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第四十一回 呪われた大奥

一八二二(文政五)年四月。茂姫は家慶と喬子のところに行っていた。茂姫が手をつき、

「此度は、御嫡男の誕生、おめでとうございます。」

と言って頭を下げた。すると家慶は、

「はい。こうしていられるのも、喬子と、母上のお蔭にございます。」

そう言うので茂姫が、

「わたくしは何もしておりませぬ。全て、喬子様があなたに側室を儲けることをお認め下さったからです。」

と言うので、家慶は喬子を見た。喬子も家慶を見ると、ゆっくりと頭を下げた。茂姫は続けて、

「ほんに、家族が増えるということは、喜ばしいことです。」

そう言った。喬子も、

「家族・・・。」

と呟いた。家慶は、

「此度こそは、立派に育ってほしいと思います。喬子も、そう願うてくれております故。」

そう言った。そして喬子も、

「わたくしが味わったような悲しみは、もう誰にも味わって欲しゅうございません。それ故、今はただただ、祈っております。」

と言うと、茂姫も言った。

「それは、わたくしも同じこと。二度とあのようなことが起きぬよう、祈るばかりです。」

それを聞き、喬子も頷いた。家慶も喬子の様子を見つめていると、茂姫もその様子を見つめていた。

浄岸院(同じ悲劇が二度と繰り返されて欲しくない。茂姫だけではなく、誰もがそう思い続けていたのですが・・・。)



第四十一回 呪われた大奥


斉宣はいつものように、薩摩藩邸にいた。すると広郷が来て、

「申し上げます。松平定永様がお見えにございますが。」

そう言うのを聞くと斉宣は、

「直ぐに参る。」

と言い、立ち上がった。

部屋に入ると、定永がいた。斉宣は上座に着き、

「よう参られました。」

と言うと定永も顔を上げ、微笑んでいた。

話を聞いた斉宣は、

「そうでしたか。引き受けて下さったのですか。」

と言うと、定永はこう言った。

「はい。されどわたくしは、父上に言われたことをしたまでのこと。父上に、感謝しきりです。」

それを聞き、斉宣はこう言った。

「父というのは、時として、己以上の存在感になります。以前、わたくしが藩主だった時も、実験は父上が握っていました。」

そして、あの事を思い出した。

『藩主はわたくしにございます!』

『ならば聞く。お主の知識だけで、藩を救えるのか?』

『己の力だけで、藩を守れるか?』

すると、定永はこう言った。

「わたくしも、それには同感です。されど父が生きておられる限り、子は従い続けるしかないのかもしれませんね。」

それを聞いた斉宣は、

「わたくしと定永殿は・・・、違うようで似ておるのかもしれませぬな。」

そう言うのを聞いて定永は笑い出し、

「左様ですね。」

と言い、二人は笑い合っていたのだった。

浄岸院(その後、大奥では、家慶様の側室が産んだ嫡男が、生まれて数日経たぬうちに亡くなったのでございます。)

家慶は亡骸の小さな手を握り、側室と共に泣いていた。

それを、茂姫も知ったのだった。家慶から話を聞くと、茂姫は縁側に座ったこう言った。

「何故でしょうね・・・。何故人の運命は、残酷なのでしょう。」

すると家慶は、こう言った。

「以前、喬子が申しておりました。この城には、魔物が住んでいるのではないかと。」

それを聞いた茂姫は振り返り、

「喬子様は、それ程までに思い詰めておいでした故。」

そう言うと再び庭に目を戻し、こう言った。

「わたくし達には・・・、どうしようもできませぬ。わかってはいても、それが悔しくて仕方ないのです。何故、天は斯様までに残酷な仕打ちを。一体、何の恨みがあって・・・。」

家慶は茂姫を見つめながら、

「わたくしは、まだ諦めませぬ。今度こそ、嫡男を産ませてみます。お世継ぎには、是非ともわたくしの血を受け継いで欲しいのです。」

そう言うのを聞いた茂姫はまた家慶を見ると、こう言った。

「そのお言葉で・・・、多くの女子達が救われるのかもしれませんね。」

それを聞き、家慶も笑っていたのだった。

その後、茂姫は家斉と話していた。家斉は茂姫の話を聞き、

「成る程のぉ。」

と言うと、茂姫も嬉しそうに言った。

「わたくしは、若様のご決意に感服いたしました。あのようなお覚悟がおありだったとは。」

それを聞くと、家斉はこう言った。

「そこのところは、母親譲りなのかもな。」

それを聞いた茂姫は、

「お楽のことにございますか?」

と聞くと、家斉は言った。

「あの者は、一旦こうと決めれば、何があろうと信念を曲げなかったからな。」

それを聞いていた茂姫は、お楽のことを思い出した。

『これからは、家慶と、そして上様をお守り致します。』

すると茂姫は、

「ほんに、若様を見ていると、そう思います。あの方がまだ幼かった頃、ずっと大事に育てておりました故。」

と言い、茂姫は不意に家斉にこう聞いた。

「上様は、応援されるのですか?父として、己のこの働きを。」

それを聞くと家斉は顔を曇らせ、

「さぁのぅ。何しろ、あの者が未だに心を開いてくれぬからな。」

そう言うので、茂姫はこう言った。

「どうか、応援してあげて下さいませ。若様も、きっとそれを望んでおります。子を見守ることは、親の務めにございます。わたくしから、何卒お願い致します。」

茂姫はそう言い、頭を下げた。家斉は、それを横目で見つめていたのであった。

その頃、佐倉藩では定永が堀田ほった正愛まさちかに呼ばれていた。正愛が、

「三方両替を行うにあたり、白河藩の定永殿を桑名藩に、桑名の松平まつだいら忠堯ただたか殿を武蔵の忍藩に、忍の安倍あべ政権まさのり殿を白河に移すそうにございます。」

そう言うと定永は、

「三方両替・・・。」

と呟いた。正愛は、

「世間では、例の密約が幕府に漏れたからではないかと言われているそうです。」

そう言うのを聞いて定永は、

「何と・・・。」

と言っていると、正愛がこう言った。

「されど、もう一つの説として挙がっているのは・・・。」

それを聞いた定永は息をのみ、

「それは・・・。」

と言うと、正愛がこう言った。

「定信様が、港がある桑名への転封を幕府に申し入れたとか。」

それを聞いて定永は、

「父上が?まさか、父上が左様なこと。」

と言って否定しようとすると、正愛がこう言った。

「それだけではござらぬ。港があることにより、異国船の監視もできまする。」

「異国船・・・。」

「定永殿の父上、定信様はそのようなことを企んでおられるとか。」

それを聞き、定永は呟いた。

「父上が、企んでいる・・・?」

すると正愛は笑い、

「まぁ、あくまで噂程度のものですがな。」

そう言っても、定永は下を向いていた。

浄岸院(その翌年、文政六年の三月二四日。正式に、白河藩に三方両替の命が下されたのでした。三方両替とは、幕府から大名に対する転封処分の一つで、三つの領地を同時に入れ替えるという仕組みでございました。)

定永は、屋敷で薄暗い部屋にこもり、座って只々沈黙していたのだった。

浄岸院(そしてその数ヶ月後、大奥では・・・。家斉様の側室・お袖が産んだ子・富八郎が二歳に満たないまま亡くなっておりました。)

家斉は、その亡骸を見つめていた。隣では、側室が泣いていた。

その頃、茂姫は部屋でこう言った。

「何故、なかなか幸せは来てくれるのであろう・・・。」

すると、前に座っていたお万がこう言った。

「聞くところによりますれば、このようなお話が。」

「何じゃ?」

茂姫が聞くと、お万は言った。

「このお城の中に、よくないものが憑いているとか。」

「よくないもの?」

茂姫は聞き返すと、お万は続けた。

「また、先代将軍の御嫡男、家基様の呪いではないかとの噂も。」

それを聞いた茂姫は怪訝そうに、

「呪いじゃと?」

と聞いた。するとお万は、

「表方では、近頃その話で持ち切りだそうにございます。」

そう言うので、茂姫は言った。

「されど、呪いなどとは、にわかに信じられぬ。それに、家基様はとおの昔にお亡くなりになっておる。」

それを聞き、ひさは心配そうに茂姫を見た。するとお万が、

「一方では、家慶様にはもうお子はできぬのではないかとの声も。」

と言うので茂姫が、

「何じゃと?」

そう聞くと、お万は更に続けてこう言った。

「いっそのこと、早く養子を迎えた方がよいのではないかと言う者もおるとか。」

それを聞いた茂姫は、こう言った。

「まだ焦ることではない。第一、要旨を迎え入れるとしても、それは家慶様が将軍にお成り遊ばしてからじゃ。それも、いつになることか・・・。」

すると、ひさがこう聞いた。

「公方様は、まだお譲りになられぬと・・・。」

すると茂姫は、

「上様にそのようなお心があるならば、きっともう話しておられるはずじゃ。とにかく、呪いだ何だと、あまりしつこく騒ぐでない。そのこと、表の者達にも伝えておくように言うのじゃ。」

そう言うのを聞いたお万は、

「承知致しました。」

と言い、頭を下げて部屋を出て行った。茂姫はそれを見ながら、考え込んでいたのだった。

その後、話を聞いた女中のたきが不思議そうに言った。

「呪い、でございますか。」

すると茂姫は、

「そうじゃ。されどわたくしは、誰かが流した噂にすぎぬと思うておる。」

と言うのでたきは、

「わたくしも、そう思います。呪いなど、本当はないと思うのでございます。」

そう言うので、茂姫はたきの方に体を向けてこう言った。

「兎に角、事が大きゅうならぬうちに、何か手を考えねばならぬ。」

それを聞いてたきも、

「はい。」

そう言っていた。すると別の女中が来て、こう言った。

「失礼致します。御台様に、お目通りを願うておられる方がお見えにございます。」

それを聞いた茂姫は不思議そうに、

「わたくしに目通りじゃと?誰じゃ。」

と聞くと、女中は言った。

「はい。白河藩の、松平定永様と仰せでございます。」

それを聞いた茂姫は、

「定永殿・・・?」

と言い、女中を見つめていた。

茂姫が部屋に入ると、定永が頭を下げていた。茂姫は上座に着くと、こう言った。

「定永殿、お久しゅうございます。面をお上げ下さい。」

すると、定永は顔を上げた。それを見て茂姫は、

「前に、あなたはわたくしに腹の底を見せぬと言っておられましたね。」

と言うので定永は微笑し、

「あの時は、誠に申し訳ありませんでした。」

そう言うと茂姫も笑って、

「よいのです。して、今日は何故ここに?」

と聞くと、定永はこう言った。

「はい。是非御台様に、お知らせしたいことがございまして。」

「知らせたいこと?」

茂姫はそう聞くと、定永を見つめていた。

定永から話を聞いた茂姫は、

「そうですか・・・、桑名に。」

と言っていると、定永は更にこう言った。

「三方両替です。」

それを聞いた茂姫は、

「三方両替にございますか?」

と聞くと定永は、

「幕府から、国替えをせよと。」

そう言うと、俯いた。それを見て茂姫は、

「上様から、何も聞いておりませなんだ故、お許し下さい。」

と言うので定永は顔を上げ、

「そのような。何故御台様が。」

そう言っていると、茂姫はこう言った。

「いえ。ただ、先に言って下されば何かできたかもしれぬというに。」

すると定永は、こう言うのだった。

「父上が・・・、仕向けたようなのです。」

「定信が?」

茂姫は聞いた。すると定永が、

「父上は、港がないと何かと不便だということを口実に、港のある桑名に移り、そこで、主に異国船を監視しようという話なのです。」

そう言うのを聞いた茂姫は、

「そのようなことであったか・・・。」

と、呟いた。すると定永が、

「ですがわたくしは、父に従おうと思います。」

そう言うので茂姫が、

「それは?」

と言うと、定永は言った。

「今の藩主は、わたくしにございます。されど、父上が存命のうちは、それに従うしかないと思うたからです。」

それを聞き、茂姫もこう言った。

「そうですか・・・。それもよいかもしれませんね。」

それを聞くと定永は、

「はい。もう一つ、御台様にお聞きしたいことが。」

と言った。

「何でしょう。」

茂姫が聞くと、定永はこう言った。

「薩摩藩先代藩主・斉宣様のことで。」

それを聞いた茂姫は意外そうな顔で、

「斉宣殿、ですか?」

と聞いた。すると定永が、

「例のあの一件以来、国元に帰られていないと聞きました。それも、御台様から公方様にお願いされたと。そのことでまだ、許しておいでではないのですか?」

そう言うのを聞き、茂姫は黙った。すると定永が慌てて、

「あ、いや。わたくしも、父から少し聞いた程度でして。少し、気になったと申しましょうか・・・。」

と言うので、茂姫は思わず笑いだした。それを定永が見つめていると茂姫は、

「勿論、許すつもりです。でもそれは、斉宣殿が一番よく知っていること。薩摩があぁなったのは、全てあの者の責任とは言えませぬ。わたくしは、そう信じておりますから。」

そう言うので定永は、

「信じる・・・?」

と繰り返すと、茂姫はこう言った。

「はい。定永殿も、父上のことをもう少し信じてみては如何でしょう。信じることで、考え方も変わるとわたくしは思っております。」

それを聞くと定永は嬉しそうに、

「はい!そうしてみます!」

そう言うので、茂姫も笑顔で定永を見ていたのだった。

浄岸院(その頃、薩摩藩邸では・・・。)

重豪がいると、斉宣が入ってきた。斉宣が座ると、

「父上、お呼びでしょうか。」

と聞いた。すると重豪は、

「あぁ。今日はそちに、会わせたい者がおってな。」

と言うので斉宣は、

「会わせたい者?」

そう聞いた。重豪は襖の方を見て、

「これ。」

と声をかけると、

「はい!」

と言う声と共に、襖が開いて男子が中に入ってきた。その男子は重豪の隣に座ると、重豪は言った。

「この者は、斉興の長男・忠方じゃ。」

すると、島津しまづ忠方ただみち(のちの斉彬)は頭を下げ、

「忠方にございます。」

と言った。斉宣は驚いたようにそれを見つめ、

「と言うことは、わたくしの・・・。」

そう言っていると、重豪はこう言った。

「孫にあたる。わしと同じく、蘭学好きでの。そろそろ、そなたにも会せようと思うたのじゃ。」

「はぁ・・・。」

斉宣はそう言い、忠方の方を見た。忠方は、祖父である斉宣の方を見て笑った。

浄岸院(子の島津忠方が、のちの薩摩藩一一代藩主・島津斉彬にございます。)

その頃、大奥ではこのような話が持ち上がっていた。

「お祓いじゃと?」

茂姫は、そう聞いた。すると花園が、

「はい。表方では、家基様の呪いに相違ないと。」

と言うので茂姫が、

「何かの間違いであろう。何故今になってそのような。」

そう言うと花園が少し躊躇ったように、

「それが・・・。」

と言って、話し始めた。

表では、老中達が話し合っていた。酒井さかい忠進ただゆきが、

「こう、立て続けにお子を亡くされては・・・、お世継ぎのことが心配になりまするなぁ。」

と言うと、松平まつだいら乗保のりやすもこう言った。

「これは、一一代将軍となるはずだった家基様の呪いに違いありませぬ!」

するともう一人の水野みずの忠成ただあきらが、

「されど、お生まれになったお子が早くして亡くなる話はよくありまする故。」

と言うと、乗保がこう言った。

「公方様も、毎年のようにお子を作っておいでだというのに、次々と身まかっておる。これは、呪い以外の何ものでもないではござらぬか。」

すると酒井が、

「一度、お祓いをしてみては如何かと。」

そう言うので乗保は、

「それはよき考えにございますな!」

と言うのを聞いた忠成は、

「しかし、そのようなことを公方様がお知りになったら・・・。」

そう言っていると、乗保は言った。

「躊躇している暇などございませぬ!早いうちに片を付けておかねば、将軍家存続にも影響が及びかねませぬ。」

それを聞き、酒井と忠成は顔を合わせていた。

話を聞いた茂姫は、

「そのようなことで、事が治まるとは到底思えぬ。」

と言うと、花園はこう言った。

「兎に角、表では今すぐにでもお祓いをせよとの声が後を絶っておらぬそうにございます。」

それを聞いて茂姫は困り果てた様子で、

「このままでは、事が大きくなるばかりじゃ。何とか、よい方法はないものか・・・。」

そう言うのを、両脇でひさとたきが心配そうに見守っていた。

別の部屋では、家慶と喬子が話していた。

「折角できた子が、成長することなく死ぬのはこの上なく辛いものじゃ。」

家慶がそう言うと、喬子がこう言った。

「わたくしは・・・、思うてしまったのでございます。」

それを聞いた家慶は、

「何がじゃ?」

と聞くと、喬子はこう言った。

「わたくしは、三人のお子を亡くしました。それも、生まれて間もなくのこと。それ故、他の者達にも、わたくしと同じ苦しみを味わってくれればと、思うたのです。どうか、お許し下さいませ。」

それを聞いて家慶は、

「そなたが謝ることではない。わしも、もうどうしてよいかわからぬのじゃ。神は・・・、残酷じゃ。」

と言うのを、喬子も顔を上げて見つめた。家慶は、

「そなたにも、苦労をかけた。すまぬ。」

そう言うのを聞いて喬子は、

「家慶さんのせいなどではあらしゃいませぬ。わたくしは、己の役目を果たすべく、またここへ参ったのでございます。」

そう言った。家慶はそれを聞き、

「役目?」

と聞くと、喬子はこう言った。

「家慶さんと、他の側室達の仲を見守ること。それこそが、わたくしの真の務めなのです。されど何のお役にも立てず、申し訳ない限りにございます。」

喬子はそう言うと、また俯いていた。それを見つめながら家慶は、

「そなた・・・。」

と、呟いていたのだった。

その後、家慶は茂姫の所へ言った。家慶は下を向き、

「わたくしは・・・、返す言葉もありませんでした。」

そう言うので茂姫も、

「お心、お察しいたします。喬子様も、お優しいお方。あなたのことを一番に思っておられるのは、あのお方なのかもしれませんね。」

と言うと、家慶はこう言った。

「己の子を亡くすのが、これ程までに辛いとは、思っていませんでした。母上も以前、父上との間に生まれたお子を亡くされました。その時、どうやって悲しみから抜け出せたのか、お聞きしとうございます。」

それを聞いた茂姫は、

「わたくしですか?」

と聞くと家慶が、

「是非とも、母上からお教え頂きたいのです。」

そう言うので、茂姫はこう言った。

「遠い昔のことで、忘れました。されど、ある者のおかげでわかったのです。人は、どのような悲しみからも立ち直ることができるのだと。」

家慶はそれを聞いて、

「そうですか・・・。」

と言うと、茂姫は家慶を見つめて言った。

「あなたの、まことのお母上です。」

「母上・・・?」

家慶は、驚いたように言った。茂姫は続けて、

「もっと、自信を持ちなされ。あなたはまだお若い。きっとまた、お子が生まれます。お世継ぎのことは、ごゆるりとお考えくださいませ。」

そう言うのを聞いた家慶は少し勇気がわいたように、

「はい。そうですね。」

そう言うので、茂姫も笑って家慶を見つめていたのだった。

茂姫はその後、縁側に立っていた。茂姫は側に座っていたたきに、

「のぅ、たき。」

と、声をかけた。するとたきは、

「はい。」

と答えると、茂姫は言った。

「わたくしは、思うたのじゃ。もっと人の役に立ちたい。わたくしもこれまで、様々な人の助けられてきた。今度はわたくしが、誰かを支えたいと思うたのじゃ。」

それを聞いたたきも

「はい。」

と言い、茂姫を見つめていた。茂姫は続けて、

「わたくしにも、何かできることがあるはずじゃ。それを見つけ、実行に移すのみじゃ。」

そう言うと、茂姫は振り返ってたきにこう命じた。

「花園に、老中をわたくしの部屋に呼ぶよう伝えるのじゃ。」

それを聞いてたきは、

「かしこまりました。」

と言い、頭を下げると下がっていった。茂姫はその後、庭を見つめていたのだった。

呼び出された酒井が、

「ご参拝、にございますか?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「上様は毎年、家基様の御命日にご参拝されておいでじゃ。此度はわたくしも同行し、お墓の周りを綺麗にしてお清めをしようと考えておっての。」

それを聞いた酒井は困惑したように、

「お、お待ち下さいませ。いや、御台様が徳川家のお墓参りにご同行された件はかつて異例のことでして・・・。」

と言うので、茂姫はこう言った。

「ならば、家基様の墓を清めた上で、徳川家安泰の旨を懇願して参るよう、申し伝えるのじゃ!良いな?」

それを聞いて酒井は、

「ははぁっ!」

と言い、頭を下げた。それを、茂姫も真剣な顔で見つめていたのであった。

茂姫はその夜、自分の部屋にいた。不意に外を眺めていると、誰かの気配を感じた。茂姫は気になって立ち上がると、縁側に出た。しかし何もないので、戻ろうとすると光が差したので、不意に立ち止まった。そして振り返った。そこには、この世にいるはずのない、お楽の姿があった。それを見て茂姫は、

「お楽・・・?」

と言うと、お楽は笑顔でこう言った。

「御台様に、お伝えしたきことがあり、参りました。」

それを聞いて茂姫が、

「伝えたい、こと・・・?」

と聞くと、お楽しみがこう言った。

「間もなく、家慶にお子が授かります。その子を、御台様にお育てしてほしいのでございます。」

「わたくしに・・・?」

茂姫が言うとお楽が、

「それでは。」

と言うと頭を下げ、消えていった。茂姫が、

「お楽!」

そう呼んでも、お楽は返事をすることなく完全に消えてしまった。茂姫はそれから暫く、誰もいない庭を一人見つめていたのであった。

浄岸院(そして更に年が明け、家基様の御命日に家斉様がご参拝遊ばされたのでございます。)

一八二四(文政七)年二月二四日。家斉が、多くの家来達を従えて歩いていた。

その頃、茂姫も仏間で手を合わせ、祈っていたのだった。茂姫は眼を開け、仏壇を見つめながらこう呟いた。

「どうか・・・、このお家に、平和が訪れますよう・・・。」

そして茂姫は、またゆっくりと目を閉じて再び祈っていたのだった。

その夜。茂姫は家斉と話した。茂姫が、

「これで、次に生まれた子が育ってくれればようございますね。」

と言うと、お楽の顔を思い出した。すると不意に、家斉がこう言った。

「わしが将軍になって、もうどのくらいになるかのぉ・・・。」

それを聞いた茂姫は、

「今思えば、あの頃が懐かしゅうございますね。」

と言うと、家斉がこう言った。

「あの頃のそなたは、もっとはつらつとしておったな。」

すると茂姫も、

「上様こそ、将軍にはあまり相応しくないお方にございました。」

そう言うので、家斉は微笑した。茂姫は、

「あの、上様。」

と言うと、家斉は茂姫の方を見た。茂姫は続け、

「若様には・・・、まだお譲りにならぬのですか?」

そう聞くので、家斉はこう言った。

「あやつに、そのような自覚があるとは思えぬ。」

それを聞いた茂姫は、こう言った。

「そのようなことはございませぬ。あの方は、あなた様のお世継ぎとして、しっかりと未来を見据えておられます。更に先のお世継ぎのことも、考えておられます。何より、皆に気を遣い、そのお優しさが、何より大切だと、気付かされたのです。」

それを聞くと、家斉はこう言うのだった。

「それが、わしの跡を継いだ時、果たして役に立つのかのぉ。」

すると茂姫が、

「立ちまする。わたくしは、何故だかわかりませぬが、そう思うのでございます。」

と言った。すると家斉は、こう言った。

「わしはのぉ、あやつに受け継いで欲しいものがあるのじゃ。」

茂姫はそれを聞いて、

「それは、何でございましょう?」

と聞いた。すると、家斉は茂姫を見つめるとこう答えた。

「他者への、配慮じゃ。」

「他者への、配慮・・・?」

茂姫は繰り返すと、家斉は続けて言った。

「あの者には、それが欠けておるように思えての。いくら他の者に優しくしたところで、それはその者のためではなく、自分のため。言わば、それは他者から見た自分の印象を良くすためにすぎぬ。本当に相手の気持ちを察し、それに寄り添うことが、まことの大義であると思う。」

それを聞いた茂姫は穏やかな表情で家斉を見つめ、

「上様は・・・、それを一番大切にしておられるのですね。」

そう言うので、家斉も茂姫を見て笑った。すると家斉は近くにあった盃を手に取り、自分で酌をした。家斉はそれを飲み干すと、茂姫は立ち上がって家斉のところに来ると、側にあった徳利を手に取った。そして家斉に酌をしながら、

「上様も、もっと我が子をお信じ遊ばしたらよいではありませぬか?」

と言った。それを聞いて家斉は、

「何はともあれ、あやつがわしに心開かぬからの。」

そう言い、それを飲み干した。茂姫も、それを心配そうに見ていたのであった。

一方、桑名藩に移った松平家では松平定永が定信にこう話していた。

「父上。此度の転封において、我が藩は九万両の借金を抱えております。白河藩にいた時と合わせると、一〇万両になります。わたくしはこれから、知行削減を命じようと思います。藩政を立て直すためには、それしかないかと思われます。」

それを聞くと、定信はこう呟いた。

「家臣の領地を減らす、か・・・。」

定永は続け、

「これから一〇年間、知行削減を行い、皆の様子を見ましょう。一つ心配なのが・・・。」

そう言うので定信が、

「何かあるのか?」

と聞いた。定永は、

「倹約にしびれを切らした家臣達が、反乱などを起こさぬか・・・。」

そう言うので定信は、こう聞いた。

「もしや、薩摩のことか?」

すると定永は、顔を上げて定信にこう言った。

「わたくしは、今まで父上に従って参りました。しかしここ数年は、まことにこれでよいのかと、思うようになったのです。父上は、何が目的なのですか?桑名の転封を仕向けたのも、父上だったのですか?わたくしは一体、これから何を信じてゆけばよいのでしょうか・・・。」

それを聞くと定信は、こう言った。

「それは。己の信念を持つだけのこと。」

「信念?」

定永が聞くと、定信はこう言った。

「あぁ。人にはそれぞれ、信念の貫き方がある。そなたはそなたの考えに従い、その信念を貫き通せばよいのじゃ。わしのことなど気にせず、そなたの思うようにやればよい。」

それを聞いた定永は、

「父上・・・。」

と呟くと、嬉しそうに言った。

「はい!」

それを見て、定信も定永を見つめていた。定永はその後も、目を輝かせていたのだった。

浄岸院(その後、大奥ではまた新たな命が誕生していたのでございます。)

一八二四(文政七)年四月八日。家慶の隣では、女子が赤子を抱いてあやしていた。

(家慶様の側室・お美津みつに、男子が誕生遊ばされました。これが、のちの一三代将軍・家定にございます。)

茂姫は縁側に座り、呟いていた。

「子ができるのは、女子達にとって人生の最大の喜びなのかもしれぬ。わたくしも以前、そうであった・・・。」

茂姫が持っていたのは、古くなった栞であった。

そして別の部屋では、美代が子を寝かしつけていた。そして、清茂の言葉を思い出した。

『中野家と繋がりのある者が次の将軍になれば、きっとこの国は豊かになろう。そなたも、楽になれるのじゃ。どうか、そなたから公方様に頼んでみてはくれぬか。』

すると美代は、こう呟いていた。

「父上様・・・。わたくしは、いつになったら不安から解放されるのでしょうか・・・。」

その頃、薩摩藩邸で重豪が書を読んでいると、不意に忠方が言った。

「あの、おじじ様。」

重豪が顔を上げると、

「何じゃ。」

と聞いた。すると忠方が、

「この間、おじじ様から頂いた蘭学書、なかなか面白うございました。わたくしはもっと、異国について学びとうございます。」

そう言うので重豪は、

「ほぅ、面白い。」

と言った。忠方が続けて、

「できれば、異人にも会ってみとうございます。」

そう言った。重豪が怪訝そうに、

「異人に、会う?」

と聞くと、忠方が言った。

「異国の文化を知るには、まずその方がよいかと。」

それを聞いた重豪は笑い、

「そなたは、益々斉宣に似ておる。」

と言うのを聞き、忠方も微笑していた。

大奥では、家慶と喬子が話をしていた。家慶が、

「此度生まれた子が、わしの嫡男となる。また同じことが繰り返されぬことを、祈るばかりじゃ。」

そう言うと喬子も、

「はい。」

と、答えた。すると、

「失礼致します。」

そう言いながら、茂姫が入ってきた。茂姫が二人の前に座ると、

「若様に、お話がございます。」

と言うので、二人は顔を見合わせた。

その後、話を聞いた家慶が怪訝そうに、

「政之助を、母上が?」

と聞いた。すると茂姫は、

「信じてもらえないかもしれませんが、お楽がそう言ったのです。あの者が、わたくしを頼って戻ってきてくれた気がしたのです。なので、わたくしはその言葉を守りたい。そう思いました。」

そう言うので家慶が、

「わかりました。そのことであれば、お願い致します。」

そう言うので茂姫も、

「ありがとうございます。」

と言い、礼をした。家慶は続けて、

「わたくしも、その方がよいと思います。」

そう言うと茂姫は、

「わたくしは、必ずや立派に育ててみせます。」

と言うと、その後二人は笑顔で見つめ合っていたのだった。

浄岸院(悲しみと喜び、交差する二つを、茂姫は両方かみしめていたのです。一方、その頃・・・。)

長崎の屋敷から、遠くを望遠鏡で覗く背の高い男がいた。その男は望遠鏡を目から離すと、英語でこう呟いた。

「素晴らしい土地だ・・・。」

それは、オランダ商館医・フィリップ・フランツ。フォン・シーボルトであった。シーボルトは、本州の方をひたすら目にしていたのであった。



次回予告

茂姫「この子は、わたくしが育てます。」

家慶「父上と会え?」

家斉「わしはまだ譲らぬ。」

美代「お願い致します!」

日啓「あの者が、不憫に思えてならぬのです。」

斉宣「異人が来ておるそうじゃ。」

茂姫「打ち払い・・・?」

重豪「会うてみぬか。」

松平乗寛「異国船は、一隻残らず打ち払うべきにございます!」

茂姫「何ゆえ、そこまでして・・・。」

斉宣「わたくしにはわかりません。何故異人を嫌うのか。」

家斉「そなたはどうじゃ。」

茂姫「わたくしも、上様にそのようなことはできぬと存じます。」




次回 第四十二回「異国船打払令」 どうぞ、ご期待下さい!

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