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第二十八回 近思録騒動

斉宣「そちらの好きにするがよい。」

浄岸院(文化五年、薩摩藩で発生したお家騒動、世に言う近視録崩れは、お家だけに留まらず、藩丸ごとをも巻き込んでいたのでございます。)

茂姫「どうか、お守り下さいますよう。」

家斉「それと御台は関係ありませぬ。」

樺山「我らが、近思録党にございます!」

斉宣「近思録党・・・。」

樺山「殿にも、しかと目を通して頂きとう存じます。これは、これからの薩摩を大きく変えていくことになるやも知れませぬ故。」

斉宣「薩摩を、変える・・・?」

茂姫「近思録・・・。それはどういうことじゃ?」

浄岸院(騒動の渦は、茂姫の身にも迫っていたのでございます。)



第二十八回 近思録騒動


浄岸院(騒動が本格化する一つ前の年、家斉様の新しい側室が来ておりました。)

一八〇七(文化四)年一一月。茂姫の部屋に、二人の女性が来ていた。唐橋が、

「こちらにおるのは、お袖の方、お八重の方にございます。」

と言って説明した。すると、おそでとお八重やえは頭を下げた。唐橋は続けて、

「この者達は、公方様の新しいご側室にございます。」

そう言った。それを聞いて茂姫は、

「そうか。お二方、これから、共に上様を支えて参ろう。宜しく頼む。」

と言うと二人は、

「はい。」

そう言い、再び頭を下げていた。すると茂姫は唐橋に、

「そうじゃ、唐橋。家慶様のことで、上様は何か言っておらなんだか?」

と聞くと唐橋は、

「それは?」

そう聞き返すと、茂姫がこう言った。

「家慶様は、もう一五じゃ。今までわたくしの御養であったが、もう大人。これからは、お一人で何かとできるのではないかと思うてな。これからは大奥でなく、表で過ごされては如何かと。」

それを聞いて唐橋は、

「はい。公方様も以前、そのようなことは仰せでございました。」

と言うので茂姫は、

「それはまことか?」

そう聞くと、唐橋はこう言った。

「はい。されど、まだ幼いと案じておられるご様子。」

それを聞いた茂姫は、

「そうか・・・。」

と、心配そうな顔で呟いていたのだった。

その頃、お富は座りながら物思いに耽っていた。そして、家斉に言われたことを思い出していた。

『御台は今や、徳川の女子。そろそろ、御台を疑うのはおやめ下され。これは、わたくしからの頼みにございます。』

お富が上の空でいるのを見て常磐が、

「奥方様?」

と、心配そうに声をかけた。お富が気が付くと常磐が、

「如何なさいました?」

そう聞くとお富は、こう言った。

「あ、いや。ちと公方様のことを考えておってな。」

「公方様でございますか?」

常磐かが更に聞くとお富は、

「公方様は・・・、お変わりになったと思うてのぉ。」

そう言って黙っているのを、常磐も不思議そうな目で見つめていたのだった。

茂姫は、縁側に立って宇多と話をしていた。

「薩摩での一件、近頃は父からも殆ど便りがない。今頃、どうなっておるのか。」

それを聞いてすぐ後ろに座っていた宇多が、

「それは、御台様には案ずるなとのことでございましょう。」

と言うので茂姫は、

「そうであればよいが・・・。」

そう言っていた。するとひさが来て、こう言った。

「御台様。公方様が、お呼びとのことでございます。」

それを聞いて茂姫は、

「上様が?」

と、聞いていた。

茂姫は部屋の前まで行き、

「失礼仕ります。」

と言うと中から、

「入れ。」

そう声が聞こえるので、茂姫は扉を開けて中へ入った。茂姫が座ると、

「上様。」

と言うと、家慶がこう言った。

「家慶のことで、話があって呼んだ。」

それを聞いた茂姫は、

「はい。わたくしも、そのことで上様にお話がございました。」

と言うと家斉は、

「大奥から表に返すという話か?」

そう聞くので、茂姫は言った。

「はい。あの方は、これからは表でご自分の意見を言われる方がよいと思います。上様の、大切な御嫡男にございます故。政にも、そろそろ興味を持つべきと存じます。」

それを聞いて家斉は、

「そうじゃのぉ・・・。わかった、そうしよう。」

そう言うので茂姫は嬉しそうに、

「ありがとうございます!」

と言った。すると家斉は、

「時に、薩摩からの知らせは何か届いたか?」

そう聞いた。それを聞いて茂姫から笑みが消え、

「いえ。ここのところは。」

と答えた。すると家斉が、こう言った。

「そなたの父は、まことに財政のことを考えずにそなたをわしに嫁がせたのかのぉ。」

それを聞いた茂姫は、

「違います!」

と、声を大きくして言った。家斉が見ると、茂姫は続けてこう言った。

「父上の、祖母に当たる方の遺言なのです。」

「遺言?」

「はい。その方が、わたくしの母に申したそうです。もしも女子が生まれたら、徳川家縁の家柄に嫁がせるよう。それ故、父はその遺言を守ったのです。されど、わたくしが御台所となる話はその時はまだなかったのでございます。上様も知っておられる通り、その時はまだ、一〇代将軍・家治公のお世継ぎは家基様と定まっておりました。その家基様が急逝遊ばされたため、上様がお世継ぎとなられたのでございます。だから、わたくしが御台所としてこのお城に上がったのは、やむを得なかったこと。それ故、そのことに関して父上を責めるのは、理不尽にございます。」

それを聞いて家斉は、

「成る程・・・。そなたの父は、その遺言を守ったのじゃな。」

と言うと茂姫は、

「はい。」

そう答えた。すると家斉は、

「されど、薩摩を大きくするために、それを利用したのかも知れぬな。」

と言うので茂姫は、

「どういうことにございましょう?」

そう聞くと、家斉は言った。

「御台所が薩摩の出であること、それは今まで例のなかったことじゃ。大名家にとって、その話は藩を発展させるためのまたとない機会じゃ。それ故、そなたの父は、その機会を我がものにしたと思うたことはないか?」

それを聞いた茂姫が、

「そのような・・・。」

と言うと暫く考え、こう言った。

「わたくしは・・・、正直を申せば、父上をよく知りません。わたくしは僅か九つの時に大奥へ上がりました。それ以来、父とは、この城の中で幾度か会っただけにございます。」

それを聞いた家斉は、

「そなた・・・、わしの話に納得したのか?」

と聞くと茂姫は、

「はい・・・。上様の仰ったことも、ないとは言いきれませぬ。」

そう言うのを聞いた家斉は、茂姫にこう聞いた。

「ならば聞くが、そなたは、父に利用されたのだと思うか?」

それを聞き、茂姫は首を横に振ってこう言った。

「いえ。ただ、わたくしは、これが己に定められし運命だと心得ます。その運命から逃れることができぬため、わたくしは己の道を突き進むのみでございます!」

それを、家斉は安心したような表情で見つめていた。茂姫も、真剣な眼差しで見つめ返すのだった。

浄岸院(一方、薩摩では・・・。)

斉宣の所には、近思録党が来ていた。近思録の筆頭・樺山が、

「我ら近思録党は、改革における政策の要点をまとめてみました。」

そう言うので斉宣が、

「何じゃ。」

と聞くと、秩父が紙を広げ、読み上げ始めた。

「一つ、参勤交代を一〇年保留すべし。一つ、殖産産業ならぬ新規事業を停止すべし。一つ、琉球を通じ、他国との貿易を拡大すべし。」

それを聞いて斉宣は、こう言った。

「待て。最後の政策は、幕府の意向を考えてのことか?」

それを聞いた樺山は、

「はい、と言うほかございますまい。」

と言うので、斉宣がこう言った。

「このことが知れ渡り、下手をすれば、幕府と戦に相成るやもしれぬのだぞ?」

それを聞いた樺山は、

「これまた、滅相もない。こちらはこちらで、考えがございます故、ご安心下さいますよう。」

と言うので斉宣が、

「考え?考えとは何じゃ!」

そう聞くと秩父は、こう言った。

「今は、お教えできませぬ。殿には、御心配をおかけするつもりはございませぬ。」

すると斉宣は、

「そち達は、何故そこまでして、薩摩を改造しようと素売るのじゃ!」

と言うのを聞いて樺山は、

「では、殿は薩摩は今のままでよいと仰せられるのですか?」

そう聞き返した。それを聞いて斉宣は、

「それは・・・。」

と言い、言葉に詰まるのだった。それを見た樺山は続け、こう言った。

「一番は、薩摩を一から作り直すことにございます。」

斉宣はそれを聞き、

「一から・・・。」

と、繰り返した。秩父が、

「藩の実権を握っておられる大殿様が健全な今、もうこれしか方法はないのでございます。」

そう言い、二人は頭を下げた。それに続いて、党の他の藩士達も頭を下げた。それを、斉宣は居たたまれなさそうな顔で藩士達を見つめていたのだった。

それと同じ頃、重豪は一橋邸に行っていた。部屋に治済が入ってくると、

「これは、島津殿。如何されましたか。」

と言いながら座ると、重豪はこう言った。

「今日は、斉宣の世継ぎを連れて参りました。」

それを聞くと治済が、

「ほぅ・・・。とすると、重豪殿の御孫に当たるわけですな。」

と言うと重豪は微笑し、

「如何にも。」

そう言うと後ろを見て、

「これ。」

と、声をかけた。すると襖が開き、平伏していた若者が顔を上げた。そして重豪は再び治済に目を戻すと、

「これが、我が孫、斉興でござる。」

そう言うと、治済が斉興の方を見た。すると斉宣の嫡男・島津しまづ斉興なりおきは、

「斉興にございます。」

と言い、再び頭を下げた。治済はそれに見とれたように、

「これは、凛々しいお姿ですなぁ。」

そう言うと重豪は、

「一橋様に、一度ご挨拶させようと思うた次第にございます。」

と言い、斉興に言った。

「下がってよいぞ。」

それを聞き、斉興はもう一度御辞儀をすると立ち上がり、下がっていった。そして扉が閉められ、重豪は真剣な顔で治済に近付くと、こう言った。

「此度、こちらに伺った理由は、もう一つございます。」

「何でござろう?」

治済が聞くと、重豪は言った。

「薩摩での動き、怪しくなって参りました。斉宣が、近思録党などと名乗る藩士共に担がれているのではないかと。」

それを聞くと治済も、

「大変なことになって参りましたな。」

と答えた。重豪は続けて、

「もしも、斉宣とわたくしが対立するようなことあらば、わたくしは、あの者を隠居させ、斉興を次なる藩主にしようと考えております。」

そう言うので治済が驚いたように、

「隠居ですと?」

と聞いた。重豪は続けて、

「これ以上、近思録党の思惑通りに事が進むと、これまで我ら一族が作り上げてきたあの薩摩が、一瞬にして壊れ去るでしょう。そうなる前に、手を打っておかねばなりません。それと・・・、わたくしから一つ、一橋様にお願いがございます。」

そう言うのを聞いた治済が、

「何でござろうか。」

と聞くと、重豪はこう言った。

「斉興が次の藩主になれば、その時は、どうかあなた様に後見職をお願いしたのでございます。」

「わたくしが?」

治済は驚いたように聞くと重豪は、

「島津家と一橋家は、今や深い縁で結ばれております。一橋様が後見人であれば、誰も文句は言えますまい。何卒、お願いできませぬでしょうか。」

と、真剣な目で頼んだ。治済は、その目に圧倒されたように、重豪を見ていたのだった。

そして大奥では、茂姫がこう言っていた。

「薩摩の市田殿に当てて、文を書いた。これをそなたに届けてもらいたい。」

それを聞いて茂姫の前にいた宇多が、

「わたくしが、にございますか?」

と聞くと茂姫が、

「そうじゃ。他に、頼める者がおらぬ故な。どうか、宜しく頼む。」

そう言うと宇多は手をつき、

「相分かりました。そのお役目、謹んでお受け致します。」

と言うのを聞くと茂姫は微笑みながら頷き、

「そうか。行ってくれるか。」

そう言うと宇多は、頭を下げていたのだった。

浄岸院(しかし、薩摩では・・・。)

「隠居じゃと?」

斉宣が聞くと、樺山はこう言った。

「はい。家老の、市田盛常様に隠居を命じなさいますよう、参上仕った次第にございます。」

それを聞いて斉宣は半立ちになり、

「ならぬ!あのお方は、家老として代々お家を守ってこられた。それに、亡きお登勢様の弟。言わば、江戸の姉上の実の叔父上なるぞ!」

と言うと、樺山がこう言った。

「殿には、まだおわかりでないご様子。」

「何をじゃ。」

すると、樺山はこう言った。

「江戸の大殿様は、以前より市田家の方を優遇されてこられました。」

「だから何じゃ。」

「まことであれば、あなた様のお母上・お千万様が正室同様の扱いになるはず。されど、御台所の姫様のお母上であらせられたお登勢様が、正室同様の扱いを受けてこられました。それは、市田家の出であるからに他ならぬと、存じ上げます。」

それを聞いた斉宣が、

「だからといって、何も叔父上様を免職する理由が何処にあるというのじゃ。」

そう言うと樺山が、

「大いにございます。」

と言うので、斉宣が怪訝そうに樺山を見据えた。樺山は続け、

「あなた様のお母上を江戸に呼んだのは、薩摩での様子を把握なさることを邪魔立てするため。市田様は、大殿様を一番に慕っておいで故、逆らえなかったのでございましょう。」

そう言うのを、斉宣は見つめていたのだった。

茂姫から文を預かってきた宇多は、薩摩藩邸にいた。宇多が頭を下げていると、部屋には盛常が入って来た。盛常は宇多を見て、

「おぉ、よう参られた。」

と言いながら座った。宇多が顔を上げ、

「江戸城大奥の御台様から、市田様へ文を預かって参りました。」

そう言い、文を差し出した。盛常はそれを見て、

「これが、御苦労でござった。」

と言うと、続けてこう聞いた。

「時に、御台様は何か言っておられたか?」

それを聞いて宇多が、

「いえ。ですが、御台様は、古里である薩摩のことを、毎日のように案じておられます。市田様のことも、とても心配されておいででした。」

と言うのを聞いた盛常は俯き、

「そうでしたか・・・。」

と呟くと、顔を上げてこう言った。

「わたくしは、これまで幾度も己に問いかけてきました。薩摩の進むべき道は、まことにこれでよいのかと・・・。されどわたくしの答えは、いつも同じです。大殿様、重豪様についてゆくと。それよりほかは、ありませぬ。」

それを聞くと宇多は、

「そのこと、御台様に伝えても宜しゅうございましょうか。」

と聞くので盛常は、

「勿論でござる。」

そう言うのを、宇多も見つめていたのであった。

その後、盛常は屋敷の縁側で文を読んでいた。

『叔父上様。此度は、一つだけ、お願いがあって筆を執りました。薩摩のことにございます。薩摩では、ある一派が弟、斉宣を動かし、藩政を握ろうとしていること、聞いております。どうか、弟を助けてやって欲しいのです。父上が未だ藩政を握っておられる今、藩士達は必ずや騒ぎを起こすでしょう。その時、弟はそれに耐えられるでしょうか。わたくしは、そのことが不安でなりません。なので、心が揺らいでいる弟を支え、よき方向へ導いてやって欲しいのです。わたくしの願いは、今はそれだけにございます。』

盛常はそれを読み、顔を上げると決心した表情になっていた。

その頃、茂姫は帰ってきた宇多に、

「して、市田殿は何と仰せであった?」

と聞くと、宇多はこう言った。

「御台様のお父上である、大殿様についてゆくほかはないと。」

それを聞いた茂姫は、

「そうか・・・。」

と、呟いていた。そして茂姫は前を見つめて、

「これからが、薩摩にとって大事なる時かもしれぬな。」

そう言うのを聞いた宇多も、

「はい。」

と、答えていたのだった。

重豪は届いた書状を読み、顔を上げてこう言った。

「近思録党が、とうとう動き出しよった。」

そしてその紙を、来ていた薩摩藩士の調所ずしょ広郷ひろさとに渡した。調所はそれを読み、

「これは・・・!」

と、思わず声を上げた。重豪が立って前に進みながら、

「今まで、薩摩は琉球を介し、密かに清国と貿易を続けてきた。それを拡大するということはどういうことか。」

そう言うと足を止め、振り返って広郷にこう言った。

「この貿易の存在が、公になるということじゃ。」

それを聞いた広郷は、大きく目を見開いた。重豪は前を向き、続けた。

「これは、幕府を無視したも同然。即ち、薩摩のこれからの信用に関わるであろう。」

重豪の話を聞いて広郷は、

「はぁ・・・。」

そう答えていた。重豪が座り、広郷に言った。

「広郷。」

「はっ。」

「一度そちに、薩摩に帰ってもらいたい。」

「薩摩に、でございますか?」

広郷が聞き返すと重豪は、

「あぁ。斉宣と接触し、国元の様子を密かにわしに伝えてもらいたいのじゃ。」

そう言うので広郷は、

「ははっ。大殿様が仰せならば。」

と言うのを聞いて重豪は、

「頼んだぞ。」

そう言うと広郷はもう一度、

「はぁっ!」

と言い、深く頭を下げた。それを、重豪も見つめていたのだった。

浄岸院(それとは別に、江戸にはある知らせが来ておりました。)

お千万は驚いたように、

「市田様が、薩摩へ?」

と聞くと、盛常はこう言った。

「はい。殿からのお達しなのです。」

それを聞くとお千万は少し心配そうに、

「もしや、あなた様を二度と江戸へ行かせぬためでは?」

と聞くので盛常は、

「まさか。きっと、今後の薩摩のことで何か仰せられるのでしょう。」

そう言うのでお千万は、

「あの方に、宜しくお伝え下さい。母は、元気でいると。」

と言うのを聞き、盛常はこう言った。

「無論です。殿も、きっと母上様のことを気にかけております。」

それを聞いたお千万は嬉しそうに笑い、

「宜しく、お願い致します。」

と言い、頭を下げた。それを、盛常も少し不安そうな顔で見ていたのだった。

一八〇八(文化五)年正月。薩摩では、樺山が斉宣の所にある藩士を連れてきていた。樺山が、

「これなるは、薩摩藩士・調所広郷にございます。この者を、今日より殿のお側におつけ致します。」

そう言うと広郷が、

「本日より、誠心誠意、御奉公仕る所存にございます。」

と言って頭を下げると斉宣が、

「大義である。」

そう言った。すると斉宣が樺山に、

「時に、政策の方はどうなっておる。」

と聞くと樺山が、

「はい。我ら近思録党の間で、着々と進めております。それらをまとめた建白書を、大殿様にも差し出しましてございます。」

そう答えた。それを、隣にいた広郷が聞いていた。斉宣も、

「父上に?」

と言うと立ち上がり、

「それでは、父上がお怒り召されるではないか!」

そう言うと、樺山はこう言った。

「これは、薩摩のためにございます!薩摩を変えていくには、まず大殿様に我らの考えを示さねばなりませぬ!」

それを聞いた斉宣が、

「あのことについてもか?」

と聞くと樺山は、

「後程、使いを出すつもりにございます。」

そう言うのを聞いて斉宣は一旦座って、

「ならばそちの好きにせよ。その代わり、残りの父上の代から仕えている者には、手を加えぬよう。」

と言うと、樺山は言った。

「そうは参りませぬ。」

「何じゃと?」

「大殿様の勢いを止めるには、それより他に方法がございましょうや。」

それを、斉宣は見つめていた。それを、広郷も真剣な表情で聞いていたのだった。

その頃、茂姫は・・・。

「斉宣殿が、近思録党を許したじゃと?」

茂姫が聞くと、唐橋はこう言った。

「はい。薩摩からの知らせによると、好きにせよと仰せになったとか。」

それを聞いた茂姫は、

「何ということじゃ・・・。」

と呟いた。茂姫が立ち上がり、

「この城に、薩摩藩家老の市田盛常殿を呼ぶのじゃ。」

そう言うと唐橋は、

「それはなりませぬ!」

と言った。すると茂姫が、

「何故じゃ?」

そう聞くと、唐橋はこう言うのだった。

「お城に、そのような方を呼ぶわけには参りませぬ!」

それを聞いた茂姫は、

「ならば、一切の責任はわたくしが負う。それで良かろう!」

と言った。すると唐橋は、

「それが・・・、その方は今、薩摩のお殿様に呼ばれ、江戸にはおられぬとのこと。」

そう言うのを聞いた茂姫は驚いたように、

「斉宣殿に・・・?」

と呟くと、再び座った。茂姫は、

「ならば、また嘆願書を書く。それを、薩摩藩邸の父上に届けるように申し伝えよ。」

そう言うと唐橋は、

「承知仕りました。」

と言い、頭を下げた。茂姫の様子を、隣で宇多も心配そうに見ていたのだった。

その頃、松平定信が茶を点てていた。同じ部屋にいた家臣の森田が、

「薩摩では、古くから仕えてきた者達が、次々と隠居に追い込まれているそうでございますな。」

と言うと定信は手を止め、

「近思録党か・・・。」

そう呟いた。すると森田が、

「江戸の重豪殿は、どうなさるおつもりでございましょう。」

と言うので、定信はこう言った。

「わたくしは、重豪殿のお力を信じたい。それだけじゃ。」

それを聞いた森田が、

「はぁ・・・。」

と言い、定信を見つめていた。定信は、再び手を動かしていたのであった。

そして、一八〇八(文化五)年二月五日。斉宣の所に、盛常が帰ってきていた。盛常が、

「殿。此度のお呼び出し、誠に、感激至極に存じ上げます!」

そう言うと、斉宣は小さくこう言った。

「叔父上様・・・。よくぞ、お帰り下さいました・・・。」

それが聞こえたのか、盛常は深く頭を下げた。

「殿。」

斉宣の側に座っていた樺山が声をかけると、斉宣はハッとし、盛常を見つめた。斉宣が、

「市田盛常。」

と呼ぶと、盛常が顔を上げた。そして斉宣は暫く黙った後、こう告げた。

「隠居を・・・、命ずる。」

それを聞いた盛常は、目を見開いた。一方、樺山はニンマリした。斉宣は続け、

「後任の家老には、島津安房を任命しておる。この後すぐにでも、江戸に向かわせる。以上じゃ。」

と言い、立ち上がって出ていこうとすると、盛常はこう言った。

「お待ち下さい!」

斉宣は振り向くと、

「わたくしは今まで、薩摩のことだけを考えて参りました。この後も必ずや、薩摩を良き方向へ持っていくよう、精一杯務めまする!ですから、此度だけはお許しを!」

そう言うと畳に頭を擦りつけるようにして、頭を下げた。それでも、斉宣は何も言わずに部屋を出て行った。樺山も、それに続いて出ていった。盛常は頭を下げたまま、悔しそうに歯を噛みしめていた。斉宣は廊下を歩きながら涙を堪え、

「お許し下さい・・・、叔父上。」

と、呟いていたのだった。

その後、斉宣の前には新しい家老が来ていた。

浄岸院(それより四日後の二月九日、斉宣は、島津一門の島津しまづ安房やすふさを新しい家老に命じ、江戸に向かわせたのでございました。)

島津安房は、斉宣に頭を下げていたのだった。

浄岸院(しかしことはそれだけに留まらず、数日後、市田盛常の嫡男までもがお役御免と相成り、市田家はのちに薩摩から追放されることとなったのです。これを受け、重豪殿は急遽、薩摩から調所広郷を呼び戻したのでございます。)

重豪は険しい顔で、広郷に言った。

「恐れていたことが、まことになってしもうた。」

すると広郷は、

「間もなく、島津安房様が江戸に来られます。幕府の、老中と会うよう命じられたとか。」

そう言うと重豪は、

「市田家が取り潰しになった今、そなたに今まで以上に働いてもらうことになるやもしれぬ。」

と言うので、広郷は言った。

「重豪様のお役に立てるのでしたら、これに越したことはありませぬ!」

すると重豪が、

「そうか。安房は、老中に会うと言っておるのじゃな?」

そう確認するように言うと広郷は、

「はい。何か、良き案でもおありなのでしょうか?」

と聞くと重豪が、

「ちとな。」

そう笑顔で言った。

浄岸院(そして更に数日後、江戸に安房が到着。)

安房が屋敷で、

「会えぬ?」

と聞くと、男はこう言った。

「はい。近々、薩摩前藩主・島津重豪殿の子が、若年寄の有馬様の所に養子に入るため、老中の方々は今席を外しておられます。」

安房は、暗い部屋で声がかかるのを待っていた。

浄岸院(しかし、いつまで経っても目通りが叶うことはなく、安房は身を退くほかなくなったのでございました。そして・・・。)

知らせを受けた茂姫が立ち上がり、

「叔父上様が!?」

と言うと、知らせに来た宇多はこう言った。

「はい。それに、その後嫡男と一族は、薩摩を追われたとのこと。」

それを聞いた茂姫は、

「きっと、近思録党にそそのかされたのであろう。そうに違いない。何ゆえ、叔父上までもが・・・。」

と言っていると、宇多はこう言った。

「わたくしも以前、御台様から預かった文を届けに行った時、お会いしましたが、一目見ただけで明晰なお方だとわかりました。そのお方が何故、薩摩を追われたのか、わたくしにもわかり兼ねます。」

茂姫は座り、

「とにかく、父上はここで引き下がらぬであろう。次なる手を打ってこられるに相違ない。」

そう言うと、ひさは言った。

「それが、新しく家老になった方が、お城に来られましたが、老中にお目通りは叶わなかったそうにございます。皆、御台様のお父上様が、邪魔立てしたのではないかと。」

それを聞いた茂姫が、

「そうか・・・。」

と呟き、立ち上がって縁側に出てこう言った。

「これ以上、薩摩が荒れぬと良いがな・・・。」

重豪が縁側に立っていると後ろから広郷が、

「養子入りの一件を上手く利用なさるなど、流石は大殿様にございます!この調子で、あなた様に背く者達を弾圧致しましょうぞ!」

そう言っていると、重豪は呟くようにして言った。

「事は、そう簡単にはいかぬであろう・・・。」

「はい?」

広郷が聞くと重豪が振り返り、

「あの者達の所に斉宣がついておる限り、これからが難題じゃ。」

そう言うのを聞いて広郷も、

「はぁ・・・。」

と言い、重豪を見つめていた。重豪の顔も、次第に更に険しく変わっていったのだった。

一方、薩摩では藩士達が集まって会議していた。秩父が、

「造士館教授の山本は、斉宣様により隠居を命じられた。」

そう言うと藩士の清水源左衛門などは、

「風は、我らの方に吹いておりもんそな!」

と言い、大いに沸き上がった。伊地知季安は、

「じゃっとん、重豪様は次なる手を打ってこられるじゃろう。」

そう言うと同じく藩士の奈良原助左衛門は、

「そうなれば、迎え撃つまでじゃ!」

と、立ち上がって言った。そして二之宮藤太左衛門、黒葛原周右衛門を含めた藩士達も、

「そうじゃ、そうじゃ!」

と言いながら立ち上がって、意気込んでいた。一方、樺山は腕を組んで落ち着いて座っていた。秩父がそれを聞いた、

「どうした、樺山さん。」

と聞くと樺山は立ち上がり、

「今年、参勤交代で殿が江戸に向かわれる際、我々も同行する!」

そう言うのを聞いた皆は、

「おぉー!!」

と、沸きに沸いていた。その様子を、秩父も一抹の不安を殺して見ていたのであった。

夜、大奥では寝室で茂姫と家斉が話していた。家斉が、

「薩摩の家老の話、聞いたぞ。」

そう言うので茂姫は、

「上様は・・・、どうお考えですか?」

と聞いた。家斉は首を傾げ、

「そうじゃのぉ・・・。」

そう呟いていると、茂姫はこう言うのだった。

「わたくしは、弟が理由もなく隠居を命じるなど、どうしても信じられぬのです。母上の身内である市田家は、ずっと父上や、島津家を支えておりました。それが、よもや薩摩を追われることになるなど、信じられません。」

それを聞いていた家斉は、

「名君、怒る・・・、か。」

と言うので茂姫は、

「えっ?」

そう言うと家斉は布団に入り、こう言った。

「であれば、そなたの父は、必ずや復讐にかかるであろう。」

「復讐?」

茂姫が聞くと家斉は、

「そなたも許せぬであろうな、弟のことを。」

そう言い、布団に入った。茂姫は、

「そのようなことは・・・!」

と言いかけ、言葉に詰まった。茂姫は背を向け寝ている家斉を見て、複雑な表情で考えていたのであった。



次回予告

斉宣「わしは薩摩を裏切ったりはせぬ!」

茂姫「病気?」

美尾「わたくしは、ここにいて幸せにございました。」

茂姫「そなた・・・。」

盛常「薩摩を、守りたかった・・・。」

茂姫「老中を呼ぶのじゃ!」

牧野「御台様は、薩摩の誇りにございます。」

茂姫「誇り・・・。」

樺山「我々は、死ぬ覚悟はできております!」

家斉「まだ譲る気はない。」

家慶「父上のようにはなりませぬ。」

斉宣「父上・・・。」

重豪「そなたに、隠居を命じる。」




次回 第二十九回「父の決断」 どうぞ、ご期待下さい!

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