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第三十五回 正室の子

春の日差しが穏やかなある日、家斉は縁側に座って空を眺めていた。そして、あのことを思い出した。

『わたくしのお子を、次のお世継ぎにして頂きとうございます。』

それを見ていた老中が、

「公方様?」

と聞くと家斉は気が付き、

「あぁ。何でもない。」

そう答え、再び上の空であった。



第三十五回 正室の子


一八一二(文化九)年四月。茂姫は、いつものように仏間で参拝をしていた。家斉の少し違和感のある仕草を見て、茂姫は不思議そうな目をしていた。

その後、茂姫は家斉に聞いた。

「上様。何かおありなのですか?」

すると家斉は、

「何でもない。ただの風邪であろう。」

と言うので茂姫は、

「上様はこれまでに、数える程しかお風邪をお召しになっておられません。わけがあるなら、どうか話して下さいませ。」

そう言っても家斉は微笑し、

「大丈夫じゃ。それより、家慶とは会うたか?」

と、話をそらした。茂姫はそれを聞き、

「はい。それが、どうかされましたか?」

そう聞き返すと、家斉はこう言った。

「そろそろ、世継ぎを作らねばならぬな。そのことを、そなたからあやつに話してはもらえぬか?」

それを聞くと茂姫は、

「はい。」

と答え、家斉を見つめていたのだった。

それを家慶に言いに行くと家慶が、

「世継ぎですか?」

と、立ちながら振り返りざまに怪訝そうに聞いた。座っていた茂姫は続けて、

「はい。あなたも、次期将軍となられるお方。お世継ぎを儲けることは、政の次に大切なことにございます。」

そう言うので、家慶は茂姫の前に座りながら、

「そうは仰いますが、母上。わたくしには、まだそのような話は早うございます。まだ、将軍にもなっておらぬというのに。」

と言った。すると茂姫は、

「そのようなお話ではありませぬ。あなたは、前にも仰いましたよね?将軍家を守りたいと。」

そう言うので家慶が、

「はい。」

と答えると、茂姫は言った。

「ならば、決して早いなどと入っている場合ではありません。今からでも、できることは多くあるはずです。」

それを聞いて家慶は、

「父上は・・・、このままいくと当分譲ってくれそうにありませぬ。」

と言うので、茂姫は家慶を見つめた。家慶は、

「将軍になるめども立っておらぬに、次の世継ぎの話など、気が早すぎます。」

そう言うのを、茂姫は同情したように見ていたのであった。

浄岸院(一方、こちらでは・・・。)

一八一二(文化九)年四月六日。白河藩・松平家には、重豪が来ていた。重豪は、

「此度は当主就任、おめでたきことと存じます。」

と挨拶すると、上座に座っている松平家当主・松平まつだいら定永さだながが、

「そのような。勿体のうございます。」

そう謙虚に言った。すると隣にいる父の定信が、

「わたくしももう年にございます。それ故、家督を譲るのは今が丁度良いかと。」

と言うので、重豪もこう言った。

「定永殿であれば、きっと良い藩政を行ってくれるでしょうな。」

それを聞くと定永は、

「わたくしは父上と比べて、まだまだ未熟者でございます故、少し不安です。」

そう言うのを聞いて重豪は、

「まぁ、いざとなっては父君を頼りにすれば、何とかなりましょう。」

と言って笑った。すると定信が重豪に、

「時に、島津殿は息子の斉宣殿とは今でもよくお話しなさるのですか?」

そう聞くと、重豪は難しい表情になって言った。

「いや・・・、今は、難しいかと。」

定信がそれを聞いて、

「あの方も、きっと島津殿を頼りにしておりましょう。例の一件から、隠居させられても尚、父君を想っておりましょう。」

そう言うので重豪が、

「あの者は、わしを恨んでおります。それは・・・、わしがあの者を許しておらぬからかもしれません。ですが、わしまだ、許せぬのです。」

と言っているので定永が、

「それ程までに、憎んでおいでなのですか?」

そう聞いた。すると重豪は咄嗟に、

「あ、いや。申し訳ござらぬ、つい本音が出てしまって・・・。」

と言うので、定永が笑ってこう言った。

「わたくしの父上は、心がお広いお方です。それ故、わたくしも、父上のようになりたい。」

それを、重豪は見つめた。定永の横では、定信もそれを誇らしげに見ていたのであった。

江戸城では、中野なかの清茂きよしげが家斉に茶を点てていた。清茂が茶碗を差し出しながら、

「流石は公方様。よくぞ見抜かれましたな。」

そう言うと、家斉は無言で茶を飲んでいた。清茂の隣に、側室・美代みよがいた。家斉は茶を全て飲むと、それを畳の上に置いた。家斉は、

「そなたの点てた茶が、誰よりも美味い。」

そう言うので清茂は、

「有り難き、幸せにございます。」

と言うと、家斉はこう言った。

「されど、今日は少し違った。」

それを聞いた清茂が、

「どのように、違ったのでございましょう。」

と聞くと家斉は、こう言った。

「企ての味がした。」

「企ての味、でございますか?」

清茂が聞いた。すると家斉は清茂を見ると、

「お美代から全て聞いた。己の孫に当たる子を、将軍にしようとしておることもな。」

そう言うと、美代は下を向いた。清茂が、

「わたくしは、どのような処分もお受けする覚悟でございます。」

と言うと家斉は、

「わしは構わぬ。されど、大奥の女子達に気付かれると、後が怖い故のぉ。」

そう言うと、緑茶をすすっていた。家斉は再び清茂を見つめ、

「それを、よく知っておくのじゃ。」

と言うので清茂が驚いたように、

「黙っていて下さるのでございますか。」

そう聞くと、家斉が言った。

「皆に話したところで、どうにもならぬ故な。」

それを聞いて清茂は、

「ありがとうございます!」

と言い、頭を下げた。美代も、父に続いて頭を下げていたのであった。

その後、家斉は茂姫と話をしていた。茂姫が、

「上様。お世継ぎのお話、やはり若様には早かったのでは?」

と聞くと、家斉が聞いた。

「もし、喬子が男子を産めぬとなればどうする?」

それを聞いて茂姫が、

「若様にも、側室を持たせるのでございますか?」

と、聞き返した。家斉は続け、

「例に倣うと、そうなるであろう。しかしそれでも駄目ならどうすればよいと思う。」

そう茂姫に聞いた。茂姫は、

「養子を迎えるか・・・、まさか、ご自分の子をまた将軍に?」

とまた聞き返すと、家斉はこう言った。

「そうなるかもしれぬ。」

それを聞いた茂姫は恐る恐る、立っている家斉の顔を下からのぞき込むようにして言った。

「もしや、お美代の方を側室になさったのは・・・。」

すると家斉が、こう言った。

「あの者は、世継ぎを求めておる。」

「えっ?」

茂姫が声を上げると、家斉は歩いて行った。茂姫が立ち上がり、

「上様!」

と呼びかけても、家斉は振り返らずに向こうに行ってしまった。茂姫は、それを心配そうに見つめていたのであった。

その夜。家慶から、喬子に大奥へのお渡りがあった。二人は、寝室にいた。元気のない様子の喬子を見て家慶が、

「如何した。具合でも悪いのか?」

と聞くと、喬子はこう言った。

「もう、あなた様に嫁いで二年と半年程になります。」

それを聞くと家慶は、

「もうそれ程になるか。」

と言っていると、喬子はこう言うのだった。

「わたくしは、日に日に不安になるのでございます。家慶さんのお子を、生めるのかと・・・。」

それを聞くと家慶は喬子の手を握り、

「大丈夫じゃ。何も、世継ぎに拘ることはない。わしは、そなたと一緒にいられるこの時が、何より幸せに感じておるのじゃ。わしは、そなたを幸せにしたい。」

と言うと喬子も嬉しそうに、

「はい・・・。」

そう答えると、家慶は喬子を抱き寄せていたのだった。

翌日の朝。家斉は外に出て、茂姫の言葉を思い出していた。

『もしや、お美代の方を側室になさったのは・・・。』

それからずっと、家斉は空を眺めていたのであった。

浄岸院(しかし、その年の早秋のこと・・・。)

茂姫が怪訝そうに、

「お美代が、懐妊したじゃと?」

と聞くと、唐橋がこう言った。

「はい。公方様は、よく大奥にお渡りになっては、お美代の方と寝ていたそうにございます。」

それを聞いて茂姫は、

「何たることじゃ・・・。」

と呟くと、あの時の言葉が脳裏を過ぎった。

『あの者は、世継ぎを求めておる。』

すると茂姫が、

「もしや、お世継ぎが目当てでは?」

と聞くと、宇多は茂姫を心配そうに見つめた。唐橋はそれを聞き、

「あの者の身内は、幕府と通じているものが多ございます。それは、大いに考えられますが。」

そう言うのを聞いて茂姫は心配そうに俯き、

「やはりか・・・。」

と言い、顔を上げてこう言った。

「そうじゃ。わたくしが確かめて参る。お美代を、今すぐここへ呼ぶのじゃ。」

それをきいて唐橋は、

「はい。」

と言って頭を下げ、出て行った。茂姫は、それを真剣な表情で見つめていた。

しかし、茂姫の所に思わぬ返答が来た。

「会えぬ?それはどういうことじゃ。」

茂姫が聞くと、唐橋はこう答えた。

「はい。それが、身籠もったためか、身体がすぐれぬと申しておるそうでございまして、今は寝込んでいる様子でございます。」

それを聞くと茂姫は、

「そうか・・・。」

と言って、居たたまれなそうな顔をしていたのだった。

その頃、お腹が少し膨れた美代は、家斉と会っていた。家斉が、

「御台には会わなくてよいのか?」

と聞くと、美代は言った。

「御台様には、後でわたくしからお話し致します。」

家斉が、

「何故、そこまでして父に従うのじゃ。」

と聞くと美代は、

「父上様は、わたくしの恩人なのです。何の取り柄も持ち合わせていなかったわたくしを、気に入って養女に迎えて下さいましたから。」

そう答えた。美代は手をつき、家斉にこう言った。

「公方様。今一度、わたくしが男子を生んだ際には、その子を更なるお世継ぎにとお定め下さいませ。お願い致します。」

そう言って頭を下げると家斉は、

「今は、答えられぬ。」

と言うのを聞き、美代は顔を上げた。すると美代は、

「わたくしは・・・、父にこう言われました。中野家の命運を背負っていると。わたくしがお役目を果たせなければ、父上様はもう行く先がないのでございます。それを、公方様にもおわかり頂きとう存じます。」

と言うのを、家斉も黙って聞いていたのである。

その頃、薩摩藩邸では斉宣が仏壇の前で手を合わせていた。すると後ろから、

「もうすぐで、一年にございますか。」

と、声がした。斉宣が振り返ると、そこには息子の斉興がいた。斉宣が、

「斉興か。」

そう言うと斉興は、

「父上を、一番に思って下さっていたのは、あのお方だったのかもしれませんね。」

と言うので斉宣は、

「あぁ。隠居を命じられてから、わたくしの唯一の居場所であった。」

そう言い、お千万のことを思い出した。

『あなたは、宝です。』

『人というのは、何かを感じて、多くを手にするのです。』

『もっと、前向きにお考え遊ばされませ。さすれば、今まで見えなかったものも、次第に見えてくるはずです。』

すると斉宣は感極まったのか、

「母上・・・。」

と呟くと、目に涙が滲んだ。斉興がそれを見て、

「父上のお気持ちは、痛い程よくわかります。されど、父上は薩摩のお方。強い誇りを持って、藩と向き合って頂きとうございます。そして、わたくしの良き支えとなって下さいませ。」

そう言うので斉宣は、

「わたくしが・・・、そなたを支える・・・?」

と言うと斉興が。

「お祖父上はあぁ言われますが、わたくしはそう思っておりません。」

そう言った。それを聞いた斉宣は嬉しそうに笑うと、

「母上の言う通り、前向きに考えねばな。」

と言うのを聞いて斉興も、

「はい!」

そう答えていた。斉宣はそれを見て、微笑していた。

浄岸院(一方、大奥では・・・。)

茂姫は、

「お美代の目的が何であるのか、見当もつかぬ。」

そう呟いていると、隣で宇多も、

「はい。」

と、答えていた。そこへ、

「失礼致します。」

そう言う声が聞こえ、お万が部屋に入ってきた。茂姫はそれを見て、

「如何した。」

と聞くと、お万は座ってこう言うのだった。

「お人払いを。」

それを、茂姫は怪訝そうに見つめていた。

その後、茂姫は部屋に宇多だけを残し、お万と話した。

「して、話とは何じゃ。」

茂姫が聞くと、お万が言った。

「お美代のことにございます。」

「そなた、何か知っておるのか?」

茂姫は聞くと、お万はこう言った。

「はい。実は、あの者は法華経寺の住職である、実の父親と通じております。中臈達に調べさせたところ、あの者の部屋から、密書のようなものが複数見つかりました。」

茂姫はそれを聞き、

「何と・・・!」

と、声を上げるのだった。すると宇多も、

「わたくしも、噂は度々耳に致します。お世継ぎを儲けるため、お城に上がったのではないかと。」

そう言うとお万も、

「それらから見ても、その話は間違いないかと。」

と言うので、茂姫は首を横に小刻みに振り、

「許せぬ・・・、しかも公方様につけ込んでまで。」

そう言っているのを、宇多は不安そうに見ていたのだった。

一方、中野清茂は美代の実父・日啓にっけいと話していた。日啓が、

「わたくしは、娘のためならば何でもやります。されどあなた様は、娘を利用なさろうとお考えでは?」

そう言って責めると、清茂はこう言った。

「とんでもない。中野の血を引いた子が将軍となれば、あなたのお寺も大きく致しましょう。その時になれば、決して自分だけのためではなかったとわかることです。」

すると日啓が、

「しかし、それによって、お美代が責められるということは?」

と聞くと清茂は、

「ご心配には及びませぬ。わたくしが、この身に変えてもお守り致しまする故。」

そう言うので、日啓がこう言った。

「何というか・・・、あなた様は本当に変わられましたな。」

それを聞いた清茂は、

「それは?」

と聞くと、日啓はこう言った。

「あいや、そのような気が致しまして。娘が欲しいと言い出した時と比べて、何やら頼もしゅうなられました。これからも娘のこと、どうかよろしくお願い申します。」

それを聞き、清茂もこう言った。

「お任せ下さい。」

日啓は頷き、清茂を見ていた。清茂も頷いて、それを見つめ返していたのだった。

その頃、薩摩藩邸では重豪が仏壇に手を合わせていた。その後ろで調所広郷が、

「お殿様の斉興様は、度々斉宣様にお会いになってのご様子。国元に戻る日取りも、未だに決まっておりませぬ。どうしたものかと。」

そう言っていると、重豪はこう言った。

「まだ焦ることはない。」

すると重秀は振り返り、

「広郷。何故わしが、斉宣を隠居させたか知っておるか?」

と聞いた。それを聞いて広郷は、

「あ、はい。例の一件の責任を取らせるためだったのでは?」

そう答えると重豪は苦笑いし、

「まぁよい。」

と言って仏壇に目を戻し、再び拝んでいた。それを、広郷は不思議そうに眺めるのだった。

浄岸院(一方、大奥では・・・。)

家斉と茂姫の周りに美代以外の側室達が集まり、会議をしていた。

「実の父親と密通していたなんて。」

「これは世継ぎ目当てと考えて宜しゅうございましょう。」

以登と八重が言った。するとお蝶が、

「何やら、陰でこそこそやっていたとか。複数の女中が目撃しております。」

そう言うと、以登がこう言った。

「あら。でもお蝶様も側室になるため、この大奥に上がられたのでしょう?」

それを聞いてお蝶は、

「失礼な!わたくしは奉公に上がったのです。そのようなわけがなかろう。」

と言った。すると以登は続け、

「そのようなこと仰せになって、本当はどうだったのですか?」

と聞くのでお蝶は、

「はっ?」

そう聞き返すと、以登は言った。

「最近、公方様からのお渡りがめっきりなく、妬ましさのあまり、他の側室達に呪いをかけようとしたというではありませぬか。」

それを聞いたお蝶は、

「何じゃと・・・!」

と言い、立ち上がろうとした。宇多はそれを見て、

「お静まり下さい。」

そう止めに入った。すると以登は、

「妬ましいと言えば、お宇多様はどうなのですか?」

と聞くと宇多は予想していなかったとばかりに、

「えっ?」

と、声を上げた。すると今度は八重が、

「そうでございますよ。御台様に付いていながら、お渡りが少ないと聞きます。さぞや、妬んでおいでなのでしょうね。」

そう言った。それを聞いた宇多は、

「妬む?わたくしはそのようなことはせぬ。」

そう答えると以登が、

「まことなのですか?」

と、態とらしく聞くのだった。宇多は我慢できずに、

「わたくしは・・・!」

そう言いかけると、お万がこう言った。

「それくらいにするがよい。公方様の前であるぞ。」

それを聞いた皆は、家斉を目にした。茂姫も、不安そうに家斉を見た。家斉が黙っていると、以登がこう言い出した。

「こうなれば、あの者を城から追い出してしまえば宜しいのでは?」

すると八重も続いて、

「そうでございます。公方様に、二度と近付けぬようにすれば・・・。」

と言うと、数秒間を置いて茂姫はこう言った。

「その方らが心配することではない。全て、わたくしに任せよ。よいな?」

それを聞いた皆は、

「はい。」

と言い、頭を下げた。家斉が茂姫を見ると、茂姫も家斉を見つめ返していたのだった。

浄岸院(その頃、薩摩藩邸には斉宣への客人が来ておりました。)

斉宣は部屋に入ると、

「松平殿。」

と、座りながら声をかけた。顔を上げたのは、松平定永であった。定永が、

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。」

そう言うので斉宣は、

「左様な。わざわざお越し下さったのです。こちらこそ、伺えずにいてすみませぬ。」

と言うので、定永が笑った。斉宣は、

「改めて、藩主となられ、誠に祝着至極に存じます。」

そう言うと定永が、

「はい。」

と言うと、斉宣にこう言った。

「斉宣殿は、江戸城におられる御台様の弟君とお聞き致しました。お輿入れの前はたいそう仲が良く、御台様は良く藩邸に遊びに来ておられたとか。」

それを聞くと斉宣は、

「あの。誰からそれを。」

と聞くと、定永はこう言った。

「重豪様です。わたくしが松平家当主となった際、ご挨拶に来られ、色々なお話を聞きました。斉宣殿が、幼かった頃の話や、藩主時代のことなど。」

それを聞き、斉宣の表情が曇った。それを見た定永は、

「もしや、重豪様を恨んでおられるのですか?」

と聞くと斉宣は、こう答えた。

「そのようなわけではありません。ただ、父上が今、どう思っておられるのか、わからなくて。」

すると定永は、

「もっと、信じてみればよいでしょう。」

そう言ってくるので斉宣が前を向くと、定永は続けた。

「信じることで、人は考え方を変えるのです。」

それを聞いた斉宣は嬉しそうに、

「わたくしは・・・、幸せ者です。」

と言った。それを聞いた定永は不思議そうに、

「えっ?」

そう聞くと、斉宣は言った。

「そうやって、様々な方から励まされます。母上や、息子。そして、定永殿も。」

定永もそれを聞き、嬉しそうに笑った。斉宣も元気を取り戻したように、微笑んでいたのであった。

浄岸院(それから時は流れ、年も明けて文化一〇年の三月。)

茂姫は、宇多とひさを連れて廊下を歩いていた。すると、不意に声がかかった。

「御台様!」

茂姫は足を止め、振り返るとそこに美代が立っていた。美代は座ると、

「お話、宜しゅうございましょうか。」

と言うので茂姫は、

「何じゃ。」

そう聞いた。美代は手をついて、

「わたくしから、お願いがございます。」

と言うので茂姫が、

「世継ぎの件か。」

そう言うので、美代は驚いたように顔を上げた。そして美代は、

「はい。どうか、お願い申し上げたいのでございます。」

と言って、頭を下げた。宇多も、心配そうに茂姫を見つめた。すると茂姫は美代に、

「駄目じゃ。」

そうとだけ言った。美代は顔を上げて、

「されどわたくしは、使命を帯びてこの城に参ったのです。それ故・・・。」

と言いかけると茂姫は、

「使命であれば、何事も許されると思っておるのか。上様を利用し、我が子を将軍に仕立て上げるなど、決してあってはならぬこと。使命使命と口で言っておれば、済む話ではあるまい。父の命で自分の子を将軍にして、それでそなたは満足か。」

そう言うのを聞いて美代は、

「いえ・・・。」

と言い、俯いていた。茂姫は身を翻し、

「宇多、ひさ、参るぞ。」

そう言い、歩き出した。すると美代は立ち上がり、

「お待ち下さいませ!」

と言い、追いかけると茂姫の着物にしがみついてこう言った。

「されど、わたくしはこのためだけに大奥に上がったのです。どうか、どうかお願い致します!」

すると茂姫は、美代を突き飛ばした。美代が倒れ込むと、茂姫は言った。

「この大奥には以前、お楽という女子がおった。その者もそなたと同様、我が子を将軍にするために、上様の側室となったのじゃ。されど、そなたのような卑怯な真似はしなかった。ただ一途に、男子が授かるようにと祈っておった。わたくしは、その者から多くのことを学んだのじゃ。されど、そなたから学ぶことは微塵もない。そなたには、お楽のような純粋な心がないのじゃ。」

それを聞いて美代は、

「純粋な、心・・・。」

と呟いた。そして茂姫は再び振り向くと二人に、

「行こう。」

そう言うと、宇多とひさを引き連れて行こうとした。すると、

「うぅ・・・。」

と言う声がするので、茂姫は不意に足を止めた。振り返ると、美代が腹を押さえて苦しんでいるのだった。茂姫は急いで駆け寄り、

「如何した。」

そう言うと、美代と目があった。茂姫は驚いたように、

「まさか・・・。」

と言うとひさに、

「医者を呼ぶのじゃ。」

そう言うとひさが、

「はい!」

と言い、走っていった。茂姫は美代を立たせ、部屋へ連れて行くのだった。

そして、夕方。茂姫は、部屋で待っていた。すると唐橋が来て座ると、

「如何だったのじゃ。」

そう茂姫が聞いた。唐橋は、

「無事に、お生まれになったと。」

と言うので茂姫が、こう聞いた。

「して・・・。」

茂姫の心中を察したのか、唐橋は言った。

「姫君様にございます。」

「姫か・・・。」

茂姫はそう言うと、ただ黙っていた。

その夜。茂姫は、家斉と話していた。茂姫が、

「わたくしは、まことであれば、同じ上様の妻として、あの者を祝ってやりとうございます。されど心のどこかで、姫と聞いて安心している自分がおりました。わたくしは、己が情けなくてなりませぬ!素直に受け止められぬ己が、やはり許せぬのです。」

そう話すと、家斉はこう言った。

「あの者も、同じ気持ちであろうな。」

「えっ・・。」

茂姫は不思議そうに家斉を見ると、

「姫が生まれたということは、あの者はまだ父からの使命を果たせておらぬということじゃ。心そのそこから喜べぬというのは、経験してみぬとわからぬものじゃ。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「わたくしも、そう思います。」

と、答えていた。

浄岸院(しかし、それから数日後。)

唐橋が嬉しそうに入って来て、茂姫にこう告げた。

「喬子様、ご懐妊の由にございます!」

それを聞いた茂姫も、

「それは・・・、まことか?」

と、嬉しそうに聞いた。唐橋は、

「はい。」

そう答えるのを聞いて茂姫は、

「そうか。喬子様が・・・。」

と、呟いていたのだった。

その時、一室では家慶と喬子が喜びを噛みしめていた。すると家慶は暫くして、

「されど、わたくしには不安もある。」

と言うので、布団に座っている喬子は家慶を見た。家慶は続けて、

「わたくしは、自分に自信が持てぬ。それ故、この子を幸せにできるかどうか・・・。」

そう言うので、喬子はこう言った。

「わたくしは、感謝しております。」

それを聞いた家慶は喬子を見つめると、喬子は続けた。

「家慶さんがそうやって心配してくれはることが、何よりも嬉しゅうございます。」

それを聞いた家慶が、

「喬子・・・。」

と言うと、喬子も笑顔で家慶を見ていた。そこへ、

「失礼致します。」

そう言って、茂姫が入って来た。それを見た家慶が、

「母上。」

と言うと、茂姫は二人の前に座ると手をついてこう言った。

「この度は、おめでとう存じます。」

それを聞いて家慶も、

「ありがとうございます。」

と言い、頭を下げた。喬子も、同じく頭を下げていた。茂姫は二人を交互に見ながら、

「こうして、めでたき日を迎えられたのは、お二人の愛が強かったからでしょう。」

そう言うので喬子は、

「愛・・・。」

と、繰り返していた。家慶も、恥ずかしそうに笑った。茂姫は続けて、

「若様。これからも、喬子様と、その子をお守り下さいませ。」

そう言うのを聞いた家慶は苦笑いのまま、

「はい。」

と、答えた。茂姫はそれを聞いて安心したように、

「こうしてみると・・・、やはりお似合いでございますね。」

そう言った。すると、家慶は言った。

「これも、母上のお陰にございます。」

「わたくしの?」

茂姫は聞くと、家慶は言った。

「母上のお心遣いがあったために、ここまでこれたような気がします。まことに、ありがとうございました。」

家慶はそう言った後、喬子と見つめ合った。それを、茂姫は微笑みながら見ていたのであった。

夕方。茂姫は、いつものように縁側に立っていた。その後ろで宇多が、

「もしも喬子様が男子をお産みになれば、その方がお世継ぎとなるのでしょうね。」

そう呟くと、茂姫は言った。

「わたくしは、もうそのことは気にせぬことにした。」

「えっ・・・?」

心配そうに宇多は茂姫を見ると、茂姫は前を見つめてこう言った。

「お二人が幸せならば、それでよい。それだけなのじゃ。」

それを聞いた宇多は、

「はい。」

と、嬉しそうに答えた。茂姫はその後も、希望に満ちた目線で庭をただ眺めていたのであった。

ある日の夜。家斉のもとに、美代が来ていた。美代は手をつき、

「公方様。わたくしは、大奥を下がることに致しました。」

と言うので家斉が、

「それは、男子を生めなかったからか?」

そう聞くので、美代はこう言った。

「わたくしは、まことであれば正室として嫁ぎたいと思っておりました。されど、此度の話を父からされ、断るに断れなかったのです。好きでもないお相手の一緒になっても、心苦しいだけにございます。わたくしは、もう自分に嘘は吐きたくありませぬ!それ故、もう終わりにしたいのでございます。」

すると、家斉がこう言った。

「ならば、そなたが生んだ姫はどうなるのじゃ。」

それを聞き、美代はハッとしたように家斉を見た。家斉は続けて、

「そなたが城から出るというとは、あの姫を城に残すということじゃ。あやつは、もうわしの子故な。」

そう言うので、美代は少し考えた。そして口を開き、

「わたくしは、己の子に辛い思いはさせとうございませぬ。」

と言うので家斉が、

「ならば、どうするつもりじゃ。」

そう聞くと、美代は真剣な目でこう言った。

「わたくしは、あなた様を好きになります。例え側室でも、わたくしは公方様の妻であること、それを誇りに思いたいと思います。」

それを聞いた家斉は、

「そうか。」

と言うと美代は、柔らかい笑顔で頭を下げていた。

浄岸院(そして、更に時が経ち・・・。)

一八一三(文化一〇)年一〇月三〇日。喬子は布団の上で、泣き叫ぶ赤子を抱いていた。喬子は穏やかな表情で、竹千代たけちよと名が付いた赤子をあやしていたのだった。

浄岸院(これが、家慶様にとって初めての子となったのでございます。)

その知らせを受けた茂姫は、

「そうか・・・、元気な男子であったか。」

と言うと前にいた宇多も笑顔で、

「はい!」

そう答えた。茂姫は、その喜びを他の誰よりも感じていたのであった。



次回予告

茂姫「お二人の仲がこれからも続くよう、わたくしは願っておる。」

定永「父上が仰せのように、底が見えぬお方にございます。」

峰姫「わたくしは、嫁になど行きとうございませぬ!」

家斉「女子はやはり道具なのかもしれぬな。」

茂姫「それは違います!」

登勢「側にいて欲しいと願うばかり、手放すことが怖いのです。」

茂姫「そなたは立派な父君ですよ。」

家慶「はい!」

美代「この子は、わたくしが育てたいのです。」

峰姫「わたくしは、父上に利用されるのですか?」

茂姫「上様。どうか、お時間をお与え下さいませ。」




次回 第三十六回「娘の縁組」 どうぞ、ご期待下さい!

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