第三十四回 偽物将軍
一八一一(文化八)年一月。茂姫は、いつのものように朝の参拝を終えた後、あるところに向かった。
茂姫は、
「こうして見ると・・・、めおとらしゅうなられましたね。」
そう言いながら、家慶と喬子を見つめた。家慶と喬子は一瞬目を合わせると、家慶は恥ずかしそうに、
「いえ、そのような。」
と言うと茂姫が、
「次期将軍として、まずやらなければならないことは、お世継ぎを儲けることです。」
そう言うのを聞いて家慶は、
「はい!」
と言った。すると茂姫は、表情が曇った。
『お城に上がるのは、公方様の側近、中野清茂様の御養女らしいのです。それ故、何か裏があるのではないかと噂されております。』
唐橋が言った言葉だ。それを見た家慶は、
「母上様?如何なさいました。」
と聞くので茂姫は気が付き、
「あ、何でもありませぬ。」
そう言い、呟いた。
「側近の・・・、養女?」
第三十四回 偽物将軍
茂姫は、家慶と二人きりで話をしていた。家慶が、
「父上と話せ?」
と聞くと、茂姫は言った。
「はい。上様は、あなたのことを心配しておられます。」
それを聞いて家慶は微笑し、
「そうは思えませぬが。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「あなたからすると、そう見えないかもしれません。されど、わたくしは思うのです。将軍職をお譲りにならぬは、あなたがもっとご立派になられてから継いで欲しいと思っているからだと。」
すると家慶は立ち上がり、庭を見つめながら言った。
「父上は、オットセイにございます。」
「オットセイ?」
茂姫が聞くと、家慶は言った。
「オットセイは、一匹の雄が多くの雌を独占するそうです。まさに、父上がそうではないですか。母上様の他に、沢山の側室をお持ちなのは、子を儲けるためではなく、多くの女性に囲まれることで、あらゆる欲求を満たしているのではないかと。」
それを聞いて茂姫は、
「あなたの、その曲がった捉え方は、お父上に似たのかもしれませんね。」
と言うので家慶は、
「何を仰いますか。」
そう言って微笑しているのを、茂姫も見つめていたのだった。
その頃、中野家では中野清茂が美代を呼んでいた。清茂は、
「よいか?そなたは、大事な使命を背負っておる。」
と言うと美代は、
「存じております。」
そう答えた。清茂が、
「ならばよい。これは、戦と心得よ。」
と言うのを聞いた美代は、
「戦・・・。」
そう繰り返した。清茂は続けて、
「そなたには、二つの任務がある。一つは、公方様を、側室としてお支えする。そして二つ目は、公方様との間に子を儲け、男子が生まれたら幸い、それを公方様に、若君様の次のお世継ぎにとお願い申し上げるのじゃ。これには、中野家の命運がかかっておるのじゃ。」
そう言うと、美代は手をついて言った。
「はい、父上。そのこと、よくよく心得て参ります。」
それを聞いて清茂は嬉しそうに笑い、
「ならばよい。わしは、そなたを信じておる。それ故、何があろうともそなたを見捨てたりはせぬ。」
そう言うと美代は、
「はい。では、行って参ります。」
と言い、頭を下げた。清茂も頷き、それを見つめていた。そして美代も、真剣な目をしていたのだった。
家斉は茂姫の話を聞いて、
「側室じゃと?」
そう聞いた。すると茂姫は、
「はい。上様の側近、中野殿の養女だそうにございます。何か、ご存知ではないかと。」
と言うと家斉は、
「いや、知らぬ。」
そう答えた。茂姫は話を続けて、
「わたくしは、裏に何かあると思うのです。側室というのは本来、中臈などの中から上様が直々にお選び遊ばすもの。なのに、最初から側室になるために城に上がるなど、何かあるとしか思えませぬ。」
と言うのを聞いて家斉は、こう言った。
「どうでもよいではないか、左様なこと。」
それを聞いて茂姫は、
「上様にとってはどうでもよいかもしれませんが、わたくしは気になるのです。」
と言うと家斉は、
「そういうものかのぉ・・・。」
そう呟いた。すると茂姫は、
「若様が、言っておられました。上様が多くの側室をお持ちなのは、あらゆる欲求を満たすためではないかと。」
と言うので家斉が怪訝そうに、
「欲求じゃと?」
そう聞いた。茂姫も、
「はい。」
と答えると、家斉は何か考えているようだった。
その夜。家慶と喬子は寝間で話していた。家慶が喬子を見つめて、
「わしはこれから、まずは自分にできることを見つけようと思う。」
そう言うと喬子は顔を上げ、
「それは・・・。」
と言うと、家慶がこう言った。
「まずは、子を儲けることじゃ。そして、そなたを幸せにしたい。」
それを聞いた喬子は嬉しそうに下を向き、再び顔を上げるとこう言った。
「わたくしも、何があろうとあなた様を悲しませたりはしとうございません。」
すると家慶も微笑し、
「わかっておる。そなたの気持ちは、わしが一番よう知っておるつもりじゃ。」
と言うのを聞き、喬子も嬉しそうに笑った。すると家慶は、
「しかし・・・、問題は父上じゃ。」
そう言った。喬子が、
「はい。」
と答えると家慶は、
「今の父上には、将軍職を譲る気は全くないようじゃ。お世継ぎを儲けても、それが将軍となるのはいつになることやら・・・。」
そう言い、目線を反らした。それを、喬子も心配そうに見つめていたのだった。
一八一一(文化八)年四月。家斉の所に、唐橋と美代が来ていた。唐橋が、
「これなるは、中野清茂殿の娘、美代にございます。本日より、大奥及び、上様に御奉公仕る由にございます。」
と、説明した。美代は頭を下げながら、
「美代と申します。公方様におかれましては、ご機嫌麗しゅう。父からの命を受け、まかりこしましてございます。誠に不束者ながら、身命をとして公方様に御奉公仕る覚悟にございます。」
そう言った。家斉はそれを聞き、ただ黙って美代を見つめていたのだった。
その知らせは、茂姫の耳にも届いていた。茂姫は真剣な顔で、
「ついに来たか・・・。」
と言うと唐橋が、
「上様のお口からは、発言はなかったと。」
そう言った。すると茂姫は、
「わたくしも、会うてみとうなった。その、お美代とやらに。」
と言うのをきいて唐橋は少し戸惑ったような顔をし、
「み、御台様がでございますか?」
そう聞くと、茂姫はこう言った。
「まことに、上様の側室に相応しい娘なのか、確かめてみたいと思うのは当然であろう。」
それを聞いて唐橋は、
「それは、そうでございますが。」
と言うと茂姫は、
「であれば、早速手配してもらいたい。」
そう言うので唐橋は仕方なく、
「はい。承知仕りましてございます。」
と言い、頭を下げた。唐橋が出て行くと、宇多も不安そうに茂姫を見つめているのであった。
茂姫の部屋に美代が来ると、
「そちが美代か。苦しゅうない、面を上げよ。」
そう茂姫は言った。美代は、静かに顔を見せた。それを見た茂姫は少し意外そうな顔をし、笑ってこう言った。
「何と・・・、可愛らしいではないか。」
それを聞くと美代は、
「そのような・・・、勿体のうございます。」
と言った。茂姫はもとの表情に戻り、
「そなたの父は、上様の側近であったな。その者から、此度の命を受けたのか?」
そう聞くので美代は、
「はい。」
と、答えた。茂姫は、
「そなたの父、清茂殿はどのような男なのか、教えてはくれまいか?」
そう言うのを聞き、美代はこう答えた。
「わたくしのもとの父は、法華経寺という寺の住職をやっておりました。そんな中、今の父と出会い、養女となったのです。その父は、優しく、わたくしは誰よりも信頼しておりました。父上様に従えば、きっといい方に事が進む、そう、今まで信じて参ったのです。」
それを聞いていた茂姫は、
「それ程までに、そなたにとって信ずるに値する父上なのじゃな?」
と聞くと、美代はこう言った。
「はい。わたくしは、公方様をお支えするという任務を預かり、此方へ参りました。なのでわたくしは、その任務を遂行できるよう、精一杯努めて参ります。御台様にも、そのこと、おわかり頂きたく存じ上げます。」
美代はそう言うと、頭を下げた。それを、茂姫も何かを疑ったような目で見ていたのだった。
浄岸院(それと同じ頃、薩摩藩邸では。)
斉宣が、部屋で書を読んでいた。すると一人の家来が走ってきて、
「斉宣様!」
と言った。斉宣が書から目を離し、
「何じゃ。」
そう聞くと、家来は動揺したようにこう言った。
「お、お千万様が。」
家来がそう言うので斉宣は驚いたように、
「母上が?」
そう聞いていた。
斉宣は廊下を早足で歩き、駆け込むようにお千万の部屋に入った。そこには、お千万が布団に横たわっていた。斉宣はお千万の方に駆け寄ると、
「母上!大丈夫ですか?」
と聞いた。お千万は目を開き、斉宣を見るとこう言った。
「あぁ・・・、あなたには告げぬように言ったのですが・・・。」
そう言うので斉宣は、
「何を仰せです。わたくしの、まことの母上ではありませぬか。」
と言った。お千万は起き上がろうとすると斉宣は慌てて、
「あ、どうかそのままで。」
そう言った。斉宣がお千万をもとの姿勢に戻すと、
「何ゆえ、教えて下さらなかったのですか?身体のこと。」
と聞くと、お千万は言った。
「お享殿も、言っておられましたでしょう。あなたには、前に進んで欲しいと。わたくしのことなら、心配しないで下さいませ。これは、わたくしから最後の願いです。」
それを聞いた斉宣が、
「さ、されど、母上が斯様な時に、わたくしは己のことに専念できませぬ。」
と言うのでお千万は微笑して、
「大丈夫です、あなたなら。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「そのような・・・。」
と言っていると、お千万は言った。
「わたくしは、そう思います。何故ならば、お父上の子だからです。」
それを聞き、斉宣は暫く黙り込むと、こう言った。
「はい、母上。」
それを聞いたお千万は、嬉しそうにしていた。斉宣も必死に笑顔を作り、お千万を見ていたのだった。
浄岸院(一方、江戸城では・・・。)
ある部屋に側室達が集まり、何やら会議をしていた。お蝶が、
「側室となるのを前提に、大奥に上がった例は今までにありませぬ故、何かあるに違いありませぬ。」
そう言うと、以登が言った。
「だとしたら、一番考えられるのは次のお世継ぎにございます。」
すると八重も口を揃えたように、
「我が子を家慶様の跡継ぎにしようとお考えなのですね。」
と言うと、宇多が言った。
「しかし、それならば家慶様の御側室となるのが手っ取り早いはず。」
すると以登が、
「家慶様にはまだお子がおられませぬ故、それを考慮したのでございましょう。」
そう言った。そのやりとりの様子を、登勢も心配そうに見ていた。すると八重が、
「お万様は、如何お考えでございましょう。」
と、お万に意見を求めた。それを聞いてお万は、
「あの者は、公方様側近の娘。狙いは、お世継ぎ以外の何者でもないであろう。」
そう言うのを聞いたお蝶は、
「許せませぬ。」
と言うとお万は続け、
「御台様は、決してお認め遊ばさぬであろう。」
そう言うと、以登は言った。
「であれば、御台様から公方様に追い出して頂くようお願い申し上げるべきでございます。」
宇多がそれを聞き、
「あちらの言い分があるやもしれませぬ。」
と言うとお蝶は、
「それを聞いて、何か変わるとは思えませぬが。」
そう言うと八重も同調したように、
「皆で、抗議しに参りましょう。」
と言うので登勢も、
「抗議・・・。」
そう呟いた。するとお万が、
「御台様は、とおに見抜いておいでじゃ。」
と言うので、皆は不思議そうにお万を見ていた。
その茂姫は、家斉の所に行っていた。茂姫は家斉に、
「上様。今日、お美代の方に会うて参りました。」
と報告すると家斉が、
「どうであった?」
そう聞くと、茂姫は言った。
「どうと申しても・・・、わたくしは、あの者の正体を今一掴めませんでした。」
それを聞くと家斉も、
「そうか。」
と、答えていた。茂姫は、
「上様は、怪しいとは思わぬのですか?何度も申しますが、側室とは、上様ご自身が気に入った女子の中からお選びになるものでございます。それを、会わぬうちからなることを決めていたのですよわたくしは、あの者の本性を知りとうございます。」
そう言うのを聞き、家斉はこう言った。
「中野は、世継ぎが目当てなのじゃ。」
「えっ。」
茂姫が思わず言うと、家斉は続けた。
「あの者は、寺の住職と通じておる。己の娘を嫁がせ、そして生まれた男子を将軍に仕立て上げることで、その寺を発展させようとしておるのであろう。」
それを聞いた茂姫は、
「ならば、それをやめさせて下さいませ。上様をそのようなことで利用するなど、無礼千万。何としてでも、拒んで下さいますよう、お願い申し上げます。」
と言うと、家斉がこう言った。
「そろそろ、家慶にも教える時が来たか。」
そして、家斉は立ち上がった。それを見た茂姫は、
「何をですか?」
と聞くと、家斉は茂姫を見てこう言った。
「いつも、わしが如何に大変か、教えるのじゃ。」
そして、家斉は向こうへ向かった。それを、茂姫も仕方なく追いかけていったのであった。
家慶は、部屋で読書をしていた。すると、
「邪魔をするぞ。」
と言い、家斉とその後に茂姫も入って来た。家慶は書を横に置き、
「父上、今日は何用でしょうか。」
そう聞くと、家斉は座ってこう言った。
「わしは毎日、遊んでいるわけではないぞ。」
「はぁ。」
家慶はそう答えると家斉は、
「それを今日、そなたに教えようと思うてな。」
と言った。それを、茂姫も後ろから不安そうに見つめていた。家慶が家斉に、
「教える、とは何のことですか?」
と聞くので、家斉は言った。
「今日だけそなたが将軍じゃ。」
「はい・・・、はっ!?」
それを聞き、茂姫も驚いた。家斉は、
「老中達には、わしから言っておく。そなたは今日、将軍が如何に大変かをよく感じるのじゃ。」
と言うと茂姫が、
「上様。それはあまりではありませぬか。」
そう言うので家斉は、
「そなたが口を挟むことではない。」
と言って家慶に顔を近付けると、
「どうじゃ?今日だけ将軍になれるのじゃぞ?」
そう言うのだった。すると家慶は落ち着いた表情で、
「それは、父上がお休みになりたいだけなのではありますまいか。」
と聞くと、家斉はこう言った。
「誤解するでない。わしは、そなたのためを思うて言っておるのじゃ。何故、わしがまだ将軍職を譲りとうないかわかるであろう。」
それを聞いた家慶が仕方なく、
「はい・・・。」
と答えるのを、茂姫も心配そうに見ていたのであった。
その頃、斉宣は縁側に出て物思いに耽っていた。すると、
「失礼仕ります。」
と言い、藩士の調所広郷が来た。広郷は書物を差し出し、
「大殿様お好みの、蘭学書にございます。重豪様よりの、贈り物にございます。」
と言った。それを聞いた斉宣は、
「今はよい。そのような気分ではないのじゃ。」
そう答えた。広郷は、
「はぁ・・・。」
と言って、斉宣を見つめていた。
重豪はそれを聞いて、
「そうか。受け取らぬかったか。やはりな。」
そう言うので広郷は、
「わかってらっしゃったのですか?」
と聞くと重豪は、
「まぁな。」
そう言って立ち上がると、縁側に出た。そして、
「色々あったが、わしのまことの子であることは間違いない。故に、まことの母親であるお千万のことが気になるのであろう。」
そう言うのを聞いて広郷は、
「成る程・・・。」
と、感心していた。重豪は、庭を見つめてそれ以上は何も言わなかったのだった。
そして江戸城では、老中達が困り果てていた。表では土井利厚が、
「公方様がお出でにならぬですと?」
と聞くと、家慶がこう言った。
「あぁ。今日限りは、わしを将軍と心得よ。」
すると土井が、
「それは、いくらなんでも・・・。」
と言い、牧野もこう言った。
「若様は、まだ将軍宣下を受けておられませぬ。それ故、無理があるかと。」
それを聞いた家慶は、
「何じゃ、今日だけぞ。」
と言うので、二人は顔を見合わせた。家慶は続けて、
「今日は、わしが将軍じゃ。そのこと、他の者達にもしかと申し伝えよ。」
そう言うのを聞いた土井と牧野は、戸惑ったような表情をしていた。
その後、二人は話しながら廊下を歩いていた。土井が、
「まったく、公方様のお遊びにも程というものがある。」
と言うので牧野が、
「一体、何をお考えなのでしょうか。」
そう聞くと、歩きながら土井は答えた。
「きっと、将軍の大切さをお教えするためであろう。」
「困りましたなぁ・・・。」
牧野もそう言って、後に続いていたのだった。
その頃、茂姫もこう呟いていた。
「若様は・・・、まことにあれで良かったのであろうか。」
すると横でひさが、
「公方様も、身をもって教える方がよいとお考え遊ばされたのでしょう。」
と言うので茂姫は微笑し、
「そうじゃな。」
そう答えていた。すると宇多が茂姫の方に身体の向きを変え、
「御台様。暫し、宜しゅうございましょうか。」
と聞くと茂姫は、
「何じゃ?」
そう聞き返していたのだった。
その後、茂姫は宇多と二人きりで話していた。茂姫は話を聞き、
「やはりそうか・・・。」
と呟くので宇多が、
「やはり?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「わたくしも、実はあの者達と同じ考えなのじゃ。」
「御台様も?」
宇多は聞くと茂姫が、
「中臈にならずに、側室になるなどまことを申せば不可能。何か、それなりの理由があるはずじゃ。これは、上様にお尋ねするしかないようじゃな。」
そう宇多を見て言うと宇多も、
「はい。」
と言い、頷いていた。それから茂姫は、何か良くないことを予感しているようであった。
その頃、家慶は表にいた。土井がまた戸惑ったように、
「わ・・・、若様。」
と話しかけると家慶が、
「何じゃ。」
そう聞いた。土井は続けて、
「先日も、長崎の港に異国船が侵入したという情報が入って参りました。」
と言うので家慶は興味を持ったような顔で、
「異国船が?」
そう聞くと、牧野もこう答えた。
「はい。ここ数年、イギリスやフランスとなどといった国々から使者が来ては、口々に開国をせよと幕府に申してきているのでございます。」
それを聞いた家慶が、
「よいではないか。」
と言うと土井は、こう言うのであった。
「と、とんでものうございます!今もし開国をすれば、異国は日本を手に入れやすくなります。それ故、何としてでも鎖国を貫くことが何よりの策にございます。」
「日本を、手に入れる?」
怪訝そうに家慶が聞いた。家慶は少し考え、こう言った。
「ならば、その使者を通すのじゃ。一度、話をしてみたい。」
それを聞いて牧野は、
「それはなりませぬ!」
と言うので家慶が、
「何故じゃ。」
と聞いた。すると牧野が、
「公方様や若君様がお会いになるなど、ならぬことにございます。」
そう言った。それを聞いて家慶が、
「今日は、わしが将軍であるぞ。わしの言うことが聞けぬと申すのか。」
と言うので、牧野は言った。
「とんでもないことでございます。宜しゅうございましょうか。政を行うのは、あくまで幕府。その頂点におられるのが、公方様にございます。公方様がお一人で、政を行うのではございませぬ。」
それを聞いた家慶は少し驚いたように、
「そうなのか?」
と聞きながら、二人を見つめていたのだった。
一方、家斉は中野清茂に茶を点ててもらっていた。清茂は茶を家斉に差し出しながら、
「わたくしの義娘は、お気に召しましたかな?」
と言うと、家斉は何も言わずに茶を飲んでいた。すると清茂は話を変え、
「聞くところによりますれば、今日だけ若君様に将軍をやらせておられるとか。」
そう聞くと家斉は飲んだ茶を畳に置きながら、
「あぁ。」
と答えた。清茂は、
「宜しいのですか?そのようなことをしておられて。」
そう聞くと家斉が、
「何がじゃ。」
と聞き返すのだった。清茂は続け、
「お世継ぎのことにございます。若君様には、未だお世継ぎはおられませぬ。それならば、また公方様のお子達の中から次なるお世継ぎを選ぶべきかと。」
そう言うので、家斉は清茂を見つめながら聞いた。
「そなた・・・、何が目的なのじゃ。」
すると清茂は吹き出して笑い、
「滅相もない。わたくしはただ、公方様にお仕えしている身にて、何かしようなどとは到底考えられますまい。」
と言うのを、家斉はただ見つめていた。
夕方、家慶は庭に立って縁側に座っている茂姫に言った。
「今日で、父上の気持ちが少しは理解できた気が致しました。」
「そうですか・・・。」
茂姫も、そう答えていた。家慶は振り返ると、
「わたくしは、考えたことがあります。」
そう言うので茂姫は、
「それは、何ですか?」
と聞くと、家慶は言った。
「わたくしは、この将軍家を守りたい。」
それを聞き、茂姫はただ家慶を見つめていた。家慶は再び前を向くと俯き、
「されど、今のわたくしにはそれ程の力がないとわかりました。それ故、父上はわたくしに譲りたがらないのだと。」
と言うので、茂姫は言った。
「されど、上様には他にも違った理由があると思うのです。だから・・・。」
すると家慶が、
「よいのです。」
と言って遮った。家慶はまた振り返って茂姫を見ると、
「母上にも、今までご心配をおかけ致しました。されど、もう大丈夫です。わたくしは、やっと決心がつきました。いつか、この家を守りたい。そのためには、もっと強くならなければならない。だから、わたくしにはいっそのこと努力が必要だと、そう思いました。」
そう言った。それを聞くと茂姫も微笑んで、
「わたくしも、そう思います。」
と言った。それを聞いた家慶も笑い、
「はい!」
そう言うと、その後二人は共に笑い合っていたのだった。
浄岸院(それから、半年程が経った薩摩藩邸では。)
一八一一(文化八)年一〇月一一日。斉宣は、お千万の部屋に行っていた。お千万に茶碗を渡しながら斉宣は、
「お加減は如何ですか。」
と聞いた。お千万は、
「心配いりません。」
そう答えた。斉宣は、
「わたくしは・・・、母上に何もして差し上げられません。そのような己が、情けのうございます。」
と言うので、お千万はこう言った。
「そのようなことはありません。こうして、そなたはわたくしの所へ見舞いに来てくれるではありませんか。」
それを聞いた斉宣は、
「母上・・・。」
と呟き、目に涙を浮かべた。それを見たお千万は、
「以前にも、申したと思います。あなたは、わたくしの宝だと。涙に濡れていては、その輝きが曇ってしまいます。どうか、最後はあなたの笑顔を見たいのです。」
と言うので斉宣は泣きながら、
「母上が、いなくなってしまえば、わたくしはどうやって生きていけばよいのですか。」
そう聞くと、お千万はこう言った。
「感じるのです。」
「感じる・・・?」
「人というのは、何かを感じて、多くを手にするのです。今までだって、そうではなかったのですか?」
それを聞いて、斉宣は思い出した。
樺山主税『一番は、薩摩を一から作り直すことにございます。』
秩父季保『どうか、お願い申し上げます!』
すると斉宣は、
「申し訳ありません。わたくしには、失ったものしか思い出せません。」
と言うのでお千万は、
「それは、あなたがそう思っているだけですよ。」
そう言った。
「わたくしが、思っているだけ?」
斉宣が聞くと、お千万は言った。
「はい。もっと、前向きにお考え遊ばされませ。さすれば、今まで見えなかったものも、次第に見えてくるはずです。」
すると、お千万はまた咳き込んだ。斉宣はお千万を支え、
「母上!?」
と言うとお千万は、
「大丈夫です。」
そう言い、斉宣に茶碗を渡した。斉宣は横に茶碗を置くと、こう言った。
「わかりました。もう、ご安心下さいませ。わたくしは、泣きませぬ。」
それを聞くとお千万は嬉しそうに、
「はい。」
と言って、頷いていた。すると、
「邪魔をするぞ。」
そう言って、重豪が入って来た。二人は急いで頭を下げた。重豪はお千万の横に座ると、
「具合はどうじゃ。」
と聞いた。お千万が、
「大丈夫にございます。」
と答えると、斉宣を見てこう聞いた。
「そなた、毎日見舞いに来ておるそうじゃな。」
「はい。」
斉宣は答えると重豪は、
「それが、お千万にとってどれ程救いになったことか、わしにもわかる。」
そう笑顔で言った。それを聞いた斉宣は、
「父上・・・。」
と、重豪を見つめながら言った。重豪は最後に、
「この者は、そなたを頼りにしておる。そのこと、決して忘れるでないぞ。」
そう言うと、立ち上がって部屋を出て行こうとした。斉宣は後ろから、
「ありがとうございます、父上。」
と言い、頭を下げた。重豪は立ち止まり、振り返らずにまた歩き出した。部屋を出て行った重豪の顔からは、もう笑みは消えていた。斉宣はその後も、頭を下げ続けていた。それを、お千万も愛おしそうに見つめていたのであった。
浄岸院(その、三日後・・・。)
斉宣は、縁側に座っていた。そして、
「母上・・・。」
と、呟きながら咽び泣いていたのだった。
浄岸院(お千万が死去したという知らせは、此方にも来ていたのでございました。)
茂姫は文を読みながら、
「そうであったか・・・、お千万様が。」
と、呟いていた。茂姫は顔を上げ、
「大切な人を失うというのは、何よりも辛いことじゃ。それは此度、斉宣殿が一番知っておろう。」
そう言うのを聞いて宇多やひさも、
「はい。」
と返事をし、茂姫を見つめていた。茂姫も、若干目に涙を溜めていたのだった。
浄岸院(年が明けて、文化九年。)
一八一二(文化九)年三月、白河藩・松平家。
浄岸院(この松平家では、また新たな歴史が生まれようとしておりました。)
定信は、
「これからは、そなたが松平の名を上げてこの白河を守っていくのじゃ。」
と、前にいた者に話していた。それは、定信の嫡男・松平定永であった。定永は落ち着いた表情で、
「はい、父上。」
そう答えた。定信は、
「わしはもう隠居するが、陰でそなたを支えようと思う。わしが今まで行ってきた様々な事業を、是非とも受け継いでもらいたい。」
と言うと定永も、
「勿論でございます。」
そう言うと、定信は言った。
「藩主として、まずは何より大切なこと。それは即ち、公方様に認められることじゃ。」
それを聞いて、定永は父の定信を見つめた。定信が、
「それでは、頼んだぞ!」
と言うと定永も、
「はい!」
そう答えていたのだった。
一方、中野家では清茂と日啓が話を進めていた。日啓が、
「密書にございますか。」
と聞くと、清茂は言った。
「大奥にいるお美代と、幕府の動きを探ってもらいたいのです。」
「何とまた。」
日啓が言うと清茂が、
「例の一件を幕府の役人に気付かれ、邪魔立てされないためです。」
そう言うので、日啓がこう聞いた。
「わたくしで、宜しいのですか。」
すると清茂が、
「実の親子であれば、案じて手紙を送ってきているのだと思い、誰も疑わぬでしょう。」
と言うので日啓が、
「そうか・・・。」
そう呟いていた。すると清茂は日啓に少し顔を近付けると、
「それでは、頼みましたぞ。」
そう言うので、日啓も清茂を見つめ返していたのだった。
浄岸院(その夜・・・。)
美代が家斉のもとを訪れていた。美代が、
「何にございましょう、お話とは。」
そう聞くと、家斉が言った。
「そなたの家は、九〇〇〇石の旗本。しかし老中閣の者と比べれば、差は言うまでもない。」
それを聞いて美代は、
「はい。」
と、答えていた。家斉は美代を見ると、
「そなたは、父に何と言われた。まことの目的は、何なのじゃ。」
そう聞いてくるので、美代は仕方なく話し始めた。
「わたくしは、父に公方様の側室となるよう言われました。そして、お子を儲けよと。それで・・・。」
「それで?」
家斉が聞くと美代は戸惑ったように、
「公方様との間に子を授かった暁には・・・、暁には・・・、わたくしのお子を、次のお世継ぎにして頂きとうございます。」
そう言うのを聞き、家斉は美代を見つめていた。美代も、真剣な顔で家斉を見つめ返していたのだった。
翌朝、茂姫はいつものように縁側に立って庭に咲く花々を見つめていた。陰であることが激しくうごめいていることに、まだ気付けていない茂姫であった。
次回予告
家斉「あの者は、世継ぎを求めておる。」
家慶「世継ぎですか?」
宇多「お世継ぎを儲けるため、お城に上がったのではないかと。」
茂姫「許せぬ・・・。」
美代「もう自分に嘘は吐きたくありませぬ!」
定永「わたくしも、父上のようになりたい。」
茂姫「わたくしは、己が情けなくてなりませぬ!」
美代「どうかお願い致します!」
家慶「わたくしは、自分に自信が持てぬ。」
唐橋「喬子様、ご懐妊の由にございます!」
喬子「わたくしは、感謝しております。」
茂姫「お二人が幸せならば、それでよい。」
次回 第三十五回「正室の子」 どうぞ、ご期待下さい!