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第八回 美醜の歌姫

茂姫は届いた箱を開けた。そこには、饅頭と手紙が添えてあった。茂姫はその手紙をとると、宛名を見た。そこには、「島津登勢」と書いてあった。それを見て、茂姫はニッコリとした。

その後、茂姫は部屋で一人きり、その手紙を読んでいた。

お登勢の声『久方ぶりに、筆をとりました。身体に、変わりはありませんか?あなたはもう、御台所なのですね。主を支える妻の役目として、子を儲けることよりも大事なことがあります。それは、喜びや悲しみといった数多くの感情を分け合うことです。そうすることで、初めて共に生きることができます。わたくしはこれからも・・・。』

そして茂姫は、最後の一文だけ読み上げた。

「『あなたの幸福を心より祈っております』・・・。」

そして茂姫は顔を上げ、庭を目にした。そこには、花々が綺麗に咲き誇っていた。



第八回 美醜の歌姫


一七九〇(寛政二)年二月。

浄岸院(寛政二年、茂姫が一八歳になろうとしている年の春、花見の季節が来ようとしておりました。)

茂姫は、不思議そうにこう聞いた。

「宴・・・、でございますか?」

すると、家斉はこう言った。

「あぁ、桜が見とうなっての。」

茂姫がそれを聞いて戸惑っていると、後ろでお万が補足した。

「毎年、この季節になると大奥中の女性が集まって宴を行うのが恒例となっております。ここ数年は、御台様のお輿入れの準備などで、行っておりませんでしたので。」

それを聞いた茂姫は納得したように、

「それで・・・。」

と、言っていた。すると家斉は、

「どうじゃ、御台。」

そう言うので、茂姫はまた家斉の方を向いた。そして茂姫は笑顔になって、

「・・・、はい!」

と言って、答えていた。その後ろかつお万の隣に座っていたお楽は、興味がないような仕草で余所見をしていた。

その一方で、薩摩藩邸では・・・。斉宣が、

「薩摩にですか?」

と聞くと、重豪が答えた。

「あぁ。帰ろうと思う。」

そう言うので斉宣は、

「しかし何ゆえ、父上が?」

と聞くと、重豪はこう言った。

「そなた、忘れてはおらぬか?わしはもう、隠居の身分じゃ。ここにいても、もう城に呼ばれることは恐らくないであろうからのぉ。」

「でも・・・。」

斉宣はそう言って、重豪を見つめた。その部屋の前を偶然、お千万が通りかかった。それに気づいていない重豪は、斉宣にこう言った。

「案ずるでない。こちらには、そなたの母がおるではないか。泣き言は、お千万に言うたらええ。」

斉宣は少し俯き、

「はい・・・。」

そう言っていた。それを聞いて、お千万は深刻な顔をしていた。

その後、個室でお千万はお登勢と話をした。お登勢が、

「帰る?」

と聞くと、お千万はこう言った。

「はい。やはりあの子は、お父上が必要なのです。幼き頃から、ずっと面倒を見てきたのは、旦那様です。それ故、旦那様を帰らせたくないのです。」

それを聞いてお登勢が、

「だからと言って、あなたが帰ることではないと思います。斉宣様も、今や藩を背負う大事なお人。今はまだ、不安を抱えておられるだけです。あの方も、それを信じて帰ろうとしているのだと思います。それに、斉宣様の隣にいてあげられるのは、あなただけですから。」

と言うのを聞いてもお千万は俯いたまま、

「しかし、わたくしは・・・、わたくしは・・・。」

そう言っているのをお登勢は、心配そうに見つめていたのだった。

浄岸院(そして、大奥では宴が催される日がやってきたのでございます。)

お富は菓子を口に運びながら、

「宴じゃと?」

と聞くと、常磐は答えた。

「は、はい!年に一度、桜の季節になると公方様を招いて宴を行うのが風習でございましたが、ここ数年は行っておりませんでしたため、御存知ではないかと・・・。」

それを聞いたお富は、

「成る程、宴のぉ・・・。」

と言っていると常磐は続けて、

「はい。されど此度は久方ぶりとのことで、芸子を数人招いております。」

そう言うと、その言葉に反応したお楽は顔を上げた。するとお富は、

「成る程・・・。常磐、そなた公方様が余計な女に手を出さぬよう、見張っておくのじゃ。」

そう言うので常磐は、

「はっ!」

と言って、頭を下げていた。その様子を、お楽も見ていたのだった。

庭がよく見える廊下には、何人もの女中達が集まって座っていた。皆は明るく談笑していると、茂姫が数人の年寄を従えてくるのが見えると、皆はすぐに黙って頭を下げた。茂姫は年寄が示した場所に座ると、皆は顔を上げた。そして暫くすると、

「公方様、お成りにございます!」

と言う、女性の声がした。茂姫はそれを聞くと、頭を下げるとその他の女性も、一斉に頭を下げた。家斉は座に着くと、

「面を上げよ。」

そう言うので、皆は顔を上げたのだった。家斉は少し茂姫を見ると、茂姫もそれを感じて少し下を向いた。しかし家斉はすぐに目を逸らし、

「今日は、桜が満開じゃ。皆、よき思い出を作るがよい。」

そう言うので、皆はまた一斉に頭を下げるのだった。茂姫も、同じように家斉に頭を下げていた。

その後、宴が予定通りに催された。そこでは、歌舞伎や芸が行われた。それを見て茂姫は、他の女中達と一緒に笑っていた。最後に、芸妓が数人登場した。その芸妓達は、舞を披露した。そのあまりの美しさに、家斉は暫く見とれていた。それを気にした茂姫は、遠くから家斉を見つめていた。その舞が終わると、皆は大きく拍手をした。

そしてその後、その芸妓達は家斉やその後ろの老中達に酌をして回った。家斉が上の空で遠くを見つめていると、一人の芸妓が前に座った。家斉は気が付いて、その芸妓の顔を見た。その芸妓は笑って、

「お初にお目にかかります。宇多うたと申します。」

そう言うので家斉は、

「あ・・・、あぁ。」

と言うので杯を差し出すと、宇多という芸妓は酌をした。宇多は、

「公方様は、書物がお好きとお聞きしましたが。」

そう言うので家斉は、

「あ、あぁ。」

と答えた。すると宇多は、

「わたくしの父も、よく『風土記』といった古典文学を読んでおります。よければ、何がお好きか詳しくお聞かせ下さい。」

そう言うので家斉は、

「あ、あぁ。」

ととだけ言い、宇多を見つめた。宇多も、笑って家斉を見ていた。家斉が宇多に話しているのを、茂姫は見つめていた。するとお万が隣に来て、こう教えた。

「あの芸妓は、お宇多と申す者にございます。」

「お宇多・・・?」

するとお万は続けて、

「わたくしも含め、この城の女性は旗本のでであることが多ございます。同じようにあの者も、旗本の娘です。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「旗本・・・。」

と言って繰り返していると、宇多が茂姫のところへ来たのだった。宇多が茂姫の前に座ると、

「御台様、お初にお目にかかります。」

そう言うので茂姫は、

「あぁ・・・。」

と、戸惑いながらも答えた。すると宇多は、笑ってこう言った。

「噂で聞いた通り、御台様は肝がしっかりとしたお方でございますね。」

「え?」

茂姫はそう言っていると宇多は、

「薩摩の出であるのに、すっかり将軍家に馴染んでおられます。ご自分の出身の家柄を気にせず、前を向いて生きようとなさるお方は、本当に強いと思います。それ故、公方様があなた様をお好きになられるのもわかります。」

そう言うので茂姫は、

「何が言いたいのじゃ・・・?」

と聞くと宇多は、

「あ、失礼仕りました。本日は、お会い出来てまことに嬉しゅうございました。それでは、これで。」

そう言うと、宇多は茂姫とお万を見ると頭を下げ、立ち上がると向こうへ行ってしまった。茂姫は、その様子を怪訝な顔で見ていたのだった。

その晩、茂姫はまたいつものように縁側に出て考え込んでいた。するとひさが後ろから、

「どうなさいました?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「あの、お宇多のことじゃ。あの娘は、何者であろうかと思うてな。」

するとひさが茂姫を覗き込むようにして見つめ、

「気になって、おられるのですか?」

と聞くと、茂姫はこう言うのだった。

「わからぬ・・・。ただ、上様の様子がおかしかったのじゃ。」

「おかしかった?」

「あぁ。お宇多に話しておられる姿は、やけに楽しそうだったのじゃ。」

茂姫は話ながら、あの時の家斉の顔を思い出した。

「はぁ・・・。」

ひさもそう言って、茂姫の話を聞いていた。茂姫はそれからも、考え込んだ表情になっていた。

その頃、薩摩藩邸では個室で斉宣が書を読んでいた。すると物音がするので斉宣は、

「誰じゃ?」

と言うと、お千万が襖を開けた。それを見た斉宣は、

「あ、母上でしたか。失礼致しました。何か用ですか?」

と聞くと、お千万は安堵したような表情になった。それを見て、斉宣は不思議そうにお千万を見た。するとお千万は、突然その場に倒れたのだった。それを見た斉宣驚き、お千万に駆け寄った。

「母上?母上!」

斉宣はお千万を揺すり、

「母上!母上!!誰か!誰かおらぬか!?」

と、助けを呼んでいた。

その後、お千万は薄暗い部屋に寝かされていた。斉宣は心配そうにお千万を見ていると、そのすぐ後ろでお登勢がこう言った。

「お千万殿は、以前から薩摩に帰りたいと話しておられました。でもそれは、あなたのことを思うてのことでした。お父上を、帰らせるわけにはいかないと・・・。」

それを聞いて斉宣はゆっくりと振り返りながら、

「何故・・・、教えて下さらなかったのですか?」

と聞くと、お千万は斉宣の手を握り、

「大丈夫です。少し、疲れが出ただけですから。」

そう言うので斉宣は再びお千万の顔を見ると、お千万は斉宣に微笑んでいた。すると部屋に重豪が入って来て、

「お千万・・・、大事ないか?」

と言って、斉宣の隣に座った。

「父上・・・。」

斉宣はそう言って重豪を見ると、重豪はお千万にこう話した。

「話は、お登勢から全て聞いた。辛かったであろう。」

それを聞いたお千万は首を横に振り、

「いえ・・・。」

と答えているのを、お登勢と斉宣も見つめていたのだった。

その後、別の部屋で斉宣は重豪にこう言った。

「父上、お願いがございます。」

「何じゃ?」

重豪はそう聞くと斉宣は続けて、

「母上と共に、江戸に残って下さい。わたくしはまだ未熟者故、どうしても父上のお力が必要にございます。何卒、お願い申し上げます!」

そう言って頭を下げるので、重豪は下を向いて黙って考えていたのだった。

かわって旗本・水野家では水野忠直が部屋で書状を読んでいた。すると娘が、

「父上。」

と言って、部屋に茶が乗った盆を持って入って来た。それは、宇多であったのだ。それを見た忠直は、

「おぉ、宇多か。」

そう言うと、宇多は盆を置き、忠直に茶を差し出した。宇多は宴の時とは違う、地味な着物を着ていた。すると宇多は忠直に、

「それは?」

と聞くと、忠直はこう言った。

「あぁ。老中の松平定信殿がこれから行おうとしている、改革についてじゃ。」

すると忠直は、

「それより、宇多。先日の宴は、どうであった?」

と聞くと、宇多はこう答えた。

「はい。公方様にもお会いしました。」

「そうか、それはよかったな。」

「はい!」

すると宇多は、続けてこう話した。

「それから、御台様にございます。」

「御台様?」

忠直が聞くと、宇多はこう言うのだった。

「わたくしはあのお方が、好きになりました。」

「好きじゃと?」

忠直は訝し気に聞くと、宇多はこう言った。

「わたくしも、あのような人になりたい。そう思いましてございます。」

それを聞いた忠直は溜息を吐き、

「いつも思うが、そなたが申すことは、よう分からんなぁ。」

と言って、再び書状に目を戻していた。しかし宇多は、表情を変えずに忠直を見つめていたのだった。

浄岸院(一方、江戸城大奥ではある噂が広まっておりました。)

お富は部屋で、

「お宇多じゃと?」

そう聞くと、前にいたお楽がこう言った。

「はい。宴の日に登城した、芸妓の中の一人にございます。徳川家に使える旗本・水野家の娘御にございます。その者を、公方様の側室にとの話があるとかないとか。」

「側室のぉ・・・。」

そう言って上を向いていると、お楽がこう言うのだった。

「されど、芸妓を側室にするなど、以ての外にございます。どうか、お富様にも反対側にお力添いを。」

それを聞いたお富は、

「されどのぅ・・・。会ったことのない娘の輿入れを、反対せよと申されても・・・、そうじゃ。」

と思いついたように言って、傍らにいた常磐の方を向いてこう言った。

「そなた、そのお宇多やらと申す者を、ここへ呼ぶのじゃ。」

常磐は少々驚いて、

「ここへ・・・、でございますか?」

と聞くと、お富も答えた。

「あぁ、ここへじゃ。」

常磐もそれを聞いて、不思議そうにお富を見つめていた。

その後、同じ部屋ではお富の前に一人の娘が平伏していた。お富は、

「面を上げよ。」

そう言うと、その娘は顔を上げたのだった。その娘は、宇多だった。お富は宇多を見て、

「そなたが、お宇多か。」

と言うと、宇多もこう言った。

「はい。公方様のお母上でおあり遊ばすお方にお呼び頂けるとは、誠に光栄に存じます。」

そして、宇多はまた頭を下げた。その様子を、横の女中達の列の中でお楽が忌々しそうに見つめていた。お富は続けて、

「そなた、宴の時に公方様と話したそうじゃな。」

と言うと宇多はまた顔を上げて、こう言った。

「はい。とてもご立派なお方で、心底感服致しましてございます。」

それを聞くとお富は笑い、

「そうであろう。それで、何を話したのじゃ?」

と言うと、宇多はこう答えた。

「公方様は書を嗜むのがお好きと聞き、その話がとても興味深うございました。」

それを聞いてお富は、

「そうか。それで今日そなたを呼んだは、聞きたいことがある故じゃ。」

と言うので宇多は不思議そうにお富を見て、

「何で・・・、ございましょう?」

そう聞くと、お富はこう言った。

「老中達が、そなたを公方様にしたいようじゃ。そなたは、どう考えておる。」

それを聞いた宇多は驚いた表情で、

「そんな・・・、考えもしなかったことでございます。わたくしは、確かにあのお方のことが好きでございます。ただ、いきなりわたくしに側室など務まるかどうか・・・。」

と、言うのだった。するとお富は、

「そうか。この大奥には、自分しか頭にない女子もおるが、どうやらそなたは違うみたいじゃ。」

そう言いながら、お楽を垣間見た。お楽はそれを感じ、驚いた表情でお富を見ていた。すると宇多は、

「されどわたくしは、一度決めたお方を守る為であれば、どのようなことでも致します。」

と言うのでお富は、

「ほほう、どんなことでものぅ・・・。今日は大義であったな。」

そう言って立ち上がると、着物の裾を翻して部屋を出て行った。それを見て宇多も、頭を深く下げていた。お楽も、悔しそうな目でそれを見ていたのであった。

夕方、お富は部屋に帰ってくると共に入ってきたお楽が座りながらこう言った。

「わたくしは、あの者をやはり側室にすべきではないと思います。」

すると座ったお富も、自分の着物を整えながらこう言った。

「心配するでない。それより、分かったことがある。」

「分かったこと?」

お楽が聞くと、お富はこう言った。

「あの娘は、心に毒を持っておる。」

それを聞いたお楽は、

「毒・・・、にございますか?」

と聞くと、お富は呟くようにこう言った。

「御台所が、あの毒に侵されぬかのぅ・・・。」

お楽も、それをずっと見つめていたのだった。

その頃、茂姫は部屋でひさからある話を聞かされていた。

「それは、まことなのか?」

茂姫は聞くとひさが、

「はい。お宇多様はお富様に呼ばれ、今もこのお城におられるとか。多分、側室の噂を聞き入れて呼んだのかと・・・。」

そう言うので茂姫は、

「そうか・・・。」

と呟くと、ふと思い立ったようにひさを見つめてこう言った。

「ならば宇多を、この部屋に呼ぶのじゃ。わたくしも、話がしたいと。」

それを聞いたひさは、

「はい!」

と言って、頭を下げていた。

その後、茂姫は自室に宇多を呼び、

「今日、お母上様と何を話した?」

そう言うと宇多は、少し躊躇ったような仕草を見せた。すると茂姫は落ち着いた表情で、

「・・・、公方様のことですか。」

と聞くと宇多も、

「はい・・・。」

と、答えたのだった。茂姫は、

「わたくしは、婚礼を挙げる前から、上様を支えると誓いを立てた。この先、上様の手足となり、上様をお守りすると。そう伝えたら、上様はこのようなわたくしを、心よりお受け入れ下さったのじゃ。」

そう言うのを宇多も不思議そうな目で見つめ、

「はい・・・。」

と答えていた。すると茂姫は宇多に、

「そなたはどうじゃ?上様の側室になるのであれば、わたくしと同じような覚悟がなければ務まらぬ。」

そう言うので、宇多は暫く黙って考えると、こう言ったのだった。

「わたくしは・・・、御台様のようなことはできませぬ。」

「何じゃと・・・?」

茂姫は怪訝そうな目で宇多を見つめると、宇多はこう言うのだった。

「わたくしは、自分に嘘はつけませぬ故。」

「嘘・・・?」

茂姫は聞き返すと宇多が、

「わたくしの父は、わたくしが幼い頃より幕閣に出入りしており、あまり構ってはくれませんでした。一人で泣いていた時も、自分の仕事の方が大事だと、話しかけてすらきませんでした。」

そう言うのを、茂姫はずっと見続けていた。宇多は続け、

「されど公方様に初めてお会いした時、このような方の側にいたい、そう思いました。どんな時でも、気にして下さる、そのようなお方に見えたのです。ただ、わたくしの考えは、御台様とは少し違います。」

そう言うので茂姫は、

「言うてみよ。」

と言うのを聞き、宇多はこう言った。

「わたくしは、あのお方の為であればどのようなことでも致します。わたくしは、大切な人の為なら人をも殺す覚悟でおります!それともう一つ、わたくしが誰かを愛せば・・・、きっと誰かが傷付きます。そのことを、お分かり下さいますよう。」

宇多はそう言って、頭を下げた。そして宇多は顔を上げ、

「それでは、わたくしはこれにて。」

そう言うとまた頭を下げ、立ち上がって下がっていった。茂姫は、それを唖然としたまま見送っていたのであった。

浄岸院(その少し前、寛政二年五月二四日に、松平定信殿は寛政の改革の一環として、古文辞学や古学という学問をを禁じ、朱子学を正学とする通達を行っておりました。古文辞学などは、学問的には朱子学を批判する内容でした。これが世にいう、『寛政異学の禁』の始まりとなりました。)

知らせを受けた幕府の儒学者・はやし錦峯きんほうは文を読み終えると、

「今のこの国では、古文辞学よりも朱子学を重視すべきです。それには、まず異国からもたらされた余計な文学などを全て除去する必要がございます。」

そう言うと同じく儒官の柴野しばの栗山りつざん岡田おかだ寒泉かんせんも、頷いた。そして錦峯は続けて、こう言った。

「いずれこの国は、外国から開国を迫られるでしょう。しかしそれでは、この日本が日本でなくなってしまう。異国に占領されかねませぬ。」

それを聞いた二人は声をそろえて、

「そうじゃ!」

と言った。錦峯は、

「今こそいらぬ異学は禁じ、徳川家康公の代から慕われてきた朱子学に皆、専念すべきである!」

そう言うのであった。

浄岸院(その知らせは、こちらにも届いていたのです。)

斉宣は驚いた表情で、

「異学を・・・?」

と聞くと重豪は、

「あぁ、そうじゃ。幕府におる儒学者・林大学頭だいがくのかみが松平殿から通達の役目を受けたそうじゃ。何でも、異学は風俗を乱すとな。」

そう言うのを聞いて斉宣は、こう言った。

「本当にそうでしょうか。」

それを聞き、重毫も斉宣を見つめた。斉宣は、

「異国の文化は、時に人を豊かにし、またその文化を取り入れることによって、人々の役に立つことを見いだせるのではないでしょうか。わたくしは、そう信じております。今でも・・・。」

そう言うと、重豪がこう言うのだった。

「ならば、林殿に会うがよい。」

「えっ?」

斉宣は聞くと重豪は続けて、

「わしが取り計らってやろう。今のそなた考えを、林殿に伝えるとよい。」

そう言うので斉宣は戸惑い、

「あ、いや・・・。」

と言っていると重豪は、

「どうした?会いとうないのか?」

と尋ねると斉宣は心を決めたように、

「・・・いえ。」

そう言うと重豪は笑いながら、

「そうか。ならば、わしから伝えておく。よいな?」

と言うのを聞いて斉宣も、

「はい!」

そう言っていたのだった。

その後、縁側で重豪はお登勢と話をしていた。重豪は遠くを見ながら、

「鎖国は・・・、いつまで続くかのぉ。」

と呟くと、お登勢はこう言った。

「でも何故、松平様は異国がお嫌いなのでございましょう。」

それを聞いて重豪は、

「さぁのぉ・・・。」

と言いながらお登勢の方を振り向くと、お登勢の顔を見てこう聞いた。

「どうしたのじゃ?」

するとお登勢は、

「あ、いえ。於篤のことを、考えておりました。」

そう言うので重豪は笑い、

「久々に、文でも書いてやったらどうじゃ?」

と言うのを聞いたお登勢も笑って、

「そうでございますね。」

そう言い、立ち上がって部屋に入っていった。それを、重毫も安心したように見ていたのだった。

一方、茂姫は寝室で家斉に話をしていた。

「今日、お宇多に会いましてございます。」

それを聞いた家斉は、

「お宇多?あぁ、宴の時に来た芸子か。それがどうかしたのか?」

と言うと、茂姫はこう言った。

「上様、お願いがございます。」

すると家斉は、

「言うてみよ。」

そう言うので茂姫は半歩下がって手をつくと、こう言ったのだった。

「上様。どうか・・・、あの者を、側室にはしないで下さいませ!!」

一瞬、部屋が静まりかえった。すると家斉は、

「何故じゃ?」

と聞くと茂姫は、

「あの者は、上様の側室には相応しゅうないと思うた次第にございます。話を進めている老中達に、よう伝えて下さいませ。」

そう言うので、家斉はこう呟いた。

「そうか・・・、老中達がのぅ・・・。」

それを聞いた茂姫が、

「もしや・・・、ご存知なかったのですか?」

と言うと家斉は、

「あぁ。まさか、あの娘をわしの側室するなどという話が出ておったとは。」

そう言うと茂姫は期待を寄せたような表情で家斉を見つめながら言うと、

「では・・・!」

と言うと家斉は、こう言うのだった。

「わしは、あの者を側室にするつもりなどさらさらない。」

それを聞いた茂姫は、一気に安堵したような表情を浮かべたのだった。すると家斉は、

「されど、何故そのようななしが出たのであろうな?老中共は、何を勘違いしておったのじゃ。」

そう呟いていると茂姫も笑いながら、

「まことにございますね。」

と言って、暫く二人は笑い合っていたのであった。

ある日、薩摩藩邸では薄暗い部屋でお千万が荷造りをしていた。その部屋の側の廊下を偶然通りかかった斉宣がそれに気がつき、部屋に入るとお千万に声をかけた。

「母上、何をしておいでですか?」

するとお千万は振り返り、

「あぁ。薩摩に帰る支度をしておりました。」

そう言うので斉宣は慌てて駆け寄り、

「何故ですか!父は、もう帰らぬと言っております。なので母上も・・・。」

と言うとお千万は微笑み、

「これは、わたくしの意思なのです。」

そう言うと斉宣は顔を上げてお千万を見ると、

「意思・・・?」

そう呟いた。するとお千万は続けて、

「わたくしは、薩摩に戻りたいのです。あの美しい桜島を、もう一度見てみたい・・・。」

そう言うのを聞いて斉宣は、こう言った。

「ならば、わたくしも。」

するとお千万は首を振り、

「それはいけませぬ。あなたには、大事な使命があるのですから。」

と言うので斉宣は寂しそうに、

「母上・・・。」

と呟いた。するとお千万は手のひらを斉宣の頬にあて、

「あなたは父上に似て、心が太い子です。なので、何も心配いりませぬ。」

そう言うのを、黙って斉宣も見ていた。お千万は涙を堪えながら続け、

「わたくしは、薩摩から一生かけてあなたを見守り続けます。それでも負けそうな時は、遠慮なく帰って来なされ!」

と言うのを聞き、斉宣も言った。

「母上・・・、はい!」

それを聞いたお千万は斉宣を抱きしめ、泣いていた。斉宣もお千万の背中に手を回し、暫く背中を撫でていたのだった。

茂姫の部屋には、宇多が来ていた。茂姫の話を聞いた宇多は、

「そうでございますか・・・。」

そう言うと茂姫は、

「あぁ。」

と、答えた。すると宇多は、

「わかりました。ここには、もう参りませぬ。それでは、失礼致します。」

そう言うと頭を下げ、立ち上がって部屋を出て行こうとした。すると茂姫は、

「待つがよい。」

そう言って呼び止めた。茂姫は、

「この間、大切なお方を守る為なら、人をも殺す覚悟であるというておったが、それはまことなのか?」

と聞くと、宇多は振り向いてこう答えた。

「それは、嘘でございます。失礼致しました。」

宇多はそう言って一礼すると、

「ただ・・・、公方様にお仕えしたいというのはまことにございます。」

そう言い、宇多はまた向きを変えて部屋を出て行った。茂姫は、それを不満そうに見送っていたのであった。

その夜、茂姫は自室に座っていると笛の音が聞こえてきた。茂姫はそれを聞いて立ち上がると、縁側の前に立ち、遠くを見るように音が聞こえる方を見た。すると向こうの宴が行われた広場で、家斉が笛を吹いていた。茂姫は、それを少し笑いながら見ていたのだった。



次回予告

茂姫「父上が言っておられたことは、間違いではなかった・・・。」

重豪「登城せよ。」

斉宣「異国から学ぶべきです!」

錦峯「異国は皆、敵じゃ!」

定信「御台様の、弟君とはな。」

家斉「面白そうじゃ。」

斉宣「わたくしは、このままでは駄目だと存じます。」

錦峯「薩摩も、終わりじゃな。」

茂姫「わたくしは、変わりました。」

斉宣「姉上・・・?」

茂姫「教えて下さい。何故、人の心には憎しみが生まれるのか。」




次回 第九回「弟の登城」 どうぞ、ご期待下さい!

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