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第二十回 お楽の決意

宇多「清水家に養子入りされた敦之助様が、先日の五月七日、屋敷にて身まかられたそうにございます。」

茂姫「嘘じゃ・・・。」

お楽「何故、お泣きにならぬのですか!?」

茂姫「わたくしは・・・、もう泣かぬと決めた。」

斉宣「大切の人の死を受け入れられず、立ち止まっていると、泣きたくても泣けぬのだと思います。それはまず、姉上が、敦之助殿の死を認めるべきではないのですか?」

茂姫「敦之助~!!」

  「わたくしは、もう迷いませぬ。」

  「気がついたのです。わたくしがわたくしでなければ、天にいるあの子が悲しむと。」

家斉「悔いはないといった顔じゃな。」

茂姫「はい、ございませぬ。」

お楽「わたくしは、己の子だけを幸せに致します。側室は御台所と違い、上様の付属品に過ぎませぬ故。」

浄岸院(最愛の息子を亡くした茂姫は、生きる決心をしたのでした。そして・・・。)

重豪「帰らぬか、薩摩に。」

浄岸院(新たな御家騒動の封切りは、もう始まっていたのです。)



第二十回 お楽の決意


一七九九(寛政一一)年六月。庭には紫陽花が咲き、昼間は雨が降っていた。茂姫は、宇多と話していた。宇多は、

「御台様。あのことはもう大丈夫なのですか?」

と聞くと茂姫が微笑し、

「大丈夫じゃ。それより、そなたどうなのじゃ?昨年、生まれた赤子が数日の内に身まかったと聞く。」

そう言うので、宇多は答えた。

「生まれて・・・、三日にございました。されど、三人目がここに。」

宇多はそう言って、手を自分のお腹に当てた。それを見た茂姫は嬉しそうに、

「そうか・・・。ならば良かった。」

そう言うので宇多も笑いながら頷き、

「はい!」

と言って、答えた。すると、

「失礼仕ります。」

そう声が聞こえ、茂姫は前を見るとお蝶が入って来た。お蝶は座ると、侍女を使って茂姫に文を渡した。

「これは・・・?」

茂姫が聞くと、お蝶はこう言った。

「江戸の薩摩藩邸より、届きましてございます。」

それを聞き、茂姫は裏を見た。そこには、『島津重豪』と書かれていた。それを見て茂姫は、

「父上・・・?」

と呟いた。それを、横から宇多も不安そうな顔で見ていたのだった。

その後、茂姫は部屋で一人、文を開いた。

『於篤、息災にしておるか。此度は、そなたの母のことで文を書いた。知っておると思うが、そなたの母上は体が弱ってきておる。わしは、あの者を一旦薩摩に帰すことにした。心配はいらぬ。薩摩で治療させ、よくなればすぐにでも江戸に戻って来させるつもりじゃ。わかっておるとは思うが、これはあの者を利用して薩摩の情勢を探ろうというものではない。あの者の、体を思うてのことじゃ。どうかそのことを、わかってもらいたい。』

茂姫はそれを読み、涙ぐんでいた。

「母上・・・。」

茂姫は顔を上げ、さっきまで曇っていた空から晴れ間が見えるのを感じていた。

そして薩摩藩邸では、茂姫の母・お登勢が帰国の準備を終え、重豪と対面していた。重豪は、

「まことに・・・、よいのじゃな?」

と念を押すとお登勢は、

「はい。」

そう答えた。重豪は、

「では、また会う時までな。」

そう言うとお登勢は、

「此度のご配慮、誠にありがとう存じ上げます。」

と言い、頭を下げた。重豪もそれを見て頷き、

「於篤にも、文を出しておいた。案ずることはない。」

そう言うのを聞いてお登勢は顔を上げ、

「では、行って参ります。」

と言い、立ち上がると侍女を引き連れて部屋を出て行った。重豪はそれを見送った後、険しい表情になっていたのであった。

一方、お楽は部屋で一枚の栞を眺めていた。それは、敦之助からもらった花で作ったものであった。お楽は、ふと敦之助の顔を思い出していた。それを、近くから家斉の嫡男・家慶も見ていた。家慶はお楽に近づいていき、

「母上、一緒にかるたをしとうございます。」

と言うとお楽は、

「すまぬな。今日は疲れておるのじゃ。」

そう言って女中の方を見て、

「これ、家慶とかるたで遊んでやるがよい。」

と言うと女中は、

「はい。」

そう言うと立ち上がり、家慶を連れて行った。お楽はその後も、上の空のように空を眺めていた。

別の部屋では茂姫が、

「お楽が?」

と尋ねると、家斉は答えた。

「あぁ。前までは、毎日のようにしつこく目通りを願うてきておったというのに。」

それを聞いて茂姫は、

「わたくしと同じように、敦之助のことが余程衝撃だったのでしょう。」

と言うので家斉は、

「敦之助じゃと?」

そう聞くと茂姫は、こう言った。

「出立の日、敦之助がいなくなった時、お楽の部屋の庭に行っていたようです。あの者はもしかすると、わたくし以上に敦之助が好きだったのやもしれませんね。」

それを聞いた家斉は、

「まだ、立ち直っておらぬのか。」

と聞くと茂姫は、

「そのようなのです。」

そう答えるのだった。家斉はそれを聞き、何か考えているような顔をしているのだった。

浄岸院(それから二ヶ月ほどが過ぎ、お登勢の方が薩摩藩の鶴丸城に帰っておりました。)

お登勢は部屋に入ると、懐かしさに微笑んでいた。すると一人の女性がすぐ後ろに来て、

「お帰りなさいませ。」

と言った。お登勢は振り返ると、後ろにはお千万が座っていた。

「お千万殿・・・。」

お登勢は、懐かしそうにそう呟いた。

その後、二人は向き合って話をしていた。お千万が、

「江戸よりの長旅、お疲れ様にございました。」

と言うと、お登勢は言った。

「いえ。それより、薩摩の様子は?」

それを聞いてお千万が、

「今年の梅雨は雨が少なかった故、農作物が実らず、皆苦しんでおります。」

と言うのを聞いてお登勢は、

「そうですか・・・。」

そう言った。お千万は話を変え、

「江戸では、斉宣や殿のご様子は?」

と聞いた。するとお登勢は微笑み、

「皆、元気でやっております。」

そう言うのでお千万は、

「ようございました・・・。」

と、少し嬉しそうにした。するとお登勢は、

「薩摩の風景を見ると・・・、出立の前、於篤と見た桜島を思い出します。」

そう言うので、お千万は微笑んでこう言った。

「よければ、今度、二人で行ってみませぬか?」

それを聞いてお登勢も笑いながら、

「そうですね。久々に見た桜島の様子を、於篤に文で伝えよと、あの方も言っておられました。」

と言った。お千万はそれを聞いて、

「御台様は、初めてのお子を亡くされたとお聞き致しました。たいそう、悲しんでいらっしゃるのでしょうね。」

そう言うので、お登勢はこう言った。

「大丈夫です。あの子は、強い子ですから。それに、またそのうちに次の子を産むでしょう。」

少し作り笑いに見えたお登勢の笑顔を見てお千万も、

「そうですね。」

と言い、微笑していたのであった。

その頃、お楽の元気がなく、一日中栞を見つめていた。

『母は好きか?』

とお楽が問うた時、敦之助は頷いた。そして茂姫が、

『よいか?あちらに行っても、ちゃんとやるのじゃぞ。』

と言い聞かせた時、敦之助は元気に、

『はい。』

そう答えた。お楽は、そのことを思い出していた。それを、同じ部屋から家慶も見ていたのだった。そして女中が呼びに来て、

「お楽様。」

と声をかけると、お楽は栞を机に置き、立ち上がって部屋を出て行った。それを見計らい、家慶は机の方に向かった。机には、花を押し花にして作った栞が置いてあった。家慶は、それを異端視しているような視線で見つめていたのだった。

茂姫は、宇多を部屋に呼んでいた。茂姫は、

「家慶の様子を聞いておらぬか?」

と聞くと、宇多はこう答えた。

「いえ。されど、お楽様は家慶様とはこの何ヶ月もお話しされていないとのことにございます。」

それを聞いて茂姫は、

「やはりか。」

と言うと宇多は、

「知っておいでだったのですか?」

そう聞くと、茂姫はこう言った。

「上様が仰せだったのじゃ。一度、会うて話してみたいが、家慶のことを思うと、ちと厳しいことを言ってしまいそうでな。」

宇多はそう言う茂姫を見つめ、

「はい・・・。」

と、答えていた。そして茂姫は、

「己の子のことも忘れ、いつしか、己のことしか考えられぬようになる時もあるのじゃな。」

と呟くのを、宇多も見つめ続けていたのだった。

そして次の日、広間にて朝の参拝が行われていた。家斉は、いつものように、仏壇の前で手を合わせて拝んでいた。その両斜め後ろには茂姫、お富がいて両者とも目を閉じ、手を合わせていた。参拝を終え、家斉は立ち上がろうとした時、常磐が駆け込んできた。

「た、大変にございます!」

それを聞いたお富は、

「何じゃ、騒々しい。」

と言うと常磐は顔を上げ、

「その・・・。家慶様が、行方不明にございます!」

そう言うので、その部屋は騒然となった。お楽も、それを聞いて当然のごとく驚いた。お富が、

「何じゃと?ならば、城の隅から隅まで探すのじゃ!よいな!?」

と言うので常磐が、

「はい!」

そう頭を下げ、駆けるようにして部屋を出て行った。茂姫はそれを見た後、心配するように家斉を見た。するとお楽は耐え切れずに、進み出てこう言った。

「公方様。わたくしがついていながら・・・、申し訳ございません。」

お楽はそう言って、家斉に頭を下げた。それを見たお富は、

「そうじゃ。そなたがついておりながら、何をしておったのじゃ!」

そう言うのを聞いて家斉は、

「母上。お楽を責めても何も始まりませぬ。」

と言い、お富を黙らせた。家斉は側室達を見渡して、冷静にこう言った。

「皆で探せば、きっと見つかるはずである。まずは、それぞれの部屋の周りを探すように。」

側室達は声を合わせ、

「はい!」

と言い、頭を下げた。すると茂姫も家斉を見つめて、

「上様。わたくしにでもできることがあれば、お申しつけ下さいませ。」

そう言うので家斉も、

「あぁ。」

と、返すのだった。お楽は、頭を下に下げたまま、家斉を見つめていたのであった。

斉宣は、薩摩藩邸にいた。すると侍女が一人来て、

「お殿様、大殿様がお呼びでございます。」

そう言うので斉宣は、

「父上が?」

と聞いた。

斉宣は、重豪の部屋に行った。斉宣は、

「あの、今日は何のご用件でしょうか。」

と聞くと、重豪はこう言った。

「そなたに、紹介したき者がおるのじゃ。」

「え?」

斉宣は、そう呟いた。すると重豪は部屋の外に向かって、

「これ、入るがよい。」

と言うと、部屋に入ってきたのは何と一人の女性であった。その女性は見たところ、年は斉宣よりも若そうであった。斉宣が、

「その方は?」

と尋ねると、重豪は言った。

「この者を、そなたの身の回りの世話役として、側に置こうかと思うておる。」

それを聞いて斉宣は驚いたように、

「わたくしの?」

と聞いた。その女性は顔を上げて、

あつと申します。この度、お殿様のお世話役を仰せつかりました。」

そう言うのを聞き、斉宣は顔を赤らめながら、

「宜しく、お願いします。」

と言うのだった。重豪は笑いながら斉宣を見つめ、

「これからは、何かあれば遠慮せず、この者に相談するとよい。」

そう言うので斉宣は、

「はぁ・・・。」

と言いながら、重豪を見つめていたのだった。

夕方、お楽は部屋に帰ってきていた。お楽は、

「家慶・・・、何処へ行ったのじゃ。」

と呟き、机の方を目にした。するとお楽は、机に駆け寄ると、引き出しを引いたりして、何かを探しているのだった。それを見た女中は、

「お楽様、如何なさいました!?」

と聞くと、お楽はこう言った。

「栞が・・・、栞がなくなっておるのじゃ!」

「え?」

女中はそう言って、探しているお楽を見ていた。

その後、お楽は廊下で家慶を探していた。すると、向こうで同じように辺りを見回し、誰かを探している女性がいた。お楽がそこへ向かうと、それは茂姫であった。茂姫はお楽に気づくと、

「あぁ。家慶は見つかったか?」

と聞くと、お楽は茂姫の顔を見ずに首を横に振った。それを見た茂姫は残念そうに、

「そうか・・・。」

と呟くと、庭の方を向いてこう言った。

「わたくしのせいなのです。」

「え?」

茂姫は思わずそう呟くとお楽は続けて、

「わたくしは、敦之助が出立の日、あの者が赤の他人のようではない気がしました。」

そう言うので茂姫が、

「敦之助のことか?」

と聞くとお楽は体を茂姫の方へ向け、

「はい。」

そう、茂姫を見て答えた。お楽は、続けてこう言った。

「それ故、死の知らせを聞いた時は、とても悲しゅうございました。まるで、我が子を亡くしたような・・・。それ故、いまが怖いのです。」

「怖い?」

「はい。己の生んだ子が、いなくなればどれ程のものかと。」

「よせ・・・。」

茂姫がそう言うと、お楽は言うのだった。

「わかっておるのです。家慶にもしものことがあらば、わたくしは自害する覚悟にございます!」

お楽は軽く頭を下げ、向こうへ行ってしまった。茂姫も、それを不安そうな目で見送っていたのであった。

そしてその後、真っ暗になった廊下をお楽は、

「家慶?家慶!」

と言いながら、小走で走っていたのだった。

浄岸院(一方、薩摩では。)

お登勢が鶴丸城の縁側から庭を眺めていると、侍女のきよが来て、

「お登勢様に、お客人にございます。」

そう言うのを聞いてお登勢は、

「客・・・?」

と呟いていた。

お登勢が小部屋に入ると、そこにいた男が顔を上げた。その男の名は、藩主・樺山かばやま主税ちからであった。樺山は、

「これはこれは、お登勢様。」

と言うので、お登勢は樺山の前に座った。お登勢が、

「何のご用ですか?」

と聞くと、樺山はこう言った。

「薩摩の大殿様、重豪様のことで、ちと良くない噂を耳に致しました。」

それを聞いていたお登勢は、

「良くない・・・、噂・・・?」

と繰り返した。樺山は続けて、

「はい。重豪様は、薩摩を我が物にしようとなさっておいでなのではと。」

そう言うのでお登勢は驚き、

「そのような・・・。」

と言っていると樺山は続けて、こう言うのだった。

「重豪様は江戸で薩摩の様子を探り、藩主の斉宣様を押しのけ、藩政を握ろうとお考えなのではないかという話もございます。お登勢様が薩摩に戻られたのも、重豪様に国元の様子を知らせるためではないかと。」

それを聞いたお登勢は首を横に振り、

「そのようなことはありませぬ。」

と言うので、樺山は声を上げて笑った。

「冗談にございます。あくまでただの、”噂”でございます故。」

そして樺山は頭を下げ、立ち上がると部屋を去った。その後、お登勢は一人部屋で不安を抱えたような顔をしていたのであった。

浄岸院(そして、江戸でも・・・。)

斉宣が部屋で書を読んでいると、享が入ってきて言った。

「お殿様に、お客人にございます。」

それを聞いて斉宣は、

「客?」

と聞いていた。

斉宣は部屋に行くと、こう呟いた。

「叔父上様・・・。」

そこにいたのは、お登勢の弟で薩摩藩家老・市田いちだ盛常もりつねであった。斉宣が盛常の前に座ると、

「どうしたのですか。」

と、尋ねた。すると盛常は、こう言った。

「大殿様のことで。」

「父上が、どうかなさったのですか?」

「はぁ。姉上が、薩摩に戻られたと聞きましてな。もしかすると、大殿様に薩摩の様子を知らせるためではないかと。」

盛常がそう言うので、斉宣は驚いた。

「そのようなことは、ないと思います。」

盛常は続けて、

「考えてみれば、大殿様は殿様時代、膨大な金を使っておいででした。放っておけば、何をなさるかわかりません。藩では藩士達のほとんどが大殿様に不安を持ち、中には、まだ権限を握っておいでの大殿様を藩政から引きずり下ろすべしという動きがございまする。」

そう言うのだった。それを聞いて斉宣が、

「そんな・・・。されど父上は、反省されてのご様子でしたし・・・。」

と言うので、盛常もこう言った。

「わたくしとて、そのような話など信じとうはござらぬ!ですが、皆が言うには、大殿様があなた様に家督を譲られたのは、陰で藩の政を操るためではないかと・・・!」

それを聞いた斉宣は驚き、

「そのようなこと、ただの噂にすぎません。父上がそのようなことを考えるはずが・・・。」

と言っていると、盛常はこう言った。

「一方で、大殿様に立ち向かう者がいれば、容赦なく圧力をかけられるのではないかと。」

それを聞いた斉宣は、こう聞いた。

「父上に反対する者は、捕らえられてしまうのですか?」

「わたくしも、まさかとは思いまするが、どうか大殿様には呉々もお気をつけ遊ばしませ。」

盛常が、そう斉宣の肩を持ちながら言うのだった。斉宣は、盛常を疑ったような複雑な気持ちで見つめていた。それを、部屋の外で密かに享も立って見ていたのであった。

江戸城大奥では、茂姫に知らせがもたらされた。

「見つかった・・・?」

茂姫が聞くと、常磐も頷いてこう言った。

「はい。表の庭で今朝、老中の方によって保護遊ばされたと。」

それを聞き、その部屋にいた宇多やひさは安堵の笑みを浮かべた。茂姫は、

「上様には?」

と聞くと常磐は、

「勿論、伝わりましてございます。」

そう言った。茂姫は、

「そうか・・・。」

と言い、微笑んでいた。

その頃、家慶はお楽の部屋に帰ってきていた。女中が家慶を部屋に連れてくると、お楽はそれを見て立ち上がった。家慶も、恐る恐るお楽の方へ近寄っていった。お楽は、

「家慶・・・。」

と呟き、家慶を見つめた。家慶は、何をされるかといった不安の表情でお楽を見つめていた。その光景が、数秒続いた。するとお楽は、

「家慶!」

と言い、家慶を抱きしめた。お楽は泣きながら、

「すまぬかった、家慶・・・。」

そう言っていると家慶も、

「母上・・・。」

そう呟いていた。暫く、お楽は家慶から離れなかったのであった。

茂姫はその後、家斉と会っていた。茂姫は、

「家慶が無事見つかって、ようございましたね。」

と言うと、家斉がこう言った。

「あの者は、老中が見つけた時、栞を手にしておったそうじゃ。」

「栞?」

茂姫はそう聞いてから、思い出したようにこう言った。

「もしや、敦之助の。」

すると家斉が、

「母が自分ではなく、血の繋がっておらぬ弟のことを想うておったのだと勘違いしたようじゃ。」

と言うのを、茂姫も考えたような顔で聞いていた。すると家斉が突然、

「そなたはどう思う。」

と、聞いてきた。それを聞いて茂姫は、

「何のことですか?」

そう聞き返すと、家斉は言った。

「そなたが家慶のと同じ立場であったなら、母が別の兄弟のことを考えておったとしたら。」

すると、茂姫はこう答えた。

「わたくしは・・・、別に構いませぬ。」

「母が違う兄弟であったとしてもか?」

家斉が聞くと茂姫が、

「はい。母が違っていても、わたくしは皆が兄弟であると思うのです。正室も、側室も、わたくしにとっては関係ございませぬ。上様も、それはおわかりにございましょう。」

と言った。家斉は、

「されど、側室は子を産むためだけにおるのではないか。」

そう言うので茂姫は、

「それは違います。ならば何故、世継ぎが決まった後で、お蝶を娶られたのですか?」

と言うのを聞き、家斉は黙った。茂姫は続けて、

「お楽もきっと、上様にもっと愛されたいと、そう思っておりまする。お楽だけではなく、他の側室達も、同じように愛されたいはずにございます。」

そう言い、家斉を見つめた。そして茂姫は最後に、

「上様、お楽の気持ちを、どうかお解り下さいませ!」

と言うのだった。家斉は暫くすると、

「やはり、そなたは変わっておるか。」

そう言うので茂姫は笑い、

「そうなのです。」

と言うので、その後、二人は笑い合っていたのであった。

その夜、お楽は縁側にいて月を眺めていた。すると、

「邪魔をするぞ。」

という声がするので、お楽は振り向いた。するとそこには、家斉がいたのだった。お楽は驚き、

「公方様!」

と、思わず声を上げた。家斉はお楽の横に座ると、

「家慶の様子はどうじゃ。」

そう聞いた。お楽は少し動揺しながらも、

「もう、休んでおります。」

と答えた。家斉はそれを聞き、

「そうか。」

そう言って、月を眺め始めた。お楽は気になって、

「あの。」

と声をかけると家斉は、

「何じゃ。」

そう聞くので、お楽はこう聞き返した。

「今宵、お出ましになったのは、何か他にご用がおありなのでは?」

それを聞き、家斉は懐から何かを取り出した。お楽はそれを、まじまじと見つめた。家斉が懐から取り出したものは、お楽が持っていた栞であった。家斉はそれをお楽に渡し、こう言った。

「これを、家慶が持っていたそうじゃ。」

それを聞いたお楽は、驚いたような表情で家斉を見た。家斉は続いて、

「多分、敦之助に対して嫉妬したのであろうな。」

と言うのでお楽は、

「敦之助に・・・。」

そう呟いた。家斉はお楽を見つめながら、

「そなたが御台の子を好きなるとは、意外であったのぉ。御台も、敦之助の死を自分以上に悲しんでおるのはそなたではないかと言っておった。」

そう言うのでお楽は、

「そのような・・・。」

と言った。家斉は続けて、こう言った。

「御台も、そなたのことを案じておった。」

「御台様が?」

「正室と側室とでは、扱いが比べ物にならぬくらい異なる。それが、世間でいう現実じゃ。」

それを聞いたお楽は、

「はい・・・。」

と、俯きながら答えた。すると家斉は、こう言った。

「教えてくれぬか?」

お楽はそれを聞き、顔を上げた。家斉はお楽を見つめ、

「そなたは、わしに何を望んでおるのか。」

と聞いてきたのだった。するとお楽は一歩下がり、手をついてこう言いだした。

「わたくしは、二つの使命を持ってこのお城に上がりました。一つは、己が男の子を産み、そして次なるお世継ぎにすること。そして二つ目は・・・。」

お楽はそこまで言って、言葉に詰まった。家斉が、

「何じゃ。」

と尋ねると、お楽は続けてこう言った。

「二つ目は・・・、公方様に愛されることにございます。」

家斉は何も言わず、お楽を見つめていた。お楽は続け、

「子を産むことが、側室の本当の役目であることは承知しております。されどわたくしは、それだけでは物足りぬのです。公方様のお側にお仕えし、もっと公方様とお話ししとうございます。あなた様には、御台様しか見えておられぬことはわかっております。されど、わたくしも、公方様の・・・。いえ、上様のお側にいとうございます。」

と頭を下げ、泣きながら言うのだった。家斉はそれを聞き、こう言った。

「御台の言う通りじゃ。」

それを聞き、お楽は顔を上げた。家斉は、

「あやつに、正室も側室も関係ないと言われての。わしは、もう考えぬことにしたのじゃ。そなたも、他の側室達も、わしの妻である。」

と言うと、お楽は家斉を見つめた。そしてお楽はまた手をつき、

「わたくしも決めました。これからは、家慶と、そして上様をお守り致します。」

そう言うので、家斉はお楽を抱きしめたのだった。お楽は最初は少し驚いていたが、すぐにそれを受け入れ、手を家斉の背中に回していた。そして、お楽の目から一雫の涙がこぼれたのである。その様子を、遠くから茂姫も見守っていたのだった。

翌日、茂姫は縁側に出てこう呟いていた。

「親と子にしかわからぬものがある。ほんに、そうなのかもしれぬな。」

それを聞いて茂姫のすぐ後ろにいた宇多は、

「御台様も、お母上様とは仲が良かったのですか?」

と聞くので、茂姫は振り向くとこう言った。

「良かったなどではない。」

それを聞いた宇多も笑いながら、

「これは、失礼申し上げました。」

と言っていた。茂姫は再び庭に目を向けると、

「また、母に会いたいものじゃ。薩摩にいた頃に、戻りたい・・・。」

そう呟いていた。それを、宇多、そしてその隣にいたひさも共に微笑みながら見ていたのであった。

薩摩藩邸では、重豪が家臣の小松こまつ清宗きよむねにこう話していた。

「今、薩摩は水不足の危機に陥っておる。隣の藩に行き、農産物を分け与えて下さるよう頼むのじゃ。金は、いくらでも払うと。」

それを聞いて清宗は、

「ははっ!」

と言い、頭を下げると部屋を出て行った。重豪の横には、斉宣がいた。そして斉宣はあの時、叔父にあたる市田盛常が言っていたことを思い出していた。

『放っておけば、何をなさるかわかりません。藩では藩士達のほとんどが大殿様に不安を持ち、中には、まだ権限を握っておいでの大殿様を藩政から引きずり下ろすべしという動きがございまする。』

思い出すと斉宣は、不安そうな表情になっていた。すると重豪はそれに気がつき、

「如何した?」

と聞くと斉宣は、

「あ、何でもございません。わたくしも、藩主として、父上のお力になれたらよいと。」

そう言うので重豪は嬉しそうに笑いながら、

「そうか。頼むぞ。」

と言うと斉宣は、

「はい!」

と言い、安心したように重豪を見つめていたのだった。

薩摩では、市田盛常が帰ってきていた。そして、お登勢に会っていたのだった。盛常は、

「藩士達は、兄上様に反発するものばかりです。放っておくと、いつ反乱が起きてもおかしくはありません。」

それを聞いて、お登勢は心配そうに言った。

「藩主様が江戸におられる今、薩摩は混乱しているでしょうね。」

それを、部屋の外からお千万も聞いていたのだった。盛常はわざと、

「心配なさいますな。江戸で斉宣殿に会いました。あの方であれば、きっと薩摩を良き方向に導いて下さるでしょう。」

と勇気付けるように言うのでお登勢は、

「斉宣殿に・・・?」

そう聞くと盛常は、

「だから、大丈夫ですよ。」

と言うのを聞き、お登勢は少し安心していた。外のお千万は、相変わらず不安そうになっていたのだった。

大奥では、いつものように朝の参拝が行われていた。家斉の後ろで、茂姫は微笑みながらそれを見ていた。その後ろでは、お楽も手を合わせて家斉を見ていた。

茂姫は部屋に帰ると、振り返って宇多にこう聞いた。

「お楽の様子はどうじゃ?」

それを聞いて宇多は、

「はい。公方様にお渡りを乞うのは、おやめになったそうです。」

と言うので茂姫は、

「何故じゃ?」

そう言って聞くと、宇多は言った。

「だって、そのようなことなさらなくとも・・・。」

それを聞いて茂姫は理解したように、

「そうか・・・。」

と、嬉しそうにした。

その頃、お楽は家斉に呼ばれていた。家斉は、家慶を足の上に乗せていた。お楽はそれを見て、

「上様。」

と、声をかけた。家斉が、

「何じゃ。」

そう聞くと、お楽はこう言った。

「家慶は、これからわたくしで育てて参ります。」

「乳母はどうするのじゃ。」

家斉がそう聞くとお楽は、

「わたくしだけで、育てたいのでございます。次の将軍に相応しい若君に育てます故。」

と言うので家斉は、こう言った。

「この者にとっては、それがよいかもな。」

それを聞いてお楽は、

「ありがとうございます!」

と言い、頭を下げた。家斉もそれを見て、笑っていた。

茂姫のところには、お万が来ていた。

ひでの縁談が決まったのか?」

茂姫が聞くとお万は、

「はい。尾張藩主の御嫡男だそうにございます。」

と言うので、茂姫は言った。

「そちらも、忙しくなるな。」

お万もそれを聞き、

「はい。」

と答えた。茂姫は、嬉しそうにそれを見ていたのであった。

一方、重豪は屋敷の皆を部屋に呼んでいた。重豪は、

「今日、皆を呼んだは、大事なる話がある故じゃ。」

そう言った。一番前にいた斉宣は、息をのんだ。そして重豪は、こう言ったのだった。

「わしは間もなく、薩摩へ帰る。」

それを聞き、皆は驚いた。斉宣は、

「何故ですか?」

と聞くと、重豪は答えた。

「やはり、薩摩の様子が気になってな。」

それを聞いて斉宣は、

「ならばわたくしが帰り、国元の様子を父上にお伝え致します。」

と言うので重豪は、

「いや。そなたが帰ってしまっては、藩士達の活気が増すばかり。そなたは江戸に残り、家中の皆と様子を探るのじゃ。いつ、内乱が起きるかわからぬ故な。」

そう言うのを聞き、部屋の後ろにいた享は驚いた。斉宣は冷静に、

「わかりました。あとは、お任せ下さい。」

と言うと重豪は斉宣の顔を見ながら、真剣な顔で頷いた。斉宣も、それを見つめていたのだった。

浄岸院(そして、寛政一一年の暮れのこと。)

茂姫は部屋に入ると、宇多が布団に座って赤子を抱いていた。茂姫は宇多の側に座り、

「そなたも、三人目か。」

と言うと宇多は嬉しそうに、

「今度こそは、大きゅうなって欲しゅうございます。」

そう言った。すると茂姫も、

「新たな命じゃ。そなたらしゅう、育てるがよい。」

と言うのを聞いて宇多は、

「はい!」

そう答えいた。茂姫も、それを嬉しそうに見つめていた。すると宇多が、

「御台様も。」

と言い、赤子を手渡した。茂姫は戸惑いながらも、赤子を抱いてみた。そのあと、茂姫は赤子を抱きながら、暫く嬉しそうにその寝顔を眺めていたのであった。



次回予告

茂姫「父上が薩摩へ・・・?」

斉宣「父上は、わたくしを信頼しておらぬのであろうか。」

重豪「夫婦にならぬか。」

斉宣「藩主はわたくしにございます!」

重豪「わしは国ために使うておるのじゃ。」

茂姫「蘭学ですか?」

昌高「異国のものを集めた、わたくしだけの部屋を作りとうございます。」

享「もっと信じてよいのでは?」

樺山主税「このままでは、薩摩は確実にお取り潰しかと。」

斉宣「何じゃと・・・!?」

昌高「わたくしは、もっとオランダのことを世に広めたい。」

茂姫「夢はいつか現実になると、わたくしはそう思います。」




次回 第二十一回「昌高の蘭学教室」 どうぞ、ご期待下さい!

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