第三十一回 息子の婚礼
江戸城大奥では、いつものように朝の参拝が行われていた。家斉が去ると、茂姫も部屋に戻ろうとした。するとお富が、
「御台様。少し、宜しいでしょうか。」
と言うので茂姫も、
「はい。」
と、答えていた。それを、何気にお楽も見ていたのだった。
小部屋に行くと茂姫は、
「母上様。何にございましょうか。」
そう言うと、お富がこう言った。
「薩摩のことでです。」
「薩摩の?」
お富は振り返ると、
「薩摩は御台様にとって、大事な存在。帰りたいという思いも、お強いでしょう。」
そう言うのを聞いて茂姫は
「そのようなことは。」
と言うと、お富がこう言った。
「お世継ぎも産めぬ御台所など、この城にはいらぬ。いっそのこと、薩摩にお帰り遊ばしては?」
それを聞いて茂姫が、
「されど、敦之助は・・・。」
と言いかけるとお富が、
「あれだけで満足だったのですか。産んだ子も僅か四つで亡くなるなど、やはりお楽を御台にするべきであったの。」
そう言い、部屋を出て行った。茂姫は、それを不満そうに見つめていたのであった。
第三十一回 息子の婚礼
一八〇九(文化六)年九月。茂姫は、ある知らせを聞いていた。茂姫は、
「そうか。もうすぐか。」
と言うと唐橋が、
「はい。若君様と、楽宮様の御婚礼の儀が執り行われる一二月に向け、準備を進めております。」
そう言った。宇多も嬉しそうに茂姫を見て、
「いよいよでございますね。」
と言うと茂姫も微笑み、
「あぁ。いよいよじゃな。」
そう言っていた。すると、
「失礼仕ります。」
と言う声が聞こえ、戸が開いた。そこには先頭にお蝶、その後ろにお八重とお袖が控えていた。お蝶が手をついて、
「わたくし達も、御婚儀の支度を手伝いとう存じます。」
そう言うので茂姫は嬉しそうに、
「それはよい。宜しく頼んだぞ。」
と言うと三人は、
「はい。」
そう言い、頭を下げていた。茂姫は、
「もう時間がない。何とかして、嫁入りの支度を調えるのじゃ!」
と言うと唐橋と三人の側室は、
「はい!」
そう元気よく返事をし、部屋を急いで出ていった。すると茂姫の側にいた宇多も体の向きを変え、
「わたくしも、出来る限りのことをしとうございます!」
と言うと茂姫は、
「あぁ。わかっておる。それに、わたくしからもそちに頼みたいことがあったのじゃ。」
そう言うのを聞いて宇多は、
「まことにございますか?」
と言うのを聞き、茂姫は頷いて宇多を見つめていたのだった。
その後、茂姫と家斉は二人で話をしていた。家斉が、
「もうすぐか・・・。」
と呟いていると茂姫も、
「はい。もう間もないこともあり、皆張り切っておりまする。」
そう言った。すると茂姫は、
「上様は、家慶様とはいつお会いになりました?」
と聞くと家斉が、
「いつであったかのぉ・・・。あれ以来、まだ会っておらぬわ。」
そう言い、思い出した。
『わたくしは、父上のようにはなりません。』
それを聞いて茂姫は、
「そのようなことでは困りますよ。あなた様もいずれ、あのお方に将軍職をお譲りになるのですから。」
と言うのを聞き、家斉はまたもや呟いていた。
「譲る、のぉ・・・。」
それを、茂姫も少し心配そうに見つめていたのであった。
浄岸院(そして、婚礼の準備は着々と進み、その進行の一切を取り仕切ったのは年寄・唐橋でございました。)
唐橋は座り、働き、走り回っている女中達を監督していた。
浄岸院(それから時は経ち・・・、婚礼まであと三日となりました。この日、この方が江戸城西ノ丸から本丸へと住居を移されておりました。)
廊下を、女官を引き連れて歩いてくる公家娘がいた。髪も上げずに下ろしており、裾の長い着物をまとっている。
浄岸院(家慶様の婚約者・楽宮様は喬子様と、名を改めておられました。)
喬子は新しい部屋へ着くと、江戸城の女性達が多く控えていた。先頭の女中は、顔を上げた。それは、茂姫から任された宇多であった。宇多は、
「こちらが、喬子様の新しいお部屋にございます。お道具も、全てを新調致しましたので、ご安心を。」
そう言って説明すると、喬子は何も言わずに部屋に入っていった。
喬子が座っていると、宇多はこう言った。
「御婚礼は、一二月一日にございます。何か御不便がございましたら、遠慮なく仰せつけ下さいませ。」
すると数人いる女官のうち、年配の女官がこう言った。
「その・・・、お相手はどないなお人なんですか?」
それを聞いて宇多は、
「たいそう、ご立派であると聞き及んでおります。」
と言うとまた一人の女官が、
「それだけでは、わからしまへんな。」
そう言い、女官達は声を揃えて笑っていた。喬子は、無表情であった。宇多はそれを見て、困ったような表情になっていたのだった。
それを聞いた茂姫は、
「そうであったか・・・。これから先がちと心配じゃの。」
と言うと宇多も、
「はい。」
そう答えていた。すると、
「失礼致します。」
と言いながら唐橋が入って来ると、宇多は横に下がった。唐橋は座って手をつくと、
「御婚儀の支度が、相整いましてございます。」
そう言った。それを聞いて茂姫は嬉しそうに、
「そうか。御苦労であった、礼を申す。」
と言うのを聞き、唐橋とその後ろの女中達は頭を下げた。茂姫が、
「あとは・・・、お二人がうまくいくことを願うばかりじゃ。」
そう言っていると、宇多が茂姫の方を向き、こう言った。
「一方、若君様は上様が部屋へ来るよう言っても、応じなかったとか。」
茂姫はそれを聞いて、
「やはりか。夫婦仲よりも、そのことが何より気にかかる。」
そう言うと、宇多も頷いた。茂姫は、何か模索するように考えていたのだった。
その日、お富は女中や側室達の前で話をしていた。
「薩摩の一件が過ぎたからと言って、御台所め、この大奥でのうのうと過ごしておるではないか。公方様を味方につけ、また何か企んでおるのであろう。」
お富がそう言っているとお万が、
「されど奥方様。御台様は、若君様、御婚儀の支度の一切を、取り仕切られたとか。皆、大いに感激しておりまする。」
そう言うのでお富は、
「そのようなことは関係ない。こちらの気を引く罠であろう。」
と言った。それを、お楽も見ていた。お富は立ち上がり、皆に背を向けるとこう言った。
「やはり、薩摩の娘ごときに御台所など務まるはずがない。先手を打たねばならぬ。」
お富は振り向き、睨むようにしてお楽の方を見た。お楽は気が付き、必死に目を反らしていた。それを、後ろで宇多も不安そうに見ていたのだった。
浄岸院(その頃、京では・・・。)
喬子の父・有栖川宮織仁は、
「婚礼の日はいつじゃ。」
と聞くと家来らしき男は、
「はぁ。一二月一日であらしゃいます。」
そう言うのを聞いて織仁は、
「そうか・・・。」
と呟くと家来は、
「如何されました?」
そう聞くので、織仁はこう言った。
「いや。されど強いて言うなれば、楽宮が心配でならん。遠く離れた江戸にただ一人、たいそう寂しい思いをしておるであろう。」
織仁は、とても心配そうに遠くを目にしていたのだった。
浄岸院(そして、婚礼の日がやって参ったのでございました。)
一八〇九(文化六)年一二月一日。徳川家慶は、上座に着いた。その傍らには、喬子がいた。家慶は、俯いている喬子を見た。しかし喬子は、目を合わせようとはしなかった。茂姫が進み出て、
「お二方。此度は、おめでとうございます。」
と言い、頭を下げた。家慶は、微笑んでそれを見ていた。その様子を、すぐ側でお富も無愛想な顔で見ていた。茂姫の斜め後ろに控えていたお楽は立ち上がって、進み出た。そして、家慶に自ら酌をした。家慶もそれを見て、一礼をしていた。その様子を、茂姫は笑顔で見ていたのであった。
婚儀が済むと、一室の縁側にて茂姫と家斉が話していた。
「家慶様は、ご立派になられました。」
茂姫が言うと、家斉はこう言った。
「しかしまだ一七であろう。」
「一七と言えば、わたくしが上様の妻となったもの丁度その年でございました。」
茂姫が言うので家斉は、黙って庭を見つめていた。茂姫は続けて、
「上様は、いつ地位をお譲りになるおつもりですか?」
と聞くと家斉は、
「わからぬ。」
そう答えた。茂姫は、
「されどいずれ、考えねばならぬ時が来ましょう。あの方は、徳川家のことを誰よりも考えておられそうでございますし。」
と言うのを聞いて家斉は茂姫を見て、
「とてもそのようには見えぬがな。」
そう言うので、茂姫は少し不満そうな顔をした。すると、
「失礼致します。」
と言う声が聞こえるので、茂姫は振り向くと家慶が歩いてきた。茂姫がそれを見て、
「家慶様。」
そう言った。家慶は二人の所に来て座り、
「本日は、ありがとうございました。」
と言い、一礼すると茂姫は、
「無事に終わって、心底安堵しております。されど大切なのは、今夜にございます。」
そう言った。それを聞いた家慶は、
「わかっております。」
と答えた。家斉は、家慶に顔を合わせぬように横を向いていた。すると茂姫は、
「上様も、本当は安心しておられると思います。あなたが、このように大きゅうなられて。」
そう言い、何気に家斉を目にした。すると家慶は、こう言った。
「父上は、わたくしなどどうでもよいのです。」
それを聞いた家斉は、家慶を見た。茂姫が、
「どういう意味ですか?」
と聞くと、家慶は言った。
「わたくしは、父上とは違います。幕府の政に対し、日々考えております。毎日女子や大奥の方々と戯れてばかりおられる父上を、わたくしは許せませぬ。」
家慶はそう言い終えると礼をし、立ち上がって向こうへ歩いて行った。それを見ていた茂姫は家斉に、
「宜しいのですか?言い返さなくても。」
と聞くと、家斉はこう言った。
「あやつは、まだ若すぎる。何もわかっておらぬ故、まだ将軍にするわけにはいかぬ。」
それを聞き、茂姫は黙って家斉を見つめていたのだった。
薩摩藩邸では、重豪が書を読んでいると藩士の調所広郷が言った。
「今日、将軍家のお世継ぎ・家慶様の御婚儀が執り行われたそうにございます。」
それを聞いて重豪は、
「そうか。於茂は、元気にしておるかのぉ。」
と言うと広郷は、心配そうな顔になった。重豪が、
「どうした?」
と聞くと、広郷はこう言った。
「近思録の一件、片付いたとはいえ、御台様は未だに薩摩と徳川の板挟みになっているのではないかと。昨年九月には、市田盛常様の御嫡男、義宜様が勘定奉行に就かれました。故に、御台様を疑う者が出て来ても何ら不思議はございますまい。そうなれば、あのお方の御身が心配されます。」
それを聞いて重豪は、
「案ずるでない。あやつには、生まれ持った力がある。」
と言うので広郷は、
「力?」
そう聞いた。そして重豪は続け、
「あぁ。その力で、これまでも切り抜けてきたのじゃ。此度も、わしはそれを信じておる。」
と言うのを聞いて広郷は、
「はぁ・・・。」
そう言い、重豪を見つめていたのだった。
その夜。家慶は、前を男二人に照らされながら、廊下を歩いていた。寝室では、喬子が待っていた。家慶は中に入ると、喬子は頭を下げた。家慶が布団の上に座ると、こう言った。
「江戸の暮らしには慣れたか。」
それを聞いた喬子は、
「はい。」
と答えた。すると家慶が、
「初めて会うた時、わしが言ったことは覚えておるか?」
そう聞くので喬子は、顔を上げて家慶を見つめた。家慶は喬子の顔を見つめ、頷いた。喬子はその時、不意にあの時のことを思い出した。
『わしは、そなたを守りたい。』
喬子はその言葉を思い出すと再び俯き、
「わたくしは、良き妻となれるでしょうか・・・。」
そう言うので家慶は、
「大丈夫じゃ。わしが一生、そなたを支えて参る。安心せよ。」
と言い、喬子に手を添えた。するとあの時、不意に手を引っ込めた喬子は、今度は動かさずにそれを見ていた。そして、恐る恐る顔を上げると、家慶が笑顔でこちらを見ている。喬子も、それを見つめ返していたのであった。
次の日。その話を聞くと茂姫も安心したように、
「そうか。変わったことはなかったと。」
と言うと唐橋が、
「はい。若君様は、ご立派であったと聞いております。」
そう言うのを聞き、茂姫はこう言った。
「それは何よりじゃ。あとはこれからあのお二人が仲睦まじく過ごせるよう、祈るだけじゃ。」
それを聞いて唐橋も、笑顔で頷いていた。するとひさが来て、
「失礼致します。」
と言うので茂姫は、
「何じゃ?」
そう言って聞くと、ひさは顔を上げて言った。
「老中の牧野様が、お見えにございます。」
「牧野が?」
茂姫は、怪訝そうにそう言った。
部屋に行くと茂姫が、
「何の用じゃ。」
と聞くと、牧野はこう言った。
「御台様。これは、誠に申し上げにくいことにございますが・・・。」
茂姫が、
「構わぬ。」
と言うと、牧野はこう言った。
「薩摩における、近思録党のことでお聞きしたきことが。」
それを聞いた茂姫は、
「あの話は、もう済んだのではないか。」
と言うと、牧野がこう言った。
「はい。それはそうにございますが、それを率いていた樺山主税と秩父季保に切腹をお命じになったのは、島津重豪様でなく、御台様ではないかという話が出ておりまして・・・。」
それを聞くと茂姫が驚いたように、
「わたくしが?何故じゃ。何故、わたくしがそのようなことをせねばならぬ!」
そう言うのを聞くと牧野は頭を下げ、こう言った。
「申し訳ございませぬ!表方の間で、そのような噂が流れておりましたもので、つい・・・。」
すると茂姫は冷静さを取り戻したように、
「わたくしは、あの者達の全ての行いを許さぬ。されど、切腹を命じたりはせぬ。何故ならば、あの者達が薩摩に惜しい存在であったからじゃ。己の身を顧みずに、堂々と父上に向かっておった。そのような者が、わたくしは、何より誇りに思うのじゃ。」
と言うのを聞いた牧野は、
「はい!」
そう言っていた。茂姫は続け、
「そのこと、他の者達にも申しておくように。よいな?」
と言うので牧野が、
「ははぁ!」
そう言いながら頭を下げているのを、茂姫も見つめていたのであった。
そのことを、茂姫は家斉にも話していた。茂姫が、
「上様は、どう思われますか?きっと、わたくしのことを気に食わぬ者が、流したのでしょう。」
そう言っていると家斉が、
「のぅ、御台。この二〇年で、何か変わったことはあるか?」
と、不意に聞いてきた。茂姫は不思議そうに家斉を見ていると、家斉は続けてこう言った。
「わしと一緒になって、感じたことはあるか?」
それを聞くと茂姫は、
「感じたこと、にございますか・・・。」
と言い、暫く考えていた。すると家斉が、
「わしはのぉ。それまでは、将軍職などつまらぬと思っておった。政も、面倒じゃと思っておった。」
そう言うので茂姫は、
「されど、あれ程学問を学ばれておいででしたではないですか。」
と言うと、家斉は言った。
「あれは、表向きじゃ。何も頭には入っておらぬ。」
茂姫は、
「父上様や母上様も、あなた様にたいそう期待を寄せておられました。」
そう言うので家斉は立ち上がると、
「わしは、出来れば将軍職など継ぎとうはなかった。」
と言うのだった。茂姫は、
「運命とは、いつ何が起きるかわかりませぬ。あの時、この家を継ぐはずだった家基様が亡くなっていなければ、あなた様は今頃、一橋家の御当主となっておられましたでしょう。」
そう言うので家斉も、
「神が、そうしたのかもしれぬのぉ・・・。」
と言っているのを、茂姫は見つめていたのだった。
浄岸院(年が明け、文化七年となりました。)
一八一〇(文化七)年正月。茂姫の所には、年寄の常磐が来ていた。常磐が、
「此度をもちまして、わたくしはこの大奥を下がることと相成りましてございます。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうか・・・。寂しゅうなるの。」
と言うと、常磐がこう言った。
「このお城に仕え、今年で四〇年となります。あなた様のことは、生涯決して忘れませぬ。」
それを聞いて茂姫は、
「わたくしもじゃ。これまで、御苦労であった。」
と言うと常磐も、
「はい。これ以上おりますと、名残が増すばかりにございます故、これにて。」
そう言い、頭を下げると部屋を出て行った。茂姫は、
「寂しいが・・・、これも仕方のないことなのじゃな。」
と呟くと、隣にいた宇多やひさに言った。
「そなた達は、ずっと側におってくれるか?」
するとひさと宇多は、
「はい。」
「勿論にございます。」
と言った。それを聞いて茂姫は安心したような笑みを浮かべ、前を見つめていたのだった。それを、宇多も見ていた。
その頃、藩邸では重豪と治済が話をしていた。重豪は、
「もう、あれから三〇年以上になりますかな。」
そう酒を飲みながら言うと治済が、
「姫様が、江戸に来てからでござるか?」
と聞いた。重豪はそれを聞き、
「あ、いや。近頃、不意に姫に会いたくなるもので。」
そう言うと治済が、
「離れて初めて、愛しさに気付くものです。」
と言うのだった。重豪は、
「わしももう年故、もうあと何回姫に会えるか・・・。」
そう言っているので治済が、
「島津殿は、まだまだ若く見えますぞ。わしなんか、最近体の調子が優れませぬでなぁ。」
と言い、酒を飲み干していた。重豪は、
「ま、お互い余生を楽しむことと致しましょう。」
そう言って、治済に酌をしていた。治済もそれを飲み、今度は重豪に酌をしながら言った。
「あと強いて言うなら、お富のことでござる。」
「お富様?」
重豪が言うと治済は、
「あの者は、姫様に対して悪い印象を持っておりましたものでな。」
そう言うのを聞き、重豪は険しい顔になって考え込む表情をしていたのだった。
ある日。お富は、部屋にお楽を呼んでいた。お楽は頭を下げながら、
「お呼びでございましょうか。」
と聞くと、お富がこう言った。
「家慶の婚礼が済み、さぞやほっとしておろう。ところで・・・、今日そなたを呼んだは、御台のことで相談がある。」
お楽は顔を上げ、
「御台様の?」
と聞いた。それを、部屋の外にお万も来て聴き耳を立てていた。お富は、
「のちの将軍の母が、側室では何かと不便じゃと思うてな。そなたも、それはわかっておるはずじゃ。」
そう言うのを聞いてお楽は、
「はい。」
と答えた。お万も部屋の外から、密かにお楽の様子を窺っていた。するとお富は、
「お楽。そなたに、頼みがある。」
そう言うのでお楽は、
「何にございましょう。」
と聞くと、お富の口から信じがたき言葉が聞こえてきた。
「御台所を殺せ。」
それを聞き、お楽は驚いた表情でお富を見た。お富は、
「あの者は、お世継ぎの一件の際、そなたの息子と対立した。そなたも、恨みがあるであろう。」
と言うのを聞いてお楽は、
「それは・・・。」
そう言っているとお富は立ち上がり、
「何を使っても構わぬ。頼んだぞ。」
と言い、部屋を出て行こうとするとお楽が、
「お待ち下さいませ!!」
そう呼び止めると、お富は言った。
「御台がおらぬようになれば、そなたが正室になれるやもしれぬ故な。」
そして、お富は部屋を出て行った。お万は急いで立ち上がり、引き返していった。お楽は、身体中が震えているのだった。
お万は宇多の部屋に走っていった。宇多がそのことを聞くと、
「え、御台様を?」
と言い、立ち上がった。二人は急いで、茂姫の部屋に向かった。
一方、茂姫は部屋で仏壇を眺めていた。すると、
「失礼致します。」
と言う声がするので、振り返った。そこには、お楽が立っていた。茂姫は、優しい表情でそれを見つめていた。
その後、二人は向き合った。茂姫は、
「そなたが訪ねてくるとは珍しい。何かあったのか?」
と聞くとお楽は、
「いえ。」
そう答えた。茂姫は続けて、
「家慶様は、元気でおるか?」
と聞くとお楽は、
「はい。」
と答えるだけだった。すると茂姫は、
「そうじゃ。」
そう言って、戸棚の方へ向かった。それを見計らい、お楽は懐から何かの包みを取り出した。茂姫がまた戻ってくると、お楽は急いでそれを後ろに隠した。茂姫は御守を差し出して、
「わたくしが作ったものじゃ。家慶様と、喬子様に早うお子が授かるようにと、願いを込めてな。これを、そなたから渡してもらいたい。」
そう言った。お楽はその御守を見つめながら、後ろで包みを握りしめた。そしてお楽は震えながら、こう呟いた。
「わたくしにはできませぬ・・・。」
「えっ?」
茂姫が不思議そうに聞くとお楽は、
「申し訳ありません!」
と言い、立ち上がって走りながら部屋を出て行った。
「お楽!」
茂姫がそう呼んでも、お楽は振り向かなかった。お楽が廊下を走っていると、急に立ち止まった。前には、お万がいたのだった。
その直後、茂姫が部屋で驚いていた。
「お楽が・・・、わたくしを?」
茂姫がそう言うと、知らせに来た宇多はこう言った。
「はい。奥方様から、命じられたそうにございます。」
それを聞いて茂姫は、
「お楽は、今どこにおる。」
と聞くと宇多は、
「ご自分のお部屋に。」
そう言うと茂姫は立ち上がり、
「二人だけで話がしたい。すぐに、取り計らうよう。」
と言うのを聞いた宇多は、
「はい!」
と答え、頭を下げていたのだった。
お楽は、閉め切った部屋で座っていた。すると戸が開く音が聞こえたので、お楽は振り向くと、茂姫が入って来た。茂姫がお楽の前に座ると、
「そなたがわたくしを毒殺しようとしたこと、お宇多達から聞いた。」
そう言うとお楽は、
「申し訳ございません。」
と言った。茂姫は、
「それは、母上様からの命なのか?わたくしを殺すよう、そう言われ・・・。」
そう言い終わらないうちにお楽は、
「全て、わたくしがしたことにございます。」
と言うので、茂姫はお楽を見つめた。お楽は、
「わたくしは、どのようなお咎めも受ける覚悟にございます。それ故、御台様には、お気を安らかに。」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「そなた・・・。」
と言いながら、お楽を見ていたのだった。
庭で家斉が振り返ると、
「お楽が?」
と聞いた。縁側に座っていた茂姫は、
「わたくしは、あの者が哀れでなりません。命と言えど、人を殺すなど到底できぬもの。」
そう言っていると、家斉は茂姫の隣に座ってこう言った。
「将軍の母が正室ではない例は、何度もある。お楽を正室にしたところで、徳川家が安泰になるというわけでもないというに。」
それを偶然通りかかった、お富が見ていた。茂姫は家斉に、
「あの者は、我が子を将軍にするために大奥に入り、上様の側室となりました。しかし、御台所になりたかったわけではないと思うのです。わたくしは、あの者の本心を探りたいと思います。」
そう言うと家斉が、
「話してくれればよいがの。」
と言うのを、茂姫も頷いて見ていたのだった。それを見ていたお富は、あるところに向かった。
その頃、小部屋でお万と宇多がお楽に問いただしていた。お万が、
「何ゆえ、あのようなことを。」
と言うとお楽は、
「断ろうかとも思いました。しかし、そうしたら何をされるかと思うと、怖くて・・・。」
そう言うので、宇多がこう言った。
「御台様に、相談なされば良かったではないですか。」
お楽はそれを聞き、
「御台様がその話をお聞きすれば、奥方様の所へ行かれるでしょう。そうなれば、あの方の命が、それこそ危ないのではないかと・・・。」
と言った。すると宇多が、
「わたくしが、御台様にちゃんとお話し致します。どうか、ご安心召されませ。」
そう言うので、お楽は顔を上げて宇多を見た。お万も、
「そなたのしようとしたことは許されぬこと。なればこそ、生きて罪を償わねばなりません。」
と言うのでお楽は涙ながらに、
「ありがとうございます・・・。」
そう言っていた。すると扉が開き、三人はその方を見た。そこには、お富が立っていた。お楽が、
「奥方様・・・。」
と呟くとお富が、
「どういうことじゃ?」
そう言い、入って来た。お富は、
「わたくしは、御台所を殺せと申したはず。」
と言うのでお万は、
「あの、これは・・・。」
そう言って説明しようとするとお富が聞かずに、
「何故じゃ・・・。何故わたくしの言うことが聞けぬ。この・・・、わたくしを裏切りよって!」
と言い、お楽に掴みかかった。それを二人は、
「おやめ下さいませ!」
そう言いながら止めにかかった。お富は、
「わたくしより、御台所の味方など!」
と言っていると、お楽はお富の手を振り解いてこう言った。
「わたくしはあのお方の良さに気付いたのでございます!」
それを聞き、お富は固まった。お楽は手をついて続け、
「どうか、お許し下さい。わたくしは・・・、わたくしは、あのお方を傷つけることは出来ませぬ!」
と言うのを、お万と宇多もただ見ていた。お富はそれを聞いて、何も言わずに部屋を出て行った。お楽はその後、激しい息を吐きながら胸を押さえていたのだった。
その夕方、茂姫はある知らせを受けていた。
「そうか・・・。今宵もお渡りか。」
茂姫がそう言うとひさは、
「はい。若君様が、公方様にお願いしたそうでございます。」
と言うので茂姫が、
「お二人の、これからが楽しみじゃ。手本を見せてやりたいものじゃな。」
そう言うので、ひさも微笑んでいたのだった。
夜。家慶と喬子は、寝室にいた。家慶は、
「そなた、故郷は恋しゅうないか?」
と聞くので喬子は、
「いいえ。」
そう言った。家慶は、
「御台様は、幼い時に薩摩からこの江戸に来られたそうじゃ。そなたより、ずっと幼い時からじゃ。そのような頃に、生まれ故郷に別れを告げねばならぬというのは、辛いものじゃ。」
と言っているのを聞いた喬子は、
「わたくしも・・・、辛うございました。」
そう言うので、家慶は喬子を見た。喬子は続けて、
「されど、わたくしは覚悟を決めたのです。この、江戸で生きていくと。それ故、故郷のことはもう気にしません。それに・・・。」
そう言うので家慶が、
「何じゃ?」
と聞くと、喬子は顔を上げて家慶を見ると、こう言った。
「わたくしは、これからもずっと、家慶さんのお側におりとう存じます。」
それを聞いた家慶は笑顔で、喬子を抱き寄せた。喬子も、それに応じていたのだった。
その頃、茂姫と家斉も部屋で話していた。茂姫が、
「お二人の良好な関係を築くことが出来れば、徳川家は必ず安泰となるでしょう。わたくしは、そう信じております。」
そう言うので、肘をついて縁側に家斉は言った。
「されど、わしはまだ譲るつもりはない。」
すると茂姫が、
「上様。」
と呼ぶと、家斉は振り返った。そして茂姫は、
「お譲りにならぬのは、家慶様のことを何より大切にされているからでは?今の家慶様が未熟者故、まだ譲るわけにはゆかぬ。いつ誰が見てもこの国を任せられる、そう思った時に譲るおつもりでは?」
と言うので家斉は、
「さぁのぅ。」
そう言って、また庭の方を向いていた。茂姫はふと、あの時のことを思い出した。
『全て、わたくしがしたことにございます。』
『わたくしは、どのようなお咎めも受ける覚悟にございます。』
その後、茂姫は不安そうな顔をしていたのだった。
お富もその頃、自分の部屋から庭を眺めていた。そして、お楽の言ったことをまた思い出していた。
『わたくしは、あのお方を傷つけることは出来ませぬ!』
その様子を見ていた女中が、
「お富様?」
と聞くとお富は、
「あぁ。何でもない。」
そう答え、庭を見つめていたのだった。
浄岸院(それから数日後。)
茂姫は、部屋にお楽を呼んでいた。茂姫は、
「上様に事情をお話しし、そなたを許すと仰せ下さった。」
そう言うのでお楽は、
「ありがとう存じます。この御恩は、決して忘れませぬ。」
と言い、頭を下げていた。宇多も、それを微笑んで見ていた。そしてお楽は、立ち上がって部屋から下がっていった。茂姫は、それを笑顔で見送っていた。部屋を出たお楽は暫く歩くと、安心したのか不意に立ち止まった。そして胸を押さえながら、その場に倒れ込んだ。近くにいた女中達が駆け寄り、
「お楽様?お楽様!」
そう言っていた。それが聞こえたのか茂姫や宇多も立ち上がり、慌てて外に飛び出した。見ると、お楽が女中達に囲まれていた。茂姫は急いで駆け寄り、
「お楽!如何した。」
と言い、女中達にこう言った。
「医者を呼べ!」
それを聞いて女中は、
「はい!」
と答え、数人その場から離れていった。お楽は、苦しそうにしていた。その様子を、宇多も心配そうに見ていた。茂姫は、お楽を支え続けていたのだった。
次回予告
お楽「家慶を、御台様の子にして頂きとうございます。」
茂姫「わたくしの・・・。」
重豪「享のことが気にかかっておる。」
享『わたくしのことは、どうか忘れて下さい。』
家慶「母上は、わたくしを将軍にするために。」
茂姫「あの者の身体に気付いていながら、何故あのようなことを!」
お富「そなたに何がわかる!」
家斉「将軍の母になる、か。」
喬子「子を抱きとうございます。」
宇多「御台様だからこそ出来ることが、きっとあると思います!」
茂姫「わたくしは決めたのじゃ。お楽の遺言を守ると。」
次回 第三十二回「お楽の遺言」 どうぞ、ご期待下さい!