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第四十九回 将軍、家慶

家斉「家慶に、将軍職を継がせようと思う。」

茂姫「あれでは、若様が動揺してしまわれます。上様が亡くなるまで継げぬものだと思っておられました故、きっと混乱しておられます。」

家慶「父上は、やはり身勝手すぎます。」

  「父上のお気持ちは、まだわたくしにはわからぬのです。」

  「父上はわしに対し、厳しくすることはあっても、優しくすることはない。父上もきっと、そうやって育てられてきた故じゃ。」

  「すまぬ・・・。」

喬子「いいえ・・・。」

茂姫「心を開かねば、あちらも開いてはくれませぬ。」

  「血が繋がらなくとも、あの方はこの徳川家の一員。故に、わたくし達の家族にございます。上様にとっても、それは同じかと存じます。」

家斉「家族、のぉ・・・。」

茂姫「はい。」

家斉「そなたは、わしよりもこの国を守ることができる。わしのことは嫌いなままでよい。徳川家のため、この国のために、尽くしてくれぬか。」

家慶「わたくしは、父上の教えを倣い、この国を守りとうございます。」

家斉「そなたが・・・、わしの家族でよかった。」

家慶「わたくしもにございます。」

茂姫「これからは、あなたがこのお家を守り、国家安泰を築いて下さいませ。」



第四十九回 将軍、家慶


一八三七(天保八)年七月。

浄岸院(天保八年。家慶様が将軍になられる準備が、行われておりました。)

家慶は、家斉のところに来ていた。

「父上。わたくしは、必ず平和な国家を作ってみせます。」

家慶がそう言うのを聞いた家斉は、

「あとは、頼んだぞ。」

と言うと、家慶は頷いた。

茂姫のところにも、花園が様子を知らせにきた。

「表では、着々と準備が進められております。」

それを聞いて茂姫は安心したように、

「そうか。」

と言い、あることを思い出した。

『大砲を放ったのは・・・、薩摩藩の軍勢だとお聞きしました。』

茂姫は、その場で考え込んでいた。

その後、茂姫は家斉の部屋に行った。家斉が、

「薩摩が大砲を?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「薩摩の海に何度か近づこうとした船を、追い払おうとしたそうでございます。」

すると茂姫は、

「しかし、何ゆえ、薩摩なのでしょう?薩摩の父は、異国を愛しておられました。それを受け継いだはずの薩摩が、何故、そのようなことを・・・。」

そう言うと、家斉は言った。

「それは、ごく一部の人間であろう。皆が皆、異国を好きなわけではない。」

「それはそうでございますが・・・。」

「されど此度の一件で、打払令を批判するものも出てきた。少しずつ、よき方向に向かってきておるのかもな。」

家斉は、足を組み替えながら言った。それを、茂姫は見つめていた。

その頃、斉宣のところに広郷が来ていた。広郷が、

「漂流者を乗せたオランダ船が浦賀沖に接近したところ、大砲を放てと命じたそうにございます。今、薩摩にて交渉を行っております。」

そう言うので斉宣が、

「斉興から、報告などないか?」

と聞くと広郷は首を傾げて、

「今のところは・・・。」

そう言うのだった。それを聞いた斉宣は、

「そうか。されど、薩摩のことが心配じゃ。」

と、心配そうに呟くのだった。

浄岸院(その交渉に当たったのが、島津しまづ久風ひさかぜ。当時、家老を務めておりました。)

久風は異人を前に、

「我々は、幕府の教えに従ったまでのこと。通商を求められるいわれはござらん。」

と、言い切った。

浄岸院(漂流民を送還させ、食糧を分け与えて欲しいというオランダの要望に対し、薩摩側は拒否する姿勢を押し通したのです。そして僅かな水と食糧だけ与えたのち、オランダの船は退去したのでございました。)

薩摩の城では、斉興がその報告を聞いた。斉興が、

「異国を帰したじゃと?」

と聞くと、久風がこう言った。

「漂流民は、オランダ人に依嘱して送還させよと申しました。」

それを聞いた斉興が、

「しかし、砲撃が当たらなかったとはいえ、打ち払おうとしたのは事実。賠償など要求されては・・・。」

と言うので、久風はこう言った。

「それなら、ご心配には及びませぬ。我らは、幕府が出した異国船打払の命に従ったのみ。そのようなことを要求されるいわれはございません。」

それを聞いた斉興は、

「それならば、よいのじゃが・・・。」

と、不安そうに呟いていたのだった。

浄岸院(そして、九月二日。)

一八三七(天保八)年九月二日、家慶が将軍になる日。家慶の部屋に、茂姫が足を運んでいた。茂姫は、

「ほんに・・・、大きくなられましたね。」

と、目を微笑ませて言った。家慶も嬉しそうに、

「わたくしがここまでこれたのは、母上のおかげです。」

そう言うので茂姫は、

「いいえ。これは、あなたの力にございます。お父上から、認められたではありませんか。」

と言うと家慶は苦笑いをし、下を向いた。すると家慶は、

「しかし、わたくしが将軍になったところで、この国は良くなるでしょうか。様々な壁の前にいるこの国を、前に進めることなど、わたくしにできるでしょうか。」

そう言うと、茂姫はこう言った。

「できます。あなたなら、必ず。なので、もっと自信をお持ち下さいませ。」

それを聞いた家慶は、

「はい。」

と答えた。それを見て茂姫は、

「これでわたくしも、安心致しました。」

そう言うので、家慶はそれを見て笑っていた。

その後、家慶は広間で征夷大将軍宣下を受けたのだった。水野忠邦が、書状を読み上げた。

「本日より、徳川家慶様を、征夷大将軍と致しまする。」

そして、その場にいた老中達は一斉に頭を下げた。家慶は、真剣な表情で前を見据えていた。

その後、家慶は家斉の部屋に行った。家斉の隣には、茂姫もいた。家慶が二人に向かって、

「わたくしは、今日から将軍にございます。」

と言うと茂姫が、

「おめでとうございます。」

そう言い、一礼をした。家慶もそれを見て嬉しそうにしていると、家斉はこう言った。

「確か以前、そなたに一日だけ将軍をやらせたことがあったな。」

すると、家慶は思い出した。

『今日限りは、わしを将軍と心得よ。』

『それは、いくらなんでも・・・。』

『若様は、まだ将軍宣下を受けておられませぬ。それ故、無理があるかと。』

家慶が言うと、老中の土井利厚と牧野忠精は困惑していた。家慶は思い出して笑うと、家斉は言った。

「これからは、そなたの思うようにやってみよ。」

それを聞いて家慶が、

「まことに、宜しいのですか?」

と聞いた。

「当然じゃ。今日から将軍はそなたであろう。」

家斉も言うと家慶は、

「はい!」

と言った。家斉は、家慶を見つめていた。更にそれを茂姫も見つめていたのであった。

その後、家斉と茂姫は部屋で話していた。茂姫が、

「若様が将軍となり、上様が大御所となられた今、この家の全てをあの方に託すしかありませんね。」

と言うと家斉が、

「家慶が、疑っておらぬ限りな。」

そう言うので茂姫が、

「疑う?」

と聞くと、家斉は言った。

「急に家督を譲ったことじゃ。またわしが政を横から動かすことも可能、家慶もそう思っておるかもしれぬからの。」

それを聞いた茂姫は、

「まさか・・・、まことにそうなさるおつもりでは?」

と聞くと、家斉は答えた。

「大丈夫じゃ。そのつもりはない。全て、あやつに任せる。」

そして、立ち上がった。それを見て茂姫は、

「されど、わからないことがあればきっとあなた様を頼って来られましょう。その時は、どうかあの方をおたすけ下さいますよう。」

と言うので家斉は、

「わかっておる。」

そう答えた。そして、部屋を出て行った。茂姫も微笑み、それを見送っていたのであった。

家慶の前には、忠邦がいた。忠邦は、

「将軍就任、改めまして、おめでとうございまする。」

と言い、頭を下げた。そしてまた上げると、忠邦はこう言った。

「わたくし、公方様の後見役を任されましてございます。これも含め、改めてご挨拶仕りました。」

それを聞いた家慶は、

「大儀である。」

と言った。すると忠邦は、

「時に・・・、お世継ぎの件にございますが。」

そう言うので、家慶は言った。

「何じゃ、もうその話か。」

すると忠邦は、こう言った。

「早くお決めになった方が、後々楽にございます故。」

家慶はそれを聞き、

「わしは、まだ将軍になったばかりぞ。世継ぎなど、焦って決めることではない。」

そう言うのを聞いて忠邦は、

「ならば、お世継ぎの座を横取りされてもよいと?」

と言った。

「何?」

家慶は、怪訝そうにそう聞いた。忠邦は続け、

「何やら、不穏な動きがあるそうにございますが。」

そう言うので家慶は、

「不穏な動きじゃと?」

と聞いた。そして忠邦は、こう言った。

「先代将軍、家斉様の側近であられた旗本、中野清茂様は己の血の繋がった方を次の将軍にしようと企んでおられるそうにございます。」

「それはまことか!?」

「はい。なので、早いところに決めておく方が、よいと存じますが。」

忠邦は、笑みを浮かべながら言った。その話を聞いて家慶は、

「しかし、決めるも何も、わしの嫡男は家祥しかおらぬ。それ故、家祥が次の世継ぎじゃ。」

と言うと、忠邦は言った。

「それにございますが、わたくしに考えがございます。」

それを聞いた家慶が、

「何じゃ。」

と、聞いていた。

その後・・・。茂姫が、

「家祥様を、お世継ぎとせぬ?」

と、怪訝そうに言った。すると家慶は、

「家祥には、発達障害があるとの噂が立っておるそうでございます。それ故、養子を迎えてはどうかと・・・。やはり、母上の仰る通りでした。普通ではなかったのです。」

と言い、茂姫の言葉を思い出した。

『少し成長が遅れているといいましょうか、何かが気になるのです。』

すると茂姫が、

「しかし、それだけで養子を迎えるなど理にかないませぬ。何故、はっきり断らなかったのですか?」

と聞くと、家慶は言った。

「今となっては、何故ならぬと言えなかったのか、後悔しております。しかしあの時は、多からずあの者の言う通りかもしれないと考えてしまったのです。なので、断るに断れなかったのです。わたくしは・・・、己が恥ずかしゅうございます。」

それを聞き、茂姫はこう言った。

「そのお気持ちがあるのなら、どうにかなりましょう。自信をお持ち下さい。」

「母上・・・。」

家慶も、そう呟いていた。すると、家慶の子・徳川とくがわ家祥いえさちが菓子を持って部屋に入ってきた。

「父上、今日は異国の菓子を作ってみました。」

家祥はそう言って、菓子を差し出した。家慶は皿に乗ったその菓子を手に取り、口へ運んだ。家祥の後ろから美津と歌橋も続いて入ってきた。家慶は、

「美味い・・・。」

と言うと、家祥は笑った。茂姫も、微笑んで家慶を見つめていた。すると家祥は今度は茂姫に、

「おばば様も。」

そう言うので茂姫は、

「わたくしにも?」

と聞いて戸惑っていると、家祥の後ろから美津が言った。

「どうぞ召し上がって下さい。」

茂姫はそれを聞き、菓子をつまんで食した。すると茂姫も嬉しそうにし、

「これは、美味じゃ・・・。」

と、呟いた。家祥に歌橋が、

「若君様、参りましょう。」

と声をかけ、家祥は立ち上がって二人についていった。それを見て茂姫は、こう言った。

「噂など当てになりません。ちゃんとしたお方ではありませぬか。」

「はい。」

家慶もそう言って、家祥が出て行った方向を見つめていたのだった。

部屋に帰った茂姫は、夕日が差し込む部屋で文を読んでいた。

『薩摩では、交渉にはあまり積極的に取り合わず、オランダ人を国へ追い返したそうです。わたくしは、まことにこれでよかったのかと思うております。この国は、今や異国の力なしでは発展は望めぬということが、此度の件で一人でも多くの者に伝わればよいと思います。』

それを読んでいた茂姫は紙を置き、懐から袋を取り出した。その中には、木彫り人形が入っていた。それを見つめ、こう呟いた。

「父上が望んでおられた日本は・・・、いつか必ず来ましょう。」

そして再び顔を上げ、前を見つめていたのだった。

その頃、薩摩藩邸では斉興が帰ってきていた。

「そうか・・・。」

斉興の報告を聞き、斉宣はそう言った。そして、斉興がこう言った。

「此度の件で、異国船打払令を批判するものも多くなったことは事実にございます。様々なところで、それを説いている者もおるようで・・・。」

「やはりか・・・。」

斉宣は、呟いていた。すると斉興は、

「幕府は、どう対処するのでしょうか。鎖国を続けるか、それとも・・・。」

と言うと、斉宣はこう言った。

「今のところは、難しいであろう。批判する者が出てきたといっても、所詮は少数派に過ぎぬ。」

「はい・・・。」

斉宣は外を見つめながら、

「父上が願っておられた時代は、まことに来るのでしょうか・・・。」

と呟いているのを、斉興は見つめていたのであった。

浄岸院(翌天保九年六月。長崎のオランダ商館は幕府にモリソン号渡来のいきさつなど、詳細を報告したのでございました。これにより幕府は、通商は行わず、漂流民はオランダ船に乗せて返還するようにとの返答を出したのです。)

知らせを聞いた茂姫は、

「まことに、これでよかったのであろうか。」

と言うと花園は、

「今は、仕方のないことと存じます。」

そう言った。茂姫はそれを聞いて、

「また、反乱など起きねばよいが・・・。」

と、呟いていたのだった。

一方、中野清茂は感応寺に足を運んでいた。日啓が機嫌良さ気に、

「いやぁ、あなた様のおかげで前よりも裕福な暮らしができております。何とお礼を申してよいか・・・。」

と言うと、清茂もこう言った。

「いえ。気に入ってもらえたのなら、それで宜しゅうございます。」

そして、清茂は話を変えた。

「時に・・・、お世継ぎの件にございますが。」

「それは・・・、徳川将軍家の。」

日啓は言うと、清茂は言った。

「如何にも。溶が前田斉泰様との間に生んだ、利住様を次の継嗣に推そうと考えております。公方様御嫡男の家祥様は、御病弱であると聞きます。それを口実とし、その話を進めて参ります。」

「やはりでございますか・・・。」

日啓は肩を落とすと、清茂は言った。

「大丈夫です。この責任は、わたくしが全て負います故、お美代のことは心配いりませぬ。」

それを聞いた日啓も、

「はぁ・・・。」

と言い、清茂を見つめていた。

浄岸院(その一方、この方が家斉様と対面しておりました。)

家斉が、

「面を上げよ。」

と言うと、まだ九つばかりの男子が頭を上げた。それが正しく、加賀藩前田家世嗣・前田まえだ利住としずみであった。その隣には美代の子・溶姫やすひめがいた。家斉が利住を見つめ、

「そなたは長男であったな。学問はやっておるのか?」

と聞くと、溶姫が代わりに答えた。

「はい。日々、励んでおります。」

「そうか。頑張るがよい。」

家斉が言うと今度は利住が、

「はい!」

と、元気に返事をした。家斉は、それを薄く笑って見つめていた。

その夜、美代は家斉の部屋に来ていた。美代が、

「如何にございましたか、本日のご対面は。」

と聞くと、家斉はこう言った。

「なかなか肝が座っておった。」

すると美代の方を向き、こう聞いた。

「そなたは、あの者にこの徳川家を継いで欲しいと思うか?」

それを聞いた美代は少し驚いたように、

「いえ。わたくしは別に・・・。」

と言うと家斉は前を向いて、

「無理もない。家祥のこともあるからのぉ。」

そう言うので、美代はこう言った。

「でもわたくしは、父上様を裏切りとうはございませぬ。幼き頃より知っている方故、どうしても従うほかないのでございます・・・。」

すると家斉は、

「そなたの父は、まことにそなたのことを気にかけておる。」

と言い、立ち上がって向こうへ行った。美代は、それを不思議そうな目で見送っていたのであった。

浄岸院(その翌日・・・。)

「世継ぎを決めよ?」

家慶が聞くと、忠邦が言った。

「はい。」

「前にも申したであろう。わしはまだ、そのつもりはない。」

家慶が立ち上がって部屋を出て行こうとすると、忠邦がこう言った。

「お待ち下さい。先日、大御所様が加賀藩前田家当主・斉泰様の御嫡男・利住様とご対面なされました。」

家慶は振り返り、

「それが何じゃ。」

と聞くと、忠邦はこう言った。

「その利住様こそが、次のお世継ぎに推奨される恐れがあるのでございます。」

それを聞いた家慶が、

「そのようなことはない。わしの血を引いている家祥が、次の世継ぎじゃ。されどそれを世に示すのは、まだ先でもよかろう。」

と言うと、忠邦はこう言った。

「先のことより、今にございます!急がねば、手遅れになりますぞ。」

家慶はそれを聞き、怪訝そうな表情になって尋ねた。

「それはどういうことじゃ。」

その後、家慶は茂姫のところに行った。

「わたくしは・・・、どう返したらよかったのでしょうか。」

家慶がそう言っていると、茂姫は言った。

「されど、何故世継ぎをお決めにならぬのですか?早く決めてしまえば、楽ではありませんか。」

それを聞いて家慶は俯いて、

「はぁ・・・。」

と言っているので、茂姫は悟ったようにこう言うのだった。

「そうですか・・・。やはりあなたも、迷っているのですね。」

それを聞き、家慶は顔を上げた。茂姫は続け、

「お気持ちは、わかります。されど家祥様のお世継ぎのするか、養子を迎えるかお決めになるのは、あなただけにございます。そのこと、十分におわかり下さいませ。」

そう言うのを聞いて家慶は、

「はい。」

と、答えた。すると茂姫は、

「この話は、わたくしではなく、お父上にご相談してみては如何ですか?」

そう聞くと、家慶はこう言った。

「いえ・・・。それは、無駄かと思います。」

「無駄・・・?」

「父上は、隠居しても実権を握り続けておられます。そういうものではありませぬか?」

それを聞いて茂姫は、家慶を見つめ続けていた。家慶は続け、こう言った。

「父上もわたくしも、同じにございます。家督を継いでも、結局は自分では何も考えず、親に従ってしまう。時に自分が、情けのうなるのです。」

それを聞いて茂姫は、

「あなたが、そうならぬよう、努力なさればよいだけではないですか。」

そう言った。家慶も、

「母上・・・。」

と呟くと、茂姫は続けた。

「若様・・・、いえ、公方様。これは、あなたにしか、わからぬものなのです。誰から何を言われようと、ご自分のお好きな道を、お選び下さい。この先どうするかは、あなた次第です。」

それを聞くと家慶は、

「はい。」

と言って頷くと、立ち上がって部屋を出て行った。それを見て、茂姫は嬉しそうに笑っていたのだった。

家斉は縁側に座っていた。家慶が来て座ると、

「父上。」

と言うと家斉は、身体ごと家慶の方に向けた。家慶が、

「あの・・・、世継ぎの件ですが。」

そう言うと家斉は、

「そなたの好きにするがよい。」

と言うので、家慶は家斉を見つめた。家斉は、

「わしから何も言うことはない。そなたの意思でやるのじゃ。」

そう言うのを聞いて家慶は、

「父上・・・。はい!」

と言った。すると家斉は続けて、

「されど家祥は病弱故、そなたが父として、しっかりと支えてやるのじゃ。」

そう言うので家慶は、

「わかっております。父上に倣い、できるだけのことを尽くして参ります!」

と言い、家斉のことを力強く見つめた。家斉も、それを見つめ返していた。

その頃、茂姫は部屋で夕日を眺めていると、

「お邪魔致します。」

と言う声がした。茂姫は振り向くと、そこには喬子が笑顔で立っていた。

その後、二人は向かい合った。茂姫が、

「公方様も、最初は戸惑うことも多かったでしょうが、今ではすっかり将軍としてのお役目を果たそうとされております。」

と言うと、喬子もこう言った。

「わたくしも、内心ホッとしております。わたくしとて、初め嫁いで来た時は、故郷が恋しゅうて仕方ありませんでした。でもあの方が優しくして下さったおかげで、乗り越えてこられました。次はわたくしが、あの方をお助けせねばなりません。」

すると茂姫は笑顔で、

「そのお気持ち、きっと既に伝わっておりましょう。」

と言うので、喬子は更に笑顔になった。茂姫は、

「喬子様・・・。わたくしはあなたがこの大奥に来て下さったことに、運命を感じております。きっと、あなたでなければならなかったのでしょう。」

そう言うので喬子は、

「わたくしでなければ?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「きっと天が、あなたを選ばれたに違いありません。家慶様を支えられるのは、あなたしかいないと。」

それを聞いた喬子は少し恥ずかしそうにし、

「そういうことに・・・、しておきましょう。」

と言うのを聞き、茂姫も笑っていた。喬子は一礼すると、立ち上がって部屋を出て行こうとした。すると茂姫は後ろから、

「御台様!」

と呼んだ。それを聞き、喬子は少し驚いたように振り返った。茂姫は、

「これからも・・・、わたくし達でこの大奥を守って参りましょう。」

そう優しく言うと、喬子も礼をして去って行った。茂姫はその後も、笑顔を絶やさなかった。

話変わって、ある日の薩摩藩邸では・・・。斉宣が、斉興と話していた。

「定永殿が?」

斉宣が聞くと、斉興は言った。

「はい。幕府の牽制のため、江戸に出向いてきておられるそうにございます。」

それを聞いて斉宣は嬉しそうに、

「そうか。」

と言っていると、斉興がこう言った。

「しかし・・・。」

「何じゃ?」

斉宣が聞くと斉興は続けて、こう言うのだった。

「今は、体調が優れぬとお聞きしました。」

「何?」

斉宣がそう言うと斉興は、

「江戸に着かれた晩から、床に伏せっておられるとか。」

と言うので、斉宣は心配そうな顔をした。

暫くして、斉宣は江戸の松平邸に足を運んだ。斉宣は廊下を渡り、部屋に入ると布団に定永が座っていた。定永は斉宣を見ると、

「斉宣様・・・。来ておられたのですね?」

と言った。斉宣は定永の前に座ると、

「ご気分は?」

そう聞くと、定永は言った。

「大丈夫です。このような時に、お恥ずかしい。」

斉宣は定永を見て、

「生田万の件、聞きました。たいそうなお働きであったとのことで、きっとお疲れが出たのでしょう。」

そう言うのを聞いた定永は、

「いえ。父上と比べたらあれしきのこと、大したことではありませぬ。」

と言った。すると斉宣は、

「でも定永殿は、転封の件など、様々な壁を越えて来られた。わたくしなど、この人生で何もなし得たことなど・・・。」

そう言うので、定永はこう言った。

「あるではありませんか。」

「えっ・・・。」

斉宣はそう言って、定永を見ると定永はこう言った。

「お父上様と解り合い、最期を悔いなく見送ることができたのではありませんか?」

それを聞いた斉宣は、不意に父が死の間際に発した言葉を思い出した。

『そなた達が・・・、わしの、誇り故じゃ。』

それを聞いて斉宣は目に涙を浮かべ、

「そうですね・・・。」

と、呟いた。それを見ていた定永は、

「いつも・・・、見守ってくれていると思います。わたくしの、父と同じように。」

そう言うので斉宣は、頷いていた。それを見て、定永は笑っていた。

浄岸院(しかし、定永の死が伝えられたのは、これから一月も経たぬ頃にございました。)

夕方。薩摩藩邸で知らせの文を読んでいた斉宣は、悔しそうに泣いていたのだった。

茂姫もその話を聞き、

「え・・・、定永殿が?」

と聞くと、家斉はこう言った。

「あぁ、江戸でな。」

すると、茂姫は言った。

「まだお若いのに・・・。」

「そうじゃのぉ。」

家斉もそう言っていると、茂姫はこう言った。

「世のため、人のために、人一倍考えていた方にございました。歳を取ると、様々な方を見送らねばならぬのですね・・・。」

そして、空を見上げた。家斉も、茂姫と同じ方向を見つめていた。茂姫の目からは、一雫の涙がこぼれ落ちていたのだった。

浄岸院(そして更に月日は流れ、翌年五月。異国船打払令に異を唱えた者達が捕らえられ、投獄されるという、世に言う蛮社のばんしゃのごくが、幕府により始まったのでございます。)

それによって捕らえられた、高野たかの長英ちょうえい渡辺わたなべ崋山かざんも、

「打払の令を廃止し、開国すべし!」

「わしらは何も間違ったことは言うておらん!」

と叫び、役人に棒で叩かれていた。

家慶は部屋に忠邦を呼び、問い質した。

「これは、ちとやり過ぎではないのか?」

それを聞いて忠邦は、

「お言葉ですが、鎖国はこの国にとってなくてはならぬもの。故に、今開国派を野放しにしておけば、この国は乱れるは必定。この徳川家の行末も、危ぶまれまする。」

そう言った。家慶は、

「されど、他の方法ないのか?」

と聞くと忠邦は、

「恐れながら、そのような甘いお考えではこの国は守れませぬぞ。」

そう言うので家慶は、

「甘い・・・?」

と言い、忠邦を見つめていたのだった。

茂姫も、部屋で処罰される者の名前が書かれた紙を見ていた。茂姫は、

「これだけの者を・・・。」

と呟いていると、隣で家慶は言った。

「母上。わたくしの考えは、やはり甘いのでしょうか。」

それを聞き、茂姫は言った。

「あなたは、間違っておりません。しかし今、開国派の味方をすれば、それこそこの国は混乱に陥るでしょう。」

「わたくしは、悔しくて仕方ありませぬ。何もできぬ自分が、悔しゅうございます。」

家慶が言うので茂姫は、

「それはあなたが将軍として、この国を守りたいと思っている証にございます。そのお心を、信じるのです。」

そう言うので家慶は、

「はい。」

と、答えた。そして茂姫は暫く、その名簿を見つめていたのであった。

その夜。茂姫は、家斉と話した。

「国を開くのは、当分先になりそうですね。」

茂姫が言うと家斉は、

「そうじゃな。」

と言い、話を変えてこう言った。

「そうじゃ御台、外に出てみぬか?」

「外に、でございますか?」

茂姫は聞くと、家斉はこう言った。

「ずっとこの城におったからのぉ、また外の世界を見てみとうなった。」

「されど、難しいのではないですか?」

茂姫が聞くと、家斉は言った。

「この城で、まだ一番上におるのはわしじゃ。どうにかなるであろう。」

それを、茂姫は不思議そうに見ていたのだった。

その翌日。部屋に、乗寛を呼んだ。乗寛は慌てた様子で、

「外に出たい!?」

と聞いた。家斉の隣には、茂姫もいた。家斉が、

「よいであろう。」

そう言うので乗寛は、

「あ・・・、いや・・・。」

と、困ったような表情を見せた。家斉が、

「無理じゃと申すか。」

そう聞くと乗寛は、

「は、はぁ・・・。」

と答えると、家斉は言った。

「ならばよい。明日から、そなたはお役御免じゃ。」

それを聞いた乗寛が、

「お待ち下さいませ!わ、分かりました。手配致しまする。」

そう言うのを聞いて、家斉は隣にいた茂姫を見つめた。茂姫も、嬉しそうに家斉を見つめ返していたのであった。

そして夜になり、二人は共に布団を並べて横になっていた。家斉が天井を見つめながら、

「久しぶりじゃのぉ。このような夜は。」

と言うので茂姫も、

「ほんに・・・、いつ以来でございましょうね・・・。」

そう言い、同じように天井を見つめていた。家斉は、

「そなたは、わしに嫁いでよかったと思うか?」

と聞くので、茂姫はこう言った。

「今更、何を仰せですか。されど、こうして共にいられるのは、天がそうして下さったのかもしれませぬね。天が、わたくし達を結びつけて下さったのです。」

それを聞くと家斉も、

「そうだとよいのぉ。」

と、答えていた。茂姫は天井を見つめ続けていると、不意に家斉の手が自分の手に触れた。茂姫は気になって横を見ると、家斉が寝息を立てている。それを見て茂姫は微笑み、家斉の手を握り返し、暫く家斉を見つめていたのだった。

翌日、二人はそれぞれ籠に揺られて城の外に出た。茂姫は窓の外を眺めると、海が広がった。それを見て、茂姫は懐かしそうに微笑んでいた。

海に着くと、二人は浜辺を歩いた。先を歩いていた家斉が、

「そなた・・・、覚えておるか?ここでわしに言うたことを。」

そう言うので茂姫は、立ち止まった。

『ならば、何故、この世界には!男と女がいるのですか!』

『私は誰の嫁にもなりません。私は、道具にはなりませぬ!!』

茂姫はそれを思い出すと愛おしそうな顔になり、

「覚えております。」

と答えた。すると家斉は、振り返ってこう言った。

「わしはのぉ、御台。」

「はい。」

茂姫は答えると家斉は続け、

「そなたと会えて、よかったと思う。」

そう言うので茂姫は、

「上様・・・。」

と呟いたあと、こう言った。

「わたくしもにございます。」

そして家斉は戻ってきて、茂姫の手を握った。茂姫は家斉を見つめていると、家斉は言った。

「そなたがおらなんだら、わしの人生はこんなに楽しくはなかった。」

茂姫もそれを聞いて、

「はい。」

と、声を震わせ頷いた。そして家斉は、ゆっくりと茂姫を自分の方へと抱き寄せた。茂姫も、家斉の肩をしっかりと握っていた。

「上様・・・。」

茂姫の目からは、涙が溢れた。家斉も、愛おしそうな表情であった。

その後、二人は暫くそこから離れず、岩に腰掛けて海を眺めていたのだった。



次回予告

茂姫「この世の全ては・・・、心で繋がっておるのかもしれぬ。」

家斉「人の命は、脆いものじゃ。」

忠邦「今こそ、お世継ぎをお決めになる時にございます!」

家斉「御台・・・。」

茂姫「上様・・・。」

堀田正睦「家斉様が亡くなられた今、この国はどう向かうのでしょう。」

茂姫「広大院はわたくしじゃ。」

宝池院「御台様のことを、気遣っておいででした。」

家慶「母上は、わたくしが守ります!」

茂姫「わたくしは、上様の思いと共に生きて参ります。」

  「この城を出るのじゃ。」

  「わたくしが、わたくしでよかった。」




次回 最終回(第五十回)「うるわしき日々」 どうぞ、ご期待下さい!

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