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最終回 うるわしき日々

最終回 うるわしき日々


一八三九(天保一〇)年一二月。茂姫は、縁側から庭の花々を眺めていた。庭中には、大きな落ち葉が散らばっていた。すると、

「失礼仕ります。」

と言う声が聞こえ、茂姫は振り向いていた。

茂姫は中に入り、

「そうか。中臈から年寄に・・・。」

と言うと、前にいた瀧山たきやまと名を改めたたきが、

「はい。公方様より、家祥様付を命じられました。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「わたくしは以前より、そなたは大奥を率いてゆく素質があるやもしれぬと思うておったが、どうやらその勘は、外れてはおらなんだようじゃ。」

と言うので瀧山は、

「いえ。わたくしにそのようなものはございませぬ。ただ・・・、わたくしは、色々な方々のお側にお仕えできるということだけで、今は幸せにございます。」

そう言った。それを聞いた茂姫は微笑して、

「わかっておる。その言葉だけ聴ければ、それでよい。」

と言うと瀧山は嬉しそうに、

「はい!」

そう答えていた。茂姫も、それを聞いて笑っていたのだった。

その後、茂姫はまた家斉の部屋に行った。家斉は隠居してから、一回り小さい部屋に移っていた。茂姫は、

「家慶様が将軍職をお継ぎになってから、もう二年以上経ちますね。」

と言うと家斉が足を組みながら、

「早いものじゃの。」

そう答えていた。茂姫は、

「時に、公方様のご様子は?」

と聞くと家斉は、

「将軍としての務めを全うすべく、やっておるようじゃ。」

そう言った。それを聞いた茂姫は少し安心したように、

「そうですか・・・。」

と言った。すると家斉が立ち上がり、

「表に、様子でも見に行くとするかの。」

そう言うのだった。それを聞いて茂姫は、

「さぞ、ご心配なのですね。」

と言うと家斉は、

「別に心配などしておらん。」

そう言った。茂姫はそれを聞き、立ち上がった。そして、家斉を支えた。家斉が、

「近頃、急に体が言うことをきかんようになったのぉ。」

そう言っていると茂姫も、

「仕方ありませぬ。」

と、答えていた。そこへ老中が小走りでやってきた。

「失礼致しまする!」

「何事じゃ。」

家斉はそう聞くと、その男はこう言った。

「御台様が。」

それを聞き、家斉と茂姫は見つめ合っていた。

その後、二人は廊下を走っていた。

部屋に着くと、喬子が布団に横になっていた。その隣には、家慶が付いている。二人は、家慶の反対側に座った。喬子が起き上がろうとすると、家慶は喬子の手を握り、背中を支えた。茂姫が、

「御台様・・・。」

と言うと喬子は笑顔を作って、

「心配いりませぬ。」

そう答えた。家斉は、

「この季節は、流行り病が多い。急いで、医師に薬を用意させよ。」

と、後ろに控えていた男に言った。男は、

「はっ。」

そう言い、部屋を後にした。それを見て喬子は、

「お気遣い、ありがとう存じます。されど、もう大丈夫にございます故。」

と言うと、家慶は言った。

「いや、今日はもう休んだ方がよい。少しでも休んで、力をつけるのじゃ。」

茂姫もそれを聞き、

「それが一番にございます。」

と言うので、喬子も素直に頷いた。そしてまた、喬子は横になっていた。それを、茂姫は心配そうに見つめていたのだった。

部屋に戻った茂姫は、仏壇の前で手を合わせ、ただひたすら祈っていたのであった。

一方、薩摩藩邸では斉宣が庭を散歩していた。すると縁側に斉興が来て、斉宣を呼んだ。

「父上!」

斉宣は振り向くと斉興が、

「また、そのようなところにおられるのですか?風邪を引きますよ。」

と言うので、斉宣は地面を見つめてこう言った。

「昔ここで、姉上と剣を振るったことがあってな。今、思い出しておった。」

『駄目じゃ、そのようなことでは。虎寿丸。』

二人の、無邪気な笑い声が蘇る。すると、斉興が庭に出てきてこう言った。

「ならば父上。わたくしと、一つお手合わせを。」

「そなたと?」

斉宣がそう言って、斉興を見つめた。斉興が笑い、

「また、やってみとうなりました。久方ぶりに、お願い致します。」

と言って頭を下げた。それを見て、斉宣も笑っていた。

斉宣と斉興は、その後竹刀を持って向かい合った。斉興が、

「では参ります。はぁっ!!」

と言う掛け声と共に、走り出した。斉宣も竹刀でそれを受け止め、交わした。それから両者一歩も譲らぬ戦いが続き、最後は斉興の剣先が斉宣の足にかすった。斉宣は倒れ込むと、

「いやぁ、強うなったな。」

と言いながら、立ち上がった。斉興も、

「いえいえ。昔だったら、父上にはとても敵いませんでした。」

そう、笑顔で言っていた。そこへ斉彬と薩摩藩士の広郷も来て斉彬が、

「何をしておられるのですか?わたくしも混ぜて下さい!」

と言い、走ってきた。それを見た二人も、笑っていたのだった。

その後、江戸城では・・・。老中・堀田ほった正睦まさよしが、

「財政改革、にございますか?」

と聞くと老中首座・水野みずの忠邦ただくにはこう言った。

「ここ数年、飢饉や反乱などが続いた。今、幕府に必要なのは幕政改革じゃ。」

「幕政改革・・・。」

忠邦は続け、こう言った。

「それと、わしは幕政基盤を確立するため、領地の開拓も必要であると考えておる。」

「開拓まで?」

「今、印旛沼に使者を送り、調査を行っておる。更に、今後一切は贅沢を慎み、倹約を推し進める。」

「それは・・・。」

堀田は、少し驚いたようだった。忠邦は、

「これで、世の中は少しずつよくなるであろう。」

と、言っていた。

それを知った茂姫が、

「倹約じゃと?」

と聞くと、花園はこう答えた。

「はい。大奥女中達は皆、反対の声を上げておりまする。」

それを聞いて茂姫も、

「国の財政を思うと、それも致し方なきことかもしれぬが、急に今までのような生活ができなくなるとなれば、皆が反対するのもわかる気がする。兎に角、その水野老中と話がしたい。急ぎ、この部屋に呼ぶのじゃ。」

と言うと花園も、

「承知仕りました。」

そう言い、頭を下げて部屋を出て行った。それを見ながら、茂姫は考えていた。

その後、茂姫の部屋に水野忠邦が呼ばれた。茂姫は、

「いつか・・・、二人で話がしたいと思うておりました。」

と言った。それを聞いて忠邦も、

「それは、有り難きお言葉にございます。」

そう言って少し頭を下げた。茂姫は続け、こう言った。

「それはさておき、幕政改革についてじゃ。」

「はっ。」

「その改革において、そなたの考えを詳しく聞かせてもらいたい。」

それを聞き、忠邦は言った。

「はっ。元老中・松平定信様が取り組まれた寛政改革に倣い、まず、安定した米の流通を一番に考えております。」

「安定した・・・。」

「はい。そのため、江戸にいる農作民は国許に帰郷させ、年貢を増加させるべく、安定した収入の確保を試みようと思います。」

「次は何じゃ。」

「はっ。わたくしが取り組もうとしているのは、やはり土地の開拓にございます。この国の発展を考えた時に、それは避けられませぬ故。様々な土地に調査に出向き、どのようなところか知った上で、整備し、開拓していこうと考えております。」

すると茂姫が、

「その費用のため、贅沢は粛正せよと・・・。」

と言うので、忠邦はこう言った。

「それだけではございません。今や、この国は異国の脅威に曝されております。今は、そのような場合ではないのでございます。」

「もしや、武器か・・・。」

「仰せの通り。いつでも、異国を迎え撃つため、多くの費用が必要となりまする。どうかそのこと、お解り下さいませ。」

それを聞いた茂姫は、

「倹約と言われても、それは仕方のないことじゃ。しかし、武器を作ったところで、この国は勝てると思うか?わたくしは、とてもそうは思えぬ。この国の誰もが、戦のない、平和な国を望んでおるはずじゃ。この大奥でさえ、皆平穏な暮らしが好きなのじゃ。」

そう言った。

「・・・と、申しますと?」

忠邦が聞くと、茂姫は言った。

「倹約は、大奥のみ埒外とせよ。」

それを見、忠邦は暫く黙ったのち、

「ははぁっ。」

と言い、頭を下げていた。それを聞き、茂姫も少し笑みを浮かべていたのだった。

夕方、喬子の部屋には家慶が来ていた。二人は扉を開け放し、部屋の中から庭を眺めた。家慶が、

「もう少ししたら、梅の花が咲き始めるの。」

と言うと布団の中にいた喬子は、

「わたくしはそれよりも、家慶さんと見た桜が忘れられませぬ。」

そう言うので、家慶は聞いた。

「京の方が、さぞ綺麗であろう。」

それを聞くと、喬子はこう言った。

「はい。京の桜は、幼いわたくしの心を何度も癒してくれました。どないな辛い思いをしても、それを見るだけで、心が安らいだのを、今でも思い出すことがあります。されど、江戸の桜もまた、心の汚れを洗い流してくれて、京とはまた違った美しさを見せてくれます。」

「そうであったか・・・。」

家慶はそう言い、愛おしそうに喬子を見つめた。喬子は続け、

「わたくしは、この江戸に来て、ほんによかったと思います。わたくしは、京の父も、江戸の父上様達も、両方好きになれました。勿論、家慶さんも。」

そう言うのを聞き、家慶は両手で喬子の手を握った。

「わしもそなたに出会えて、心の底からよかったと思うておる。」

それを聞いた喬子も、嬉しそうに右手で家慶の手を握り返した。家慶は喬子を見つめながら、

「これから先もずっと、わしの側におってくれるな?」

と聞くので、喬子の表情は固まった。そして暫くして、喬子は家慶の顔を見つめると、にっこりしてこう言った。

「勿論にございます、上様。」

家慶もそれを聞き、笑って更に強く喬子の手を握っていたのだった。

浄岸院(ところが・・・。)

一八四〇(天保一一)年一月一六日の晩。茂姫は、激しく廊下を走っていた。部屋に入ると同時に、

「御台様・・・!」

と言った。喬子が寝ている隣には、家慶も付いていた。茂姫は、家慶の隣に座ると、喬子を見つめた。そうすると隣にいた家慶が、

「母上。わたくしは・・・、怖くなって参りました。喬子と二度と会えなくなる時が来るなど、考えたこともありませんでした。」

と、声を震わせながら言った。茂姫はそれを聞き、

「公方様・・・。」

そう呟いた。家慶は続けて、

「わたくしは・・・、夫として、何ができたでしょうか。何をしてやれたでしょうか。」

と言うので、茂姫は小声でこう言った。

「何を仰います。あなたは、よくやってこられました。闇から、救い出して差し上げられたではありませぬか。喬子様も、ちゃんと知っておられますよ。」

それを聞いた家慶は涙を堪え、目を閉じ眠っている喬子を見つめた。すると、喬子の手が微かに動いた。それを見た家慶は咄嗟に、

「喬子!?」

と声をかけると、喬子は目を少し開けた。家慶が、

「わかるか?」

そう聞くと、喬子は言った。

「・・・、見えております・・・。」

それを聞くと、家慶は少し笑った。そして家慶は、喬子の手を取った。しかし、喬子の手には力は込もっていなかった。喬子が家慶を見つめ、少し微笑んで言った。

「約束・・・、守りとうございました・・・。どうか、お許しを・・・。」

それを聞くと家慶が、

「何を言うておる!」

と言った。それを見た喬子が、

「どんな時も・・・、そのように叱って下さるのは、あなた様だけです。」

そう言った。家慶はそれを聞き、堪えきれずに涙を流した。茂姫も、それを見つめていた。喬子は茂姫の存在にも気付き、

「母上様・・・。」

と言った。茂姫がそれを聞いて、

「はい。」

そう答えた。喬子は続けて、

「上様のこと・・・、お願い致します・・・。」

と言うので茂姫も涙を堪えながら、

「はい。」

と言って答えた。家慶は両手で喬子の手を強く握り、

「喬子・・・!」

そう言って、泣いていた。

「泣かんといて下さいませ・・・。わたくしは、笑顔で逝きとうございます・・・。」

それを聞くと、家慶はゆっくり顔を上げた。すると喬子は微笑み、

「笑うて下さい。」

と言うので、家慶は心を決め、笑顔を作った。それを見た喬子も優しい笑顔を見せ、安心したように笑みが消え、目を閉じた。それを見ると、家慶も笑顔を崩さぬように必死の表情のまま、涙だけを流していた。茂姫の目からも、無数の涙が溢れている。しかし喬子は、安らかな表情をしていたのであった。

数日経ち、茂姫は家斉の部屋に入りながら、こう言った。

「公方様は、今は表にも顔を出されぬようにございます。」

「それだけ、心に傷を負ったのであろう。」

家斉の言葉を聞きながら、茂姫は横に座った。茂姫は、

「公方様は、毎日のように看病されておいででした故に・・・。」

と言うと、家斉もこう言った。

「人の命は、脆いものじゃ。それ故、毎日を必死に生きようとする。皆、そうであろう。」

「そうかもしれませんね・・・。」

茂姫もそう言って、家斉を見つめた。家斉も茂姫の視線に気付き、わざと目線を逸らそうとするので、茂姫も思わず笑っていたのであった。

浄岸院(それから、一年近くの月日が流れ・・・。)

茂姫が、家慶と会っていた。茂姫は、

「あれから、間もなく一年・・・。ご気分は、どうですか?」

と聞くと、家慶は言った。

「だいぶ、落ち着いて参りました。ご心配をおかけ致しました。」

そう言うと、頭を下げた。茂姫が、

「それで、どうなのです?表の様子は。」

と聞くと家慶が困ったような表情になり、

「それが・・・、またあの者が・・・。」

そう言うので茂姫が、

「あの者?」

と、聞いていた。

それは、水野忠邦であった。忠邦が家慶に、

「今こそ、お世継ぎをお決めになる時にございます!」

と言うので、家慶は呆れたように言った。

「何度も申しておろう。世継ぎは家祥と決まっておる。」

すると忠邦が、

「まことに、それで宜しいのでございますか?あの者達は、一体何をしてくるか知れたものではありませんぞ!」

と言うのを聞き、家慶は困惑したような顔をしていた。

家慶がそう話し終えると、こう言った。

「わたくしが何が正解で、何が間違いかわかりませぬ。もうどうしてよいか・・・。」

それを聞いた茂姫は、

「家祥様は、あなたの大切な血の繋がったお子。それ故、重荷を背負わせたくないと思っているのでは?」

と言うので、家慶がこう答えた。

「それもわかりません。わたくしは、たまに自分でも何がしたいのかわからなくなる時があるのです。」

それを聞き、茂姫は言った。

「そうですか・・・。では、参りましょう。」

そして、立ち上がった。それを見て家慶が、

「あの、どちらへ行かれるのですか!?」

と聞いていた。

二人は、家斉の部屋に入った。茂姫は背を向けている家斉に、

「あの、失礼致します。」

と言うと、家斉は振り返った。この一年で、家斉の白髪は一気に増えていた。茂姫は部屋の中央にまで入ってきて、家慶を隣に座らせた。家慶は、気まずそうにしていた。茂姫は、

「上様、お話宜しゅうございましょうか。」

と言うと、茂姫は家慶を見た。家斉も家慶を見つめていると、家慶は更に気まずくなっていた。家慶は思い切って、

「あの、父上・・・。」

と言いかけると、家斉はこう言った。

「悩みがあるなら、己の心に問うてみよ。」

「己の、心・・・?」

家慶が繰り返すと家斉は立ち上がって、

「されど、世継ぎは家祥じゃ。それだけは、誰が何と言おうと変えられぬ。」

そう言うと、部屋を出て行こうとした。家慶も嬉しそうに振り返り、

「はい!」

と言っていた。茂姫も、嬉しそうにそれを見ていた。しかし、家斉が廊下に足を踏み入れた時、自分の体に異変を感じた。その瞬間、腰を落とし、その場に倒れこんだ。それを見て茂姫は真っ先に立ち上がり、

「上様!」

と言って、駆け寄った。次に、

「父上!」

そう言いながら、家慶も駆け寄ってきた。すると反対側の廊下から美代が来て、

「失礼致します・・・。」

と言うと、事態に気付き、

「公方様!!」

そう言い、駆け寄ってきた。それを見て茂姫が、

「早く医者を!」

と言うので美代は、

「はい。」

そう言い、向こうへ駆けて行った。茂姫と家慶は、家斉を支え続けていたのだった。

その後、家斉は布団に座っていた。侍医師の吉田よしだ成方院せいほういんは、

「ではわたくしはこれにて、失礼致しまする。」

と言い、頭を下げると茂姫が、

「ご苦労であった。」

そう言った。そして吉田は、部屋を去っていった。家慶が家斉に、

「大丈夫ですか、父上。」

と聞くと、家斉が答えた。

「すまぬ。」

茂姫は家斉に、

「今日は、暖かくしてお休み下さい。」

と言い、布団をかけた。家斉はそれを聞いて、横になった。

夕方、茂姫と家慶は廊下を歩いていた。

「父上が病にかかるなど、初めてではありませぬか?」

立ち止まって家慶が聞くと、茂姫は言った。

「もう歳も歳故、仕方ないのかもしれません。わたくしも、いつでも死ねる覚悟はできております。」

それを聞いた家慶は、

「もう、大切な方々を亡くすのは嫌にございます。辛うございます・・・。」

と言っていると茂姫は家慶の前に立ち、こう言った。

「生きていれば、必ず通らねばならぬ道がいくつもあります。それを越えてこそ、己の生き方を貫くことができる、わたくしはそう思うております。」

そして再び背を向けると、

「わたくしの父も、そうでございました。」

と言うのを聞いていた家慶が、

「母上・・・。」

そう言うと、笑っていこう言った。

「そうですね。」

茂姫も振り向くと、家慶は笑顔で見つめていた。それを見た茂姫も、笑って歩いて行ったのであった。

その後、茂姫は家斉の側室達を集めた。茂姫は側室達を前に、こう言った。

「皆も知っておる通り、上様は今、ご病気じゃ。それ故、一人ずつお見舞いに行かせようと思う。」

その居間には、以登、八重、お蝶、そして美代がいた。すると以登は、

「しかし、わたくしはここ暫く、お会いしておりませんし・・・。」

と言うと今度は八重も、

「わたくしもにございます。」

そう言った。お蝶でさえも、

「お見舞いは、大御台様お一人で十分にございましょう。」

と言っていた。それらを聞いた茂姫は、

「構わぬ。きっと、上様もそち達に会いたいはずじゃ。これはわたくしの案じゃ。わかってはくれぬか?」

そう言うのを聞き、側室達は顔を見合わせていた。それを、後ろから美代も見ていた。茂姫は続け、

「わたくし達で、上様のご回復を祈って参ろう。」

と言うので四人は、

「はい。」

そう言い、頭を下げたのであった。

その後、側室達は一人ずつ、家斉に目通りした。一人目は、以登だった。以登は、

「わたくしは、公方様との間に五人の子を産みましたが、それ以外には何もございませぬ。」

と言うと家斉は、

「何か、して欲しいことがあるのか?」

そう聞くと、以登はこう言った。

「いえ。ただ今は、あなた様のお顔を見られるというだけで、幸せにございます。」

それを聞き、家斉も笑みを浮かべていた。

二人目は、八重が来た。八重が、

「わたくしは、家斉様の側室となり、気付かされたことがあります。」

そう言うと家斉が、

「それは何じゃ。」

と聞くと、八重がこう言った。

「わたくしが好きでいられるのは、たったお一人であるということにございます。」

それを聞き、家斉は八重を見つめていた。

次は、お蝶が来た。お蝶が、こう言った。

「今思えば、もう四〇年以上になりますね。初めは御台様の教育係として、公方様のお母上様に呼ばれ、側室となったのです。」

「そうであったな。」

家斉もそう答えると、お蝶が続けた。

「でもわたくしは、後悔しておりませぬ。あなた様に尾仕えできたこと、一生の誇りにございます。」

すると家斉が、

「御台が羨ましく思わなかったか?」

と聞くのでお蝶は、

「初めのうちは、そんな気も起こりました。しかし今となっては、御台様と共に公方様をお支えしたいと、そう考えております。」

そう言うのを聞き、家斉はこう言った。

「あやつは、人がよいからの。」

それを聞き、お蝶も笑って家斉を見つめていたのだった。

最後は、美代だった。家斉は美代に、こう聞いた。

「そなた、あの時、何故来たのじゃ。」

それを聞き、美代はこう言った。

「それは・・・、公方様の、声が聞きたくて・・・。」

「まことのところは、どうなのじゃ。」

家斉が聞いてくるので、美代は言った。

「わたくしの娘は、前田家に嫁いでゆきました。」

「うむ。」

「その娘が生んだ子を、将軍にして頂きたいのです。」

家斉がそれを聞くと、

「それは・・・、そなたの父から言われたのか?」

と聞いた。すると美代は、

「いえ、これはわたくしの考えにございます。なので、父は悪くありません。」

そう言うのを聞いた家斉は暫く黙り、口を開いた。

「まぁ・・・、勇気がいることであったな。」

「はい・・・。」

「でも、それは難しい。世継ぎを決めるのは、家慶じゃ。しかも、実の子も既におる。」

家斉がそう言うので美代は、

「でも、伝えておきたかったのです。お許し下さいませ。」

と言うと、頭を下げた。家斉は、ただそれを見つめていたのだった。

その後、家斉は布団を出て茂姫と縁側で話していた。

「のぅ、御台。」

「はい。」

家斉は頭を茂姫の肩につけて、庭を見つめながらこう言った。

「人は、何故死ぬのであろうなぁ・・・。」

それを聞き、茂姫は少し悲しそうな顔をした。家斉は続け、

「死ねば、新しいものに生まれ変われるかのぉ・・・。もしかすると、そうして生と死を繰り返して、この世界は巡ってゆくのかもしれぬ。そう思えば、死など怖くない。」

そう言うのを、黙って茂姫は聞いていた。すると家斉は思い出したように、

「そうじゃ。」

と、体を起こすと懐から紙を取り出した。

「それは?」

茂姫が聞いた。すると家斉は、

「遺言じゃ。」

と答えた。それを聞いた茂姫は首を小さく振り、

「そのようなもの・・・、とても受け取れませぬ。」

そう言った。しかし家斉は、

「気にするでない。」

と言い、茂姫に紙を握らせた。そして家斉は、横になって茂姫の膝に頭を乗せた。

「上様・・・。」

茂姫は言うと、家斉は言った。

「御台・・・。そなたは、死んだら生まれ変われると思うか?」

それを聞き、茂姫は黙っていた。家斉は続けて、

「わしは、正直、どちらでもよい。たとえ生まれ変わったとしても、それは別の生き物じゃ。即ち、わしではない。それならばいっそのこと、生まれ変わらねばよい。さすれば、わしのままでおれるからの。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「上様・・・。」

と、呟いた。そして家斉も、

「この世の全ては・・・、不思議なことがいっぱいじゃのぉ・・・。」

そう呟いていた。

「一つ・・・、生まれ変わったとしたら・・・、もう一度御台に会いたいのぉ・・・。」

それを聞き、茂姫は目に涙を溜めていた。

「もう一度、御台に・・・。」

家斉はそう言って、何も言わなかった。茂姫は見ると、家斉は目を閉じていた。茂姫は、

「上様?上様!」

と声をかけても、返事はなかった。そして全てを悟った茂姫は、一人縁側で、家斉を抱えながら泣いていたのだった。一八四一(天保一二)年一月七日のことである。

浄岸院(家斉様がこの世を去ったのは、天保一二年一月七日。享年、六九にございました。)

その後、家斉は自室で寝かされていた。茂姫は顔にかかっている白い布をめくると、静かに眠りについている家斉の顔が現れた。それを見て、以登と八重は大泣きしていた。お蝶と美代も、黙って家斉を見つめていた。茂姫は、もう泣いてはいなかった。

その後、ある部屋では忠邦と堀田正睦が話していた。

「大御所様が、亡くなられたそうじゃ。」

忠邦がそう言った。それを聞いた堀田は、

「家斉様が亡くなられた今、この国はどう向かうのでしょう。」

と言っていると、忠邦は言った。

「この徳川家で一番権力を握っておられたお方が亡くなった今、例の改革も進めやすくなった。それと、公方様に早く世継ぎをお決め頂かねば。」

それを、堀田も不思議な目で見ていたのだった。

茂姫のところに、花園が来てこう言った。

「間もなく、ご落飾らくしょく(髪を下ろすこと)の儀が執り行われます。」

それを聞いた茂姫は無表情のまま、

「わかった。」

と、答えた。

その後、茂姫は部屋で家斉のことを思い出していた。

『ほんに、面白き奴じゃ。』

『知らぬうちに、わしはそなたを、好きになっておったのかもしれぬ。』

『己のしたことは、己で片をつける、そう感じておられるのであろう。君主は無論、名君に従うことになるがの。』

『薩摩のことは、もう気にしておらぬのか?』

『これもまた、定められし天命なのかもしれぬな。』

『たとえ生まれ変わったとしても、それは別の生き物じゃ。即ち、わしではない。それならばいっそのこと、生まれ変わらねばよい。さすれば、わしのままでおれるからの。』

『この世の全ては・・・、不思議なことがいっぱいじゃのぉ・・・。』

そして、再び茂姫はその場に伏せて、声を上げながら泣いていたのであった。

数日後、広間では茂姫の落飾の儀が執り行われていた。僧がお経を唱えながら、茂姫の髪を切ってゆく。茂姫は、真剣な表情で手を合わせていた。切る音が、部屋中に響いていたのだった。

部屋に戻り、茂姫は下ろした髪を身の回りの者に公開した。

浄岸院(その日から茂姫は、広大院こうだいいんと称されることになるのでございます。)

その後、茂姫の部屋には落飾した側室達も集まってきていた。茂姫はその一人一人を見つめ、こう言った。

「お以登が本輪院、お八重が皆春院、お蝶が速成院、そしてお美代が専行院か・・・。皆、それぞれの道を歩んでいくのじゃな。」

それを聞いて本輪院が、

「いえ、わたくし達はずっと共に。」

と言うと皆春院も笑顔で、

「これからも、広大院様と共に過ごしとうございます。」

と言った。それを聞いた茂姫は、

「わかっておる。」

そう答え、笑っていたのだった。

更にその後、茂姫は縁側に座って呟いた。

「この世の全ては・・・、心で繋がっておるのかもしれぬ。」

すると後ろにいたひさが、

「広大院様?」

と、心配そうに聞いた。茂姫は笑い、

「広大院・・・、か。また上様が愛おしく思えてならぬ。もう一度、お会いしたい。生まれ変わったら・・・、もう一度上様と心行くまで語り合いたい。」

そう言うのを、ひさも笑って見ていた。茂姫は上を見上げ、夕暮れへと変わろうとしている空を眺めていたのだった。

浄岸院(そして半年後・・・。)

茂姫は家慶の前に座りながら、こう言った。

「お世継ぎの件は、どうなっているのですか?」

それを聞いた家慶は下を向いて、

「あ、いや。まだ・・・。」

と言うので、茂姫は優しい表情で言った。

「ゆっくり、お決めになられませ。わたくしは、もう何も言いません。」

「はい・・・。」

家慶がそう答えると思い出したように、

「母上。そう言えば、父上からの遺書は?」

と聞くと、茂姫は立ち上がった。そして戸棚の前に座り、引き出しを開けた。そして中から『遺言書』と書かれた紙を取り出した。それを家慶の前に持っていくと、

「何度も読もうと思いましたが、まだ、受け入れられなくて・・・。」

そう言った。それを聞いて家慶も、

「そうですか・・・。」

と答えると、茂姫は言った。

「これは、あなたが先にお読みになるべきです。これをお読みになれば、誰も逆らえませぬ故。」

家慶はその遺書を受け取ると、

「わかりました。ありがとうございます。」

と言い、茂姫も安心したような顔をしていた。

その頃、薩摩藩邸にはこの男が来ていた。

「兄上!」

と言って部屋に入ったのは、昌高だった。布団に横になっていた斉宣は、身体を起こした。昌高は、

「兄上がご病気だと聞いたもので、いてもたってもいられず・・・。」

そう言うので斉宣は、

「すまぬな・・・。」

そう言っていた。それを聞いた昌高は、

「いえ。わたくしは兄上に何かあったら、いつどこにいても、すぐに飛んで参ります。」

と言うのを聞いて斉宣は笑い、と思ったら咳き込んだ。昌高はすぐに、斉宣の背中をさすった。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃ。」

斉宣はそう言うと、横になった。そして、こう呟いた。

「父上も・・・、このような心持ちであったのかの・・・。」

それを、昌高も見つめていたのだった。

浄岸院(しかしその一方では・・・。)

茂姫は驚いた表情で、

「前田家の子を、将軍にじゃと・・・?」

と聞くと、花園は言った。

「はい。遺言書によれば、一三代を家祥様とし、家祥様がご病弱なため、その次の将軍を前田家の利住としずみ様とすると。公方様も、混乱遊ばしておいでだとか。」

それを、茂姫の側にいた瀧山や速成院ら家斉側室も驚いて聞いていた。茂姫は、

「されど、信じられぬ。」

と言い、あの時を思い出した。

『世継ぎは家祥じゃ。それだけは、誰が何と言おうと変えられぬ。』

そして、茂姫は、真剣に考えていたのであった。

そして、忠邦と堀田も話し合っていた。堀田が、

「次の次の公方様を、前田家から養子に迎えるのでございますか!?」

と聞くと、忠邦が言った。

「また、あの中野一派の仕業に相違あるまい!これは、断じて許し難きこと。まさか、ここまでやってこようとは・・・。」

そして忠邦は横に控えていた者に、こう言った。

「すぐに、あの者達の周辺を調べ上げよ。怪しげなところあらば、漏らすことなくわしに伝えるのじゃ!」

それを聞いた奉行の矢部やべ定謙さだのり遠山とおやま景元かげもとは口を揃え、

「はっ!」

と言った。

浄岸院(その結果、家斉様の側室だったお美代の方が遺言書を偽造したとの疑いが浮上します。)

茂姫は遺言書を目の前に置き、

「専行院、これはどういうことじゃ。」

と、問うた。すると前にいた専行院が、

「それは・・・。」

そう言って言葉を濁していると、茂姫はこう言った。

「そなたが、上様の遺書を偽造し、それを上様がお書きになったものとすり替えた。無論、上様はそれをお知りにならずわたくしに渡した・・・。わたくしは、できればそなたを疑いたくはなかった。されど、まことのことを、話してくれぬか?」

それを聞いた専行院は、

「それは・・・、まことにございます。わたくしがやりました。この償いは、必ず致します。どのよう罰でも、受ける覚悟は初めからできております。」

と言った。それを、他の者達も驚きながら見ていた。そして茂姫も、

「それは・・・、己のためでやったと申すか。」

そう聞くと、専行院は言った。

「全て・・・、わたくしの意志でしたことにございます。」

「上様の遺書は、どうしたのじゃ。」

「・・・、焼き捨てました。」

専行院の言葉を聞いて、茂姫は尋ねた。

「それも・・・、そなたの意志か。」

「はい。なので、此度の件に関しては、父上様達は関係ありませぬ。どうか、どうかわたくしだけを!」

専行院がそう言って頭を下げると、茂姫は言った。

「わたくしは・・・、わたくしは、そなたを心から信じられる日が来ることを望んでおった。」

それを聞くと、専行院は顔を上げた。茂姫は泣きながら続けて、

「しかし、少しでもそう考えていたわたくしが愚かであった!」

と言うと立ち上がり、部屋を急ぐようにして出て行った。専行院の目にも、涙が溢れていた。速成院(お蝶)は、心配そうな顔になっていた。

茂姫が廊下を歩いていると、後ろから声が聞こえた。

「広大院様!」

茂姫は振り向くと、速成院が追ってきた。速成院は茂姫の前まで来て座ると、

「広大院様。お気持ちは、よくわかります。そして、お一人でお悩みを抱えておられるということも。」

そう言うので、黙って速成院を見つめていた茂姫も、その場に座った。速成院は続けて、

「何かお悩みがございましたら、わたくし達がいつでもお聞き致します。それくらいしか、しては差し上げられませぬが、どうかわたくし達をもっと以前のように、頼って下さいませ。」

そう言うのを聞いた茂姫は少し表情を和らげ、

「速成院・・・。」

と呟くと、速成院も頷いていた。茂姫は、内心とても嬉しそうであった。

浄岸院(しかしその後、水野老中による改革が開始され、寺社奉行に阿部あべ正弘まさひろを任命。そして、専行院の実の父親・日啓が住職の感応寺の取り壊しを命じたのです。更に、日啓は女犯の罪を着せられて捕らえられ・・・。)

日啓は寺が取り壊されているのを見て、

「どうか、おやめ下さい、おやめ下さい~!」

と叫んでいるのを、役人達に押さえられていた。

浄岸院(更には養父であり、家斉様の側近でもあった中野清茂は、登城を免ぜられた挙句、屋敷を取り上げられるという罰を受けたのです。)

清茂は破れた服を着て、暗い部屋に閉じこもっていた。そして座りながら、

「お美代よ・・・、すまぬ・・・。もはや、ここまでか・・・。」

と、呟いていたのだった。

浄岸院(そして、ついには専行院自身も押し込めの罰が下されました。)

専行院も、閉め切った暗い部屋に座り、ただ沈黙を守っていた。

茂姫は、その様子を瀧山から聞いた。

「お部屋にこもられ、次の罰が下るのを待っておられるそうにございます。」

「そうか・・・。あれだけの騒ぎを起こしたのじゃ、無理もない。」

瀧山の報告に、茂姫がそう言った。瀧山も、

「一三代は家祥様と決められ、一四代のお話はなかったことにされたと・・・。」

と答えるので茂姫は安心したように、

「そうか・・・。」

そう言うと、瀧山は言った。

「ですが、気になるのは・・・。」

「何じゃ。」

茂姫が聞くと瀧山が、

「前田家に嫁いだ、溶姫様にございます。此度の一件で、心苦しい日々を送っておられるのでしょうね・・・。」

そう言うので、茂姫は考え込んでいた。すると、

「そうじゃ・・・。」

と言い、立ち上がって庭の方を向いた。それを、瀧山は不思議そうな目で見た。茂姫は、何か思いついたような顔をしていたのだった。

ある日、専行院が部屋に座っていると、光が差した。すると専行院は、振り返った。そこに立っていたのは娘・溶姫やすひめであった。それを見た専行院は、

「溶・・・?」

と呟くと溶姫も、

「母上!」

そう言いながら、専行院の方に走ってきた。そして、二人は部屋の中で抱き合って泣いた。

「溶・・・、すまぬ・・・。」

専行院が言うと溶姫も泣きながら、

「母上、母上~・・・!」

と言い、専行院にしがみついていたのであった。

その頃、茂姫も仏壇の前で手を合わせながらこう言っていた。

「上様・・・。わたくしが、溶をこの城へ呼び戻したのは、間違いだったのでしょうか。しかし、わたくしは上様であればどう言われるのかを考え、そう致しました。そして・・・、わたくしは、上様の思いと共に生きて参ります。これからも共に、生きていきたいのでございます。」

茂姫は決意を固めたように、目を閉じ祈っていたのだった。

一方、薩摩藩邸では部屋に西日が差し込んでいた。それを浴びながら、斉宣は横になって上を見つめていた。その様子を、部屋の外から昌高も見つめていたのだった。

それから、江戸のある屋敷では遠山景元と矢部定謙が話を進めていた。

「これが、此度の改革で罰せられし者たちでござる。」

遠山が紙を広げながら言った。それを見ながら矢部も、

「粛正をし、資金を集め、武器を調達するという話も、進めさせねばなりませんな。」

と言うと、遠山はこう言った。

「しかし・・・、各地で一揆など起きねばよいのですが・・・。」

それを聞いた矢部も、

「そうでございますな・・・。」

と言って考えていると、遠山が言った。

「まぁ、それはその時の話。今考えるべきことは、今実行に移すのみ。」

それを聞いて矢部も、

「はい。」

と、答えていたのだった。

数日後、江戸城の表に多くの者達が集められた。忠邦が、

「このお方は、次のお世継ぎに定まった、家祥様でござる!」

と声を張り上げ言うと、

「ははぁっ!」

そう皆は頭を一斉に下げた。上座には、家祥が座っている。家祥は、無表情で前を見つめていた。

そして茂姫のところでは、ひさが文を差し出して言った。

「薩摩藩邸からでございます。」

それを聞くと茂姫は、

「薩摩藩邸から?」

と尋ねると、ひさはこう言った。

「はい。奥平様という方からだそうにございます。」

「昌高殿か・・・。」

茂姫はそう呟き、文を見つめていた。

その後、部屋に入って茂姫は文を読んだ。そこには、こう書かれてあった。

『姉上。ご無沙汰しております。この文は、江戸の薩摩藩邸より認めたものでございます。兄上が病に倒れ、わたくしが代わりに筆をとりました。今は兄上の代わりとして、斉興の擁護をしております。』

それを読むと茂姫は、

「斉宣殿が、病気・・・。」

と、呟いた。そして、続きを読んだ。

『そちらは、色々あって大変だったようですね。後から聞いた話ですが、それ以外にも多くの者が罰せられたようです。兄上もわたくしも、姉上がお心を痛めていないか、案じております。でもわたくしは、姉上は己ができることを全うできるお方だと思うのです。以前までも、そうであったと思います。なので、己に屈することなく、前を向いて下さいませ。わたくしから一つ、お願いにございます。』

それを読んでいた茂姫は、

「わたくしに、できること・・・。」

と呟き、顔を上げた。そしてもう一度、

「できること・・・。」

そう言うと、何か思いついたような顔になっていたのだった。

その夜、茂姫は密かに専行院と溶姫を呼び出した。茂姫は専行院を見つめ、こう言った。

「そなたのしたことは、無論何があっても許されぬことじゃ。」

すると専行院は下を向きながら、

「存じております。」

と言うと、今度は溶姫の顔を見てこう聞いた。

「そなたはどうじゃ?」

すると、溶姫はこう答えた。

「わたくしは、母上が罰を受けるなら、わたくしも同じ罰を受けまする。」

それを聞き、専行院は溶姫を見た。すると茂姫は、

「そうか・・・。」

と言い、二人を交互に見つめると言った。

「専行院・・・。」

「はい。」

「溶を連れて、この城を出るのじゃ。」

それを聞いた専行院は、驚いて茂姫を見つめた。茂姫は続けて、

「手配はもう既にしてある。身を寄せる家も、見つかった。」

そう言うので専行院が、

「まことに・・・、宜しいのですか?」

と聞くと、茂姫は微笑してこう言った。

「わたくしができることは、そのくらい故な。」

すると専行院は頭を下げながら、

「ありがとうございます!このご縁は、生涯忘れませぬ!」

と言うと、溶姫も続いて頭を下げた。茂姫は、

「さぁ、他の者に気付かれぬうちに、早う出て行くのじゃ。」

そう小声で言うと専行院は黙って立ち上がると、溶姫も続いて立ち上がった。そして二人は茂姫に軽く頭を下げ、身を返して部屋を出て行った。茂姫も、黙ってそれを見送っていたのであった。

薩摩藩邸では、斉宣がまた横になっていた。すると昌高が、文を持って走ってきた。

「兄上!」

斉宣も体を起こすと、昌高は文を渡してこう言った。

「姉上からです。どうか、お読み下さい。」

斉宣はそれを聞き、ゆっくりと紙を広げて読み始めた。暫くして、斉宣は目を疑ったような顔になった。

「帰郷を・・・、許す・・・?」

斉宣がそう呟くと昌高は笑顔で、

「ようやく、認められましたね。」

と言った。昌高は、

「さ、そうとわかれば、すぐにでも帰れます。わたくしが、お支え致します。どうか共に薩摩へ。」

そう言うのを聞き、斉宣はこう言った。

「いや・・・、駄目じゃ・・・。わたくしは、帰れぬ・・・。」

「兄上・・・?」

昌高は不思議そうな目で斉宣を見つめると、斉宣は茂姫と再会した時のことを思い出した。

『わたくしはあの時、あなたの気持ちをわかっておりませんでした。何故あなたが、あそこまでして藩を変えようとなさったのか。後で思えば、わたくしはあなたを傷つけるようなことを言ったと、己を悔いました。それ故、謝りたかったのです。』

「わたくしは・・・、姉上のお側から、離れられぬのじゃ・・・。」

斉宣がそう言うと、更に思い出した。

『次なる当主・斉興殿が万が一、藩の政を誤り、再びあのような騒ぎを引き起こしてしまったら、父上がなさったように、江戸から薩摩を鎮めて欲しいのです。』

『わたくしが、薩摩を鎮める?』

『それは、経験したあなたにしか出来ぬことです。』

『どうか・・・、どうか薩摩を、忘れないでいて下さいませ。』

そして斉宣は愛おしそうな顔をして、

「父上は・・・、冷たくしておられたのも、全てわたくしのためであった・・・。」

と言うのを、昌高も見つめていた。

『そなたが望むのは、薩摩で暮らす民全ての幸せであろう。ならば、何故家老達の幸せを奪うような真似をした。』

『わしのせいにしたければ、するがよい。』

そして斉宣は、こう続けた。

「薩摩に帰っても・・・、父上も、姉上もおらぬ。わし一人じゃ・・・。」

すると昌高が、

「わたくしがおります。」

そう言うのを聞くと斉宣は、微笑んだ。

「そうであったな・・・、昌高・・・。」

斉宣が言うと昌高も笑顔になり、

「はい。」

と答えた。するとまた、斉宣は咳き込んだ。それを昌高は支え、広郷も飛んできた。

「斉宣様!」

「大丈夫じゃ・・・。」

斉宣がそう言うと昌高を見つめ、

「薩摩を・・・、頼む。」

そう言うので、昌高はこう答えた。

「お任せ下さい、兄上。」

それを聞いて、斉宣は安心した表情を浮かべ、それを見て昌高も笑顔を保っていた。斉宣はその後、夕日に染まる庭を愛おしそうな目で見ていたのであった。

浄岸院(そして・・・。)

一八四一(天保一二)年暮。茂姫は縁側に出て、花を活けていた。するとひさが来て、

「あの、広大院様。」

と言うと茂姫が、

「何じゃ?」

そう尋ねた。するとひさは、こう言った。

「お客様が、お見えにございます。」

それを聞き、茂姫は手を止めるとひさを見つめた。

そして対面所に向かい、部屋に入ると上座に座った。茂姫が、

「広大院はわたくしじゃ。面を上げよ。」

そう言うと、伏せていた未亡人らしき女性はこう言った。

「恐れながら、わたくしは広大院様にお顔をお見せできるような者ではございません。」

すると茂姫は、

「その声・・・、まさか・・・。」

と言い、その女性の顔を覗き込むようにして言った。

「顔を見せてはもらえぬか?」

すると、その女性はゆっくりと顔を上げた。それを見ると茂姫は、真っ先にある人物の顔を思い出した。

「お宇多・・・。」

そう、それは家斉の側室であり、茂姫の一番の腹心でもあった、宇多だったのだ。茂姫は耐え切れずに立ち上がり、前に進み出て宇多の前に座った。

「そなた・・・、宇多ではないか?」

茂姫がそう聞くと、宇多が嬉しそうに言った。

「覚えていて下さったのですね。」

「勿論じゃ、宇多。」

茂姫は言うと宇多は、

「でもわたくしは、上様の死を知り、宝池院ほうちいんとなりました。」

そう言うので茂姫も、

「宝池院・・・。」

と、繰り返した。そして宇多は、

「またお会いできて、嬉しゅうございます。」

そう言うと茂姫も嬉しそうに、

「わたくしもじゃ。」

と言い、二人は笑い合っていた。

浄岸院(これは、実に凡そ二四年ぶりの再会でございました。)

その後、茂姫は宇多にこう聞いた。

「それで、今日参ったのは何故じゃ?」

すると宇多は、こう答えた。

「広大院様へ、言伝を預かって参りました。」

「言伝・・・?誰からじゃ?」

「薩摩藩前藩主の島津斉宣様のご長男・斉興様と、弟の奥平昌高様からです。」

「そうか・・・。」

宇多の話を聞き、茂姫は嬉しそうな笑みを浮かべると、一瞬にしてその笑みが消えた。

「まさか・・・。」

茂姫はそう呟くと、宇多は続けた。

「斉宣様は、亡くなられました。」

茂姫はそれを聞き、固まっていると宇多は、更に続けて言った。

「今年、一〇月二四日。上様と同じ歳にございます。」

それを聞いた茂姫は、

「そうであったか・・・。」

と言い、下を向いた。すると宇多は、こう言った。

「しかし、話を聞くと、広大院様、いえ、御台様は、たいそう幸せだったと思います。」

「え・・・。」

茂姫は顔を上げ、宇多を見つめた。宇多は続け、

「斉宣様は最後まで、御台様のことを、気遣っておいででした。国許へ帰ることが許されても、江戸に留まろうとしておられました。姉上である御台様の側に、ずっといたいと・・・。」

そう言うのを聞いて、茂姫は鼻をすすった。

「斉宣殿らしい・・・。」

茂姫は笑ってそう言うので、宇多もそれを微笑んで見つめていた。

夕方、茂姫は宇多を見送りに出た。先に廊下を歩いていた茂姫がふと振り返り、

「あの、宇多、いや、宝池院殿。」

そう言うと宇多は笑顔で、

「宇多で宜しゅうございます。」

と言うと、茂姫は言った。

「宇多・・・。時々、顔を見せに来てはくれぬか?」

それを聞くと宇多は、こう言った。

「勿論にございます。それから、わたくしも今日限りは、御台様とお呼びしてもようございましょうか。」

「構わぬ。」

茂姫が言うと宇多が、

「御台様・・・。わたくしは、御台様のお側にいられたこと、誇りに思います。」

と言うので茂姫も笑って、

「あぁ、わたくしもじゃ。どうか、息災でな。」

そう言うと宇多は、

「はい。」

と、答えた。茂姫も、嬉しそうに宇多を見つめていた。

そして宇多が帰ると、茂姫は一人で自室に戻った。そして、

『斉宣様は、亡くなられました。』

という、宇多の声を思い出した。そして、斉宣との思い出が脳裏を過ぎった。

『姉上、綺麗な花を見つけました!』

『心がいつまでも同じところにいて、前に進めずにいるから、それが憎しみに変わるのだと、わたくしは思います。』

『されどわたくしは、己のためではなく、薩摩のためにしたことにございます。古い藩政を洗い流し、無理な暮らしを強いられている民を、助けたかったのでございます。』

『あの時姉上がいて下さったから、わたくしは自分を見つめ直すことができたのです。』

そして茂姫は引き出しに近づき、戸棚を開けた。そこには、何かが入った袋があった。それを手に取ると、中身を出した。それは、父が作った木彫り人形だった。

『これは、父上が昔、わたくしに作って下さったものにございます。これを、父上の形見として、姉上に持っていて頂きとうございます。』

それを胸に当てると、茂姫は声を上げて泣いた。そして戸棚に顔を近づけ、心すむまで泣いていたのであった。

一八四二(天保一三)年二月。茂姫は、家慶と話をした。

「そうですか・・・。打払令は、廃止に・・・。」

茂姫が言うと家慶は、

「はい。」

と、答えた。茂姫は、

「あれから・・・、この国はどんどん変わりました。わたくしも、今はこの大奥でひっそりと暮らしております。この歳になると、もう誰も守ってくれませぬ故。」

そう言うと家慶が、

「母上は、わたくしが守ります!」

と言った。茂姫は家慶を見ると、家慶は恥ずかしそうに、

「あ、いや・・・。」

そう言っているので、茂姫がこう言った。

「わたくしが、わたくしでよかった。」

「えっ?」

茂姫は笑顔で続けて、

「あなたと出会えて、ようございました。」

そう言うので家慶も笑い、

「はい。」

と答えるのを、茂姫はまた愛おしそうな目で見つめていたのだった。

その後、仏間で茂姫は祈っていた。その後ろには、三人の側室がいた。茂姫は目を開けると、こう言った。

「わたくしはこれまで、様々な人と出会い、そして別れてきた・・・。近頃は、その者達を思い出すばかりじゃ。お万・・・。」

『此度、姫様にはたいへんご機嫌麗しゅう。』

『私も、上様と話す内に、上様のことが好きになっていたのかもしれません。』

お万は、初めて家斉のことを好きと言った側室だった。そして茂姫は次に、

「お楽・・・。」

と、言った。

『わたくしにはわかりませぬ。我が子を失ったというのに・・・、わたくしであればどれ程泣き叫ぶことか。』

『御台様は、大奥の鏡にございます。』

お楽は最後には、茂姫のことを「大奥の鏡」だと言ってくれた。

「宇多・・・。」

『わたくしは、大切な人の為なら人をも殺す覚悟でおります!』

『本日より、わたくしが御台様の側近です。』

宇多との出会いは、衝撃的であった。

「お美尾・・・。」

『わたくしは、ここにいて幸せにございました。』

「お登勢・・・。」

『わたくしも、峰のことを何よりも考えております。』

『心の闇から連れ出してあげて下さい。』

美尾は純粋で、そして登勢は優しかった。次に、茂姫は後ろにいる三人の方を向いた。髪を下ろし、速成院となったお蝶を見て、こう言った。

「そなたは、人思いで、何でもやることが早かったの。」

「はい。」

速成院は、そう答えた。次に、皆春院(八重)を見て言った。

「そなたは、もっと己の意思を持つべきじゃ。」

それを聞いた皆春院も、

「はい。」

と答え、茂姫は本輪院(以登)を見てこう言った。

「そなたは、陰ながら皆を見守るのが得意であったな。」

本輪院は感極まったような声で、

「はい・・・。」

そう答えた。茂姫は再び仏壇の方を見ると、更に言った。

「母上・・・。」

『於篤。あれが、桜島です。』

『桜島は、一日に七色もの色に染まります。そして桜島はいつも、薩摩のことを見守ってくれているのです。』

母・お登勢の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「母上様・・・。」

『姫様には、婚礼の日まで若様に会わないで頂きます。』

『わたくしは、まだ完全にそなたを認めたわけではない。』

家斉の母・お富もまた、姑としての誇りを最後まで捨てなかった。茂姫の頭の中では、様々な思い出が溢れ出していた。

『この命に変えても、お守り致す所存にございます。』

これは、松平定信が言った言葉だ。

『しっかりやるのじゃぞ。』

父・重豪は笑顔でそう送り出してくれた。そして・・・。

「上様・・・。」

茂姫の心の中にいつもいるのは、夫であった家斉だった。家斉は、茂姫の脳内で笑いかけてくる。茂姫は外を見つめ、微笑み続けていた。共に過ごしていた時のように・・・。

浄岸院(そして、更に月日は流れ・・・。)

一八四三(天保一四)年八月。茂姫は数人の女中を連れて、浜辺を歩いていた。茂姫は、不意に家斉といた時のことを思い出した。

『そなたがおらなんだら、わしの人生はこんなに楽しくはなかった。』

家斉はそう言って、抱きしめてくれた。それを懐かしみ、茂姫は籠に戻ろうとした時・・・。

「御台!」

その声を聞き、茂姫は足を止め、振り返った。その向こうには、家斉が笑顔で立っている。そして茂姫も笑い、その方向へ歩いていくのだった。

浄岸院(さぁ、今までこの茂姫の人生を追って参りましたが、そろそろそれも終わりのようでございます。広大院こと、茂姫は、この一年余りのちにひっそりとその生涯に幕を下ろします。黒船来航まで、あと一〇年。日本はそれから、幕末という激動の時代へと、少しずつ舵を切ってゆくことになります。しかし、それはまだ先の話。さて、わたくしもそろそろ天へ帰ることに致しましょう。それでは、御機嫌よう。)

江戸時代、それは一番平和だった時代かもしれない。城でも、何気ない日々が続いていた。表では、家慶が老中達に意見を出し、大奥では花園や瀧山が女中達を仕切っている。家祥は、相変わらず菓子を作ってそれを皆に振舞っている。そのような何の変わりもない日常の上には、雲一つない青空が広がっていた。




最後までお読みくださった方、本当にありがとうございました!!

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