第二十四回 京からきた姫
浄岸院(江戸城内では、慌ただしい日々が続いておりました。)
茂姫が縁側に出て、
「家慶様の縁談の件、聞いた。」
と言うと宇多は、
「はい。若君様の御正室は、京の有栖川宮家からのお輿入れだそうにございます。」
そう答えた。茂姫は、
「京か・・・。」
と呟き、振り返ると宇多の前に座ってこう言った。
「御婚姻が成立するまで、もう間がないと聞く。こちらにも何かできることはないか、聞いて参るよう。」
それを聞いた宇多も、
「はい。」
と言って、頭を下げた。
その頃、お富も同じような知らせを受けていた。
「ついに来たか。」
お富が言うと、知らせに来た常磐がこう言った。
「はい。お相手がお相手故、呉々も御台様のことは伏せておくようにとのお達しにて。」
それを聞いてお富が、
「当然であろう。」
と言うと、常磐が続けてこう言った。
「されど、お輿入れが決まっても御婚礼は数年先とのこと。それまでは、このお城で過ごされるように幕府は届けを出しているそうにございます。」
お富はそれを聞き、
「左様か。」
と、答えていた。
一方、お楽は縁側に出ていた。何故か物悲しそうな目で、ずっと庭を眺めていたのだった。
そして茂姫は、側室や女中達と一緒に輿入れ道具を選んでいた。
「これなど如何でしょう?」
そう言って宇多が、ある茶碗を茂姫に手渡した。茂姫はそれを持って、
「そうじゃのぅ・・・。」
と言って、眺めていた。
浄岸院(大奥に、次なる困難が迫っていることは、茂姫を含め、まだ誰も知らなかったのです。)
第二十四回 京からきた姫
一八〇三(享和三)年九月三日。唐橋が、茂姫の所へ来てこう告げた。
「本日、京の公家・有栖川宮家・織仁様御幼女・楽宮様と、若君様との御縁談が相成りましてございます。」
それを聞いた茂姫は嬉しそうに、
「そうか。」
と言うと、こう聞いた。
「時に唐橋。御入城遊ばされるのはいつじゃ?」
すると唐橋が、こう答えた。
「はっきりとはわかり兼ねますが、丁度一年程のちと、承っております。」
それを聞いた茂姫は、
「そうか・・・。」
と、呟いていた。
その後、茂姫は家斉の所に行っていた。家斉が縁側の前に立ち、
「ついに決まったようじゃな。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「はい。若様は、上様と同じで、きっと立派になられますよ!」
それを聞いた家斉は微笑して、
「そうかの・・・。」
と呟いていた。すると茂姫は、こう言った。
「されど、わたくしは不安に思う時があります。」
「何がじゃ。」
家斉は振り向いて聞くと茂姫は、
「わたくしは、本家とはいえ薩摩の出にございます。今まで通り、公家からお世継ぎの正室を迎えるとなると、立場が逆になるのではないかと。」
そう言うので家斉は、
「やはり気にしておるではないか。」
と言うので茂姫は言った。
「そういうことではありませぬ。」
「じゃぁ何じゃ。」
「将軍家安泰のためにまず嫁が成すことは、お世継ぎにございます。わたくしは敦之介以来、お子を儲けておりませぬ。それ故、お声をかけづらいのです。」
それを聞いた家斉は茂姫の前に座りながら、
「そうじゃのぉ・・・。」
と言った。そして家斉は続けて、
「別によいではないか。遠くから見守っておるだけで。」
そう言うのを聞いて茂姫は、こう言った。
「そうでしょうか。お世継ぎである若様の嫁を指南することこそが、わたくしの役目と心得ております。お城に上がられたばかりだと、大奥での暮らしに慣れず、戸惑われるかと存じます。わたくしは、楽宮様のお心を少しでも和らげることができたら、よいと思います。」
それを聞いた家斉が、
「成る程・・・。」
と相づちを打つと茂姫も、
「はい!」
と、答えていた。
その頃、表で老中達が話をしていた。戸田が、
「家慶様と、楽宮様のご婚約が成立致しました。」
と言うと信成が、
「いよいよにござりまするなぁ。」
そう言っていると隣にいた牧野忠精が、
「されど、あちらは名門公家にございます。武家との立場を示されておいでとか。」
そう言うのを聞き、信成が戸田を見てこう言った。
「確かに、それは我々も聞き及んでおります。もしやあちらが、こちらを見下しておいでなのでは?」
すると戸田が、
「いや。それはない。あるとすればそれは・・・。」
と言うと信成は理解したように、
「御台様・・・。」
そう呟いた。それを、隣で忠精が心配そうに見ていたのだった。
一方、京では・・・。有栖川宮家当主・有栖川宮織仁が、
「江戸に下る日は決まったか。」
と聞くと家来らしき者は、
「はい。それは後程、幕府からのお達しがあらしゃるそうでございます。」
そう答えた。すると織仁は、
「時に、将軍家斉公の御台所は薩摩出身やと聞く。」
と言うので、家来はこう答えた。
「何や、島津家からのお出であるとか。噂によりますれば、それはたいそうご立派なお人やとか。」
すると、織仁はこう言うのだった。
「何が薩摩の御台や。所詮は大名家からの出。それを大御台様と呼ばされなあかんことになるなど、楽宮が可哀想や。」
織仁はそれ以来、黙っていたのである。
浄岸院(そして年が明け、年号も享和から文化へと改まりました。)
一八〇四(文化元)年二月。唐橋が茂姫に、
「楽宮様、お城入りの日取りが今年九月と決まりましてございます。」
そう告げると茂姫は、
「ついに決まったか。」
と、心を決めたような顔で答えた。そして茂姫は横を向き、
「宇多、すぐに輿入れ道具を調達するよう、申し伝えよ。」
そう言うと控えていた宇多が、
「はい。」
と言い、頭を下げた。そして茂姫は、
「いつかは、わたくしと同じく御台所とお成り遊ばすお方、心してお迎えせねばな。」
と、呟いていたのであった。
その後、ある女子が子を抱いていた。茂姫は、
「その子のなは何というのじゃ?」
と聞くと、子を抱いていた家斉の側室・美尾は答えた。
「浅にございます。」
「浅・・・。」
茂姫も、繰り返した。美尾の隣にいたもう一人の側室・登勢は、
「ほんにようございました。お美尾さんと笑顔が見られて、ほっと致しております。」
そう言うので茂姫は笑いながら、
「わたくしもじゃ。」
と言うと、二人も笑っていた。美尾は、
「この子を見ると、希望がわくのです。ここで生きていく覚悟ができたように思います。」
そう言うのを聞いた茂姫は、こう言った。
「覚悟か・・・。大奥では欠かせぬものじゃな。共に、力を合わせて参ろう。」
それを聞いた美尾も嬉しそうに、
「はい。」
と、頷きながら答えていた。登勢もお美尾の肩を持つと、お美尾は振り向いた。登勢が頷くと、美尾も頷いていた。それを、茂姫も安堵した表情で見つめていたのだった。
浄岸院(一方、江戸に帰られた重豪殿は、一橋邸にお寄りになっておりました。)
部屋に入り、治済が座りながら、
「いやぁ、御無沙汰にございましたなぁ。」
そう言うと重豪も、
「いや。こちらの様子が気になりまして。」
と答え、座っていた。すると治済が、
「時に、若君様の御縁談が御成立遊ばされたとか。」
そう言うので、重豪もこう言った。
「京の名門中の名門、有栖川宮家からのお輿入れにございます。少しばかり、茂の立場を案じておるのですが・・・。」
と言うと治済が、
「左様か。いや、実はわしも心配しておりました。」
そう言うので重豪は、
「まことにございますか?」
と聞くと、治済が言った。
「大奥にはこれまで、公家から御正室を迎えておりました故、家斉の時に初めて武家からの輿入れにござった。気にかかるは・・・、島津本家よりも有栖川宮家の方が格が上だということになります。」
それを聞いて重豪も、
「左様、覚悟しておりまする。」
と言うと治済も、
「今は、見守るしかありますまい。」
そう言うので、重豪は頷いていたのだった。
浄岸院(その数日後。)
茂姫達は、部屋に並べられた様々な輿入れ道具を眺めていた。茂姫は、
「見事じゃ・・・!」
そう声を上げるとその隣で宇多も、
「はい。」
と言っていた。そこへ唐橋が来て、手をついた。
「お呼びにございましょうか。」
それを見て茂姫は、こう聞いた。
「そなた、京に詳しいそうじゃな。」
すると唐橋は顔を上げると、
「はい。」
と答えた。そして茂姫は続けて、
「ならばそなたに、頼みたいことがある。」
そう言った。それを聞いた唐橋が、
「頼みたいこと・・・?」
と聞くと、茂姫はこう言うのだった。
「京の有栖川宮家に参上し、楽宮様のお迎えをお願いしたいのじゃ。」
それを聞いて唐橋は少し驚いたように、
「わたくしが、京へ?」
と聞くと茂姫は、
「頼む。」
そう言い、軽く頭を下げた。すると唐橋は、
「相わかりました。そのお役目、しかと果たさせて頂きまする!」
と言い、頭を下げた。茂姫はそれを見て、安心したようであった。
京の有栖川宮家では、織仁が部屋に楽宮を呼んでいた。織仁が、
「そなたは間もなく、江戸に下ることになる。将軍の息子に嫁ぐのじゃ。そのつもりで、日々学問に励むよう。」
そう言うと楽宮は、
「はい。」
とだけ、答えたのだった。
その夜、茂姫は家斉と寝間で話していた。茂姫は、
「楽宮様がお城入りする日が決まったと。」
と言うと家斉も、
「そのようじゃの。」
そう言っていた、茂姫は続けて、
「京へは、唐橋をやりました。お城に入られると、江戸の風習や習わしにお困りになるでしょう。それ故、あの者には早う江戸にお馴染み遊ばされるよう、指南するよう命じております。」
と言うのを、黙って聞いていた家斉を見て、茂姫は聞いた。
「上様?如何なさいました?」
それを聞き、家斉はこう言った。
「家慶は、まだ一二じゃ。それ故、ちと心配での。」
すると茂姫は、
「大丈夫にございます。お城に入られるとはいえど、婚礼は数年先とのこと。それまでは、西の丸で過ごされるとのお話にございます。」
そう言うので家斉は、
「そうか。」
と返した。すると茂姫は、
「上様は、若様とはお話しされるのですか?」
と聞くと、家斉は言った。
「ここ暫くは、会っておらぬ。毎日が、学問付けの日々であると聞く。」
それを聞いた茂姫は、
「そうですか・・・。でも、息子に嫁が来るというのは、嬉しいものにございます。これで婚礼が過ぎれば、更なるお世継ぎのお話も出てきましょう。」
と言うので家斉が、
「世継ぎか・・・。」
と、呟いた。すると茂姫は、
「はい。お世継ぎは決められるところまで決めてこそ、徳川家安泰へと繋がるのです。」
そう言った。それを聞いて家斉は、
「されどのぉ。不思議に思わぬか。何ゆえ、何から何まで先々まで決めておかねばならぬのじゃ?」
と言うので茂姫が、
「何を仰せです。徳川家存続のためには、それが一番の策と存じます。」
そう言うのを聞いた家斉は、
「そうかのぉ・・・。」
と、呟いていたのだった。
浄岸院(その一月余り後、唐橋一行が京に到着しておりました。)
唐橋は頭を下げながら、
「江戸城大奥から参りました、唐橋にございます。本日は、楽宮様をお迎えに参上仕りました。」
そう言うと有栖川宮織仁は、
「大義やった。楽宮を、よろしく頼む。」
と言うと唐橋は、
「はっ!」
そう言い、更に深く頭を下げた。織仁は隣にいる楽宮を見つめ、
「江戸に行っても、しっかりやるのやぞ。」
そう言うと、楽宮は小さく頷いた。
そして楽宮は籠に案内され、ゆっくりと中に入った。そして籠が持ち上がると、ゆっくり動き出したのであった。
その頃、茂姫も仏間で手を合わせ、祈っていた。その後ろで、お楽やお万をはじめ、側室達も祈りを捧げていたのだった。
一方、薩摩の鶴丸城では、斉宣と享が話をしていた。享が、
「有栖川宮家の姫様が、京より発たれたそうです。」
と言うと斉宣は、
「姫宮様が?」
そう聞き返した。すると享が、
「あちらはあちらで、大変にございますね。」
と言うと、斉宣はこう言うのだった。
「いや。一番お気の毒なのは、姉上じゃ。」
「御台様ですか?」
「あぁ。お相手が京からの方となると、薩摩出身である姉上と、立場が入れ替わるのではないか。」
それを聞いた享は、
「されど御台様にとって、そのお方は娘に当たるのですよね?」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「そうであるが、あちらはどう思っておるのであろうか。あまり騒動にならねばよいが・・・。」
そう言うと、斉宣は外を見ていた。それを、享も不安そうにして見ていたのだった。
浄岸院(そして月日は風のように過ぎ去り・・・。)
茂姫の元に宇多が来て、
「御台様。楽宮様、本日、お着きだそうにございます。」
そう言うのを聞いて茂姫も嬉しそうに、
「そうか。」
と言うと、宇多はこう言った。
「御台様とのご対面も、今年中に行われるそうにございます。」
それを聞くと茂姫は少し驚いたように、
「そうなのか?」
と聞くと、宇多はこう言った。
「はい。公方様からの、思し召しだそうです。」
それを聞いて茂姫はほっとしたような表情を見せ、
「そうか・・・、上様が。」
と言うと宇多は、
「公方様も、お楽しみのご様子。家慶様とよき夫婦になられるよう、願っておいでです。」
そう言った。それを聞いて茂姫は、
「あの方らしい。これで一段落じゃな。」
と言うと宇多も、
「はい!」
そう答えた。茂姫も、安心したようにそれを見つめていたのだった。
浄岸院(京から楽宮様が到着されたのは、文化元年九月三日にございました。)
一八〇四(文化元)年九月三日。楽宮は、京から到着したのであった。中に入り、籠が下ろされると、唐橋が来て籠の戸を開けた。楽宮は、唐橋に手を引かれ、ゆっくりと部屋へ案内された。楽宮は、俯いたままであった。
楽宮が座につくと、唐橋は大勢の大奥女中達を連れて入って来た。楽宮の側には、複数の京からの女官が座っていた。唐橋は頭を上げると、
「京よりの長旅、誠に、お疲れ様にございました。改めまして、無事のご到着、祝着至極に存じ奉ります。」
そう言い、再び頭を下げた。それを受けて女官達も、軽く御辞儀をした。唐橋は顔を上げると、
「では、このお城についてご説明致します。」
そう言い、話し始めた。楽宮は、俯いたままそれを黙って聞いていた。
その後、唐橋は茂姫に報告に言っていた。茂姫は、
「此度の大事なる務め、御苦労であった。」
そう言うと唐橋は、
「御台様のお役に立てて、この上なき誉れにございます。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「いや。此度の一件は、そなたでなければ、上手くっておらぬかったであろう。例を申す。」
それを聞いて唐橋は、
「そのような、勿体のうございます。御台様の御為であれば、どのようなことでも致す所存にございます故。」
と言った。そして茂姫は、
「時に、家慶様は?」
と聞くと、唐橋はこう答えた。
「はい。先だって、老中の方より縁談の件はお聞き遊ばしたそうにございます。」
「そうか。そうじゃ、お二人の対面は?」
茂姫がそう言って聞くと、唐橋はこう言った。
「それが、婚礼の日までそれは叶わぬかと存じます。」
それを聞いて茂姫は、
「わたくしから、上様にお願いすることはできぬのか?」
と聞くので唐橋は首を傾げ、
「それは・・・。」
そう言っていると茂姫が、
「頼む。そちから、取り計らってみてはくれぬか?」
と言っていたのだった。
家斉はそれを聞き、
「二人を会わせたいじゃと?」
と聞くと、茂姫が言った。
「はい。婚礼の日まで会えぬとなると、あまりにお気の毒というか、とにかくお二人を対面させたいのでございます!」
すると家斉は、
「駄目じゃ。古くからは、対面は婚礼の日と決まっておる。それもまだ決まっておらぬというのに。」
そう言うので茂姫は、
「そこを何とか、お願いできませぬでしょうか。上様であれば、この願い、お受けして下さると思うたのです。お願い申し上げます!」
と言って、頭を下げるのを家斉も困惑したように見つめていた。
浄岸院(そして一月余り後、家慶様と楽宮様が初めて対面する儀が執り行われたのです。)
楽宮は上座の傍らに座っていると、女性の声が上がった。
「若君様、お成りにございます!」
それを聞き、部屋にいたものは皆、頭を下げた。その席には、お楽も出席していた。そして、部屋に家慶が入ってきた。家慶は上座につくと、皆は顔を上げた。家慶は楽宮を見て、
「わしが家慶じゃ。そなた、年はいくつじゃ。」
そう言うと、楽宮は俯いたまま黙っていた。家慶は笑い、
「わしは今年で一二になる。そなたも、この城で楽に過ごされよ。」
と言うのを聞き、俯いていた楽宮はゆっくり顔を上げ、家慶を見た。すると一二といっても、まだ顔に幼さが残る家慶は、彼女に笑いかけた。それを見た楽宮は、浅く頭を下げていた。
浄岸院(これが、二人の運命の出会いにございました。)
茂姫は話を聞き、安心したように言った。
「そうか。うまくいったか。」
すると宇多は、
「はい。家慶様は、姫宮様のことをたいそうお気に召したご様子で。」
と言うのを聞き、茂姫も安心したようにこう言った。
「そうか。それは良かった。」
宇多は続けて、
「続いては、御台様とのご対面が来月に決まったそうにございます。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうか。」
と言い、顔を引き締めていた。
浄岸院(そしてその年の一一月。)
対面所で、茂姫が上座で待っていると、女官に連れられて楽宮が入って来た。それを見計らうと、皆は一斉に頭を下げた。楽宮は家慶の時と同じように、上座の傍らに座らされた。顔を上げると茂姫は、楽宮を見てこう言った。
「楽宮様。お初にお目にかかります。これから、お見知りおきを。」
そう言っても無言でいる楽宮を見て茂姫は微笑み、
「そのように、緊張なさらずともよいのですよ。この大奥は皆、優しい女子ばかりです。」
と言うと次の瞬間、思いも寄らぬことが起きた。何と楽宮は対面の途中にもかかわらず、立ち上がって部屋を飛び出していったのだった。それを、ついてきていた女官達も追いかけていった。それを見て皆は、騒然となった。茂姫は、
「皆、静まれ。」
そう言うと、下座にいた唐橋ににこう言った。
「唐橋、様子を見て参れ。」
それを聞いて唐橋は、
「はい!」
と言うと立ち上がり、部屋を後にした。茂姫は、複雑な表情をしていた。
その日の夕方、茂姫はいつものように自室の縁側に座り、こう言っていた。
「まるで、昔の自分を見ておるようであった。」
すると後ろにいた宇多が、
「えっ?」
と聞くと、茂姫は薩摩藩邸にいた頃を思い出していた。
まだ幼かった頃の茂姫は、家斉との初めての対面の時、途中で屋敷を飛び出していった。
『何と無礼な姫じゃ。若君の目の前で。』
お富がそう言うと母のお登勢も、
『申し訳ございません!』
と言って頭を下げると、茂姫を追っていった。
そのことを思い出すと、茂姫はこう言うのだった。
「人は誰しも、最初は馴れぬものじゃ。馴染みのないところに来て、見ず知らずの人々と暮らすことは、思うた以上に辛いことなのであろう。」
それを聞いて宇多も、
「はい・・・。」
と、答えていた。すると茂姫は振り返って、
「問題はこれからじゃ。少しでも早う、お慣れ遊ばされるよう、手を打たねばならぬ。」
そう言うと宇多は手をついて、
「はい!」
と、答えていた。茂姫も再び庭に目を戻すと、
「何か良き方法はないものかの・・・。」
そう呟いていると何か思いついたように、
「そうじゃ。」
と言っていた。
その翌日、茂姫は家斉の所へ行っていた。家斉が、
「今日は何のようじゃ?」
と聞くと、茂姫はこう言うのだった。
「上様に、お願いしたきことがございます。」
「またか・・・。」
「あの、楽宮様にございますが・・・。」
茂姫が言いかけると、家斉が聞いた。
「できることかできないことか考えたのであろうな?」
すると茂姫は、
「はい。上様であれば、おそらくお受け頂けると。」
と言うのを聞いた家斉は、
「申してみよ。」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「楽宮様は、若様との縁談に一抹の不安を抱いておられましょう。それについては、まずはお二人が打ち解けられることが必要かと。それ故、上様にもご協力頂きたいのでございます。」
「何じゃ?」
「今宵、あの二人を共に寝かせてみては如何にございましょう。」
それを聞いて家斉が、
「今宵二人でじゃと!?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「若様も対面の日、姫宮様を気に入られたご様子。一方で姫宮様も、若様がどのような方か気になっておられるはずです。本当にお好きなら、お確かめになるのが筋と存じます。」
それを聞いた家斉は呆れ返ったように、こう言った。
「好きかどうかまではわからぬであろう。それに、まだ夫婦でもない二人に夜を共に過ごさせるなど。」
茂姫は続けて、
「どうにか、お願い致します。お二人が互いを知るには、それしかないと。」
そう言うと、家斉は言った。
「わかった。」
「えっ・・・。」
茂姫は思わず、声を漏らした。すると家斉は、
「されど、今宵限りであるぞ。」
そう言うのを聞き、茂姫は嬉しそうに笑いながら、
「はい。」
と言って、頷いていた。家斉も、笑って見ていた。
その後、茂姫は自室で唐橋に聞いた。
「楽宮様は、如何お過ごしじゃ。」
すると、唐橋はこう言った。
「はい。それが、食事も殆どお食べにならず、毎晩枕を濡らしておられるご様子で・・・。」
茂姫はそれを聞き、
「お辛いのであろうな。」
そう言うと、不意に庭を眺めていたのだった。
一方、話を聞いた家斉の母・お富は驚いたように、
「若君と今宵二人じゃと?」
と聞くと、常磐がこう言った。
「はい。そのようで・・・。」
お富は立ち上がり、
「左様なこと、誰が許したのじゃ?」
と聞くと、常磐がこう言った。
「く、公方様がお許しになったと。」
それを聞いたお富は座り直し、
「また御台所か。あの者にも、困ったものじゃなぁ。」
と言うと常磐が、
「若様と姫宮様とのご対面を推奨されたのも、御台様だそうでございます。」
そう言うのを聞き、お富は置いてあった箸を取り、一本をへし折った。
その頃、その知らせはお楽も聞かされていた。
「家慶と今宵?」
生け花をしていたお楽は手を止めて聞くと、知らせに来た女中はこう言った。
「はい。公方様直々に、お許しがあったとか。」
それを聞いたお楽は、
「そうか・・・。」
と言い、生け花を再開していた。そしてまた手を止め、何かを考えているような表情になっていた。
浄岸院(そして、二人が共に夜を過ごす時がやって参りました。)
楽宮は女中に連れられ、寝室へと案内された。楽宮は座ると、家慶を待った。
その頃、茂姫も縁側に出ていた。そして御守を見つめ、
「どうか、うまくいきますように・・・。」
と言い、目を閉じていた。
そして寝室には、
「若様のお成りにございます!」
と言う、女中の声が響いた。それを聞き、楽宮は浅く頭を下げた。そして部屋に、家慶が入って来た。家慶は、楽宮の隣に座った。楽宮は、恐る恐る顔を上げて家慶を見た。暫く見つめ合った後で家慶は、
「その方、江戸には馴れたか?」
と聞くと楽宮は暫く黙った後、
「はい・・・。」
と、小さな声で言った。すると家慶は、
「京は、どのような場所じゃ?わしも、いつか行ってみたい。そなた、西陣織は見たことがあるか?」
そう言って聞くと、楽宮は答えた。
「母が、よく使うておりました。」
それを聞いた家慶は、
「そうであったか。そなた、歌は好きか?」
と聞くと楽宮は、
「はい。」
そう答えると、家慶は言った。
「わしも、たまに詠んでおる。そなたはどうじゃ?」
家慶が聞いても、楽宮は俯いて黙っていた。それを見て家慶は、
「そなた、わしのことをどう思っておる?」
そう聞いた。すると楽宮は意外な質問に、驚いて家慶を見た。家慶はまた、
「わしと、夫婦になることをどう思っておる?」
と聞くと、楽宮は黙って家慶を見つめていた。すると、家慶はこう言うのだった。
「わしは、そなたを守りたい。」
すると楽宮は思わず、
「え・・・。」
と、声を上げた。家慶は続け、
「そなたがどう思っていようと、わしはそなたを守りたいのじゃ。初めてあった時から、そう思うておった。」
そう言い、楽宮の手を握ろうとすると、楽宮は咄嗟に手を引っ込めた。すると家慶が、
「わしは必ず、そなたを幸せにしてみせる。それに、わしは嘘は嫌いじゃ。言ったことは、何があっても守り通す。」
そう言うのを聞き、楽宮はゆっくりと手を家慶の手に近付けた。そして、二人は互いに手を握り合った。そうしていると楽宮は、少しずつ笑顔になっていった。家慶も楽宮を見て、微笑んでいたのであった。
次の日、知らせを受けた茂姫は安堵の表情を見せ、
「そうか。何もなかったと。」
と言うと知らせに来た唐橋が、
「はい。そのように。」
そう言うと茂姫は、
「よかった・・・。上様にも、感謝せねばな。」
と言うと唐橋も、
「楽宮様も、今朝はしっかりとお食べになったご様子。家慶様も、ご安心されておいでです。」
そう言うので、茂姫は言った。
「そうであったか。とりあえず、これでひとまず落ち着くであろう。」
それを聞いて唐橋も、
「はい!」
と、笑いながら言っていた。そして茂姫は嬉しそうに、
「婚礼の日が待ち遠しいのぉ。」
そう呟いていたのであった。
夜。茂姫に家斉からのお渡りがあった。茂姫は寝室で、家斉に言った。
「上様、此度はありがとうございました。」
それを聞いて家斉は、
「そなたの言うようにしたまでじゃ。」
と言い、続けてこう聞いた。
「して、どうであったのじゃ?家慶と姫は。」
すると、茂姫は答えた。
「はい。家慶様は以前より、京に興味を持ち、色々聞かれておいでであったとか。それに、見張っておりました者達から聞くに、若様は、楽宮様のことを守ると仰せであったとか。」
それを聞いて家斉は、
「そうか。」
と答えた。茂姫は、
「上様は、若様とはお話にならぬのですか?」
そう聞くと、家斉は言った。
「近頃、一人でいる時が多いのじゃ。お楽の部屋に行っているのかと思うたら、庭で花を眺めておったり。学問をする時も、側に一人くらいしか置かぬとか。」
それを聞いた茂姫は少し驚いたように、
「そうなのですか?」
と聞いた。家斉は、
「誰とも、話したがらぬと聞く。あの者は、一人が好きなのかもな。」
そう言うので、茂姫がこう言った。
「ならば、わたくしが家慶様の教育係になります。」
「そなたが?」
家斉が聞くと茂姫が、
「わたくしは、己が幼き頃、周りに迷惑ばかりかけたせいか、面倒を見るのが好きなのです。上様であれば、ご存知なはずです。わたくしに、お任せ頂けないでしょうか。」
そう言うと、家斉は暫く考えた後、こう言った。
「そうじゃのぉ・・・、またそなたに苦労をかけてしまうな。」
それを聞いた茂姫は、
「えっ?」
と聞くと、家斉はこう言った。
「そなたは御台所じゃ。そうなれば、ふとした騒ぎになろう。大奥の他の女子と、立場も違う。」
それを聞いて茂姫は、
「いえ。わたくしも、皆と同じにございます!立場など気にせず、お許しを賜りたいのです。」
と言うと家斉は笑い、
「そなたの意思は、固そうじゃな。」
そう言うので茂姫も笑いながら、
「はい!」
と答え、家斉と見つめ合っていたのであった。
浄岸院(数日後、お世継ぎと定められている家慶様は、御台所・茂姫の御養となったのでございます。)
茂姫は、家慶と向き合い、挨拶していた。
茂姫はその後、縁側に出て宇多やひさに話していた。
「わたくしは、将軍御台所としてこの大奥に入ったことを、後に残していきたい。それ故、様々なことを成し得たいと思う。」
それを聞いて宇多は頷きながら、
「はい。」
と、答えていた。茂姫は続けて、
「そして徳川家が、こののち、更に何百年と続くよう、祈っていきたいのじゃ。」
そう言うので宇多は、
「それはわたくしとて、同じにございます。」
と言うとひさも、
「そうでございます。」
そう言うのを聞き、茂姫も笑っていた。そして茂姫は庭の木を眺めながら、
「命というのは、儚いものじゃ。この世に生まれたからには、己の命を全うしたい。」
と呟いていた。それを、二人も見つめていた。
浄岸院(これから、己の人生にとって最大の出来事が近付いてきていることは、この時の茂姫に知り得たでございましょうか。)
茂姫はその後も暫く、愛おしそうな柔らかな表情で木を見つめ続けていた。
次回予告
茂姫「鶴亀問答じゃと?」
宇多「主君の贅沢を慎み、民のことを考えるというものらしいのです。」
斉宣「父上が、薩摩を乗っ取るじゃと?」
樺山主税「大殿様は、未だ薩摩の藩政を牛耳っておられる。」
享「何かのお間違いでは?」
定信「重豪様はあぁ見えて、繊細なお方じゃ。」
雅姫「とてもそのような方には見えませんでした。」
美尾「御台様にお願いしたいのです!」
茂姫「薩摩が、乱れる・・・?」
重豪「わしはあやつを信じておる。」
家斉「今度はわしがそなたを守る。」
茂姫「上様・・・。」
次回 第二十五回「薩摩、動く」 どうぞ、ご期待下さい!