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第四十二回 異国船打払令

茂姫は、家慶の所に行っていた。家慶は驚いたように、

「母上が、政之助を、ですか?」

と聞いた。その隣では、側室の美津みつが政之助を抱いていた。茂姫は、

「信じてもらえないかもしれませぬが、お楽に頼まれたのです。次にあなたと誰かの間に生まれた子を、育てて欲しいと。上様にもお話ししましたが、わかって下さいました。されど、あなたが嫌ならばこの話は聞かなかったことにして下さいませ。」

そう言うので、家慶は暫く考え、口を開いた。

「わかりました。」

「えっ?」

茂姫は、思わず声を上げた。家慶は続けて、

「母上がそう仰せであれば、それが一番にございます。それでよいな?」

そう隣の美津の方を見て言うと美津も、

「はい。」

と言って頷いた。それを見て茂姫も嬉しそうに、

「ありがとうございます。この子は、わたくしが育てます。この先、どうなるかはわかりませぬが、一審を込めて、暫しの間、預からせて頂きます。」

そう言うと家慶は、

「お願い致します。」

と言って、美津と共に頭を下げた。それを見て茂姫は、美津の腕の中で眠っている政之助を見つめていたのだった。



第四十二回 異国船打払令


茂姫は、赤子を抱いていた。それを横で見ていたたきが、

「可愛らしゅうございますね。」

と言うと、茂姫がこう言った。

「わたくしは、赤子を見ておるとつい、我が子のことを思い出してしまうのじゃ。」

そして茂姫は顔を上げると、話し続けた。

「もっと、長く共に過ごしたかったと、それだけが頭から離れぬのじゃ。」

たきはそれを同情したような目で見ていると、ひさが来て言った。

「若君様が御台様にお目通りを願ってきておられます。」

茂姫はそれを聞き、眠っている政之助を見ていた。

その後、家慶は茂姫に聞いた。

「どうですか?政之助の様子は。」

すると茂姫は、

「特に変わった様子は。」

と答えた。それを聞いて家慶は安心したように、

「そうですか。」

そう言った。家慶の顔色を窺った茂姫は、

「どうかされたのですか?」

茂姫が聞くと、家慶は言った。

「いえ、ただ・・・。」

それを聞き、茂姫は少し心配そうな顔をした。家慶はその後、

「喬子が、まだ自分を責めているようでして・・・。」

そう言うので茂姫は、

「それは・・・。」

と言うと、家慶は続けた。

「三人の子を死なせてしまったのは、自分なのではないかと。」

それを聞いた茂姫は、

「そうですか・・・。喬子様は、純粋なお方故、きっとご自分が許せぬのでしょう。」

と言うと、家慶はこう言った。

「わたくしにも何かできるのではないかと考えてみたのですが、どうしてよいか、ますますわからなくなるのです。一体、あの者に何をしてやれるのかと・・・。」

すると、茂姫はこう言った。

「お気持ちを、わかって差し上げるのです。」

「気持ちを・・・?」

「そうです。まずは互いに心を見せ合って、気持ちを理解し合うのです。さすれば、きっとあのお方も心を開いて下さるでしょう。」

それを聞いて家慶は、

「はい。」

と頷いていた。

その後、茂姫は縁側に座って考えていた。

「まだ傷は癒えぬ、か・・・。」

そう呟いているのを、中からたきも見ていた。するとひさが来て、

「あの、御台様。」

と言うと茂姫は振り返り、

「何じゃ?」

と聞くとひさが、

「公方様がお呼びでございます。」

そう言った。茂姫はそれを聞き、庭に目を戻していた。

茂姫が家斉の部屋に行き、

「失礼致します。」

と言い、中に入った。茂姫が座ると、

「お呼びにございましょうか。」

と、言った。家斉は、

「おぉ、来たか。」

そう言っていると、茂姫は言った。

「上様。その前に、わたくしからもお話がございます。」

「何じゃ。」

家斉が聞くと、茂姫が言った。

「まだ、家慶様に家督は継がせぬのですか?」

すると家斉は、

「わしはまだ譲らぬ。」

と言うと、茂姫は言った。

「しかし、次のお世継ぎとなるお子も授かりましたし、家慶様も、もう十分な考えをお持ちにございます。わたくしとしては、上様にもまだまだ頑張って頂きとう存じますが、若様のことを思うと、そろそろお譲りになってもよいのではないかと。」

すると家斉は、

「いや、あやつはまだ子供じゃ。それだけじゃ。」

と言うので茂姫は諦めたように、

「そうでございますか・・・。」

そう言った。そして茂姫は話を戻すように、

「上様は、何故わたくしを呼んだのですか?」

と聞くと、家斉は聞いた。

「そなたは、異国についてどう思うておる。」

それを聞いた茂姫は少々戸惑ったように、

「急に、如何されたのですか?」

と、聞き返した。すると家斉は、

「実は今日な・・・。」

そう言い、話し始めた。

家斉の前には、老中が二人いた。それは、松平まつだいら乗寛のりひろ大久保忠真おおくぼただざねであった。家斉が、

「何じゃ、話とは。」

と聞くと乗寛が、

「異国船を、追い払うお触れを出すべきだと思いまして。」

そう言うので、家斉は失笑したように言った。

「何をいきなり藪から棒に。」

すると乗寛は、大久保に促した。すると大久保が、

「はぁ。十数年前、イギリスの軍艦が長崎に侵入して以来、異国船らしき船が各地でたびたび目撃されております。されど我が国は今や、鎖国の最中でございます。よって、異国船は見つけ次第、打ち払うべきだと考えたのでございます。」

そう言った。そして乗寛は、

「何卒、お考え下さいますよう、お願い申し上げます。」

と言い、頭を下げた。

その話を聞いた茂姫は、

「何ゆえ、そこまでして・・・。」

と言っていると家斉も、

「異国船は、全て打ち払うべきであると多くの者が考えておるようじゃ。」

そう言った。茂姫もそれを聞き、

「打ち払い・・・?」

と、繰り返した。そして、ある言葉を思い出した。

『いくら学問に励んでも、いくら剣術を学んでも、異国の技術にはかないますまい。それ故、異国から学ぶことも大切なことと思います。』

それは、いつか弟の斉宣が発した言葉であった。すると茂姫は優しくも、どこか切ない表情で、

「わたくしは・・・、それは間違っていると思います。理由ははっきりとはわかりませぬが、そう思うのでございます。」

と言うので家斉も、

「そうじゃな。」

そう答え、向こうを見つめていた。茂姫はその後、何か考えているようであった。

浄岸院(そののち、水戸藩領である大津浜おおつはまにイギリス人一二名が上陸。水戸藩の役人に捕らえられるという事件が起こります。世に言う、大津浜事件にございます。彼らは、船内に壊血病の者がいるために野菜や水を補給しに上陸したと供述。その為、水戸藩家老・中山なかやま備前守びぜんのかみにより、それらを与えた上で帰ることを許されたのでした。

    その後も、問題は続き、同じ年には薩摩沖にもイギリス兵が上陸するという事件が起こります。それが早くも幕府に知れ渡り、異国船を打つべしとの声が以前よりも高まっていくのでございました。)

薩摩藩邸では、斉宣の所に昌高が来ていた。

「異人が薩摩に?」

昌高が聞くと、斉宣は言った。

「あぁ。宝島という島じゃ。今、斉興が様子を見に国元に帰っておる。」

それを聞いた昌高が、

「聞くところによれば、イギリス兵は三〇名ほどで、牛を奪われた挙句、イギリス人を一人殺したと。」

と言うので、斉宣は言った。

「仕方ない。島を守るには、そうするしかなかったのであろう。」

それを聞いた昌高は、

「しかし、わたくしにはわかり兼ねます。何故ならば、異国の考えを取り入れねば、この国は一向に今のままだと、そんな気がするのです。鎖国を止め、国を開けば、きっとこの国はもっと豊かになると思います。それを、皆にもわからせたい。」

と言うのを聞いていた斉宣は、ふと思い出したように言った。

「そうじゃ。長崎にも、異人が来ておるそうじゃ。」

それを聞いた昌高は笑顔で、

「その話は、わたくしも存じております。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。あちらで自然科学を学び、日本に来てからはオランダ商館で医師を務めているそうです。今は、私塾を開いて西洋医学を教えているとか。」

と言った。それを聞いて斉宣が微笑して、

「相変わらず、その手の話には詳しいの。」

と言うので昌高も、

「兄上こそ。」

そう言い、二人で笑っていた。

浄岸院(そのシーボルトは、長崎で鳴滝塾なるたきじゅくという塾を開き、講師として主に西洋医学を教えていたのでございます。)

長崎では、シーボルトは講義をしていたのだった。

浄岸院(その頃、こちらでは・・・。)

江戸城では、茂姫が家慶に話していた。家慶はそれを聞き、

「父上と会え?」

と聞くと、茂姫が言った。

「まずはお父上にお会いして、自分のご意思を伝えるのです。」

すると家慶が、

「それで父上が、お認めになるはずがありません。父上は、死ぬまで将軍の座に居座るつもりなのでしょう。」

そう言うので、茂姫はあの言葉を思い出した。

『いや、あやつはまだ子供じゃ。それだけじゃ。』

家慶は続けて、

「母上が、政之助を預かって下さると言ってこられた時、内心嬉しく思いました。それ故、もっと己が成長せねばならぬと思いました。でなければ、嫡男にいい顔ができますまい。」

そう言うのを聞いた茂姫は少しばかり嬉しそうに、

「あなたは・・・、本当に変わられましたね。」

と言うので、家慶は照れたように笑った。茂姫は、

「政之助様のことは、どうかお気になさらず、ご自分のやりたいことを、なさって下さいませ。」

そう言うと家慶も、

「有り難く存じます。」

と、返していた。茂姫は微笑んで家慶を見つめていると、家慶も笑顔になっていた。

浄岸院(一方、家斉様は・・・。)

前にいた乗寛が、

「もう我慢なりませぬ!異国は、この国を乗っ取ろうとしておるに相違ありませぬ。」

と言って半歩前に出ると、こう続けた。

「今こそ、異国船は、一隻残らず打ち払うべきにございます!」

すると、家斉は質問した。

「何ゆえに、そこまでして異人を嫌う。」

それを聞いて乗寛は、

「それは・・・。」

と言い、言葉を詰まらせた。そして隣にいた大久保に、発言を促すようにして視線を送った。すると大久保は、

「今年の五月に、水戸藩大津浜において異人との諍いが起こり、八月には薩摩沖にまで異国船が現れる始末。各地では、皆が異国の脅威に晒され、いつ侵略しに上陸して来るかわからず、怯えております。それ故、わたくし共としては早急に対処すべきではないかと・・・。」

と言った。そして乗寛が、

「如何にございましょう。」

そう言い、家斉を見つめた。家斉は目を閉じ、暫く考えた。そして目を開くと、

「父上に相談する。」

と言うのだった。それを聞いた乗寛は驚いた顔で、

「一橋家の・・・、治済様でございますか?」

そう言うと、家斉は言った。

「そうじゃ。その間、待つがよい。皆には、そう伝えておくように。」

それを聞いた乗寛と大久保は、

「は、ははぁ・・・!」

と言い、頭を下げていたのだった。

茂姫はその話を聞いて、

「何ゆえでございましょうね。異国の考えを取り入れることで、国が変わると考えている方もいるというのに。」

そう言っていると家斉が、

「それは、あくまで少数派の意見に過ぎん。多くは、異国船は打ち払うべきと考えておるのであろう。」

と言うので、茂姫は心配そうに聞いた。

「そこまでして、国を守らねばならぬのでしょうか。何か、他の方法はないものでしょうか。」

すると家斉は、

「それがわかれば、苦労はしておらぬ。」

と答えた。家斉は茂姫を見ると、こう聞いた。

「そなたはどうじゃ。」

「わたくしに、ございますか?」

茂姫は聞き返すと家斉は、

「異国船を打ち払うべきか、それをわしが命じられるのかどうか。」

と聞くので、茂姫はこう答えた。

「上様と、考えは同じにございます。」

そして茂姫は続け、

「わたくしも、上様にそのようなことはできぬと存じます。あちら側と、話し合いができれば一番にございますが・・・。」

と言うので、家斉はこう言った。

「そうじゃな。きっと、そなたの弟も同じことを言うであろう。」

それを聞き、茂姫は斉宣と最後に会った時のことを思い出した。そしてまた、切ない表情になった。それを見て家斉が、

「どうした。」

と聞くので茂姫が、

「いえ。ただ、心残りに思うことがあるのでございます。」

そう言った。家斉はそれを聞き、庭を見つめていたのだった。

その頃、家慶は廊下から部屋の中にいる喬子の後姿を見つめていた。そして、茂姫の言葉を思い出した。

『お気持ちを、わかって差し上げるのです。』

『まずは互いに心を見せ合って、気持ちを理解し合うのです。さすれば、きっとあのお方も心を開いて下さるでしょう。』

家慶は決心したように、部屋に入っていた。喬子は気配を感じたのか、振り返った。家慶は喬子の側に座ると、

「変わりはないか?」

と聞いた。喬子も、

「はい。」

そう小さく答えた。家慶は、

「政之助は、母上の所で元気に育っておる。いずれは、わしの跡を継ぐことになるであろう。わしも、未だに父上から家督を継げておらぬがの。」

と一人で笑っていると、喬子は俯いたまま言葉を発しなかった。すると、家慶がこう言った。

「そなた、前に申しておったであろう。」

『わたくしが戻ってきたのは、あなた様の妻でいたいと、ただそれだけなのでございます。』

「わしはあの言葉を聞いた時、嬉しかった。そなたが側室を持つことを許してくれたおかげで、わしは世継ぎを儲けることができた。そなたも、もう少しわしに心を開いてくれてもよいではないか。」

家慶はそう言うと、喬子の手を優しく握った。喬子は、黙ってそれを見つめた。家慶は最後に、

「もう自分を責めるのは、やめてくれぬか。」

と言うので、喬子は恐る恐る家慶の顔を見た。すると、喬子の目には家慶の笑顔が飛び込んできた。それを見て少し気が和らいだのか、喬子に少しずつ笑顔が戻ってきた。それを見て家慶は、

「そうじゃ。もっと笑ってくれ。」

と言った。そうしていると、喬子からも言葉だ出た。

「わたくしは・・・、そうやって何度も家慶さんに助けられました。今度はわたくしが、家慶さんを守る番にございます。」

「そなた・・・。」

「わたくしが今、ここにおれるのは、家慶さんの支えがあったからでございます。今まさに、そうでございます。わたくしは間違うておりました。わたくしは、そのお心に背を向けてばかりいて、応えようとしておりませなんだ。どうか、お許し下さい。」

それを聞いて家慶は、

「何を申すか。そなたは、他の側室とは違う、わしが唯一愛せる女子じゃ。」

と言うので、喬子は涙を浮かべた。家慶も、頷いて喬子を見つめていたのだった。

一方、重豪は一橋邸に行っていた。

「打ち払いにございますか?」

重豪は聞くと、治済は言った。

「異国船は、残らず打ち払うべきであるとの動きが出てきているそうにございます。」

それを聞いて重豪は、

「やはり・・・、水戸や薩摩において異人が現れた件にございましょうか。」

と言うと、治済はこう言った。

「それ以前にも、異国船を目撃された例は後を後を絶っておりませぬ。早いところ、対処せねばならぬ、幕府の役人は皆、そう考えておるのでしょう。」

重豪は黙って聞いていると、治済は足を組み直してこう言った。

「実はわたくしも、家斉から相談されておりましてな。まことに討つのが正しいのか、と。」

「公方様から?」

重豪が聞くと治済が、

「あの者は、昔から人に頼ってばかりですからなぁ。島津殿の姫君にも、苦労をかけておるようで。」

そう言うので重豪は微笑しながら、

「そのような。あやつも、文などでは公方様のお役に立ちたいと申しておりました故。ところで、公方様には何とお返ししたのですか?」

と聞くと、治済はこう言った。

「己の考えで通してみよと。年を取り、いつまでも周りに流されておるというのは、惨め故に。」

それを聞くと重豪は、

「きっと、それは誰もが一時は悩むものなのでしょうな。」

と言うので治済も、

「あ、はい。」

そう言い、笑っていたのだった。

その頃、斉宣は薩摩藩邸の部屋で文を読んでいた。その横で、昌高もそれを見ていた。

『久しぶりに、文を書きました。変わりはありませぬか。わたくしは、元気でおります。時に、薩摩で異人が殺されたと聞き、国元のことを気にかけております。この国は今、異国の脅威の渦中にあると言いますが、まことにそうなのでしょうか。異国は、まことにこの国を我が物にしようとしているのでしょうか。老中達は、そのように考えているようですが、わたくしにはわかります。鎖国を続けていれば、異国から攻撃されることもなくなりましょう。されど、それではこの国は今のまま、前に進まなくなると思います。国を開けば、広い世界が目に入ります。そのような気がするのです。今日は、あなたに折り入ってお願いがございます。上様に、打払令をおやめになるよう、嘆願して下さいませぬでしょうか。わたくしからお願いするより、あなたから以前のように徳川家に宛てて、文を書いて下されば、あの方の心に届くと、わたくしは思います。勝手なお願いでは承知の上ですが、どうかお願い致します。』

文の最後には、『茂』とはっきり書かれていた。それを横で見ていた昌高は、

「姉上は、兄上のことを覚えていて下されたのですね。」

と言うと、斉宣はこう言った。

「わたくしが昔、異国について幕府に意見したことを、覚えていて下さったのかもしれぬ。」

斉宣の目は、少しだけ潤んだ。すると昌高が、

「わたくしも、協力致します。」

と言うと斉宣は、

「昌高・・・。」

そう言って昌高を見ると、昌高はこう言った。

「わたくしも、異国がまた更に遠くなるのは嫌にございます。いつかは向こうに渡り、この目で様々なことを見て回りとうございます。それ故、異国船を打ち払うなど、許せぬのです。」

それを聞いた斉宣は嬉しそうに、

「そうじゃな。」

と言うと昌高も、笑顔で頷いた。斉宣は、暫く茂姫から届いた文を目で読み返していたのだった。

浄岸院(その茂姫は・・・。)

茂姫は縁側に立っている家慶に、

「喬子様は、本当にあなたことを思うておいでなのでしょうね。」

そう言うと家慶も嬉しそうに笑い、

「はい。ようやく、話ができました。母上のお蔭にございます。」

と言うので茂姫は、

「わたくしは、何もしておりませんよ。あなたが、喬子様と心を通わされたのです。母として、嬉しゅうございます。」

そう言った。家慶も振り返り、

「母上・・・。」

と言った。家慶はまた庭の方を向くと、

「されど、父上はまだわたくしを子供だと思っておられるようです。譲る気など、かけらも持っておられませぬ。」

そう言うので、茂姫は心配そうに家慶を見た。すると家慶は、

「でも、そのようなことは今はどうでもようございます。喬子が、わたくしに心を見せてくれたのですから。」

と言うのを聞き、茂姫は少し笑顔に戻った。家慶も、笑顔で夕日を見つめていたのであった。

そして、喬子も一人、縁側に座って同じ夕焼けを眺めていた。すると、

「失礼致します。」

と言って、茂姫が来た。茂姫は喬子の横に座ると、こう言い出した。

「喬子様。若様から、お話、お聞きしました。お子や父君を亡くされた悲しみから、お元気になられたようで、ようございました。」

それを聞いて喬子は、少し顔を茂姫の方に向けた。茂姫は続け、

「自らお戻りになり、辛かったこととお察しいたします。それ故、暗闇から抜け出すことは、勇気がいたことと存じます。喬子様も、これからは若様以外とも、お話になっては・・・。」

と言いかけると喬子が、

「わたくしは・・・。」

そう言うので茂姫は喬子を見つめると、喬子は完全に身体を茂姫の方に向けて話し出した。

「わたくしは、ただあのお方の妻でいたいと、ただそれだけなのです。」

それを聞いて茂姫は、

「それはそうでございますが・・・。」

とまたまた言いかけると、喬子がこう言うのだった。

「わたくしは、あの方に感謝しておるのです。今までのような余計な口添えは、ご遠慮願います。」

喬子はそう言うと立ち上がり、部屋に入っていった。茂姫も、仕方なさそうにその様子を見ていたのだった。

その頃、中野家には美代の実父・日啓が来ていた。美代の養父・中野清茂が、

「お美代からは、返事が一向に参りませぬ。こうなればこちらから、動くしかありませんなぁ。」

と言っていると、日啓がこう言った。

「その話にございますが、もう終わりにして頂けませんでしょうか。」

それを聞いた清茂が、

「何を申されるか。」

と言うと、日啓は言った。

「わたくしはあれから少し考えたのでございます。わたくし達のせいで、あの者が責められるのではないかと・・・。もしそうなれば、あの者が、不憫に思えてならぬのです。」

それを聞いて清茂は、腕を組み、少し考えた表情をした。日啓が、

「如何でございますか。」

と反応を促すと、こう言った。

「あの者に、まことの気持ちを聞いてみることにします。それで嫌ならば、この件は諦めることに致しましょう。」

それを聞いた日啓は、

「はい。」

と答え、清茂を見つめていた。

そして江戸城では、家斉のもとにある文が届いていた。家斉がそれを読んでいると、

「失礼仕ります。」

と言って茂姫が入って聞いた。茂姫は座ると家斉に、

「上様、お呼びでしょうか。」

と尋ねると、家斉が文を見せてこう言った。

「読んでみよ。」

茂姫はその文を受け取ると、宛名を見た。そこには、斉宣の名があった。それを見た茂姫は嬉しそうに笑った。家斉は、全て見通したかのような表情をしていた。

その後で、茂姫は自分の部屋でそれを読んでいた。

「公方様。ご無礼と承知の上で、お願い申し上げます。異国船打払の令を、お考えになって下さいませんでしょうか。わたくしにはわかりません。何故異人を嫌うのか。異国から、新たな考えを取り入れなければ、この国はいずれ、滅びてしまうやもしれませぬ。鎖国を貫くことも、容易いでしょう。しかしそれでは、日本国はこれ以上前に進まなくなると思うのです。異国は、もはや受け入れるしか道はないのでございます。どうか、お考え直し遊ばされますよう。」

それを見た茂姫は嬉しそうに、

「斉宣殿・・・。ここまでのことを・・・。」

と、呟いていたのであった。

その頃、別の部屋では美代が同じように文を読んでいた。その宛名のところには、「中野清茂」と書かれていたのだった。

その後、家斉は部屋にいると、

「失礼致しまする。」

と言う声が聞こえた。家斉はふと顔を上げると、美代が立っていた。美代は座り、手をついた。

「公方様に、お願いがございます。」

それを、家斉は黙って見つめて続けていた。

美代の話を聞いた家斉が、

「溶を、加賀藩かがはん前田まえだ斉広なりながの長男にのぉ・・・。」

と言っていると美代も、

「はい。」

と、答えた。家斉は、

「それは、また父から言われたのか?」

そう聞くので、美代がこう言った。

「いえ、わたくしで考えたことです。加賀藩であれば、三つの領地がございます故、何かと過ごしやすいのではないかと思いまして。これは、あくまで自分の考えでございます。父から命ぜられたのではなく、わたくし自身が考えたことなのでございます。どうか何卒、お願い致します!」

そして、頭を下げるのだった。家斉は、

「何ゆえそこまでして、自分の血を引いた人間を将軍にしたい。」

と聞いた。それを聞いて美代が、

「別にそのようなつもりは・・・!」

と言いかけると家斉が、

「よい。わかっておる。父には、逆らえぬのであろう。」

そう言うので美代は、

「申し訳ありませぬ。」

と言って頭を下げた後、こう話した。

「わたくしは、どうしてよいかわからぬのです・・・。父上は、昔からわたくしを実の子のように可愛がって下さいました。それ故、父を裏切ることができぬのかもしれませぬ。勿論、公方様も同じにございます故、ますますわからぬのです・・・。」

すると家斉は、

「わかった。その願い、聞こう。」

と言うので美代が顔を上げて家斉を見ると、

「今・・・、何と・・・?」

そう聞くと、家斉は言った。

「溶の縁談についてじゃ。加賀藩は関ケ原より、一二〇万石の大国故、時間がかかる。それまで、溶のことを頼む。」

それを聞いた美代は涙ぐみながら、

「ありがとうございます!」

と言ってまた頭を下げると、家斉が言った。

「安心せよ。この話は、誰にも言ったりはせぬ。」

それを聞いて美代は顔を上げ、

「はい。」

と、嬉しそうに言っていたのであった。

浄岸院(そして年が明け、文政八年。更に異国船の目撃が相次ぎ、鎖国派の老中達の強い圧迫に屈した家斉様は、打ち払いのお触れを出すことを許したのでございました。世に言う、『異国船打払令』でございます。)

家斉は縁側に立っていると、後ろで茂姫は言った。

「まことに、あれでよかったのですか?」

すると家斉は、

「仕方あるまい。」

と言い、中に入っていった。茂姫が、

「鎖国が終わる日が来れば、この国はどう変わってゆくのでございましょう。やはり、異国に支配されてしまうのでしょうか。」

そう言うと、家斉がこう言った。

「心配いらぬ。この国の誰もが、鎖国を望んでいるわけではない。」

「はい。」

「きっと、開国をすることで国の未来が変わると考えている者も、多くおるであろう。そなたの弟達のようにな。」

それを聞いた茂姫は少し嬉しそうに笑い、

「そうでございますね・・・。」

と言っていた。すると家斉が、

「久しぶりに、今夜二人で飲むとするかのぉ。」

そう言うので茂姫は、

「わたくしは、構いませぬが・・・。」

と言ってふと思いついたように、こう言った。

「ならば、皆で飲むことに致しましょう。側室達も招いて、皆で大いに飲みましょう。」

それを聞いて家斉も笑い、

「それもよいかもしれぬの。」

と言っていた。茂姫もそれを見て笑い、その表情のまま部屋から夕日に染まる山を見つめていたのであった。

薩摩藩邸では、重豪がいつものように書を読んでいた。すると、

「失礼仕ります。」

と言い、曾孫にあたる島津しまづ忠方ただみちが入ってきた。

「お呼びでございましょうか、おじじ様。」

忠方が言うと重豪は書を手元に置き、

「来たか。そなたに、よき情報があるでの。」

そう言うので忠方は不思議そうに、

「よき情報、にございますか?」

と聞いた。すると重豪は、まずこう言った。

「知っての通り、異国船に対する打払令が幕府より発布された。」

「はい。」

忠方が答えると重豪は、

「実は長崎で医師を務めているシーボルトなる男が、面会を求めてきておる。」

そう言うので忠方は驚き、

「おじじ様に、でございますか?」

と聞くと、重豪は頷いた。そして重豪は忠方を見つめ、

「そなたも、会うてみぬか。」

それを聞くと忠方は更に驚いたように、

「わたくしが・・・?」

と言うと重豪は、

「どうじゃ、会うか。」

そう言うので忠方は、

「はい!喜んで!」

と答えた。重豪もそれを聞いて、

「異人と会うのは、そちの夢であったからの。」

そう言った。忠方はその後も、

「わたくしが・・・、異人に・・・。」

と呟き、目を輝かせていたのであった。

その頃、茂姫は縁側に座っていた。花々に夕陽が当たり、きらきら輝いていた。それを見てひさが、

「綺麗にございますね。」

そう言うと茂姫は、

「自然というのは・・・、いつ見ても美しい。疲れた心を、いつでも癒してくれる。他の国でも・・・、この自然の美しさは、同じなのかもしれぬ。わたくしは、この国の美しさが、いつまでも続いていって欲しい、そう思うておる。」

と言うので、たきとひさもそれを見つめていた。茂姫は、それらの草花を見守るようにして、ずっと眺めていたのであった。



次回予告

茂姫「打払令は、間違いであったと・・・。」

斉宣「打払令は、間違った選択だったと思います。」

乗寛「鎖国は我が道なのです!」

斉宣「異人に会う?」

茂姫「この国において、もはや異国との交流は避けられぬのです。」

昌高「父上がいなければ。」

重豪「斉彬と会う。」

定信「此度の対面は、ちと厄介になるやもしれぬ。」

斉宣「わたくしが、姉上と・・・?」

茂姫「斉宣殿!」

  「このまま、時が止まって欲しいものですね。」

斉宣「はい。」




次回 第四十三回「運命の再会」 どうぞ、ご期待下さい!

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