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第五回 田沼の乱

茂姫『家斉様!』

常磐『公方様には、ご側室がおられます。』

お万『私も、上様と話す内に、上様のことが好きになっていたのかもしれません。』

茂姫『好き・・・?』

側室。それは、正室となる者にとって必ず直面する問題でした。その問題を、茂姫は乗り切ることができるのでしょうか。

お富『そなたは、私の腹心に見張らせておる。』

茂姫『腹心・・・。』

お富『そなたが何か不審な行動をとれば、たちまちその腹心によって私のもとへ伝えられる。』

お楽『すべては、自分の子を次の将軍にするのみ。』

茂姫の戦いは、もう始まっていたのです。



第五回 田沼の乱


茂姫の目の前には、お菓子が置かれていた。茂姫は、

「これは?」

と尋ねると、お万がこう言った。

「はい。父の実家より取り寄せたものにございます。この間の、お返しにと思いまして。」

「そんな・・・。」

茂姫も少し嬉しそうに、そう言っていた。お万は、

「そういえば、老中にお成り遊ばした松平定信様は、八代将軍・吉宗様のお孫様でいらっしゃいますね。」

と言い、話を変えるのだった。それを聞いた茂姫はお万を見て、

「そうなのですか?」

そう聞くとお万は、

「ご存じなかったのですか?」

と言うので茂姫は少し焦ったように、

「あ、いや・・・。」

そう濁していた。それを見ていたお万は続け、

「前の老中の頭、田沼様を陥れたのも、松平様と伺っております。そのうち、田沼様の反乱が起きるかもしれませんね。」

そう言うので茂姫は怪訝な顔をし、

「え?」

と言うとお万は、

「嘘です。」

そう言った。それを聞いて、茂姫の表情は少しばかり穏やかになった。お万は続けて、

「噂というものは、あてにはなりませぬ故。」

そう言うので茂姫も、安堵したように頷いた。

お万が帰った後、茂姫はいつものように縁側に座り、呟いていた。

「松平殿か・・・。どのようなお方なのであろう?」

それを、後ろでひさも見ていた。茂姫はふと思い付いたように、

「あっ・・・、そうじゃ!」

と、少し上を見ながら言うのだった。

家斉が、

「そなたに会いたい?」

と聞くと、松平定信まつだいらさだのぶはこう答えた。

「はっ。姫君様より、文が参りました。」

それを聞いた家斉は、

「あの姫は、好奇心が強い故な。そなたの考えを、姫に教えてやるがよい。」

と言うので定信は、

「はっ。」

そう言い、頭を下げていた。

その後、定信は茂姫の前に平伏していた。茂姫が微笑みながら、

「あなたが、松平定信殿ですね。表を上げられよ。」

と言うと、定信はゆっくりと顔を上げたのだった。定信は、

「この度は、姫君様には御機嫌麗しゅう、わたくしごときをこのような所にお呼び頂き、誠に有り難き幸せに存じます。」

そう言い、再び頭を下げてまた上げた。茂姫はそんな定信に、

「お話は、よく耳にいたします。聞いていた通り、とても丁寧なお方ですね。」

そう言うと定信は、

「いえ、そのようなことは。」

と言うので、茂姫は思わず笑い出した。それを、定信も少し不思議そうな目で見ていた。茂姫は、

「あ、失礼しました。松平殿は、八代将軍・吉宗公のお孫様であると伺いました。そして、吉宗様の改革を参考に、政を行うとのお考えのことも。」

そう言うので定信は、

「はい。私は、田沼様のような政は行わず、常にこの国の民のことを最優先に考えて居ります。」

と言うのを聞き、茂姫は聞いた。

「その、失礼な事をお聞きしますが、田沼殿が失脚させられたのは、松平殿が老中に良くない噂を流させたからというのはまことでしょうか?」

それを聞いた定信は、

「決してそのようなことはございません。」

と言うと茂姫は、

「では、田沼政権に賄賂を贈っていたということも?」

そう言うのを聞いて定信は、

「滅相もございません。」

と言うのを聞いて、茂姫は安心したような表情になって言った。

「そうですよね。あなた様の様なお方が、そのようなことをなさるはずがありませんね。誰がそのような噂を・・・。」

茂姫の言葉を聞いて定信は、こう言うのだった。

「批判や、わたくしを嫌いな者達による流言に耐えるのも、わたくしの務めの一つであると心得ております。」

定信の言葉に、茂姫は感服したようにこう言った。

「ほんに、ご立派なお方ですね。今後のご活躍、期待いたしております。」

それを聞いて定信は、

「はっ。」

と言い、頭を下げていた。すると茂姫は、

「ところで、今家斉様はどうしておられますか?」

そう言うので定信は、顔を上げた。

「公坊様にございますか?」

定信は聞くと、茂姫は言った。

「わたくしは以前、あのお方に自分に似ている者は嫌いだと言われました。」

「姫様と公坊様は、似ておられるのですか?」

定信が聞くと茂姫は、

「わたくしは、そのようなことを言われるとは思ってもいませんでした。夫婦めおとになってからも、わたくしは家斉様のお役に立てるのかどうか・・・。」

そう言ってると、定信はこう言った。

「姫様なら、大丈夫にございましょう。」

「えっ?」

茂姫はそう言って、定信を見た。定信は続けて、

「本日、お話ししていて分かりました。姫様は、強き心を持っておられます。」

そう言うので茂姫は、

「強き心・・・?」

と言って繰り返すと定信も、

「はい。」

そう言って、頷いた。茂姫は、

「他の人たちからも、よく言われます。されど、自分ではそのように思ったことはないのです。」

そう言っていると定信は、こう言うのであった。

「ご自分では、お気づきではないのでしょう。されど、いつかは気づくはずです。公坊様の糧に・・・、お成り遊ばしませ。」

「糧・・・?」

と言うと、定信は言うのだった。

「糧とは、食糧のこと。それは、人々にとって最も大切なものにございます。公方様にとって、一番の存在になって下さいませ。」

それを聞いて茂姫は少し俯き、恥ずかしそうに言った。

「家斉様の、糧・・・。いい例えですね。」

茂姫は顔を上げると、定信を見た。そして定信に、

「今日は、お話しできてよかった。また、お会いしとうございます。」

そう言うと定信も改めて手をつき、

「そのように思って下さり、わたくしとしても光栄にございます。」

と言うのを、茂姫も笑顔で見つめていたのであった。

その夕方、家斉は縁側に肘を付いて横たわっていた。

「どうであった?姫は。」

家斉が聞くと、後ろに控えていた定信は言った。

「また会いたいとのことにございました。」

「そうか。」

家斉は、そうとだけ言うと黙ってその姿勢のまま書を広げて読んでいた。すると定信は、

「公方様。」

と声をかけると家斉は、

「何じゃ?」

と答えると、定信はこう言った。

「田沼意次様のことにございますが。」

「田沼がどうしたのじゃ。」

「何やら、不穏な動きがあるとの話を小耳に挟みました。他の老中達も,何か企んでいるのではないかと噂しております。」

「またつまらぬ噂じゃ・・・。」

家斉は体を起こすと、こう言うのだった。

「近頃,噂ばかりじゃのぉ・・・。」

浄岸院(その後、大奥にもその話がもたらされたのでございます。)

茂姫が、

「田沼殿の反乱?」

と聞くと目の前にいた大崎おおさきが、

「はい。」

そう答えるのだった。茂姫は、

「されど、田沼様が老中達から賄賂を受け取っていたというのは、事実であろう?」

と聞くと大崎は、こう答えたのだった。

「松平様は、政に加わるために、田沼様に賄賂を贈っておられました。それ故、田沼様は松平様を恨み、反乱を起こそうとしているのではないでしょうか。」

それを聞いて茂姫は、

「自分に賄賂を贈ってきた者が、今は幕府にいるというのが気に食わぬというのか・・・。」

と呟き、大崎にこう聞いた。

「それならば、松平殿は何故賄賂を贈ってまで、老中になりたかったのじゃ?」

すると、大崎はこう言うのだった。

「一〇代将軍・家治公が健在だった時、松平様を次の将軍にとの話がございました。」

それを聞いて茂姫は、

「松平殿を、将軍に?」

と聞くと大崎は続けて、

「はい。されど、その話を田沼様が一方的に拒んだためなくなり、そのことで松平様は田沼様をたいそう恨んでおられたようにございます。それ故、ご自分も幕府に入り、直接田沼様を陥れるつもりだったのでしょう。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「それで、賄賂を・・・。」

と呟き、ふと疑問に思ったように大崎を見るとこう聞いた。

「何故そのようなことまで、そなたが知っておるのじゃ?」

すると、大崎はこう言った。

「老中の方からお聞きしました。まことがどうかは、分かり兼ねますが。」

それを聞いた茂姫は、

「そうか・・・。」

と言い、遠くを見つめていた。

その夜、田沼邸では田沼意次たぬまおきつぐが茶を点てていた。すると部屋に、二人の男が入って来た。それを感じると、田沼は顔を上げた。入って来たのは、どちらも田沼の家臣であった。家臣の一人・潮田由膳しおたよしゆきが、

「田沼様。決行はいつにいたしましょう。」

と聞くと田沼は、

「まだよい。あの者の様子を見てからな。」

そう言うともう一人の家臣の三好方庸みよしまさつねが、

「松平はやはり、予想しているのでしょうか。」

と言うと、田沼はこう言うのだった。

「あぁ、恐らくな。再び、あの者を幕府から引きずり降ろすのじゃ!」

すると家臣の二人は、

「ははぁっ!」

と言って、頭を下げるのであった。そして田沼は、ニヤリとしていた。

浄岸院(そして、数日の月日が流れました。)

茂姫の部屋には、いくつもの打掛(着物)が干されていた。茂姫は、

「これは・・・?」

と聞くと、大崎は答えた。

「姫様が婚礼の際に召される、お打掛にございます。この中から、お好きなものをお選び下さいませ。」

それを聞いて茂姫は嬉しそうに、

「これが・・・。」

と言って呟き、着物と着物の間を歩いていた。すると、

「あの~・・・。」

と声がかかり、茂姫は振り向くとひさが気まずそうな顔をして立っていた。それを見た大崎が、

「どうした?」

そう聞くと、ひさはこう言った。

「姫様に、お客人が・・・。」

「わたくしに?」

茂姫も、不思議そうな顔をした。すると、そこに現れたのは家斉の側室・おたのであった。大崎はそれを見ると思わず、

「お楽。」

と、声を上げた。茂姫もお楽を見つめていると、お楽は頭を下げるのだった。

その後、茂姫はお楽と一室にて話をした。ひさが、茶を両者の手前に置いて出て行った。茂姫が、

「話は聞いております。以前わたくしが送った文は、もう読まれましたか?」

そう言うと、お楽がこう言った。

「わたくしは、姫様ほど強きお方を他に知りませぬ。側室がいる中で、何の躊躇いもなく、このように優しく接して下さるなど。」

それを聞いて茂姫は、こう言った。

「その躊躇いは・・・、とうに捨てました。」

「捨てた?」

お楽が聞くと茂姫は、

「以前、わたくしは側室にどう接してよいか分からず、悩んでいました。けど、お万の方と話をしているうちに、段々と悩んでいた自分が恥ずかしゅうなったのです。それ故、わたくしは側室に対して同等に接する大切さを学びました。そなたも、家斉様のお子を元気に生んで下され。」

そう言うのを聞き、お楽は御辞儀をするように頷いた。するとお楽は遠くを見つめながら、

「あれは、姫様が婚儀にお召しになられるものですか?」

そう尋ね、茂姫もお楽の視線を追って振り向くと、向こうの部屋にはにはいくつもの打掛が干されていた。それを見た茂姫は嬉しそうな顔をして、

「そうです。あれだけあると、どれにしようか迷ってしまう。」

と言うのを聞いたお楽は、こう言った。

「羨ましゅうございます。」

すると茂姫はお楽に向き直ると、

「よかったら、お好きなものを、一着如何じゃ?」

と言うのを聞き、お楽はこう言った。

「いえ、結構にございます。わたくしはこれで。」

お楽はそう言うとお辞儀をして立ち上がると、部屋を出て行った。茂姫も笑顔のまま、それを見送っていた。

その後、茂姫は縁側に出ていた。すると侍女が来て、こう言うのだった。

「申し上げます!公方様が、姫様をお呼びでございます。」

それを聞いて驚いた茂姫は振り返り、頭を下げたまま言う侍女を見つめていた。

家斉は、茂姫にこう言った。

「今日はそなたに、見せたいものがある。」

「見せたいもの?」

茂姫がそう聞くと、家斉は立ち上がり部屋に飾ってあった刀を持ってきた。茂姫はその刀を見ると、

「これは?」

そう家斉に聞くと、家斉は再び茂姫の前に座り、こう言うのだった。

「これは、一橋家にあった刀じゃ。父上のものであったが、わしがこの城へ上がる時に持ち込んだものじゃ。」

それを聞いた茂姫は驚いたように、

「宜しいのですか?そのようなことをして。」

と言うと家斉は、

「父上は、この刀を大切にしておられなんだ。終いには、捨てるとまで言い出した。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「それで・・・。」

と言いながら、まじまじとその刀を見つめていた。すると家斉が、茂姫にこう言うのだった。

「そなたも持ってみぬか?」

「いえ、そんな・・・。」

茂姫が断わろうとすると家斉が、

「良いではないか、ほれ。」

と言って刀を持ち上げると、茂姫に手渡した。茂姫の両手は一瞬にして、畳についた。茂姫は辛そうな顔をして、

「重うございます・・・。」

と言うと家斉は仕方なさそうに、

「そうか。」

そう言って刀をまた持ち上げると、元の場所に戻した。すると家斉は再び立ち上がると、

「ならば、これはどうじゃ。」

と言って、樹でできた刀を持ってきた。茂姫はそれを見ると、

「樹でございますか?」

そう聞くと、家斉はこう答えた。

「あぁ、樹齢千年のな。」

「千年!?」

茂姫は、思わず声を上げた。家斉はそれを茂姫に渡し、

「これを、そなたの守神にするがよい。」

と、言うのだった。

「守神・・・。」

茂姫はそう呟き、家斉を見つめると家斉はこう言った。

「昔、女子も戦に加わりたいと、そう申しておったであろう。」

「あれは・・・。」

茂姫はそう言って戸惑っていると、家斉はこう言った。

「好きに使うがよい。」

家斉がそうとだけ言うと、立ち上がって部屋を出て行ってしまった。その場に一人になった茂姫は、

「馬鹿にしておるのか・・・?」

と、呟いていた。そして茂姫は、庭を眺めた。すると、外が騒がしくなってきた。茂姫が、怪訝そうな顔で外の様子を伺っていると、

「松平は何処じゃー!!」

そう叫ぶ声が聞こえた。すると一人の男が、茂姫のいる部屋へと向かってきた。その男は部屋の前に来ると、

「姫様!大勢の大衆が、城に侵入いたしました!」

そう伝えにきたのは、奏者番の牧野まきの新次郎しんじろうであった。茂姫は、

「それはまことか、新次郎。」

と言うと新次郎も頷き、

「はい。どうか、安全な場所へ。」

そう言うのを、茂姫は樹の刀を持ったまま見つめていたのだった。

その頃、松平定信は暗い部屋で書状を読むと顔を上げ、

「やはり来たか・・・。」

と、呟いていたのだった。

茂姫は新次郎に連れられ、廊下を歩いていた。すると、少し言ったところで老中達が大衆と揉めていた。その老中は、鳥居とりい忠意ただおき牧野まきの貞長さだながであった。忠意が、

「お前達をこれ以上通すわけにはいかぬ。早よう城から立ち去るのじゃ。」

と言うと、その中の先頭にいた深谷ふかや市郎右衛門いちろうえもんが、

「松平を出すまで、帰るわけには参らぬ。あの者め、田沼様の政治を“賄賂政治”じゃと散々罵った上に、自分が賄賂を贈って幕閣入りを狙った挙げ句、老中の水野忠友に田沼様を陥れるような噂を流させたのじゃ。それを、わかっておられるのか!?」

そう言うのを聞いた忠意は、

「何・・・?」

と言い、一緒にいた貞長と見つめ合った。その様子を、少し離れたところから茂姫も新次郎と共に見ていた。するとそこへ通りかかった家斉が、

「何をしておる!」

と、声をかけた。すると深谷が、

「これは、公方様ではございませぬか。松平殿は、何処におられますか?」

そう言って、家斉に近付いた。それを見て貞長が、

「お逃げ下さいませ、公方様!」

と言うと、家斉は逃げずにこう聞いた。

「もし、わしが教えぬと言うたら、そなた達はどうする?」

それを、茂姫も目を凝らして見ていた。すると深谷が、こう言うのだった。

「そうなれば、こちらにも手がございます。」

その手には、もう既に刀が握られていた。それを見ると家斉が、

「わしを、斬ると申すか。」

そう言った。それを見て忠意は深谷に、

「貴様、そのような事をしてみよ。どうなるか分かっておろうな!」

と言うと深谷は落ち着き払って、

「無論、無事で済むなどとは思っておりませぬ故、ご安心を。」

そう言うと、深谷は指を弾くと刀が見え、光を反射させた。それを見て茂姫は、

「家斉様!」

と言って、咄嗟に飛び出した。新次郎は、

「姫様!」

と声をかけて止めようとするが、茂姫の足は止まらずに家斉の所まで走って行った。茂姫は家斉からもらった樹の刀を深谷の方へ向けると、

「家斉様、お逃げ下さい。」

そう言うのだった。それを見た深谷が、

「これはこれは、威勢のよいお姫様にございますなぁ。」

と言って、笑った。他の者達も、笑っていた。家斉は茂姫を見て、予想外な顔をしてこう言った。

「そなた・・・。」

すると、茂姫は家斉にこう言うのだった。

「私が、家斉様の代りになります!」

その時、

「見つけたぞ!」

と言って、大人数の役人達が乱入してきた。皆は刀を抜き、役人のもとへと走って行った。それを見て家斉は茂姫の手を握り、

「参るぞ!」

と言うと、手を引いて向こうに走り出した。安全な場所まで来ると、家斉は茂姫にこう聞いた。

「何故、あのようなことをしたのじゃ?」

茂姫はそれを聞き、こう答えた。

「わたくしにも、あなたをお守りする義務がございます。あなた様をお守りしたいのです!」

「そうか・・・。」

家斉はそう言うと、それを聞いて表情を緩める茂姫に平手打ちをした。茂姫は驚いた様子で、家斉の顔を見た。咄嗟に、茂姫は母のお登勢に平手打ちをされたときのことを思い出した。家斉は茂姫を見つめ、

「何の為に、その刀を渡したと思うておるのじゃ。自分を守るためではないのか。わしのことなどよい!」

と言うのを聞いて茂姫は目に涙を浮かべながら、

「しかし、わたくしは・・・。」

そう言って言葉を詰まらせると、家斉は茂姫に背を向けてこう言った。

「すまぬかったな。されどそれは、あのような使い方をするものではない。しかし、そなたにあのような勇気があったとはな。」

家斉はそう言って振り向くと茂姫に対して微笑み、前を向くとそのまま歩いていった。それを、茂姫は刀を握りしめながら見つめていたのだった。

その日、夕日が差しこむ部屋で茂姫は一人、その樹で創られた刀の矛先を庭に向け、立ちすくんでいた。

『そなたの戦場は、城にある。』

『夫を支え、子を作ることじゃ。それこそが、女子の戦と言うもの。』

『そなたが、あの者を幸せにするのじゃ・・・。』

あの言葉を思い出し、茂姫の目はひた向きな目へと変わっていた。

次の日、茂姫は家斉に刀を差し出し、

「これは、お返しいたします。」

そう言った。それを聞いて家斉は、

「今日はそれだけか?」

と尋ねるので茂姫は、

「あ、はい。」

そう答え、立ち上がろうとすると家斉が、

「そうじゃ。それならば、その刀をそなたの部屋に飾るがよい。」

と言い、茂姫が以前手にした本物の刀を首で示した。茂姫は戸惑ったように、

「されど、これは一橋様のでは・・・。」

と言っていると、家斉がこう言うのだった。

「そなたにもらって欲しいのじゃ。」

それを聞いて茂姫は、

「あなた様は、わたくしの事をどう思っておられるのですか?」

そう聞くと家斉は、

「どうとは?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「わたくしは、あなた様の本当のお気持ちを知りたいのです。昨日の一件から、思うたのです。わたくしに、家斉様を守れるのかと・・・。あなた様との間に、お子を生めるのかと・・・。」

それを聞いていた家斉は、

「ほんに、面白き奴じゃ。」

そう言うので茂姫は、

「そればかりですね。」

と言うと、家斉は余計に笑うのだった。そして家斉は立ち上がり、縁側の方に近付き、こう言った。

「初めて会うた時、このような勝手気ままな娘が自分の嫁となるかと思うておったが、今回の事で考えが変わってきたのじゃ。いつそうなったのかは知らぬが・・・。」

家斉は振り向いて、茂姫を見つめると続けてこう言った。

「知らぬうちに、わしはそなたを、好きになっておったのかもしれぬ。」

「えっ・・・。」

茂姫はそれを聞いてそう声を漏らすと、家斉は部屋を後にした。その後、茂姫は急に恥ずかしくなり、顔を少し赤らめて俯くのだった。

一方、薩摩藩邸では重豪と息子の斉宣なりのぶが向かい合って話をしていた。重豪は書状を読み終えると、こう言った。

「田沼殿の家臣達が、江戸城へ侵入し、公方様に斬り付けようとしたそうじゃ。」

それを聞いて斉宣は驚いたような顔で、

「公方様は、ご無事だったのですか?」

と聞くと重豪は、

「あぁ。松平殿の、今後のまつりごとに影響せぬとよいが・・・。」

そう言っているのを、後ろでお登勢も不安そうに見つめていた。

そして、一七八八(天明八)年六月二四日。田沼意次は布団の上に座って書状のようなものを読み、

「すべて貴様のせいじゃ、定信!」

と、叫んで果てていた。

浄岸院(天明八年六月二四日、田沼殿は病によりこの世を去ったのでございました。)

茂姫とひさは、庭先に聳え立つ桜の木を見つめていた。今は、緑の葉をつけている。茂姫が眺めているとひさが、

「田沼様が亡くなり、側近の方達や此度の一件に関った方達も全て捕えられたそうにございます。」

そう言うのを聞き、茂姫は呟くようにしてこう言った。

「田沼殿は・・・、まことに松平殿を斬るために反乱を起こしたのであろうか・・・。」

「はい?」

ひさが聞くと茂姫が、

「あ、いや。」

そう言いながら、首を横に振るのだった。すると、

「姫様~!!」

と言いながら、常磐が走ってきた。常磐が茂姫の隣まで来ると茂姫が、

「どうかしたのか?」

そう聞くと、常磐がこう言った。

「姫様の・・・、お打掛が・・・。」

「打掛?」

茂姫も、そう聞いていた。

茂姫が自分の部屋に行くと、掛かっていた殆どの打掛がはさみか何かで切られていたのだった。茂姫は、

「誰が、このような事を・・・?」

そう言って、打掛を手に取って見つめていた。すると、

「お楽にございます。」

という声が聞こえたので、茂姫は顔を上げると部屋にお万が入って来た。茂姫はお万に、

「どういう意味じゃ?」

そう聞くと、お万がこう答えた。

「わたくしは先程、姫様のお部屋にお楽が入って行くのを見ました。」

それを聞いた茂姫は、

「だからと言って、お楽がやったとは限らぬではないか。」

と言うのに対し、お万はこう言うのだった。

「あの者は、お富様の腹心にございます。」

「奥方様の・・・。」

茂姫は、そう呟いた。お万は続けて、

「あの者がやったとすれば、恐らくはお富様から命じられたのでございます。それにお楽は・・・、お富様の言う事しか聞きませぬ故。」

そう言うので茂姫は驚いたように、

「奥方様の、言う事しか聞かぬじゃと?」

と言った。常磐が不安そうに、

「姫様。」

そう声をかけると茂姫は、

「お楽に会って、確かめる。」

と言うと、部屋を飛び出した。それを見た常磐は、

「姫様!」

そう言い、茂姫を追っていった。ひさも、それを心配そうに見ていた。お万も、表情一つ変えずにそれを見つめていたのだった。

お楽は縁側にて、読書をしていた。そこへ茂姫がゆっくりと歩いて来て、

「お楽・・・。」

と言うとお楽は茂姫を見て、

「姫様・・・?」

そう言うのだった。茂姫は、

「何故、あのような事を?」

と聞くとお楽は、

「何の話ですか?」

そう聞き返してきたので、茂姫は、

「わたくしの部屋の打掛が、斬られておったのじゃ。」

そう言うとお楽はほんを閉じて立ち上がり、溜息を吐くとこう言った。

「誰に聞いたのかは存じませぬが、わたくしではございません。」

そしてお楽は茂姫の方を振り向くと続けて、

「わたくしは、あなた様が嫌いにございます。側室と正室は、どちらが生んだ子を次のお世継ぎにするかどうかといった、敵同士なのです。それなのに、“一緒にお子を儲けよう”なんて、よく仰せになれますね。わたくしは、自分の子を次の将軍にする為に公方様の側室となったのです。それを、ようお解りになって下さいませ。」

そう言うので茂姫が、

「しかし・・・。」

と言いかけるとお楽はそれを聞かずに、

「失礼致します。」

そう言って頭を下げて、部屋に入って行った。それを、茂姫は仕方なく見つめていた。

その後、茂姫は部屋で一人、母からの御守を握りしめていた。

「母上・・・、わたくしは一体、これからどうしたらよいのでしょうか・・・。」

茂姫そう呟いて暫く泣いていると、光が射して来た。すると庭の方に、人の気配がしたように感じられたので、茂姫は振り返って思わずこう言った。

「誰じゃ?」

すると、返事が返って来た。

「於篤よ・・・。」

そう言いながら、浄岸院の霊が近付いて来た。茂姫は立ち上がると、

「於篤・・・。もしや、島津家の方ですか?」

そう聞くと浄岸院は、こう言うのだった。

「迷いを捨て、そなたの信ずる道を行くのじゃ。」

「されど、わたくしは・・・。」

茂姫がそう言って躊躇っていると、浄岸院は言った。

「案ずるな。そなたがここにおるのは、他でもない、わたくしの遺言故じゃ。されど、わかっておる。そなたは何事にも負けぬと。誰が何と言おうと、まっすぐに歩いていけるとな。」

浄岸院の霊は向きを変えて背を向けると、天へ昇っていこうとした。茂姫が咄嗟に、

「お待ち下さい!」

と言った時には、光が消え、何もなかった。茂姫は、暫く空を見上げていた。

浄岸院(その、翌月。重豪殿は、今日へ足を運んでおりました。)

重豪が部屋で待っていると、部屋に近衛家当主の近衛このえ経煕つねひろが入って来た。経煕は上座に着くと、こう言った。

「三年前、父が亡くなりましたので、十一代将軍御台所とお成り遊ばす姫様は、私の養女となります。宜しいかな?」

それを聞いた重豪は少し頭を下げ、

「はぁっ。」

と言った。重豪は顔を上げると、

「して、ご準備の方は?」

そう聞くと、経煕は部屋の隅に控えている役人二人に合図を送った。すると天井にかけてあった布が降ろされ、いくつもの嫁入り道具が姿を現した。重豪はそれを見ると、

「おぉ・・・!」

と声を上げ、経煕が笑みを浮べながら、顔を覗かせるように重豪を見つめ、

「どうですかな?」

そう聞くと重豪は、

「有り難き存じ上げまする!」

と言い、深々と頭を下げていた。

その頃、茂姫の前には畳んだ打掛が箱に入れられておかれていた。ひさが嬉しそうに、

「一つ、無事なのがあってようございましたね!」

と言うのを聞き、茂姫は何も言わずに打掛を眺めていた。それを不思議思った常盤が、顔を覗かせて茂姫の様子を伺っていた。同じく、お万も茂姫をその場で見ていた。常磐が、

「姫様?」

と声をかけると、茂姫はこう呟いた。

「何故皆、争うのであろう?」

「はい?」

常磐が聞いた。するとお万は、こう言うのだった。

「人にはそれぞれ、価値観というものがございます。」

「価値観・・・。」

茂姫は、そう繰り返した。お万は続けて、

「しかし、それは違っているからこそ素晴しいのです。もし皆、価値観が同じならば、争いは起りません。されど、皆が同じ考えを持っていては、物事が前に進みません。自分の道を切り開けるのは、自分だけなのですから。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「自分の道を、切り開く・・・?」

そう言って繰り返すとお万も頷いて、

「はい。」

と言った。茂姫は俯いたまままた、

「自分の道を・・・。」

そう呟いて、少し前を見ていた。

松平定信は、廊下を歩いていた。すると、ふと立ち止った。定信の目の前には、大崎が立っていた。大崎は御辞儀をすると、定信は黙ってそれを見ていた。

その後、二人は薄暗い部屋で話をしていた。大崎が、

「もう、やめませんか?」

と言うと、定信は答えた。

「大丈夫です。この事は誰にも言いません。あなたは、気にせず自分の仕事をこなして下さい。」

すると大崎は話を変え、

「田沼様の一件、他の老中達はあなた様にも非が会ったのではと。」

そう聞くと、定信はこう言った。

「噂など、あてになりません。誰が何を言おうと、わたくしは賄賂など送っておりませんから。」

それを聞いて大崎は安堵したように微笑み、

「はい・・・。」

と言い、定信の手を握りしめていた。

その頃、お富の部屋にお楽が来ていた。お富は、

「姫がそちの部屋に来たのか?」

そう聞くとお楽は頭を下げながら、

「はい。」

と答えるのだった。すると、お富がこう呟いた。

「あのような勝手気ままな薩摩の娘が、御台所など・・・。徳川家も、落ちぶれたものじゃのぉ。」

すると、

「ご安心下さい。」

とお楽は言って、顔を上げた。お楽は続けて、

「わたくしが、次のお世継ぎを生み、ちゃんとしたお家から嫁を連れて参ります。」

そう言うのでお富は笑い、

「期待しておるぞ。」

と言うとお楽は、

「お任せ下さいませ。」

そう言い、また頭を下げていた。お楽の目は、薄く笑っていた。

それと同じ頃、家斉と茂姫は互いに縁側に出て、空を眺めていたのだった。



次回予告

茂姫「わたくしには、わたくしの誇りがございます。」

お楽「御台様とお成り遊ばすお方にしては、決心が足りませぬかと。」

重豪「頑張るのじゃ。」

お登勢「わたくしは、あの子が心配でなりませぬ。」

お富「お万か・・・、恐るべし。」

水野忠友「田沼様の噂を流したのは、全てわたくしにございます!」

大崎「改革・・・、ですか?」

松平定信「わたくしは、誇りを持って行いとう存じます。」

茂姫「家斉様と・・・、共に生きとうございます。」

家斉「宿命ではない。運命なのじゃ。」




次回 第六回「姫の恋」 どうぞ、ご期待下さい!

そろそろネタがつきてきたので、行き当たりばったりでは書けないようになってきてしまいました。

どうしよう・・・。

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