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第三十九回 義娘の決心

茂姫は、縁側に立って庭を見つめながら、あることを思い出していた。

『大奥を出たいじゃと?』

『喬子様を見て、決心致しました。わたくしも、我が子を早くに亡くしました故。』

『わたくしの居場所も、ないような気がして、急に寂しゅうなったのでございます。』

『どうかこの勝手なる願い、お聞き届け下さいませ。』

宇多が言った言葉である。そして茂姫は夕日を浴びながら、物悲しいような、切ないような複雑な感情を抱いていたのであった。



第三十九回 義娘むすめの決心


浄岸院(喬子様が江戸を去ってから、二度目の秋が訪れておりました。)

一八一七(文化一四)年一〇月。仏間ではいつものように朝の参拝が行われていた。

その後で、茂姫は家斉と会った。家斉が、

「側室を持たぬ?」

と言うと茂姫は、

「はい。若様は、側室は娶らず喬子様の帰りを待つと仰せでした。」

そう言った。それを聞いて家斉が、

「戻って来てくれるかのぉ・・・。」

と言っていると、茂姫は言った。

「わたくしも、喬子様を信じようと思います。もう一年以上になりますが、きっと今頃、京で安らかな日々を送っておられる一方、江戸のことを思うておいでであると、そう信じとう存じます。」

それを聞いて家斉は微笑し、

「そうじゃの。」

と言うので茂姫も笑顔で、

「はい!」

そう答えていたのであった。

浄岸院(その頃、京では・・・。)

喬子が、織仁に呼ばれていた。織仁が、

「そなたは、また江戸に行くつもりはないか?」

と聞くので、喬子がこう聞き返すのだった。

「わたくしは・・・、やはりお邪魔でしょうか。」

それを聞くと織仁が、

「そないなことはない。出来れば、わしもそなたにはずっといて欲しい。」

と言うと喬子は、

「ならば何故・・・。」

そう聞くと、織仁はこう言った。

「されど、江戸におる家慶はさぞや心配しておろう。今や、徳川幕府が大政を担っておる。そなたが帰らねば、これからの政に影響が及ぶかもしれぬ。将軍家のため、帰ってはくれぬか?」

それを聞き、喬子は頑なにこう言った。

「わたくしはもう、京を離れとうはございません。おもうさんがそう仰せでも、わたくしは戻りとうございません。失礼致します。」

喬子はそう言うと礼をし、部屋を出て行った。織仁も、それを心配そうに見つめていたのだった。

部屋に戻った喬子は、家慶の言葉を思い出していた。

『気が向いたら、またいつでも戻ってくるがよい。わたくしは、ずっと待っておる。』

そう言ってくれた家慶に、喬子は返事を返すことができなかった。喬子は、自分を責めているような表情で立ちすくんでいた。それを、部屋の外から見守っている女性がいた。それは、喬子の生母・高木たかぎ敦子あつこであった。

一八一七(文化一四)年一二月。茂姫は、いつものように縁側に立って枯葉が落ちる様子を眺めていた。そして茂姫は振り返り、後ろにいた宇多に話しかけた。

「そなたの固い意志は、曲げそうにはないな。」

それを聞いて宇多が、

「わたくしは、もう決めました故。」

と言うので茂姫が微笑し、

「寂しくなるな。」

そう言うと、宇多がこう聞いた。

「時に、喬子様の代わりに、若君様に側室を持たせるというお話は?」

それを聞いて茂姫が、こう言った。

「わたくしは、間違っておったのかもしれぬ。若様の心と、喬子様の心を、傷つけてしまったと、後になってから気付いたのじゃ。それを、若様がわたくしにわからせてくれた。喬子様のお気持ちを、無駄にはできぬ、そう気付かせて下さったのじゃ。喬子様が、お戻りになることを願うためにもな。」

それを聞いた宇多は、少し俯いた。そして、

「わたくしも・・・、心が落ち着いたらまた、戻って来ても宜しゅうございましょうか。」

と聞くので茂姫が、

「勿論じゃ。わたくしは、いつでも待っておる。」

そう言うので、宇多の目からは涙が溢れ出た。それを見て、茂姫も泣きながら笑った。宇多は、

「今まで、御台様にお仕えでき、わたくしは幸せでございました。」

と言うので、茂姫がこう言った。

「よせ。これではまるで、まことの別れのようではないか。」

それを聞いた宇多も笑顔を見せ、

「左様でございますね。」

と言い、互いに笑い合っていた。そして茂姫も、

「そなたには、苦労ばかりかけたな。」

と反省すると宇多も、

「いえ。わたくしの方こそ、心配ばかりかけて。」

そう言うので、茂姫がこう言った。

「そなたいつか、言うておったの。大切なものを守るためならば、人をも殺す覚悟だと。」

『わたくしは、大切な人の為なら人をも殺す覚悟でおります!』

宇多もそれを思い出し多ように笑い、

「あの時は、まことにご無礼を申し上げました。」

と言うと、茂姫がこう言った。

「それと、こうも言っておったな。」

『わたくしが誰かを愛せば・・・、きっと誰かが傷付きます。』

「されどそなたは、その言葉とは裏腹に、誰かのために何事をも恐れぬ心を持っておった。」

『本日より、わたくしが御台様の側近です。』

そしてまた、茂姫は思い出しながら微笑していた。それを聞いて宇多は、

「わたくしは・・・、そのようなたいそれたものなど。」

と言うので茂姫が、

「いや。わたくしはわかる。他の女子達には持ち得ぬ、何かがそなたにはあると。長い間、わたくしに支えてきてくれたそなたのことじゃ。自分でも、気づく日が来るであろう。」

そう言った。宇多も恥ずかしそうに笑い、

「はい・・・。」

と、答えていた。茂姫が宇多を見つめ、

「今一度、礼を言うぞ。」

そう言うので宇多は驚いた表情で、

「そんな・・・、勿体のうございます。」

と言うと茂姫は笑い出し、

「やはりそなたは、昔と変わっておらぬの。」

そう言うのを聞いて、宇多も笑っていた。その後二人は、互いに見つめあって笑っていたのであった。

浄岸院(年が明けて間もなく・・・。)

宇多の前には、家斉と茂姫がいた。家斉が宇多に、

「まことによいのか?」

と聞くと宇多は、

「はい。」

そう言って頷いた。茂姫も宇多を見つめ、

「今まで、ご苦労であった。」

と言うのを聞いて宇多は、

「はい。」

そう言い、頭を下げた。茂姫が、

「寂しくなるが、仕方のないことなのじゃな。」

と言うと宇多は顔を上げ、

「今まで、お世話になりました。大奥を出た後は、江戸の実家にて身を寄せようと思います。」

そう言うので家斉は、

「よしわかった。その家のもの達にも宜しく伝えておいてくれ。」

と言うのを聞いた宇多は笑顔で、

「はい。」

と、答えた。すると家斉の隣で茂姫も、

「お宇多・・・、どうか息災でな。」

そう言うと宇多は元気よく、

「はい!」

と、答えていた。それを見て、茂姫もつられて笑っていた。そして宇多はもう一度頭を下げると、立ち上がって部屋を出て行った。それを、茂姫は涙を流しながら、笑顔で見送っていたのだった。

部屋に戻ると茂姫が、

「心に、大きな穴が空いたみたいじゃな。」

そう呟いているのを、心配そうにひさも見つめていた。すると、

「失礼仕ります。」

と言い、ある女性が入ってきた。その女性は頭を下げ、また上げるとこう言った。

「本日より、御台様にお仕えすることとなった、花園はなぞのにございます。お宇多様から、御台様へご紹介に上がりました。」

それを聞いて茂姫は、

「お宇多から?」

と聞くと、花園は言った。

「はい。これから、身命を賭して御台様をお支えいたします。」

そして、再び頭を下げた。それを見て茂姫は嬉しそうに、

「そうか・・・、お宇多が。」

と呟くと、ひさにこう言った。

「これがあの者からの、最後の贈り物なのかもしれぬな。」

それを聞いてひさも、

「はい。」

と答えた。茂姫は花園に目を戻し、嬉しそうに笑っていたのだった。

ある日、京では喬子が織仁の部屋へ行っていた。そこには、公卿・三条さんじょう実起さねおきが来ていた。それを見て喬子が、

「三条様・・・。」

と言うと実起は懐かしそうに、

「おぉ、喬子さんやあらへんか。お久しぶりどすなぁ。」

そう言うと、喬子は身を翻してそそくさと自室へ帰って行った。それを見て実起は、

「やはり、まだ心が癒えてへんのですな。」

と言って織仁を見ると、織仁も心配したような顔をしていた。

喬子は自室の縁側に座っていると、そこに母の高木敦子が来てこう言った。

「喬子さん、大丈夫どすか?」

それを聞いて喬子は、敦子の方を見た。

「おたあさん・・・。」

喬子はそう言って敦子を見つめると敦子が、

「心配せんでもええんですよ。無理に、江戸へ行こうとせんでも。織仁さんも、きっとお分かりになるはずです。」

そう言うので喬子も、

「ありがとう。」

と言った。敦子は続けて、

「何があろうとも、わたくしはあなたの味方です。あなたが江戸へ行ってる間にも、とても心配しておりました。今も、あなたの心を察すると、胸が苦しゅうなります。」

そう言うのを来て喬子は、

「おたあさん、そないに心配せんといて。わたくしは、大丈夫にございます。」

と言った。敦子はそれを聞き、

「そのお言葉だけでも、嬉しゅうございます。」

そう言い、喬子をゆっくり抱き寄せた。喬子も目を閉じて、母の温かさを感じていたのだった。

一方、江戸の一橋邸には重豪が来ていた。治済は剃髪し、頭に布を覆っていた。治済は酒を注ぎながら、

「お富がいなくなってから、毎日が退屈でしてな。」

と言うと、重豪はこう言った。

「今の言葉、公方様がお聞きになったらいかに思うでしょうなぁ。」

それを聞いた治済は、

「いや。あやつはあぁ見えて、下の者に任せきりであろう。」

と言い、酒を飲み干した。そして治済は上を見上げて、

「まぁ、贅沢というものは、最初は憧れておってもいざ手に入るとなると、何やら虚しゅうございますなぁ。」

そう言うと重豪も笑い、

「まことに、そういうものにございましょう。」

と言い、酒を飲み干した。そして重豪は、こう続けた。

「わたくしも、近頃は藩の財政にも目を向けるようになりましてな。」

それを聞くと治済が意外そうに、

「それは、あの騒動があったからではござらぬか?」

と聞くと、重豪はこう言った。

「あ、はぁ。それもあるにはあるのですが、今思えば、斉宣の気持ちも少し分かる気がしてきたのです。」

それを聞いた治済は、

「そうですか。でもわたくしは、己の生活を改めることは致しません。この世に生まれたからには、最期まで贅沢三昧な日々を送りとうございますからな。」

と言って笑うと、重豪はこう言った。

「天下に先んじて楽しめば、ということですな。」

それを聞くと治済が、

「上手いこと言ってくれますな!」

と言い、二人はその後も酒を飲み交わしながら笑い合っていた。

薩摩藩邸でも、斉宣と昌高が会って話をしていた。

「兄上、その書物は?」

昌高が斉宣が手に持っている書を見ながら聞くと、斉宣は言った。

「また父上がくれたのじゃ。」

「父上が?」

昌高が聞くと、斉宣はこう言った。

「何やら近頃、妙にお優しいのじゃ。今日も・・・。」

斉宣はそう言って、話し始めた。

重豪が斉宣の部屋に来て、

「そなたは、風邪など引いておらぬか?」

と聞くと斉宣は、

「はい。」

と答えた。重豪は斉宣の隣に座り、

「何か欲しいものがあれば、遠慮なく言うがよい。」

そう言うので斉宣は気まずそうに、

「はぁ・・・。」

と言い、重豪を見ていた。重豪はそのまま立ち上がり、部屋を出て行った。

話し終えると斉宣は、

「父上は、本当にお許しになったのであろうか・・・。」

と呟くと、昌高もこう言った。

「きっと、そうなのでしょう。」

そして斉宣は、

「わからぬのは、以前より優しくなったことじゃ。何か、あるのであろうか・・・。」

そう言って呟くので、昌高は言った。

「考えすぎは兄上の悪い癖です。」

それを聞き、斉宣も微笑した。そしてまた、心配そうな顔付きになっていたのであった。

その頃、江戸城では茂姫が部屋から庭を眺めていた。すると後ろから、

「喬子のことを考えておるのか?」

と家斉が聞くので、茂姫はこう答えた。

「はい。まだ、子を亡くした悲しみが消えておられぬのではないかと。側室を持たぬと仰せであった若様の希望通り、喬子様がお戻りになる日を待つしかないのでございますね。」

それを聞くと家斉は、

「希望を捨てぬ・・・、か。」

と呟くと、茂姫は振り返って聞いた。

「上様は、誰かを待ち続けたことはないのですか?」

それを聞くと家斉は、

「ないのぉ。強いて言うなら、これが初めてじゃがの。」

と言うのを聞いた茂姫は嬉しそうに、

「上様も、わたくしと気持ちは同じなのですね。」

そう言うのを聞いて家斉は少し恥ずかしそうに目線を逸らすと、茂姫もそれを見て笑っていたのだった。

浄岸院(そして・・・。)

京では、喬子が織仁に呼ばれていた。織仁が喬子を見つめ、

「また江戸に行くがよい。」

と言うので喬子は首を横に振り、

「それは、何故ですか?」

そう言うので、織仁はこう言った。

「子を亡くしたことが辛いのは、ようわかった。されど、いつまでも閉じ籠ってなどおれんのじゃ。どうか、再び行ってくれぬか?」

それを聞いて喬子は、

「嫌でございます。わたくしは、もうに度とあのような辛さを味わいとうございません。きっとまた子ができても、同じことになるのは嫌でございます。どうか、お許し下さいませ。」

と言うのを聞き、織仁はこう言った。

「それはならぬ。そなたはもう、ここにはおれんのや。」

それを喬子の斜め後ろで聞いていた敦子が、

「恐れながら、それはあんまりではあらしゃいませぬか?」

と言うと、喬子は泣きそうになりながら急いで部屋へ戻って行った。

部屋に行くと、ゆっくりと座り込んだ。そうすると、あの頃のことが蘇った。

『江戸に行っても、しっかりやるのやぞ。』

織仁が、最初に送り出した時言った言葉だった。それを思い出すと、喬子は泣き崩れていた。それに手を添えたのが、母の敦子であった。敦子はただ黙って、喬子に寄り添っていた。

江戸でも、茂姫が心配そうに話していた。

「喬子様が京に帰られてから、丸二年じゃな。長いようで、あっという間であった。」

それを、ひさ達も見つめていた。すると花園が入って来ると、こう言った。

「若君様が、お見えにございます。」

それを聞いて茂姫は、

「若様が・・・?」

と、意外そうな顔で聞いた。

茂姫は部屋へ行き、家慶と向かい合った。茂姫は、

「どうされたのですか?」

と聞くと、家慶が言った。

「京から、何か知らせはないかと思いまして。」

それを聞いた茂姫は、

「いえ・・・。わたくしも、待ってはいるのですが。」

と、悲しそうに答えた。それを聞くと家慶も、

「そうですか、やはり・・・。」

そう言っていると、茂姫がこう言った。

「しかし、表向きの話によれば、京では喬子様を江戸にお帰しする働きかけがあるとか。」

それを聞いた家慶は嬉しそうに、

「それは、まことですか?」

と聞くと、茂姫は答えた。

「はい。そう聞いております。」

すると家慶は笑い、

「そうですか。わたくしは、あの者との約束をまだ果たせていません。」

と言うので、茂姫は聞いた。

「約束・・・?」

「はい。必ず、守り、幸せにすると。」

家慶が言うのを聞き、茂姫はこう言った。

「そうですか。わたくしも、そう思います。喬子様を救えるのは、あなたをおいて他にはおりません。」

それを聞いた家慶は少し恥ずかしそうに、

「わたくしは、誰にどう思われようと、側室を持てと言われようと、喬子の帰りを待ちたい。ただ、それだけにございます。」

と言うので茂姫は愛おしそうに家慶を見つめ、

「あなたの優しさには、誰も敵いません。」

そう言うので、家慶は更に恥ずかしそうな表情をしていた。それを、茂姫も笑って見ていたのだった。

浄岸院(それから約一年半の間、京から何の知らせもなく、時だけが過ぎ去ったのでございます。)

一八二〇(文政三)年二月二三日。喬子は、部屋の縁側に座って和歌を作っていた。すると、敦子が走ってきた。

「喬子さん、大変どす。」

敦子が息を切らしながら言うので喬子が、

「何ですか?」

と聞くと敦子が、

「おもうさんが・・・。」

そう言うのを聞いて喬子は不思議そうに、

「えっ?」

と聞いていた。

その後、喬子は中で敦子から詳しい話を聞いた。

「亡くなっ、た・・・?」

喬子が聞くと、敦子がこう言った。

「少し前から、寝込んでおられて、三日前、急にご病状が悪化し、その日の内に・・・。」

それを聞いた喬子は愕然とし、

「何で・・・、何でもっと早う教えてくれはらへんかったんですか?」

と聞くと、敦子がこう言った。

「それは、あのお方からのお願いだそうなのです。」

「願い・・・?」

喬子が聞くと、敦子が話し始めた。

織仁は病床の上で、こう言っていた。

「もしもわしに何かあっても、喬子には言わんといてくれ。」

それを聞いた家来は、

「それは、何ゆえに。」

と聞くと、織仁はこう言った。

「喬子に、心配はかけとうないのや。早う、江戸へ戻る日が来るように、今は願うておるのや。徳川の娘となってくれるよう・・・。」

敦子の話を聞き、喬子はこう言った。

「それは・・・、わたくしが早う江戸へ帰らぬからですか?わたくしが、言うことを聞いておれば、こないなことには、ならんかったんですか?」

喬子がそう必死に聞くと、敦子が首を振ってこう言った。

「あなたのせいではあらしゃいません。あのお方も、こう言うてはったようです。」

『喬子によう伝えておいてくれ。何でも、己のせいにするでないと。』

そのことを聞くと喬子は泣き出し、

「おもうさん・・・。わたくしは・・・、わたくしは、これからどうすればよいのですか。」

と言い、また泣き崩れた。それを支え、敦子がこう言った。

「大丈夫です。わたくしが、側におります。」

それを聞いて喬子は顔を上げると、

「おたあさん・・・。」

と呟いた。そして喬子は、また敦子の方にしがみついて泣いていたのだった。

浄岸院(しかしその一月後。)

茂姫が、

「喬子様が、江戸にお戻りになるじゃと?」

と聞くと、花園はこう言った。

「はい。再び大奥に上がり、若君様のご正室となられるそうにございます。」

それを聞いた茂姫は嬉しそうに、

「そうか。やっと、戻って来られるか。」

と、言っていた。

それを家慶に言いに行くと家慶が、

「喬子が?」

と聞くので、茂姫はこう言った。

「はい。あなたの望みが叶ったのです。きっと、喬子様にその思いが通じたのでしょう。」

それを聞くと家慶は、

「わたくしはただ、もう一度会いたかっただけにございます。」

と言うので、茂姫は言った。

「いいえ。あなたは、一番喬子様のお側についていて差し上げるべき人です。その思いが強ければ強いほど、喬子様のお心もすぐに癒えましょう。」

それを聞くと家慶も嬉しそうに笑いながら、

「そうですね。」

と言うと、茂姫も笑顔で答えていたのだった。

その夜。喬子は、縁側に出て月を見つめていた。そこへ敦子が来ると、

「どうしましたか?」

と尋ねるので、喬子が言った。

「天は、もうわたくしをお見捨てになったのでしょうか。」

それを聞いた敦子は優しい表情をして、

「そう思うのは、ご自分に、自信がないからと違いますか?」

と言うので喬子は敦子を見て、

「自信?」

そう聞くと、敦子はこう答えた。

「自信を持てば、前向きに考えることができます。もっと、強う生きなはれ。」

それを聞いた喬子は嬉しそうに、

「おたあさん・・・。」

と呟いていた。敦子が、

「いつまでもそないな所にいたら、風邪を引きますえ。どうか、中に。」

そう言うと喬子も、

「はい。」

と言い、中に入っていった。敦子もそれを愛おしそうに見つめながら、続いて部屋に入っていくのだった。

一方、薩摩藩邸では・・・。斉宣が縁側に出て、

「異人と?」

と聞くと、先に出ていた昌高がこう言った。

「はい。わたくしは、異国から来た人々と会うことが夢なのです。いつか交流を交えて、品物の売り買いなどをやってみたいと思います。兄上は、夢はありますか?」

それを聞いた斉宣は、

「わたくしは・・・、そのような大きな夢など、考えたこともない。そのようなものを作っても、叶うはずがないと思うてな。」

と言うと、昌高が言った。

「兄上も、作ればよいではないですか。叶う叶わないではなくて、夢を作ることに意味があるのです。」

「夢を、作る・・・。」

斉宣が呟くと昌高は、

「兄上ならきっと、夢をまことにすることができるでしょう。」

と言うのを聞いて斉宣は嬉しそうに笑い、

「あぁ。」

そう答えると、昌高も笑っていた。

その後、茂姫は城の縁側に立ってこう言っていた。

「今日が、喬子様ご出発の日。久しぶりの江戸入りじゃ。さぞや、ご不安であろう。わたくし達も、できることをやらねばならぬ。」

それを聞いていたひさが、

「できること、ですか?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「また江戸の暮らしに馴染めるよう、ご指南するのじゃ。」

それを聞いてひさも、

「はい!」

と答えていた。

一方、京の有栖川宮家では、喬子が織仁の仏壇の前で線香を上げていた。喬子は、目を瞑ってただ拝んでいたのだった。

その後、兄の有栖川宮ありすがわのみや韶仁つなひとに呼ばれた。韶仁が、

「ほんまにええんか?それで。」

と聞くと、喬子はこう言った。

「はい。もう、決めたことにございます故。」

それを聞くと韶仁も仕方なく、

「わかった。しっかりやるがよい。」

と言うのを聞いて喬子は、

「ありがとう存じます。」

そう言い、頭を下げた。その後ろで敦子が、

「また、寂しゅうなったらいつでも帰って来なされや。」

と言うと喬子は振り向き、

「はい。でも、心配はご無用にございます。わたくしは、自分に自信を持つことに致しました故。」

そう言うのを聞いた敦子は、とても嬉しそうに頷いた。喬子は再び韶仁の方を向くと、

「では、行って参ります。」

と言った。それを聞いて、韶仁も頷いた。そして喬子は立ち上がり、部屋を出て行った。それを見送ると韶仁が、

「ほんま、大きゅうなったのぉ。」

そう呟くと敦子も笑顔で、

「ほんまでございますねぇ。」

と言っていた。喬子は、いつもと違う希望に満ちた表情で廊下を歩いていたのであった。

浄岸院(その年、京から遠く離れた地である密会が行われておりました。)

佐倉藩の堀田家というところに、定信は訪れていた。それを出迎えたのは、佐倉藩主・堀田正愛ほったまさちかだった。正愛は落ち着いて、

「あなた様の噂は、よく聞いております。幕閣だった頃は、皆から支持され、たいそうご立派であられたとか。」

そう言うので定信は、

「昔の話です。」

と言い切った。すると正愛が、

「その松平様が、我が藩に何のご用でございましょうか。」

そう聞くと、定信は言った。

「我が白河藩は、江戸湾警備を任されております。しかしここ数年で、その人数が減ってしまい、他の藩に頼みたいのです。」

それを聞いて正愛は、

「それで、我が藩を選んだと。」

と言うので、定信はこう言った。

「佐倉藩殿であれば、江戸湾からそう遠くないこともあり、家臣も余りがあるかと。」

それを聞いた正愛が暫く考え、

「それならば、良き案がございます。」

と言うので定信は、

「案?」

と聞くと、正愛はこういうのだった。

「領地替えでございます。」

「領地替え・・・。」

「領を他の地へ移せば、任される場所も変わりましょう。」

正愛がそう言うので、定信は呟いていた。

「我が藩を移す・・・。」

それを帰って、息子の定永に話した。

「藩を移すですと?」

定永が聞くと、定信はこう言った。

「それが、条件だと言うておった。」

それを聞いた定永は、

「領地を変えるなど・・・、それだけはなりません!わたくしは、まだここでやるべきことがあるのです。そうなれば、わたくしが直に談判に参ります。」

と言うと定信は、

「そなたの考え一つで、変えられるのか?」

そう聞いた。すると定永は真剣な目をして、

「やってみます。」

そう言うので定信も、

「そうするがよい。」

と言うのを聞いて定永は自信がついたように笑顔になり、

「はい!」

そう答えていたのであった。

浄岸院(そして、江戸には喬子様が約四年ぶりにお戻りになったのでございます。)

喬子は公家の髪型から、根取りの下げ髪に改め、廊下を歩いていた。

部屋では家斉が喬子に、

「よく帰ってきてくれたな。家慶も皆、待っておったぞ。」

そう言うので喬子は、

「ご心配をおかけ致しましたこと、お詫び申し上げます。わたくしはこの、徳川家の女子となるために、再び参りました。これから先も、宜しくお願い致します。」

と言って、頭を下げた。それを白髪が増えた家斉は、笑顔で見ていた。

その後、喬子は家慶と会っていた。家慶が優しく喬子を見つめ、

「待っておったぞ。」

と言うと喬子は俯きながら、

「ご心配を、おかけ致しました。」

そう言うので、家慶は喬子の肩に手を添えてこう言った。

「わかっておる。よく決心してくれた。そなたがいなくなってから、わしは思うたことがある。」

すると喬子は顔を上げ、家慶を見つめた。そして家慶は続け、

「そなたをこれからも、守り抜きたいのじゃ。」

と言うのを聞いた喬子は、頷いた。それを見て家慶も、笑顔で喬子を抱き寄せていたのだった。

その夕方、茂姫も家斉と話をしていた。茂姫は、

「これで、大奥が賑やかになるとようございますね。」

と言うと、家斉がこう言った。

「喬子は、徳川の人間になると言うたそうじゃ。」

「徳川の、人間・・・。」

茂姫も、そう繰り返した。家斉は続けて、

「それに、家慶が側室を持つことも認めておるそうじゃ。」

と言うので茂姫が、

「まことでございますか?」

そう聞くと、家斉が言った。

「きっと、父親が亡くなってまた自分を責めておったのであろう。」

「お父上様が・・・。」

「徳川家の者になれという父からの遺言を、守りたかったのであろう。」

それを聞いた茂姫も嬉しそうに笑い、

「ほんに、ようございました。」

と言うと家斉も、笑っていた。

その後、喬子が自室で書を読んでいると、

「失礼仕ります。」

と言う声がするので前を向くと、茂姫が入ってきた。茂姫は喬子の前に座り、

「喬子様。この度は、お帰り下さり、誠に嬉しく思うております。京では、大切なお方が亡くなり、さぞや心苦しかったことでしょう。それ故、この江戸城大奥で、わたくし共一同、心を込めて、喬子様がお戻り遊ばしたことをお喜び申し上げ・・・。」

と言いかけると喬子は、

「お言葉ながら、わたくしの気持ちをわかっておいででない方に、そないなことを言われても、嬉しゅうございません。」

そう言うので、茂姫は喬子を見つめた。喬子は続けて、

「わたくしは、徳川家を存続させるため、そして家慶さんの妻として、ここに戻って参ったのです。大奥のためでも、御台さんのためでもありませぬ。」

そう言って立ち上がり、部屋を出て行った。それを、茂姫は残念そうに見送っていたのだった。

その後、茂姫は縁側に立ってこう言った。

「のぅ、ひさ。」

呼びかけられたひさは、

「はい。」

と言うと、茂姫はこう言うのだった。

「何故人というのは、一旦決め付けると、そう思い込んでしまうのであろう・・・。」

それを聞いてひさが心配そうに、

「御台様・・・。」

と呟くと、茂姫は強気な顔でこう言った。

「わたくしは、負けはせぬ。何があろうとも、どう思われようとも、あのお方の心を開かせてみせる。それが、次なるわたくしの使命なのじゃ!」

それを聞いてひさも少し笑顔になり、

「はい。」

と答えた。そして茂姫も、真剣な表情で庭を見つめていたのだった。



次回予告

茂姫「領地替え?」

定永「わたくしは、己の思いを貫きとうございます。」

家斉「あの者らしいの。」

茂姫「喬子様は、あなたに側室を持てと仰せられたのですよ?」

家慶「わたくしは、怖いのです。」

斉宣「怖い、ですか?」

定信「頑張るのじゃ、定永。」

茂姫「お美代が未だ父と繋がっておるじゃと?」

美代「そのお話、お受けできません。」

堀田正愛「我が藩に託すですと?」

定永「お願い致します!」

茂姫「わたくしは、もっと人を信じたい。もっともっと、広い世界を見るために。」




次回 第四十回「定永の密談」 どうぞ、ご期待下さい!

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