げて笑ったところは?」

「それは、全く。見たことないです」

「……そう」

 悲しげな、寂しそうな微笑みを浮かべて、ミヨさんは言った。

「あの子ね、昔はあんなに泣く子じゃなかったの。中学校の三年生くらいまでは、本当に普通の子だった。よく笑ったし、むしろ泣くところなんて見たこともなかった」

 湯呑の中の水面を見つめて、ミヨさんは呟くように言葉を重ねた。

「……何かがあったんだと思うのよ。きっと。でも、何かがあったんだとは思うんだけど、あの子はそれを口にするタイプではないから……だから、言わないようにしてきたの。私は。どうして泣くのとか、何かあったのとか、そういうことは聞かないようにしてきた。でも、それがいいことだったのかどうか、今となってはわからない……」

 僅かに歪んで丸くなった背中が小さかった。

「逆にあの子を苦しめてきたんだとしたら、千紗さんに申し訳が立たないわ。でも、きっとそうなのね。あの子は泣くもの。……苦しいのよ。聞けばよかったの。もっと早くに」

「いや、葛湯なんです」

 その台詞は、本当に唐突に僕の中から転げ落ちたのだった。

「……葛湯?」

「葛湯、です」

 思わずこちらを見たミヨさんに、僕は訳も分からず微笑みかけた。言葉の方が勝手に飛び出してしまったのだ。突然飛び出した台詞の、その糸を手繰ってゆく。

「その、あの涙が葛湯なんです。つまり……心の中に湧き上がる感情が、上手く処理しきれないまま、そのまま涙になるんだそうです。それで、処理できれば言葉になったり、表情になったり、行動になったりするところを、紗綾は上手く処理しきれなくて、だから言葉や表情は動かないのに涙が出るんだ、って」

「……あの子が言ったの?」

「そうです」

 ミヨさんの瞳が僅かに揺れたように見えた。

「それで、湧き上がる感情にも色々あって、嬉しかったり、悲しかったり、もっと判別のつかないようなのもあって。その判別のつかない感情を、紗綾は葛湯のようだって言いました。重たくて透明で、とろっとしてるって。そういう、とにかくそういうものが溢れると、涙になるんだそうです。だから、つまり……」

「あの子は、辛くて泣いているのではないのね?」

「そうです。悲しくて泣いている時もあるかもしれませんけど、嬉しくて泣くときもあるし、楽しくて泣くときもあるみたいです。時々は、葛湯でも」

「……そう」

 にっこりと、ミヨさんは笑った。

「そうだったのね」

 紗綾は泣くばかりで笑わないけれど、ミヨさんは笑うばかりで泣かなかった。きっと今泣いているのだと思った。紗綾が泣くときの何度かに一度は笑っているのだし、ミヨさんが笑っているときの何度かに一度は、内心で涙を流しているのかもしれない。紗綾はミヨさんの分まで泣き、ミヨさんは紗綾の分まで笑う。そういう風にバランスが取れているのかもしれない。

「紗綾はミヨさんに似てると思います」

 そう言うと、ミヨさんは一瞬驚いたあと、面白がるように笑った。

「あら。どこが?」

「……あり方、というか、生き方というか」

「そうかしら」

「僕はそう思います」

「あら、そう」

 うふふ、とミヨさんは笑い、僕を真っ直ぐに見つめた。口の端に小さなほくろのあるのを不思議と覚えている。紗綾にもあるそのほくろは、偶然ながら僕にもある。ただ、左右は反対だ。そのほくろをきゅっと持ち上げるようにして、ミヨさんは笑った。

「あのね。私が欲しいと思ってきて、結局手に入らなかったものがあるの」

「……それは、なんですか?」

「油断よ」

 あっさりと言って、ミヨさんは湯呑のお茶で口を湿した。

「……大紀さん」

「はい」

「もしこの先もあの子と生きていくのなら、お願いしたいの」

 はい、と言いかけて、反射的にそれを飲み込む。

「……紗綾が僕を選んでくれるなら」

「選ぶわ。絶対。天国に近づくと神様の声がよく聞こえるものよ」

 そう口にする表情は実に穏やかだった。棺の中で眠る姿も、この時と同じ安らぎを湛えて見えた。蓮の浮かぶ池のような、揺らぎのない静けさ。

「大紀さん、あの子をどうにかして油断させてあげて。私はもう先が長くないだろうけど、紗綾はまだまだ生きる。悲しいことに、生きることは油断ならないものだから」

 ミヨさんが眉間にシワを寄せたのは、僕の知る限りこれが最初で最後だった。

「紗綾をお願いね」

 そのひと月後にミヨさんは亡くなった。暖かな春の昼下がりだった。



 かたかたと金属の触れ合う音がする。クレープ用のホルダーだな、と思う。

「はいこちら、シナモンアップルスペシャルと、チョコバナナホイップでーす」

「あ、すいません。それ二つ用のに入れてもらえますか」

「大丈夫ですよー。あっ、三つ用のもありますけど、二つ用でよろしいですか?」

「二つ用で。大丈夫です」

「はあい、かしこまりました」

 どうぞ、と差し出されたクレープを、左手に二つ、右手に一つ。途端に手元から甘い匂いが立ち上がって、こっそりとそれを吸い込むと幸せが胸に広がるような気がした。ありがとうございました、と言う声を聞きながら振り返るとそこはかなりの人混みで、紗綾の姿は見つけられなかった。今日の紗綾の服は地味だ。キャラメルの色のコート、ジーンズにショートブーツとなるとなかなか沢山いる。どうにか片手に束ねて携帯を確認しても、連絡は来ていなかった。席が決まったら何か連絡をくれるだろう。変に動くよりはじっとしている方がいい。そういえばあの日もツナのクレープを食べてたな、と思う。紗綾はこれが好きだ。ミヨさんにクレープの話をしたときは、ちょっと不健康そうね、と困り顔で笑っていたけれど。

 ミヨさんがクレープを食べたことがあるのか、結局聞かずじまいだった。



「おばあちゃんが死んだ」

 あの日、紗綾の声はいつになく平坦だった。それでも、電話の向こうの紗綾が泣いているのだろうということは僕にも推測された。普段からいつも泣いている紗綾だ。こんな時に泣かないような人間ではないと思った。

「体は家に戻すから、今日は病院に寄らないで。もし来るならうちに来て」

「行っても大丈夫?」

「大丈夫。父さんも呼んでいいって言ってる」

「何か買っていこうか」

「……ううん。大丈夫。気にしないで」

「分かった」

 電話は一方的に切れた。普段なら、じゃあ切るね、と僕が切る。電話をしているのも億劫だったのかもしれなかった。僕は講義の残りをなかったことにして大学を出た。それは本当に爽やかな、うららかすぎる春の日だった。死ということと一番程遠い空間なんじゃないかと思った。あの時には浮かばなかったけれど、誰にだって死ぬ時というものがあるのだ、という紗綾の言葉を僕は思い出さずにいられない。ミヨさんの死ぬ時というのがあのうららかな昼だったことを、僕は少しだけ嬉しいように感じた。夜中にひっそりと死ぬというのは、ミヨさんらしくない。明るく暖かな空気の中でふっと息をついて死んでいく、そういうのが彼女には似合っていると思った。

 現実味がなかったのは紗綾の家に着くまでの話だった。

「ありがとう。入って」

 玄関の扉を開けた紗綾が一分の隙もなくアイメイクを保っていることに気付いたとき、ようやく僕にも非常事態なのだという実感が沸いてきたのだった。僕は初めて紗綾に関する推測を外した。泣いていなかった。表情も、声のトーンも、何一つ崩さないまま、紗綾は僕をダイニングキッチンへ通した。葛湯を飲んだ日当たりのいい板の間と打って変わって、そこは薄暗く、少し肌寒いような感じさえした。四人がけのテーブルの、左奥の椅子に紗綾のお父さんが座っていた。恐ろしく遠い目をして。

「父さん」

 紗綾が呼びかけると、首から上だけを動かしてこちらを向いた。あの目が僕を見ていたのかどうか、今でも確信が持てない。ネクタイすら緩めないままのお父さんは、椅子を引いて立ち上がった。随分と背が高かった。

「紗綾さんの友達の、永井大紀です」

「大丈夫。紗綾から聞いてます」

 疲れた顔でお父さんは笑い、ありがとう、と頭を下げた。僅かに白髪が混じっていた。

「母の病室に通ってくれてたんだってね?」

「ええ」

「そう。母が随分と喜んでいたよ。紗綾はとてもいい子を選んだって」

 紗綾をちらりと見ると、ふいとそっぽを向いていた。聞こえていないかのようだった。

「そうなんですか?」

「うん。ま、とにかくいっぺん会ってあげてくれないかな。部屋は廊下の突き当たりの右手だから」

「僕が一緒に行く」

 紗綾の言葉は不必要に素早かった。

「うん。それがいい」

「ん。……来て」

 紗綾は自然に僕の手首を取って、ミヨさんの部屋へと引っ張っていった。それは決して無理な力のかけ方ではなかったけれど、手首を握る力はあまりにもしっかりとしていて、少しの震えも見せなかった。

「紗綾」

「何」

 ここまで頑なな、鉄板のような返事をされたことはなかったと思う。紗綾は振り返らなかった。紗綾が僕と目を合わせようとしなかったのは、それをあからさまに拒んだのは、この日が最初で最後だったろう。

「大丈夫なの」

「何が?」

「何がって」

 何が、と僕の頭の中でそれは反響した。何が?

「僕なら全然。父さんの方が滅入ってるくらい」

 録音された音声のようだった。いつもの静かさとは違う、ぎゅっと抑え込んだような強張り。

「父さん、母さんもおじいちゃんもいなくておばあちゃんだけだったから。あれで結構参ってるんだよ」

「うん。そんな感じはする」

「そう。……はい、ここ」

 紗綾はそう言って襖を開けた。冷え切った空気が足元をするりと抜けていった。入った途端、線香の匂いが体を取り巻く。

 部屋の左手に置かれたベッドに、ミヨさんは横たわっていた。

「柩は部屋に入れられないから、体だけだけど」

「うん」

 淡々と言う紗綾の声を背中に聞きながら、僕はミヨさんの枕元に立った。冷たい空気の中に立って、見慣れたその顔を見下ろして、ああ死体だ、と僕は思った。眠っているようだ、という表現が脳裏を過る。確かに眠っているように見えなくもなかった。でも、それは明らかに死体で、閉じた目元も口元も恐ろしいくらいに乾ききって、何度も笑い顔で見た多くの皺はどれも凍りついたように動かなくて、ああそうかミヨさんは死んだのだと、僕はそこで初めて実感した。腑に落ちたのだ。紗綾の崩れていないアイメイクを見て感じた緊張が、ミヨさんの僅かに開いて乾ききった口元から僕の全身を締め上げるようだった。それでも、ミヨさんの表情は静かなものだと僕は思った。

 そう思いたかっただけなのかもしれない。

 今思えばそれは、多分表情と呼ばれるものではなかった。人間としての本質的な部分が抜け落ちた、冷え切った肉体だけの抜け殻で、悲しいくらいに何もない物体だった。首の下に置かれた保冷剤の、綿に包まれたような端が覗いていた。その、場違いな白髪のような繊維の絡みを、今でも思い出す。乱れ。絡まって凍りついたもの。最後の最後まで髪に櫛を通していたミヨさんに、それは余りにも似合わなかった。

 すとんと音を立てたのは、紗綾が閉めた襖だった。

「……本当に亡くなったんだ」

「寝てるみたいでしょ」

 視界の外から紗綾が言った。押さえ込んで無理やりに蓋をした声で。

「そうかな」

「苦しまなかったんだと思うけど」

「うん。そんな感じはする」

 そうだろうか、とどこかで思った。本当に苦しまなかったかどうかなんて、分からない。

「そう?」

 実際どうだったのだろう?

「うん」

 未だに僕には分からない。でも、あれほど笑顔を絶やさなかったミヨさんなら、たとえ苦しかったとしても、それを飲み込んでしまうかもしれない。

 ――生きることは油断ならないものだから。

「そっか」

 紗綾は小さくため息をついた。空調の関係なのか、ミヨさんの真っ白な前髪が微かに揺れた。生きることは、油断ならない。ミヨさんはやっと油断したのかもしれなかった。全てを捨て去って抜け殻になって、紗綾のもとを去って。もしかするとそれは、油断したからなのかもしれない。

「紗綾」

「何」

 振り返れば紗綾はやはりふいとそっぽを向いていた。ミヨさんと同じ。蓮の浮かぶ池のような、揺らぎのない静けさ。重たい水の底に、紗綾は自分自身を押し殺している。

「紗綾は、死なないよね」

「……どうかな」

 紗綾は更に遠くを見つめるような目をした。

「人は死ぬときには死ぬものだよ。母さんもおばあちゃんもそうだったし。僕だって死ぬときには死ぬよ」

「今この瞬間でも?」

「今この瞬間でも」

 珍しく、ほとんど初めてというくらいに、紗綾はため息をついて笑った。

「まあ、できれば父さんの後がいいな」

 その時の悲しい微笑。これほど強く思ったときはない。

 紗綾は、今、泣いている。

「紗綾」

「何」

「ハグしたら怒る?」

「え?」

 一瞬紗綾はこちらを見て、またすぐに視線を逸らした。ぎゅっと、歯を食いしばっているのが分かる。真っ黒な瞳が、不規則に揺れ動く。

「……先にお線香あげて。おばあちゃんに」

 つっけんどんに紗綾は言った。その頬の赤さは、嫌でもミヨさんの冷え切った頬を想起させる。

「……ああ」

 口元がふっと緩んでいくのが自分でも分かった。

「そうだね。忘れてた」

 紫色の座布団は柔らかく、永遠に座っていられそうな気がした。線香の先をライターで炙って立てる。波紋のように広がるおりんの音の中で手を合わせ、目を閉じる。

 ミヨさんに何を言っていいものか、僕は分からなかった。安らかに、というのも無責任な気がするし、かといって他に言うべきことも見つけられない。それを探すうちに、ミヨさんの笑顔ばかりが、暗闇の中に何度も現れては消えた。もしかしてミヨさんの側に伝えたいことがあるのではないかと、僕は耳を澄まして待っていた。でも、いくら待ってもミヨさんの生きて笑っていた姿が浮かぶばかりで、その姿は僕に何一つ語りはしなかった。そうか、死んでいるのか、と僕はまた思った。ミヨさんはもう何も語れないのだった。今ここに浮かぶものが、今あるミヨさんの全てだった。

「……聞こえないや」

 ゆっくりと、僕は目を開いた。線香の先から立ち上る煙が柔らかく渦を巻いていた。

「何が」

「いや、何でもない……聞こえなくていいんだ」

 奇妙な可笑しさが湧き上がってきて僕は僅かに笑った。紗綾がゆっくりと僕の背後へ歩いてくるのを、どこか遠くに聞いていた。溢れそうになった涙を押し止めると、紗綾の両手が僕の肩に置かれた。止めたはずの雫は頬の上を転げ落ちた。

「紗綾」

「何」

「お線香あげたよ」

「そうだね」

 僕は振り返った。紗綾は膝立ちのまま、両腕をすとんと脇に垂らしていた。相変わらず、ふいとそっぽを向いたまま。泣き顔を見られなくてよかったかもしれないと、少し思う。

「いい?」

「うん」

その頼りなげな上半身を引き寄せるように、僕は紗綾を抱きしめた。紗綾の唇が僕の肩に埋められる。恐る恐る、紗綾の両腕が僕の背に回る。添えるように触れている手は、思っていたよりも小さいような気がした。

「紗綾」

「うん」

 微かに頷いた紗綾の声は直接体の中に響くようだった。

「ミヨさんが、僕に言ったことがあるんだ」

「……なんて」

「欲しくても、どうしても手に入らなかったものがあるって」

「そう」

「それを、紗綾にあげてくれって」

「何を。くれるの」

「……油断」

 声が震えて、落ちた涙が紗綾の首筋に伝った。紗彩の腕がきゅっと僕を締め上げる。

「紗綾」

 締め付ける腕にますます力がこもっていく。

「紗綾。だから……」

 ミヨさん、紗綾を助けてあげてください。

「ちゃんと、泣いて、いいんだ」

 背中に触れる手のひらが、僕の服をぎゅうっと、痛いくらいに掴んで。

 そして。

「……そっかぁ……」

 紗綾は初めて、吼えるように声を上げて、泣いた。


 あの日から、と思う。あの日から紗綾は泣くようになった。もう少し正確に言うのなら、ミヨさんの葬儀の何日か後に紗綾の母の墓参りに行ってからだ。母さんのために泣いてあげたかったんだ、と墓の前に立って紗綾は泣いた。母さんのために泣いてあげられなかったんだってこと、長いあいだ気付けなかった。

「それは、母さんがいないのは寂しかったよ。どうして僕には母さんがいないんだろうって思ってた。でも、それは自分のことでしょう。死なれた僕のこと。死んでしまった母さんのことを僕は考えてなかったんだ。自分勝手だよ」

 そうかな、と言えば、そうだよ、と紗綾は暗さを含みつつも微笑んだ。紗綾が笑うようになったのも、あの日を境にだった。いくらかの沈黙のあとで、その暗さは少しずつ晴れていく。でもいいんだ、と紗綾は小さく言った。ちゃんとどこかでバランスが取れるようになってるんだよ。永井くんが僕に付き合って、こんなところまで来てくれたように――。



「永井くん」

 手の中の三つのクレープは、ずっしりと重く温かい。視線を上げれば、プラスチックのお盆に紙コップを二つ載せた紗綾が手を振っていた。少し張った声でも届くくらい近いテーブルだった。日曜のフードコートで空いた席を見つけるのはなかなか難しいはずなのに、紗綾はいとも簡単にそれを見つけてしまう。走ってくる子供に気をつけながら近づいて、テーブルにクレープを置く。紗綾の手には、見慣れたタオルハンカチが握られている。

「また泣いちゃったの?」

「そう。いつもの」

 すん、と洟をすすって、紗綾はハンカチの先ですくい取るように涙を拭いた。しっかりしたアイメイクは崩れていないものの、頬のファンデーションには涙の跡がついている。

「紗綾」

「何?」

「葛湯が飲みたいんだ」

「今? クレープを前にして?」

「そう」

「変なの」

 紗綾は困ったように眉根を寄せて笑い、また涙を拭いた。

「その涙は葛湯?」

「違うよ」

 いつもと同じ。先にツナのクレープを手に取り、大きく頬張る。

「じゃあ、その涙は何?」

 もぐもぐと咀嚼する紗綾の口元に、ほくろ。

 ああ、やっぱり、葛湯が飲みたい。

「んー……」

 紗綾はごくりとクレープを飲み込んで、そして、ほくろを釣り上げるように笑った。


「秘密」


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― 新着の感想 ―
[良い点] すごく個人的な事なので多くは語らないのですが、紗綾ちゃん(で良いのかな?)にはすごく共感させられるポイントがありました。 だいぶ心が成熟してる時期での身内の死など、確かに感じるものがあり…
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