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第三十八回 愛情と絆

ある日の夜。家慶と喬子は、寝室にいた。家慶が、

「そなたが帰るということは、あちらは知っておられるのか?」

と聞くと喬子は、

「はい。」

そう答えた。家慶は、

「わたくしは、できればそなたと別れとうない。されど、これが今のそなたにとって一番よいのかもしれぬ。」

と言うと喬子の方を向き、手を取った。喬子はその手を見つめると、家慶が言った。

「何があっても、わたくしはそなたを忘れぬ。そのことだけは、わかっていて欲しいのじゃ。」

それを聞いた喬子は俯いたまま、小さく頷いた。そして最後に、、家慶は喬子を抱きしめた。喬子の目から、一筋の涙が零れていたのだった。

その頃、茂姫も部屋で仏を眺めていた。茂姫が、

「喬子様がご無事で帰られるよう。」

と言い、手を合わせていた。そして茂姫は二人の方を向き、

「わたくしは喬子様のお心が早く癒えるよう、笑って見送りたい。そのくらいしか、して差し上げられぬ故な。」

そう言うのを聞いた宇多とひさは、

「はい。」

と答えた。茂姫は再び仏壇に目を戻すと、それを見上げていたのだった。

浄岸院(京へ帰ることとなった喬子様を、茂姫は笑顔で見送りたいと決意を固めていたのです。)



第三十八回 愛情と絆


一八一六(文化一三)年八月。

浄岸院(ついに、喬子様が江戸を去られる時がやってきました。)

喬子は、家斉の前に座っていた。家斉が、

「思い留まるなら今のうちじゃぞ。」

と言うと喬子は、こう言った。

「いえ。わたくしがここにいる意味は、もうどこにもございませぬ。」

それを、後ろで茂姫達も見ていた。家斉は、横にいる家慶を横目で見た。すると家慶が、

「喬子・・・。京の方々にも、宜しくと伝えておいてくれ。」

と言うのを聞き、喬子は頭を下げた。喬子は顔を上げると、

「ではこれにて、失礼致します。」

そう言うと立ち上がり、部屋を出て行こうとした。すると家慶が急に立ち上がり、

「喬子!」

と呼びかけると、喬子は振り向いた。家慶は、

「気が向いたら、またいつでも戻ってくるがよい。わたくしは、ずっと待っておる。」

そう言うので、喬子は一礼した。そしてすぐにまた向こうを向くと、付いてきていた女官を引き連れて部屋を出て行った。茂姫も、それを物悲しそうに見つめていた。家慶も、悲しそうな、悔しそうな、複雑な表情をしていた。喬子は廊下を歩きながら、涙を流していた。茂姫は、そのような喬子の気持ちを受け止め、涙を浮かべていたのであった。

その後、茂姫は家斉にあることを提案した。家斉がそれを聞き、

「家慶に側室をじゃと?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「はい。喬子様がお帰りになったとあらば、家慶様はまたお一人です。お世継ぎのことも、考えねばなりませぬ。そうせぬとまた、お美代の身内が動き出すやもしれませぬぞ。」

それを聞いた家斉が、

「側室のぉ・・・。」

と呟き、こう言った。

「家慶は以前、中臈の女子数人と契りを交わしたというが。」

それを聞いた茂姫は、

「何の話ですか?」

と驚いたように聞くと、家斉が話し始めた。

「家慶は、ある女子と一緒に寝ておった。それを、喬子も見ておる。」

「喬子様が?」

茂姫はそう聞くと、家斉の話の続きを聞いた。

喬子が真夜中に廊下を歩いていると、灯りの漏れている部屋を見つけた。喬子はそっと近付き、中を覗いた。そこには、寝ている家慶の枕元に座っている女性がいた。それは中臈・おひさという女子であった。お久は、家慶の肩を触ったりしている。それに驚いた喬子は、急いで部屋に戻っていった。

その話を聞いた茂姫は、

「家慶様にも、そんなことがあったのですね。」

と言うと、茂姫が家斉に言った。

「されど、喬子様がおられぬ今、側室を迎えぬと、お世継ぎは生まれませぬ。そのこと、上様から若様に、お話ししては下さいませぬか。」

家斉はそれを聞き、

「わしからか?」

と聞くと茂姫が、

「わたくしが言うよりも、上様から直々にお話しした方が宜しいかと存じます。」

そう言うので、家斉は少し考えているようであった。

一方、薩摩藩邸で重豪が治済が話していた。重豪が治済に酒を注ぎながら、

「こうして二人きりで語らい会うのは、久しぶりにございますなぁ。」

と言うと治済も、

「時に大奥では、お世継ぎ騒動が再び起こっておいでとか。」

そう言うのを聞いて、重豪がこう言った。

「御長男の竹千代様が亡くなり、正室の喬子様も京にお帰りになっては、側室でも迎え入れぬ限りは、ことが治まりませぬ。」

すると治済は、

「陰では、公方様御側室のお美代殿の子を次なるお世継ぎにとの声もございます。お富は文で、そのお美代殿を嫌っておりました。御台様の立場がなくなるとなぁ。」

そう言うので重豪は意外そうな顔をすると、

「お富様が?」

と尋ねると、治済がこう言った。

「はい。御台様のお子も、幼くして亡くなられました故、事もあろうに同じ主の側室の子を次の将軍にするなど、断じてならぬと。」

それを聞いて重豪は嬉しそうに、

「そうでございますか・・・。」

そう言うと、話を変えた。

「時に、斉興の様子は。」

すると治済は、

「たいそうご立派にござるぞ。しっかり、自分の意見をお言いになる。もう後見人は不要かと。」

と言いながら、学問に勤しんでいる斉興の姿を思い浮かべた。それを聞いて重豪も、

「お世継ぎも、そろそろ決めさせなくては。」

と言うので治済も、

「そうですな。」

そう言った。二人はその後も、笑顔で酒を飲み交わしていたのだった。

その頃、法華経寺ほけきょうじでは、日啓と清茂は話していた。日啓が、

「溶の子を、お世継ぎにでございますか・・・。」

と言うと清茂が、

「それにはまず、何処に嫁がせるかでござる。」

そう言うのを聞いて日啓は、

「でも幕府側に知れたら、此度こそお終いにございますぞ。」

と不安そうに言うのと清茂は、

「分かっております。そのくらいの覚悟がなければ、中野家や、この寺の発展は望めませぬ。」

そう言うと日啓は、

「はぁ。」

と言って清茂を見ていると、清茂もそれを見つめ返しているのであった。

夕暮れ時。重豪は縁側に立ち、思い出していた。

『御台様のお子も、幼くして亡くなられました故、事もあろうに同じ主の側室の子を次の将軍にするなど、断じてならぬと。』

そして重豪は、嬉しそうに微笑んでいたのだった。

その頃、部屋でそのお富が生け花をしていた。

浄岸院(そして数ヶ月が過ぎ、文化十四年二月。)

一八一七(文化一四)年二月。仏間では、茂姫や側室達が毎朝のように手を合わせていた。家斉が去ると、茂姫はお富の方を向き、手をついて挨拶をした。

「母上様、おはようございます。」

茂姫はそう言って頭を下げると、お富は何も言わずに部屋を出て行った。茂姫はそれに見とれているとそれを気にした宇多が、

「御台様?如何なさいました?」

と聞くので茂姫は気が付いたように、

「あ、あぁ。近頃、母上様の様子が変に思えてな。」

そう言うので宇多が、

「変?」

と聞くと茂姫は、

「お具合でもお悪いのではないか・・・。」

そう呟くと、

「やはりよい。気のせいであろう。」

と言って立ち上がった。周りの側室達はそれを見計らい、頭を下げていた。その中に、不思議そうに下から茂姫を見つめるお万がいた。そして茂姫は、宇多と数人の女中を連れて部屋へ帰って行ったのであった。

浄岸院(それから、一月もせぬある日。)

茂姫が驚いたように、

「母上様がお倒れに?」

と聞くと、家斉は言った。

「あぁ。」

それを聞いて茂姫は、

「それで、ご様子は?」

と聞くと、家斉はこう答えた。

「今は何ともない。それに、そなたには伝えるなと仰せであった。」

それを聞いた茂姫は、

「わたくしにでございますか?」

と聞くと、家斉がこう言うのだった。

「あぁ。また余計な心配をさせてしまうのではないかとな。」

「余計などではありませぬ。それに、母上様は上様の大切なお方故、わたくしも何かして差し上げられることがあれば、できることをやるのみにございます。」

茂姫もそう言うと、家斉がこう言った。

「それが、そなたの生き方故な。」

それをこいて茂姫は笑顔で、

「はい。」

と答えた。すると茂姫は、

「時に、これはわたくしからの考えなのですが。」

そう言うと家斉が、

「何じゃ。」

と聞いた。すると茂姫は、

「母上様を、一橋邸にお帰りになるようお勧めしては如何でしょう。」

そう言うので、家斉は聞いた。

「それは何故じゃ。」

すると、茂姫はこう言った。

「お父上様に会えば、きっとご病気も快方に向かいましょう。」

それを聞き、家斉がこう言った。

「されど、母上が果たしてそれをお望みになるかどうかじゃ。母上は、わしらがこの城に上がった時から共に来られたのじゃ。それ相応の、誇りをお持ちであろう。」

それを聞いて茂姫は、

「そうですか・・・。」

と言って、考えていた。それを、家斉も微笑しながら見ていたのであった。

部屋に戻った茂姫は、呟いていた。

「母上様のお身体を良くするには、やはり母上様を喜ばせることが何よりじゃ。それにはまず、何をすればよいのであろうか・・・?」

その後ろでは、宇多が思いつめたような表情をしていた。すると茂姫はいい案が思い立ったように、

「そうじゃ!」

と言って振り返ると、宇多に呼びかけた。

「宇多。上様に・・・。」

そう言いかけると宇多の様子を見て、

「宇多、どうしたのじゃ?」

と聞くと宇多は気が付き、

「あっ、何でもございませぬ。」

と言って頭を下げるのを、茂姫は不思議そうに見つめていた。

その後、茂姫は家斉にこう言った。

「どうか父上様を、このお城にお呼び頂きたいのです。」

家斉はそれを聞き、

「父上を?」

と聞くと、茂姫はこう言った。

「母上様をお帰しできぬなら、せめて父上様に来て頂くのでございます。そうすれば、きっとお喜びになりましょう。」

すると家斉が、

「これが、そなたにできることか?」

と聞くと、茂姫も笑顔で答えた。

「はい!」

それを見て、家斉も笑っていた。

そして家斉は、そのことを病床にいるお富に知らせに行った。

「御台様が。」

お富が聞くと、家斉はこう言った。

「父上には、わたくしから申しておきます。」

するとお富は、

「そうですか・・・。」

と呟いていると、家斉がこう言った。

「ご心配召されますな。父上は、今でも母上のことを大事に思っておられます。」

それを聞くとお富は、

「それならばよいのですが・・・。」

と言って俯くと、それを家斉も見つめていたのだった。

浄岸院(その知らせは、すぐに一橋邸に知らされ、そして・・・。)

重豪が話を聞き、

「お城へ?」

と聞くと、治済がこう答えた。

「はい。しかも、御台様がそう取り計らってくれたとのことでして。」

それを聞いた重豪は、

「ほぉ、茂が。」

と言うと、治済がこう言った。

「家斉も、お富のことを気にかけておりました故、子供というのはちゃんと陰で親のことを見ているのですな。はっは。」

治済がそう言って笑っているのを見て重豪も、

「まことに、左様でございますな。」

と言い、吊られて笑っていたのだった。

一方、斉宣は同じ藩邸の一室で書を読んでいた。そこへ、

「邪魔をするぞ。」

と言い、重豪が入って来た。それを見た斉宣は驚き、

「父上!」

そう言うと、重豪は数冊積み上がった書を置き、

「今日は、そちの好きな書を持ってきてやったぞ。」

と言うので斉宣が、

「はぁ・・・。」

そう言っている間に重豪は立ち上がり、

「邪魔をしたな、わしはこれで。」

と言うので斉宣は、

「父上・・・?」

そう不思議そうに言うと、重豪はそのまま出て行ってしまった。それを斉宣は呆然と見ていると、我に返ったように重豪が置いていった書の束を見つめていたのであった。

浄岸院(そして、治済様が登城される日がやって参ったのでございます。)

治済は、江戸城の廊下を渡っていた。

茂姫もその時、仏間で祈っていた。

「どうか、母上様のご病気が良くなりますように・・・。」

治済が部屋に入るとそこには、お富と家斉の姿があった。お富は病床の中にいて、家斉が付き添っていた。お富は治済を見て、頭を下げると咳き込むのだった。それを見て、治済は駆け寄った。

「おい、無理をするでない。」

治済がそう言って声をかけるとお富は、

「申し訳ございません。」

そう答えた。すると家斉が、

「では、わたくしはこれで。」

と言って立ち上がろうとするとお富は、

「よいではありませんか。」

そう言うと、家斉は言った。

「大丈夫にございます。どうかお二人だけで、お話し下さい。」

それを聞いた治済は家斉を見つめ、

「すまぬな。御台様にも、宜しく伝えてくれ。」

と言うと家斉も笑顔で、

「はい。」

そう言って立ち上がり、部屋を出て行った。それを見届けてから治済が、

「こうしてそなたと過ごすのは、何十年ぶりかのぉ。」

と言うと、お富もこう言った。

「ほんに、いつ以来でございましょう。」

治済が続けて、

「一橋の家に、戻っては来ぬか?そなたが豊千代と一緒に城へ上がったのは、あやつが心配であったからであろう。されど、今やあやつも御台様も、立派な大人となった。昔へは、帰れぬのじゃ。そなたが戻って来てくれたら、また昔のように様々なことを語り合えるであろう。どうじゃ?そなたは。」

と言うと、お富はこう言った。

「わたくしも、それはわかっております。されながら、わたくしは公方様を置いては行けぬのです。それ故、どうかお許し下さいませ。」

それを聞いた治済は、

「そう言うと思うた。御台様も、それを配慮されたみたいだからのぅ。」

と言うのでお富は、

「えっ?」

そう言って治済を見ると、治済がこう言った。

「そなたが、帰りたがらぬと思い、わしを城へ呼ぶよう家斉に頼んだと。」

それを聞いたお富が、

「左様でございましたか・・・。」

と言った。すると治済は、

「そなたは良くやった。徳川宗家のことを考え、家斉をあのように頼り甲斐のある男に育ててくれた。それは、そなたにしか出来ぬことじゃ。そなたがおらなかったら、あの者もあぁはなっておらなかったであろう。そなたは、大切なものを残してくれた。わしらの、絆をな。」

と言うのを聞き、お富は呟いた。

「絆・・・。」

すると治済は笑顔で、

「案ずるな。そなたを一人で死にはさせぬ。」

そう言った。それを聞き、お富は泣き出した。治済はお富を優しく抱き、寄り添っていた。それはまるで、ずっと一緒に暮らしてきた夫婦のようであった。

その頃、家斉は茂姫の部屋に行っていた。茂姫が、

「今頃、お二人はさぞや楽しそうにお話しされておりましょう。」

と言うと家斉が、

「のぅ、御台。」

そう言うので茂姫が、

「何ですか?」

と聞くと、家斉はこう聞いた。

「もし明日、己が死ぬとわかればそなたであればどうする。」

そう聞くのだった。すると茂姫は、

「どうなさったのでございますか。」

そう言った。家斉は、

「やはり、どうすることもできぬかのぉ・・・。」

と言っていると、茂姫はこう言った。

「わたくしであれば、こう思います。これが己の運命さだめだとあらば、まっすぐ突き進むのみにございます。」

それを聞いた家斉が、

「そなたらしいのぉ。」

と言い、茂姫を見ながらこう言った。

「わしは今思うた。大切にしたいものがある。それは、家族の、絆じゃ。」

それを聞いて茂姫は、

「絆・・・。」

と、家斉を見つめながら繰り返した。家斉は続け、

「わしは今まで、家を残すことだけを考えておった。されど、何かが足らぬと感じた。世継ぎよりも大切なもの、それは、家族への愛情故な。」

そう言うので茂姫はまた、

「愛情、でございますか。」

と呟いた。家斉は立ち上がり、

「あぁ、父上と母上のようにな。」

そう言うのを聞き、茂姫は目に涙を浮かべた。家斉は振り返り、茂姫を見るとこう言った。

「わしらも、外からあのように見えておるかのぅ。」

それを聞くと茂姫が、

「きっと、同じように見えておりましょう。お二人のように、わたくし達も愛し合っているのですから。」

と言うと家斉も、

「そうじゃの。」

そう言って微笑むので、茂姫もそれを見つめていたのだった。

そして、治済は一橋家に帰ってきたのであった。重豪が、

「どうでございましたか?」

と聞くと、治済は答えた。

「あ、いや。思ったより元気そうで、何よりでござった。」

それを聞いて重豪は、

「公方様も、お喜び遊ばされたことでしょうな。」

と言うと、治済がこう言った。

「いやいや。あやつは、わしのことよりもお富のことを気にかけております。そればかりか、わしのところへは文も送ってこぬのです。」

それを聞くと重豪は、

「その分、大丈夫ということでございましょう。」

と言うのを聞いて治済は、

「そうですな。」

そう言い、笑うと重豪もつられて笑っていたのであった。

浄岸院(一方、京に帰っておられた喬子様は・・・。)

喬子の父・有栖川宮織仁が、

「喬子は今、どないしておるのや。」

と家来に聞くと、家来はこう答えた。

「はい。ご自分のお部屋で、お歌を詠んでおられます。」

それを聞いて織仁は、

「子を亡くすゆうのは、この上なく、哀れや・・・。」

と言った。

その頃、喬子は縁側で歌を詠んでいた。するとそこへ喬子の兄・有栖川宮ありすがわのみや韶仁つなひとが来て、心配そうに聞いた。

「喬子。ええんか?帰ってきてしもうて。」

すると、喬子はこう答えた。

「ええんです。わたくしの居場所は、もうここしかございませぬ。」

それを聞いて韶仁は、

「おもうさんかて、心配してはったさかい、一回会うて話したらどうや?」

と言うので喬子が、

「はい。されど今は、こうしていたいんです。どうか勘忍しとくれやす。」

そう言うのを、韶仁は心配そうに見つめていたのであった。

茂姫はその夕方、縁側に座っていた。すると誰かが来る音が聞こえたので見ると、それはお富だった。茂姫が、

「母上様。」

と言うとお富は、

「そなたに礼が言いたくてのぉ。」

そう言うので、茂姫が言った。

「そのような。お気になさらずに、どうかお休みになって下さいませ。それに、礼には及びませぬ。わたくしはただ・・・。」

そう言いかけるとお富は、

「誤解なさるでない。」

と言うので、茂姫がお富を見つめた。そして、お富は続けてこう言った。

「わたくしは、まだ完全にそなたを認めたわけではない。ただ、此度の取り計らいは、わたくしに一橋のことを思い出させてくれた。そのことだけは、忘れたりせぬ。」

茂姫もそれを聞き、

「母上様・・・。」

と呟くとお富は、

「わたくしはこれで・・・。」

そう言って帰っていこうとすると茂姫が、

「あの、母上様!」

と呼び止めた。茂姫は続け、

「お美代の件、お聞きしました。上様に、それだけはならぬとお願いされていたことも。まことに、ありがとう存じあげます。」

そう言って頭を下げると、お富は振り返らずにこう言った。

「別に、そなたのためにしたことではない。御台所に名を汚すことは、断じて許さぬ。それ故、許せなかっただけじゃ。」

お富はそう言い残すと、去っていた。それを、茂姫は嬉しそうに見送っていたのだった。

その頃、家斉も美代と話していた。美代は、四、五歳の娘を抱いていた。家斉が、

「わしは父上や母上に、何かしてあげられたであろうか。」

と呟くと、美代は言った。

「公方様の存在だけが、心の救いだったのではないでしょうか。わたくしもこの子といるだけで、この上ない喜びを味わっております。」

美代はそう言いながら、娘の溶姫やすひめを見た。家斉は空を見上げ、

「そんなものかのぉ。」

と、呟くのだった。それを見て美代は、

「公方様は、良きご両親をお持ちだと思いました。わたくしの父は、わたくしを養女に出し、その養父もまた、わたくしをこの大奥にと送り込んだのです。それは愛されておらなかったという、何よりの証でございます。その分、羨ましゅうございます。」

そう言うので家斉が振り返り、

「それは愛されておらぬのではなく、愛をうまく伝えられぬだけなのかもしれぬ。」

と言うので美代は、

「うまく伝えられぬ、でございますか?」

そう聞いた。家斉は再び庭に目を戻すと、

「そなたが受け止めようと努力すれば、きっと伝わるであろう。」

と言うので、美代は笑った。家斉がまた振り返って、

「何じゃ?」

そう聞くと、美代はこう言った。

「申し訳ございません。何やら、御台様と話しているようで。」

それを聞いて家斉も微笑し、溶姫の頬を指で軽くついたりしていた。

浄岸院(そして一月余りのち、将軍家斉の母・お富様は静かに眠りにつかれたのでござます。)

一八一七(文化一四)年五月八日。茂姫はいつものように縁側に出て、実の母からもらったお守りを両手で握り、胸に当てて泣いていた。その様子を、宇多も部屋の中から見つめていたのだった。茂姫は涙を流しながら、

『姫様には、婚礼の日まで若様に会わないで頂きます。』

『薩摩にお帰りになれば、お父上も喜びましょう。何せ、愛する娘とまた暮らせるのですから。』

『此度の取り計らいは、わたくしに一橋のことを思い出させてくれた。そのことだけは、忘れたりせぬ。』

『御台所に名を汚すことは、断じて許さぬ。』

というお富の言葉を思い出していたのだった。

その頃、薩摩藩邸には斉宣の弟の昌高が来ていた。書の山を見ながら、

「これを、父上が?」

と昌高が聞くと、斉宣は言った。

「そうなのじゃ。あの父上がわたくしにくれるなど。」

それを聞いて昌高は嬉しそうに、

「それはもしや、父上が兄上のことをお許しになったからでは?」

と聞くので斉宣は微笑し、

「そうであればよいのだが・・・。」

そう呟いた。すると昌高は、

「大丈夫ですよ。父上は、いずれ兄上を藩政に戻して下さるはずです。わたくしからも、お願してみます。だから心配なさらず、元気をお出し下さい。」

と言うので斉宣は少し嬉しそうに、

「そうじゃな。」

そう答えて昌高を見ると、昌高も頷くのだった。

その頃、重豪は自室で書を読んでいた。広郷が、

「大殿様。江戸城大奥では先日、公方様のお母上であるお富様が、身まかられたそうにございます。」

と報告すると重豪は、

「そうじゃのぉ・・・。」

そう呟き、遠くを見つめた。すると思い出したように、

「そうじゃ。斉宣は今頃、喜んでおるかの。」

と言うのを聞いていた広郷が、

「あの。一体、何をお考えなのですか?」

そう言うのを聞くと重豪は怪訝そうに、

「何を、じゃと?」

と聞き返した。すると広郷は慌てて、

「あいや、近頃、よく斉宣様のことを口にしておられまする故。」

そう言うと重豪は微笑しながら、

「何故であろうのぉ。」

と言い、書に目を戻していた。それを、広郷も不思議そうな顔で見ていたのだった。

ある日の夜、茂姫は家斉に呼ばれていた。茂姫が、

「上様。家慶様の側室の件にございますが。」

そう言うと家斉は、

「母上の件などで忘れておったわ。」

と言うので茂姫が、

「では・・・。」

そう言いかけると、家斉はこう言った。

「されどのぅ、わしから話すよりも、そなたから話した方がよいと思うてな。」

「わたくしからでございますか?」

「あぁ。わしから話せば、また拒否されるであろう。そなたであれば、話がわかると思うたのじゃ。」

家斉がそう言うのを聞いて茂姫は、

「そうですか・・・。」

と言い、少し考え込んでいたのだった。

家慶が、

「側室ですか?」

と、怪訝そうに聞いた。茂姫も、

「はい。喬子様がおられぬ以上、それしか世継ぎを儲ける手立てはありませぬ。」

そう言うと、家慶がこう言った。

「しかし、わたくしは思うのです。まことに、それでよいのかと・・・。」

それを、茂姫も見つめた。家慶は続け、

「わたくしは、喬子にいつでも戻ってきてくれと言いました。もしも喬子が戻った時、わたくしに側室がいればどう思うでしょうか。きっと、己を責めるのではないかと思います。」

と言うと茂姫は、家斉の言葉を思い出した。

『家慶は、ある女子と一緒に寝ておった。それを、喬子も見ておる。』

そして、茂姫は聞いてみた。

「では、あなたと一緒に寝ていた女子は・・・。」

すると、家慶が笑ってこう言った。

「あれは、寝ていたのではありません。わたくしが風邪をひいた時、お渡りを控えていた時期があったのです。その時、身の回りの世話をしてくれていたのがあの中臈なのでございます。わたくしは側室など娶らずに、喬子の帰りを待ちたいと思います。」

それを聞いた茂姫は、

「あなたは・・・、本当に優しいのですね。」

と言うのを聞いた家慶も、恥ずかしそうに微笑んでいたのだった。

一方、松平家では定永が定信に、

「父上。何とか、江戸湾における白河藩の警備隊を増やしてもらえるよう、幕府に願い出てみます。」

そう言うと定信は、

「おぉ、やってみるがよい。」

と言うと定永は嬉しそうに、

「まずは出来ることから、やってみることが大切にございます故。父上のように、幕政を率いてゆくことはできませぬが。」

そう言うので、定信がこう言った。

「それでもよい。そなたは今や、白河を率いていっているのじゃ。そのことに変わりはない。」

それを聞いた定永も、

「はい!」

と答え、それを定信も見つめていた。

その後、茂姫は縁側に立って宇多にこう話していた。

「わたくしは・・・、誰かに励まされておる時が一番の喜びであると感じておる。」

それを聞いて宇多も、

「はい。」

と答えた。茂姫は続けて、

「わたくしに今必要なのは、解り合える、心じゃ。人はその心で、通じ合おうとする。故に、わたくしはもっとその心を強くしたい。如何なる人とも、通じ合えるように。」

そう言っていると、宇多が思い切ったようにこう言った。

「御台様、お話が。」

それを聞いて茂姫が振り返ると、

「何じゃ?」

と聞いた。宇多も、それを真剣な表情で見つめていた。

その後、二人が向き合って話をすると茂姫は宇多の話を聞き、

「大奥を出たいじゃと?」

と聞いた。宇多は、

「はい。喬子様を見て、決心致しました。わたくしも、我が子を早くに亡くしました故。」

そう言うので茂姫は、

「そなたも全ての子を亡くしておった故な。」

と言うと宇多は、

「わたくしの居場所も、ないような気がして、急に寂しゅうなったのでございます。」

そう言うので茂姫は、

「そのような・・・。」

と言いかけると、その言葉を遮るように宇多がこう言った。

「確かに、御台様は上様の側室であるわたくしを一番の側近として認めて下さいました。そのお優しさが、どれだけ救いになったか。されど、もうここにはおれぬ気がして・・・。どうかこの勝手なる願い、お聞き届け下さいませ。」

宇多はそう言って頭を下げると、そのまま立ち上がって部屋を出て行った。茂姫も、何と声をかけていいかわからぬまま、どうすることもできずにそれを見送っていたのであった。



次回予告

茂姫「今まで、ご苦労であった。」

宇多「はい!」

織仁「また江戸に行くがよい。」

喬子「わたくしはもう、京を離れとうはございません。」

家斉「側室を持たぬ?」

茂姫「喬子様のお気持ちを、無駄にはできぬ。」

喬子「亡くなっ、た・・・?」

織仁「喬子に、心配はかけとうないのや。」

重豪「天下に先んじて楽しめば。」

定信「我が藩を移す・・・。」

定永「それだけはなりません!」

家慶「そなたをこれからも、守り抜きたいのじゃ。」

茂姫「あなたの優しさには、誰も敵いません。」




次回 第三十九回「義娘むすめの決心」 どうぞ、ご期待下さい!

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