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第七回 二人の夜

茂姫『わたくしには、わたくしの誇りがございます。』

家斉『誇りじゃと?』

茂姫『わたくしは、その誇りを持って御台所としての役割を果たして参ります。たとえそれが宿命であろうとも、わたくしはあなた様の手足となり、あなた様をお支え致します。そしてあなたと共に、生きとうございます。』

この時は、茂姫はまだ一七でした。なお、御台所を薩摩藩から迎え入れるのは、徳川家始まって前代未聞のことでした。それまでは、主に京の公家から迎え入れていたのです。

お富『公坊様とそなたの婚礼が過ぎても、わたくしは一切認めぬ。それを分かっておくことじゃ。』

お万『わたくしのお腹の中に、お子がおります。』

茂姫へと、次々に降り掛かる試練。茂姫はどう乗り越えるのか。



第七回 二人の夜


茂姫はいつものように、教育を受けていた。しかし、茂姫はいつも以上に上の空だった。すると教育係の常磐が不思議に思い、

「姫様?どうなされましたか?」

と聞くと茂姫は気づき、

「あぁ、何でもない。」

そう言って返すと常磐は、

「はぁ。」

と言って、また書を音読し始めた。すると、茂姫はそれを聞かずにあの時の事を思い出した。

『わたくしのお腹の中に、お子がおります。』

茂姫は思い出しているとまた常磐が、

「姫様。」

と注意すると茂姫は、

「あぁ、すまぬ。」

そう言って、目の前の書物に目を戻していた。それを、常磐は不思議そうな目で見ていた。

薩摩藩邸では、広間で斉宣が上座に着き、島津家に仕える多くの役人達が集まってきていた。斉宣の傍らの座に着いていた重豪は、皆にこう言った。

「於篤の、輿入れの日取りが決まったそうじゃ。養子縁組には、京、近衛家御当主・近衛経煕様にご協力頂いておる。皆、心して己の役割にあたるように。」

それを聞いて役人達は一斉に、

「はぁっ!!」

と言って、頭を下げると立ち上がって部屋を出て行った。残った重豪も斉宣を見ると、

「そなたも、もうすぐ公方様と義理の間柄となる。それを、よう胸にとめておくのじゃ。」

そう言うのを聞いた斉宣は、

「分かっております。」

と、重豪を見つめて言った。それを見て重豪も、嬉しそうに頷いていた。すると隣から、

「あの。」

そういう女性の声が聞こえた。それは、お登勢であった。重豪は振り向くと、お登勢は心配そうな顔で言った。

「徳川家は代々、将軍御台所は京の名門より迎え入れていたとお聞きました。されど、あの子は島津の出です故、色々と苦労するのでは・・・。」

すると重豪は、こう言った。

「案ずるな。近衛家の養子として嫁ぐのじゃ。養子縁組の話も、順調に進んでおる故な。」

「しかし・・・。」

お登勢はそう言っていると、

「大丈夫ですよ。」

そう言ったのは、何と斉宣であった。斉宣は続けて、

「姉上は、強い方故、どんな困難であろうとも必ず乗り越えられますよ。わたくしも、姉上に何度も救われましたから・・・。」

そう言うので、重豪もお登勢にこう言った。

「その通りじゃ。於篤なら、大丈夫じゃ。」

重豪が安心させるように言うので、お登勢も笑顔を取り戻して頷き、

「はい!」

そう言って斉宣を見ると、斉宣もお登勢を見つめていた。

婚礼の準備が整う中、徳川家斉はまた縁側に肘を付いて横たわっていた。すると、

「公方様。」

という声がかかった。家斉はそのまま振り向くと、松平まつだいら定信さだのぶが座っていた。それを見た家斉は起き上がり、

「何じゃ?」

と聞くと、定信はこう答えた。

「婚礼の儀の日取りが、来月に決まりましてございます。」

それを聞いた家斉は、

「そうか・・・。」

と言って、また横になっていた。それを、定信もずっと見つめていたのだった。

浄岸院(そして、婚礼の日の前夜。)

部屋で、茂姫は侍女のひさと話をしていた。

「間もなくでございますね。姫様、おめでとうございます。」

ひさはそう言って頭を下げると、茂姫は言った。

「のぅ、ひさ。わたくしは、まことに家斉様のお子を生めるのであろうか。」

するとひさは茂姫を見ると、

「心配いりませぬ。姫様はきっと、元気な子をお生みになります。」

そう言うので茂姫は少し笑い、

「側室に先を越されるのが、これほどまでに応えるとは・・・、思わなんだ。」

と言うのを聞いてひさは、

「姫様・・・。」

そう言って、茂姫を見つめていた。すると茂姫は振り切ったように、

「されどわたくしは、徳川家をお支えする家斉様に、少しでも力になりたい。それが、わたくしのまことの役目であると、信じておるのじゃ。」

そう言うのを聞いたひさは頷き、

「はい。」

と、答えていた。茂姫は、開いている襖から空を眺めていた。

その夜、茂姫は布団に横たわりながら色々な事を思い出していた。

於篤『何故、この世界には!男と女がいるのですか!』

重豪『そなたの戦場は、城にある。』

茂姫『私は、よき妻に慣れるのでしょうか。』

重豪『そなたは、強い子じゃ。必ずや、若様の支えとなれるであろう。』

家治『そなたが、あの者を幸せにするのじゃ・・・。』

家斉『知らぬうちに、わしはそなたを、好きになっておったのかもしれぬ。』

茂姫『わたくしはあなた様の手足となり、あなた様をお支え致します。そしてあなたと共に、生きとうございます。』

そして茂姫は微笑みながら、眼を閉じていた。

浄岸院(そしてついに、この日が来たのでございます。)

薩摩藩邸でも、重豪が一室に皆を集めていた。

「ついにこの日が来た。近衛経煕様が父親役を引き受けて下さる以上、於篤は公家の身分で徳川家に嫁ぐことになる。決して、島津家からではない。そのことを、よう心得ておくように。」

そう言うと役人達は、

「はぁっ!」

と言って、頭を下げていた。その様子を、重豪の傍らでお登勢も見ていた。

そして同じく薩摩藩邸の別の部屋では、斉宣が老中達数人の前に座っていた。

「今日の婚儀にあたり、姉上のことは全てそち達に任せる。」

斉宣がそう言うと老中の松平まつだいら信明のぶあきらが、

「はっ、お任せ下され。」

そう言い、続けてその横の松平まつだいら乗完のりさだがこう言った。

「婚儀の支度は、順調に進んでおります。」

それを聞いて斉宣は頷き、

「島津家にとって、異例のことじゃ。心してかからねばならぬ。頼んだぞ。」

と言うと二人は、

「はっ!!」

そう言い、頭を下げていた。そのすぐ後ろで、牧野まきの貞長さだながも黙ってそれを見ていた。

その頃、茂姫は化粧をして白い衣装に身を包んでいた。自室の上座に座っているとひさが、

「姫様・・・、お綺麗でございます。」

と言っていた。それを聞いても茂姫が無表情でいると常磐が、

「それでは、参りましょう。」

そう言って促すと、茂姫は何も言わずに静かに立ち上がった。そして常磐に誘導され、廊下を歩いて行った。それに、ひさ達も従った。

広間につくと、茂姫は上座の傍らに座った。そこには、お富や側室も同席していた。暫くしてから、女中の声が部屋中に響き渡った。

「上様、お成りにございます!!」

それを聞いて、茂姫や皆は一斉に頭を下げた。そして、部屋に家斉が入って来た。そして辺りを軽く見渡すと、上座に着いたのだった。すると老中の松平定信が部屋の中央に出て来て、一礼した。そして、

「公方様、姫様。本日は、まことにおめでとうございます。お二方がよきめおととなられますよう、心よりお喜び申し上げます。」

そう言うとまた一礼して、下座に下がっていった。それを、下座で大崎も見ていた。その後、酒を飲み交わす儀式が行われていた。

浄岸院(こうして、家斉様と茂姫の婚儀は無事に行われたのでございます。)

その後、一室では定信と重豪、そして家斉の実父・一橋ひとつばし治済はるなりが話していた。治済が、

「いやぁ、ついにこの日が来ましたなぁ。定信殿も、これで一段落ですなぁ。」

そう言うので定信が、

「いや。これは全て、お二人のお力添えがあってこそにございます。心から、お礼申し上げます。」

と言うのを聞いて重豪は、

「いやいや、そのような。」

そう笑顔で言っていた。すると定信が、

「ところで、姫君様には今日お城へ上がることは?」

そう聞くと重豪は、

「いや、特には・・・。」

と言っていると、廊下から女性の声が聞こえてきた。

「・・・なりませぬ!」

それを聞いて、三人は顔を見合わせた。すると襖が開き、

「父上!」

と言いながら、茂姫が入って来た。それを見た重豪が、

「於篤・・・!」

そう言って、茂姫を見つめた。すると治済が重豪の耳元で、

「良かったではありませぬか。」

と言うと重豪も笑って、

「はい。」

と、答えていたのだった。

その後、部屋で茂姫と重豪は二人だけで話をした。茂姫は、

「父上、ご無沙汰しております。」

そう言うと重豪も茂姫を見つめ、

「元気にしておったか。」

と聞くと茂姫も顔を上げて、

「はい!養子縁組のこと、父上が手を回して下さったこと、母上が文で教えて下さりました。有り難うございます。」

そう言い、また頭を下げた。すると重豪は、

「いやいや。わしは、島津家から徳川将軍家へ嫁ぐのはそなたが初めて故、公家の身分で嫁がせたかっただけじゃ。わしも、もう隠居の身故、あまり派手には動けん。」

そう言うと、茂姫は聞いた。

「では、今の島津本家ご当主は誰が・・・。」

そう言うのを聞いた重豪は笑顔で、

「そなたの弟、斉宣じゃ。」

と言うので、茂姫は言った。

「もしや、虎寿丸ですか?」

それを聞き、重豪は頷いてこう言った。

「あぁ、そうじゃ。」

すると茂姫も下を向いて、嬉しそうにした。そしてまた重豪を見ると、

「今は、どうしておりますか?」

そう言って聞くと重豪は、

「今は、蘭学に興味を持っておるようじゃ。」

と言うのを聞いて茂姫は、

「蘭学・・・、ですか?」

そう言うと、重豪はこう言った。

「されど、松平殿が蘭学や異国文化を嫌うておいで故、意見書を送るなどと言うておった。」

重豪の話を聞いていた茂姫は俯き、

「そうですか。わたくしは、また会いたい・・・。」

そう呟くと、重豪はこう言った。

「その内に、会える日が来るであろう。」

それを聞いた茂姫は顔を上げ、

「そうですね!」

と、言って笑っていたのだった。重豪もそれを見て、笑いながら頷いていた。

そして更にその後、ふくれたお腹を見て茂姫は、

「わぁ、大きくなりましたね。」

と言うと、お万がこう言った。

「この子は・・・、わたくしの子です。嬉しい一方で、不安もあります。公方様が、認めて下さるかどうか・・・。」

茂姫は少し怪訝そうに、

「それは・・・?」

と聞くと、お万はこう言うのだった。

「公方様は、御台様の子供しか喜ばないと思います。側室が生む子など、お家存続の道具に使われるだけでしょうから。」

それを聞いて茂姫は、

「そんなこと・・・、そんなことありませぬ。側室の子でも、家斉様の子です。」

と言うのを聞いてお万は嬉しそうに、

「はい。」

そう答えていたのだった。

その夜、白い着物を着た茂姫はひさに髪をといてもらっていた。すると茂姫の前にいた常磐が、

「今夜が初めてでございます故、呉々も公方様に粗相がございませぬよう、お気をつけ下さいませ。」

と言うと茂姫は、

「分かっておる。」

そう言って、立ち上がった。ひさも、それを少し心配そうに見上げていた。

薄暗い廊下を侍女に照らされながら、茂姫は歩いて行った。

そして寝室の前まで来て、足を止めた。寝室の奥には白い布団が二枚敷いてあった。そのすぐ横には、白い屏風があった。茂姫は、それらをまじまじと見つめていた。すると茂姫を連れてきた侍女の一人が、

「こちらでございます。」

と言い、部屋へ案内した。茂姫はゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。そして部屋の中を進んで行き、侍女が手をやった手前の布団に腰を下ろした。そして侍女は茂姫を残して引き返し、部屋の隅に控えるように座った。茂姫は、真剣な顔をして待っていたのだった。

暫くすると、寝室に鐘の音が響いた。茂姫は思わず顔を上げると女中が、

「公方様、お成りにございます!!」

と、声を張り上げた。すると白い浴衣のような着物を着た家斉が部屋の前まで来た。そして、奥に座っている茂姫を見た。茂姫も、家斉を見つめ返していた。家斉は無表情のまま、部屋に入って来た。そして茂姫を通り越して奥に敷いてあった布団に腰を下ろした。すると侍女が二人がかりで白い屏風を広げ、部屋の入口から二人を見えなくした。茂姫は、家斉を見続けていた。にも拘らず家斉は、気にせず欠伸をしていた。すると茂姫は、家斉に話しかけるのだった。

「あの・・・。」

「何じゃ。」

家斉は聞き返すと、茂姫はこう言った。

「家・・・。あ、上様。わたくしは、今日からあなた様の妻にございます。不束者でございますが、これから何卒、宜しゅうお願い申し上げます。」

それを、家斉は上の空で聞いていた。それを見た茂姫は、

「上様?」

と尋ねると家斉は茂姫を見て、

「それだけか?」

そう言うので茂姫は、

「あ、はい・・・。」

と言って、戸惑っていた。そして家斉が布団に入ろうとすると、茂姫が言った。

「あの。」

「何じゃ?」

家斉が聞くと茂姫は続けて、

「お万の方が、懐妊致しました。」

そう言うと家斉は人事のように、

「そうらしいのぅ。」

と言うと茂姫は、こう聞いた。

「上様は、どう思われますか?」

「何がじゃ。」

「側室の子でも、お喜びになられますか?」

茂姫のその言葉を聞いて家斉は、

「さぁのぅ・・・。子は皆、政の道具に過ぎぬからのぅ。」

そう言って、布団に入って横になろうとした。茂姫が、

「何故・・・、何故、そのようなことを仰せられるのですか!上様は、自分の子に愛情がおありではないのですか!?」

そう言うのを、家斉は眼を閉じて聞いていた。すると家斉は眼を閉じたまま、

「のぅ。何故、そなたがそのようなことを考える。」

と言った。それを聞いて茂姫が、

「えっ・・・?」

と言うと、家斉は身体を半分起こし、

「わしは、左様なことに興味はない。そなたも、側室の心配より、自らのことを気にかけた方がよい。」

そう言うと、また横になった。それを聞いて仕方なく茂姫も布団に入り、横になった。茂姫は横を向いて、眼を閉じている家斉を見つめた。そしてまた上を向き、

「父上・・・。」

と、呟いたのだった。

浄岸院(そして、数ヶ月が過ぎ・・・。)

城の一室では、お万が辛そうな顔で子を産んでいた。側には、侍女が数人寄り添っていた。

そして、お万は生んだばかりの子を抱いていた。茂姫はそれを見て、

「ほんに、今日は目出度い・・・。」

そう呟くと、お万は子を抱きながら言った。

「この子は、わたくしがこのお城へ上がった証にございます。この子が少しでも、よき家柄に嫁ぐことができるよう、祈っております。」

それを聞いた茂姫も微笑んで、

「そうですね。」

と言って、その赤子を見つめていた。

浄岸院(この赤子は女の子でひでと名付けられ、のちに茂姫が教育することになるとは、この時はまだ誰も知る由がございませんでした。)

茂姫はふと気が付いたように、お万を見て言った。

「そうじゃ。上様には、お見せになりましたか?」

それを聞いてお万は首を横に振り、

「いえ。生む少し前に話したのですが、赤子には会わぬと仰せでした。」

そう言うので、茂姫もそれを心配そうに見つめていた。するとお万は振り切ったように、

「きっと、公方様は子に興味がおありでないだけでございましょう。天下を支える将軍にとって、政の方が余程大事でございます故。」

そう言って立ち上がると、部屋を出て行こうとした。すると茂姫は呼び止めるように後ろから、

「それは、興味がないのではなく、怖がっておいでなのでは?」

そう言うとお万は振り返り、

「それは違うと思います。ただ・・・、あのお方が何を考えておいでか分からぬのです。」

と言い、前を向くとお万は子を抱いたまま廊下を歩いて行った。それを、茂姫は心配そうにただ見つめていたのだった。

「お万の子に会えじゃと?」

その夜、茂姫は家斉に酒を注いでいた。家斉が聞くと茂姫は続けて、

「はい。家斉様は、赤子に会うのを怖がっておいでなのではないかと思います。」

そう言うので家斉はふっと笑い、

「何を言うか。このわしが、赤子と会うのを怖がるなど・・・。」

と言い、酒を飲み干した。すると茂姫は、こう言った。

「では、何故ですか?」

すると家斉は、

「必要がないからじゃ。」

そう言うのを聞き、茂姫はこう言うのだった。

「されど、子を儲けるのもあなた様の大事な御役目にございます。それ故、是非会って欲しいのです。お万の方も、喜ぶと思います。」

それを聞いた家斉は自分で酒を注ぎながら、

「されど、お万が生んだ子は女子であろう?何故、わしが女子に会わねばならぬ。」

と言って、酒を飲み干した。すると茂姫は、

「だからこそです。淑も、いずれは他家の方と婚約し、嫁いで行くでしょう。そうなれば、もう会えなくなってしまいます。それでもよいのですか?」

そう言うと家斉は、

「うるさいのぉ。そなたは、さっきから何が言いたいのじゃ!」

と言うので、茂姫はこう言った。

「ならば、逆にお聞きしますが、まことに女子だから会わぬと仰せなのですか?赤子が怖い故に、会いたがらないのではないのですか!?」

茂姫がそう言うと家斉は、

「えぇい、もうわしに構うな!」

と言い、杯を茂姫に投げ付けたのだった。それに驚き、茂姫は黙った。そして家斉は立ち上がり、廊下の前に立つと振り向かずに言った。

「わしは、できるならば将軍になどなりとうはなかった・・・。」

「えっ・・・。」

茂姫はそう言って家斉を見ると家斉は続けて、

「将軍になっても、何も楽しいことなどない。しかし、上からのお達しは断われぬ。あの日から、わしの人生は狂ってしもうたのじゃ・・・。」

そう言うと、部屋を出て行った。茂姫は、それを涙を浮べながら見送っていたのだった。

一方、お富は部屋で活け花をしていた。すると不意に手を止めると、

「そうじゃ。お万に子ができたと聞く。御台所の様子は如何に。」

そう言うのを聞いて常磐は、

「はい。御台様は、ひどく感激なさっておいでだとか。」

と言うのを聞いてお富は、

「そうか・・・。あぁ見えて、肝が据わっておるからのぉ。」

そう呟いた。そして止まっていた手を再び動かし、

「それにしても・・・、これから、面白くなりそうじゃ。」

と言うとニヤッとして、活け花を続けていた。

そしてある日、重豪がまた城へ足を運んでいた。一室で重豪と定信が話していると、重豪は聞いた。

「公方様の、側室が子を産んだですと?」

すると定信は頷き、

「はい。それが、御台様との婚礼以前に、懐妊されていたようなのです。それを、御台様も御存知だったのではないかと。」

そう言うのを聞いた重豪が驚いた表情で、

「何と・・・!」

と言っていると定信は続けて、

「しかしこれはきわめて異例なことで、城内では批判の声も少なくありません。」

と言うのを聞き、重豪は下を向いて考えていた。すると定信が、

「もう一つ気掛かりなのが・・・。」

そう言うので、重豪は不意に顔を上げた。そして定信は続け、

「御台様にございます。」

と言うので重豪は、

「於篤・・・。」

そう呟いていたのだった。

一方、茂姫は部屋で座って庭を眺めていた。すると、

「於篤!」

と、声がかかった。茂姫はその声に反応し、振り向くと少し向こうに重豪が立っていた。

「父上・・・!」

茂姫は驚いたように呟き、重豪を見つめていた。

その後、茂姫は重豪と話をしていた。ひさがお茶を置きにきて、すぐに下がっていった。茂姫は、

「今日は、どうしたのですか?」

と聞くと重豪が、

「ちと、松平殿に呼ばれてのぉ。」

そう答えた。すると重豪は本題に入ろうとして、

「のぉ、於篤・・・。」

そう言いかけて、こう言った。

「いや、於篤は幼き頃の名であったな。」

「よいのです。」

茂姫は言うと重豪は、

「いやいや。今は、茂姫じゃな。これからは、茂と呼ぶことにしよう。」

と言うのだった。そして重豪は、続けてこう話した。

「ところで、茂。いきなりこのような話をするべきではないが、公方様の側室が子を産んだそうじゃな。そなたは、婚礼よりも前に存じておったのか?」

それを聞いた茂姫は少し俯き、

「・・・はい。」

そう言うのを聞いて重豪は訝し気に見ると、

「何か・・・、あったのか?」

と言うと、茂姫は全てを話そうと顔を上げて重豪を見たのだった。

茂姫から話を聞くと重豪は、

「そうか・・・。公方様がのぅ・・・。」

と言っていると茂姫はとても不安気に、

「わたくしは・・・、どうすればよいのでしょうか。」

そう言うと重豪は、こう聞いた。

「公方様が、まことに将軍になりたくなかったと仰せられたのか?」

それを聞いて茂姫は、頷いた。

「わたくしは・・・、あのお方の支えとなりたいと思うておりました。されど、家斉様の妻になっても、時々どうしたらよいか分からなくなってしまいます。」

茂姫がそう言うのを聞いて、重豪はこう言った。

「そなたが、何故あのお方に嫁ぐことになったのか知っておるか?徳川吉宗様の養女で、わしの義理の祖母上にあたるお方、浄岸院様が死の間際にこう申された。“いつか、そなたの娘を徳川家縁の家柄に嫁がせて欲しい”と。わしはそのご遺言を守り、そなたを一橋家に嫁がせようとした。」

それを聞いた茂姫は、

「それであの時・・・。」

と呟くと重豪が、

「どうしたのじゃ?」

そう聞くので、茂姫はこう答えた。

「不思議なことが起ったのです。恐らくそのお方の霊がわたくしの目の前に現れ、“己の信ずる道を行け”と・・・。」

「そのようなことが・・・。」

「されどわたくしは、あの方に何をしてさし上げたらよいのか・・・、分からぬのです・・・。」

涙を浮べながらそう話す茂姫に、重豪はこう言うのだった。

「大丈夫じゃ。大事なのは、そなたがあの方の理解者となる事じゃ。」

「理解者・・・。」

茂姫は涙を浮べながら、重豪を見た。重豪は続けて、

「まずはそなたが相手のお気持ちを理解し、接することで相手もそなたの気持ちに触れることができるであろう。」

そう言うので茂姫に笑顔が戻り、

「・・・はい!」

と言い、重豪を見つめた。重豪も嬉しそうに、茂姫を見つめていたのであった。

茂姫はその後、お万の部屋に行った。すると、茂姫は目を疑ったような表情になった。何と家斉が、赤子を抱きながら、

「可愛いのぉ。」

そう言っていた。その隣で、お万も笑っていた。するとお万は人の気配に気づき、振り向いた。それを見た茂姫は、一瞬たじろぎ、お万を見つめていた。お万も、茂姫を見つめ返していた。すると家斉が、

「どうした?」

と聞いて振り向くと、茂姫を見て顔から笑みが消え、そのまま見つめ続けていた。

その後、家斉と茂姫は部屋で二人きりで話をした。茂姫は、

「わたくしは・・・、家斉様に謝らねばなりません。わたくしは、ちゃんとあなた様のお心を理科しておりませんでした。お許し下さいませ。」

そう言うと家斉も、

「わしとて、そなたがわしを思うて言うてくれておったのに・・・、許せ。」

と言うのを聞いた茂姫は、

「いえ、それは・・・。」

そう言い、茂姫は姿勢を正してこう言った。

「家斉様・・・。いえ、上様。」

「何じゃ?」

家一斉はそう聞くと、茂姫は続けて言った。

「わたくしは、覚悟を決めました。どんな事があっても、上様をお守り致します。なので、何でもお一人で抱え込まずに、話して頂きたいのです。」

それを聞いて家斉も笑い、

「あぁ。」

と言うので、茂姫も安心したように笑った。その後、暫く二人で笑い合っていたのだった。

その頃、お万はお楽の部屋に来ていた。

「御台様が羨ましゅうございます。あのように、公方様と和気藹々と。」

お万が微笑んでそう言っていると、お楽はお万に背を向けて庭を見つめたまま、こう言った。

「わたくしは、理解出来ませぬ。何故、そのように笑うていられるのか。」

「何故とは、どういう意味で?」

お楽は振り返り、

「わたくしがお万様の立場であれば、御台様に自分の子を見せたりは致しませぬ。」

そう言って立ち上がり、部屋へ入るとお万はこう聞いた。

「何故、お楽殿は御台様が嫌なのですか?」

するとお楽は、

「あの方は所詮、島津家の出です。それならば、様々なご教養があるお方だと思っておりました。なのに、側室に“共に子供を産もう”など、前触もなしに勝手に部屋を訪れるなど、非常識すぎます。公方様はあれ程までに純粋なお方なのに、御台様によって心まで変えられるかもしれません。もしそうなれば、わたくしはこれから先もずっと、御台様を憎みます。」

そう座りながら言うと、お万はこう言った。

「なんだか、似ておりますね。お富様と。」

「そうですか?」

お楽は嘲笑うような笑みで、そう言った。お万は、

「御台様も、純粋な心をお持ちですよ。」

そう言うのでお楽は、

「どこかですか?全然違います。」

と言うのを、お万はどこか気にした表情でお楽を見つめていたのだった。

一方、松平定信と牧野貞長が一室で話していた。

「意見書?」

牧野が聞くと定信は、

「はい。異国の学問を、禁じないで欲しいと。島津本家の当主からにございます。」

そう言うので牧野はふと思い出したように、

「ならば、重豪殿の・・・?」

と聞くと定信は、こう言うのだった。

「異国は、日本の敵だ。たとえ薩摩の藩主からでも、異学は禁じねばなりませぬ。」

定信はそう言い、意見書を握り潰していた。それを、牧野も感心した表情で見つめていたのだった。

そして薩摩藩邸でも、その話が届いたのであった。重豪が部屋に斉宣を呼び、こう言った。

「松平殿はもう直、公に異学を禁じられるそうじゃ。」

すると斉宣は少し黙り、

「あのお方が許せません。異国から学問を取入れることによって、分かることがあるのです!」

そうとだけ言うと立ち上がり、部屋を出て行った。部屋の前にいた母・お千万ちまを通り過ぎても、気づくことはなかった。重豪は傍らに座っていたお登勢に、

「そなたも、もう御台所の母じゃな。」

そう言うのでお登勢も、

「あ、はい。」

と、答えていた。それを部屋の前で聞いていたお千万は、考えたような表情をしていた。

その夜、茂姫は布団の上で家斉と向き合っていた。茂姫は家斉を見つめ、

「わたくしは・・・、此度のことで思いました。わたくしも、早く上様のお子を授かりたい。それがわたくしにとって、まずはしなければならないことでございます。」

そう言うので家斉は、

「そなたが生む子供は・・・、そなたみたいに我が儘なのであろうなぁ。」

と言っていると、茂姫は思わず笑い出した。家斉も、それを見て笑っていた。すると家斉は、不意に笑っていた茂姫の顔を触った。すると茂姫は笑うのをやめ、驚いた表情で家斉を見つめた。

「上様・・・。」

茂姫がそう言うと、家斉はこう言った。

「そなたが、わしの御台でよかった。」

そして、家斉は茂姫を抱き寄せたのだった。茂姫は最初は驚きつつも、次第に笑顔に変っていった。家斉も、穏やかな表情だった。

浄岸院(その日やっと、家斉様と心を一つにした茂姫でございました。)



次回予告

茂姫「宴・・・、でございますか?」

お万「旗本の娘です。」

宇多「宇多と申します。」

ひさ「気になって、おられるのですか?」

お富「あの娘は、心に毒を持っておる。」

斉宣「母上!」

お千万「わたくしは・・・。」

重豪「鎖国は・・・、いつまで続くかのぉ。」

宇多「あのお方が、好きになりました。」

茂姫「あの者を、側室にはしないで下さいませ!!」

宇多「わたくしは、大切な人の為なら人をも殺す覚悟でおります!」




次回 第八回「美醜の歌姫」 どうぞ、ご期待下さい!

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