第十九回 母の誓
浄岸院(茂姫が我が子を外に送り出し、一月余りが経っておりました。)
家斉は、餅を焼いていた。その横で茂姫は、
「清水家はここ三年余り、当主がおらず、さぞ肩身が狭かったでしょう。此度の敦之助の養子入りで、持ち直してくれると良いのですが。」
と言うと家斉は餅を焼きながら、
「大丈夫じゃ。自分の子を信じよ。」
そう言うので、茂姫は言った。
「わたくしは初めから、そうしております。」
「ならばよいではないか。」
家斉はそう言って、茂姫を見た。
「そなたの役割は心配ではなく、見守ることではなかったのか?」
それを聞いて茂姫は、
「はい。」
と言い、頷いた。家斉は、
「できたぞ。」
そう言って、餅を箸で皿の上に乗せ、茂姫の前に置いた。茂姫は笑って、その餅を食べ始めていた。家斉も微笑しながら、その様子を見つめていたのだった。
第十九回 母の誓
薩摩藩邸の重豪のところに、一橋治済が来ていた。治済が、
「徳川御三卿である清水家が当主不在では、どうにもなりませぬ。これで、一件落着にございますな!」
と言うと、重豪はこう言った。
「しかし、敦之助はまだ幼い。一人前に成長するまで、補佐する者が必要にございます。」
それを聞いた治済は、
「と、いうのは?」
と聞くと、重豪はこう言った。
「大丈夫にございます。少々、当てがあります。」
それを、治済は頷きながら聞いていた。
奥平昌高が、
「わたくしが?」
と聞くと、重豪は言った。
「あぁ。そなたを、清水家当主の敦之助の後見役にしたいのじゃ。」
それを聞いた昌高は、
「わたくしは・・・、構いませぬが。」
そう言うので重豪は嬉しそうに、
「そうか、引き受けてくれるか!」
と言うと昌高は、
「はい。父上の頼みとあらば、お受けするまでにございます。」
そう言った。それを聞いた重豪は笑いながら、
「宜しく頼む。」
と言っていた。
重豪はそれを斉宣に伝えると斉宣は、
「昌高を清水家御当主の後見職に?」
と聞くと、重豪は言った。
「あぁ。あの者であれば、藩だけでなく、この国における様々な情勢について知っておろう。それに、新しい考えも持っておるからな。」
「新しい考え?」
「そうじゃ。異国どう向き合うか、それが今のこの国の課題でもある。」
それを聞いて斉宣は、
「父上も、そう思われますか?」
と聞くと重豪は、
「徳川御三卿ともなれば、徳川宗家とも密接の関係にある。幕府に知らせるのに、丁度よいと思うてな。」
そう言うのを聞いて斉宣も嬉しそうに、
「はい!」
と、答えていたのだった。
浄岸院(その敦之助にございますが、江戸の清水家ですくすくと育っておりました。)
徳川敦之助は、屋敷を走り回って次女達と遊んでいた。
その頃、茂姫は机に向かって文を書いていた。するとひさが来て、
「また書いておられるのですか?」
と声をかけると、茂姫はそれを見て言った。
「どうも気になってな。」
ひさは座ると、こう言った。
「母としての務めを全うされておいでなのはわかりますが、あまり思い悩んでおられるとお身体に障りますよ。」
それを聞いた茂姫は、
「大丈夫じゃ。そうやって、ずっと前からわたくしを案じてくれておるのじゃな。礼を申す。」
と言い、軽く頭を下げた。それを見てひさは驚いたように、
「そのような。わたくしは、御台様のお元気なお姿を見とうございますから。」
そう言うので、茂姫も笑っていた。そして茂姫は目線を上に戻し、書き続けていた。ひさも、横からその様子を眺めていたのであった。
浄岸院(その数日後、中津藩奥平家当主の奥平昌高が、重豪殿の名により、清水家当主の敦之助の後見役になったのでございます。)
昌高は、上座に座っている敦之助の前で頭を下げていた。
その一方、茂姫は側室・お蝶と話をしていた。
「好き?」
茂姫が聞くとお蝶が、
「はい。御台様は、公方様のことがお好きなのですか?」
と言うと茂姫は、
「何を今更。好きに決まっておるではないか。そなたは、どうなのじゃ?」
そう聞き返した。お蝶は、
「側室になった身分でお恥ずかしいのですが、わたくしはまだよくわかりませぬ。お世継ぎが決まった今、側室はただの飾りにすぎませぬ故。」
そう言うのだった。それを聞いて茂姫は、
「そのようなことはない。それに、子を産むだけが側室の役目ではない。皆で上様を支え、喜びや悲しみを分かち合うことこそが、本当の役目だとわたくしは思うのじゃ。」
と言うのを聞き、お蝶は言った。
「されど、側室はもう取られぬそうです。」
それを聞いた茂姫は、
「側室は取らぬ?上様がそう申されたのか?」
と聞くとお蝶は、
「いえ。そのような話があるそうで。お富様も、それを望んでおられるようです。女子にうつつを抜かすのではないかと。」
そう言うので、茂姫は言った。
「そうか・・・。わたくしは昔、大奥へ上がる前に上様に申したことがあっての。」
それを聞いたお蝶は、
「それは?」
と、気になったように聞いた。そして、茂姫は話した。
「何故この世界には、男と女がいるのかと。」
「はい・・・。」
「わたくしは申したのじゃ。女は、子を産むためだけの道具ではない、わたくしは、そのような道具にはならぬと。」
それを聞き、お蝶は笑い出した。茂姫が、
「如何したのじゃ。」
と聞くとお蝶は、
「申し訳ありません。ただ、御台様のその勇気に感服いたしました。」
そう言うのを聞いて茂姫も笑いながら、
「あの方も、今でもその言葉を覚えていて下さる。それ故、わたくしは日々考えておる。どうやったら、女子も表舞台に立てるのかと。」
と言った。お蝶は、
「御台様であれば、そのような日が来るやもしれませぬね。」
そう言うので、茂姫は笑って言った。
「そうじゃな。」
すると女中が来て、こう言った。
「御台様、公方様がお呼びでございます。」
それを聞いた茂姫は、
「上様が?」
と言い、立ち上がった。
茂姫は家斉の部屋に入ると、目の前に敦之助がいた。それを見て茂姫は、
「敦之助・・・?」
と呟いた。家斉は、
「出立の日から、そなたが恋しかったらしくての。特別に城に入れたのじゃ。」
そう言うのを聞き、茂姫は涙ぐんだ。そして、茂姫は敦之助を力一杯抱きしめた。家斉も、嬉しそうにそれを見ていた。そこへ敦之助の付き添いらしき者が入ってきて膝をつくと、
「敦之助様、お時間です。」
と言うと、家斉は言った。
「もう少しよいか?」
そう言うと、顔を上げたのは昌高であった。
「あ、はい。」
昌高はそう言うと、茂姫が敦之助を抱いているのを見た。それを見て、昌高も微笑んでいた。
そのあと、三人話をした。茂姫の横には、敦之助がいた。家斉が最初に、
「この者は、中津藩奥平家の当主じゃ。そなたの父により、敦之助の後見職を任された。」
と言って昌高を紹介した。昌高は、
「奥平昌高と申します。」
そう言うで茂姫は、
「では、父上の・・・。」
と言っていると、昌高は言った。
「お初にお目にかかります、姉上。」
それを聞き、茂姫は笑顔になった。すると、走ってくる女性の足音が聞こえてきた。そして、部屋にはお楽が入ってきた。
「敦之助が、来ておると聞きました。」
お楽はそう言うので、敦之助はお楽めがけて走って行った。お楽はしゃがむと、敦之助の両肩を持った。家斉はそれを見て、
「すっかり懐いておるようじゃの。」
と言うので茂姫も、
「はい!」
そう言って、二人を見ていたのだった。
その後、茂姫と昌高は、二人だけで話をした。茂姫は、
「では、母上も一緒なのですか?」
と聞くと、昌高は言った。
「いえ。産みの母は、わたくしを産んで間もなく亡くなりました。お登勢様は、わたくしを幼少の頃から育てて下さったので、実の母のようなものです。」
それを聞いた茂姫は、
「そうですか・・・。話によれば、六歳で養子に入られたとか。」
と言うと昌高も、
「はい。それも、父上がお決めになられました。」
そう答えた。茂姫はそれを聞き、
「父とは、何か話されたのですか?」
そう聞くと昌高は、
「はい。養子先の父が蘭学に詳しく、その父から学んだことを実の父上に頼まれて、講義したこともございます。」
と言うので茂姫は感心したように、
「蘭学を?」
そう言った。昌高は嬉しそうに、
「はい。」
と答えた。茂姫は、
「わたくしは幾度となく、父上に助けられました。今度はわたくしが、父上の支えとなって差し上げとうございます。」
そう言うので昌高は、
「父は、何度も申しておられました。姉上が御台所に行ったことが、薩摩の誇りであると。」
と言うのを聞き、茂姫は言った。
「わたくしは、そのようなたいそうなものではありません。」
それを聞いた昌高が、こう言うのだった。
「いえ。姉上の存在そのものが、父上の、いや薩摩の力となっているのです。そのことをどうぞお解り下さいませ。と、いってもこれは兄上から聞いた言葉ですが。」
「斉宣殿の?」
茂姫が聞くと昌高は、
「はい。兄上は、誰よりも姉上のことを尊敬しておられます故。」
そう言うのを聞いた茂姫は、嬉しそうに笑うのだった。そして茂姫は昌高を見つめ、
「昌高殿。」
と言うと昌高は、
「はい。」
と返事をした。そして茂姫は続けて、
「敦之助のこと、どうか頼みます。」
そう言い、軽く頭を下げた。それを見て昌高は、
「わかっております。どうか、お任せ下さい。」
そう言うので、茂姫も安心そうにして、
「よかった・・・。」
と呟いていた。それを、昌高も笑顔で見つめていた。
薩摩藩邸でも重豪はお登勢に、
「ちと、於篤のことを考えておった。」
と言うとお登勢が、
「そうですか。あなた様でも、心配することがあるのですね。」
そう言うと重豪は、
「決まっておるではないか。わしの子じゃからな。」
と言った。それを聞いてお登勢も笑い、
「左様でございますね。」
そう言っていた。すると重豪が、
「そなたはもう案じておらぬのか?」
と聞くとお登勢は、
「はい。あの子は、本当に強い子ですから。」
そう言うと重豪は嬉しそうにお登勢を見つめながら、
「そうか。ならばよかった。」
と言うと、お登勢も頷いていたのだった。
浄岸院(そして更に時間が過ぎておりました。)
一七九九(寛政一一)年四月下旬。夜の江戸は、雨が降っていた。昌高は、廊下を走っていた。部屋へ行くと、敦之助が寝かされていた。昌高は敦之助の側にいる侍女に、
「何があったのですか?」
と聞くと、侍女は答えた。
「昨日の晩から、食欲がなく、熱があったようで・・・。」
昌高は、布団をめくり、敦之助の着物もめくると、身体に無数のブツブツがあった。昌高は敦之助の額に手を当てると、侍女たちにこう言った。
「急いで、医者の手配をして下さい。」
それを聞いて侍女は、
「はい!」
と言い、急いで部屋を出て行った。昌高は、苦しそうにしている敦之助を見つめていた。
それは、すぐに茂姫の元に届いた。茂姫は立ち上がり、
「敦之助が病気!?」
と聞くと、知らせに来たひさは、
「はい・・・。」
そう不安そうに答えるのだった。茂姫は座り、落ち着いたようにこう言った。
「幕府で、幼児の身体に詳しい医師を、清水家に派遣するように。そして、敦之助の様子を伝えるように言うのじゃ。」
それを聞いてひさも、
「はい!」
と答え、頭を下げると出て行った。茂姫は、今までで一番心配そうな表情になっていたのであった。
薩摩藩邸で重豪も斉宣に、
「昌高は今、敦之助につきっきりのようじゃ。」
そう言うので斉宣は、
「そうですか・・・。」
と言うと、重豪を見つめて、
「父上。」
そう言うと重豪は、
「何じゃ。」
と返した。すると斉宣は続けて、
「やはり、あのお役目は昌高には荷が重すぎたのでは?」
そう聞くと、重豪は少し考えたような顔で言った。
「実はわしも、そう思っておった。しかし、身内でなければできぬ仕事じゃ。あの者は誰よりも家族を愛し、己の身を投げ打ってでもお役を成し遂げようとする男じゃ。昔からそうであった。そなたと同様にな。」
「父上・・・。」
斉宣は呟いていると重豪は笑い、
「なに、大丈夫じゃ。あの者は幼き頃より、『解体新書』なるものを学んでおる。敦之助は、きっとよくなるであろう。」
そう言うのを聞いて斉宣も微笑し、
「そうですね。」
と、答えていたのであった。
茂姫はその後、部屋の中で母からもらった御守を握りしめ、目を閉じてずっと祈っていた。
「どうか・・・、敦之助をお救い下さい。」
敦之助の病の知らせは、他の者にも届いていた。報告を聞いたお楽は目を見開かせ、
「病じゃと?」
と聞いた。知らせに来た女中が、
「はい。」
と答えると、お楽は本を開いて挟んでいた押し花で作った栞を見つめた。そして、その栞を手にとって目を瞑り、無言のまま祈っていた。その隣で、子供の家慶もそれを見ていたのだった。
ある日、薩摩藩邸で重豪はこう言っていた。
「於篤の取り計らいもあってな、敦之助の身体は少しずつ良くなっておるそうじゃ。」
それを聞いてお登勢も嬉しそうに、
「それはようございました。」
と言って感嘆した。すると、
「失礼仕ります。」
と言って、斉宣が入ってきた。斉宣は重豪の前に座り、
「昌高からの知らせが届いたと聞きました。」
そう言うので、重豪もこう言った。
「あぁ。回復しておるとのことじゃ。」
それを聞いて斉宣は安心したように、
「よかった・・・。」
と、呟いた。重豪も、
「やはり、あやつに任せて正解であった。」
そう嬉しそうに話した。するとその横で、お登勢が咳き込んだ。重豪がそれを見て、
「如何した。」
と尋ねるとお登勢は、
「大事ありませぬ。」
そう言うので重豪は、
「近頃、病が流行っておる故、休んだ方がよい。」
と言うと、お登勢は言った。
「心配いりませぬ。少し、疲れが出ただけでしょう。」
すると斉宣も心配そうに、
「母上様、どうぞお休み下さい。」
と言ってもお登勢は笑って、
「大丈夫にございます。あ、お茶を入れて参ります。」
そう言い、立ち上がった。すると、突然視界が眩み、お登勢は倒れたのだった。それを見て重豪と斉宣は、
「大丈夫か!?」
「母上様!」
そう言って駆け寄った。重豪は控えていた侍女に、
「医者を呼ぶのじゃ。」
と言うとお登勢は、
「大丈夫です。」
そう言うので重豪はお登勢に、
「何を言うておる。」
と言ってあたふたしている侍女に、
「早う呼ぶのじゃ!」
そう命じると侍女達は、
「はい、只今!」
と言って、部屋を駆け出て行った。斉宣もお登勢を支えながら、心配そうに見ていた。
浄岸院(一方、敦之助回復の兆しが見られた矢先・・・。)
茂姫の部屋に、宇多が数人の女中を連れて入ってきた。宇多は茂姫の前座ると、
「あの・・・、大変申し上げにくいことなのですが・・・。」
と言うので茂姫は、
「何じゃ?」
そう聞いた。宇多は続け、
「江戸の奥平様より、お知らせがございました。」
と言うのを聞き、茂姫は呟いた。
「まさか・・・。」
宇多は声を殺したように、こう話した。
「清水家に養子入りされた敦之助様が、先日の五月七日、屋敷にて身まかられたそうにございます。」
それを聞いた茂姫の顔をから、一気に表情が消えた。茂姫は立ち上がり、
「嘘じゃ・・・。」
と言って、進もうとするとバランスを崩してその場に座り込んだので、宇多と数人の女中が、
「御台様!」
と言い、茂姫を取り囲んだ。茂姫が、
「敦之助が、亡くなった・・・。」
そう呟いていると、宇多はこう言い出した。
「御台様に、もう一つお知らせがございます。」
すると、茂姫はゆっくりと宇多を見た。宇多は続けて、
「敦之助様が・・・、最後に仰せになった言葉は、母上であったとのこと。」
と言うので茂姫は、
「え・・・。」
そう、声にならない声を上げた。宇多は、
「敦之助様は、亡くなられる直前まで、母である御台様のことを思われておいででした。何よりも大切であったのは、母上様だったのです。」
そう言うと茂姫は立ち上がり、ゆっくりと歩き出し、縁側に立った。そして茂姫は、
「皆・・・、下がれ。」
と言うので一人の女中が、
「御台様?」
そう言うと茂姫は庭を見つめながら、
「一人にしてはくれまいか?」
と言うので宇多は、
「・・・、はい。」
そう言って頭を下げると、女中を連れて部屋を出て行った。茂姫は、暫く同じところに立っていた。
暫くすると、誰かが走ってくる音が聞こえた。その足音は次第に近くなり、やがて止んだ。茂姫は、そっと振り返った。そこには、お楽が立っていた。お楽は茂姫を見つめながら、
「敦之助が亡くなったというのは、まことですか?」
と聞くと、茂姫は答えた。
「あぁ、まことじゃ。」
それを聞き、お楽はその場に座り込んだ。そうしていると、茂姫は庭に目を戻すとこう言った。
「わたくしは、敦之助に何もしてやれなかった。そのような己が、情けないのじゃ。上様にも、申し訳ない気持ちでいっぱいじゃ。何故、こうなってしまったのか・・・。」
微笑みながらそう言う茂姫を見ていたお楽は、
「御台様・・・。御台様に、お聞きしたきことがございます。」
と言うので茂姫はまた振り返り、
「何じゃ?」
そう答えると、お楽は言うのだった。
「何故、お泣きにならぬのですか!?」
それを聞き、茂姫からまた表情が消えた。そして茂姫は体ごとお楽の方に向け、
「わたくしは・・・、もう泣かぬと決めた。例えどのような苦しみや、悲しみが来ようと、決して泣かぬとな。」
そう言うのを聞いて、お楽は言った。
「わたくしにはわかりませぬ。我が子を失ったというのに・・・、わたくしであればどれ程泣き叫ぶことか。わたくしには御台様のお気持ちが、わかりませぬ!」
お楽はそう言うと立ち上がり、部屋から出て行った。それを、茂姫も何も言わず見つめていたのだった。
部屋に帰ったお楽は、あの時のことを思い出していた。
『母上が好きなお花にございます。』
『母は好きか?』
お楽が尋ねると敦之助は、元気よく頷いた。
そのことが、お楽の脳裏に鮮明に蘇る。お楽は、涙に堪えていると、目の前に家慶が現れた。家慶が、
「母上・・・?」
と言うと。お楽はそれを見て思わずこう呟いた。
「敦之助・・・。」
そうして、お楽は家慶を抱きしめた。お楽は、
「敦之助~!」
と言いながら、声を上げて泣いた。
その頃、茂姫も部屋で一人、無表情のまま座っていたのだった。するとひさが来て、
「御台様、お客様がお見えでございます。」
と言うのを、聞き流していた。
茂姫は部屋に入ると、斉宣が顔を上げた。茂姫は、それをやはり何も言わず無表情のまま見ていた。
斉宣が言ったことを聞いて茂姫は、
「母上が・・・?」
と聞いた。斉宣は続けて、
「今はだいぶ落ち着いておりますが、今度いつ倒れてもおかしくないと父上は申しております。」
そう言うのを聞いて茂姫は首を僅かに横に振りながら、
「そんな・・・。」
と言っていた。斉宣は安心させるように、
「でも、大丈夫です。その内、きっと良くなります。」
そう言った。すると、茂姫は言うのだった。
「敦之助の時も、そうでした。きっと治ると、信じておりました。なのに・・・。」
それを聞いた斉宣は、
「その話は、伺っております。残念でしたね。」
と言うと茂姫は続けて、
「わたくしは、あの子に何もしてやれませんでした。会いに行くこともできずに、あの子に寂しい思いをさせたまま・・・。わたくしは、自分が許せないのです。」
そう言うので斉宣は、
「決してそのようなことは・・・!」
と言いかけると茂姫は、
「いえ。わたくしは今、泣くこともできません。ある者からも、言われました。何故泣かぬのかと・・・。わたくしにも、わかりません。わたくしは以前より、泣かぬ決心をしておりました。されど何ゆえ、最愛の子を亡くしているのに、涙ひとつ流せぬのか。」
そう言っているのを聞き、斉宣はこう言った。
「わたくしも、わかる気が致します。」
「え?」
それを聞き、茂姫はそう言って斉宣を見つめた。すると斉宣が続けて、
「されど、これだけは言えます。泣けぬのは、立ち止まっているからなのでは?」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「斉宣殿・・・。」
と言い、斉宣を見つめた。斉宣は更に続け、
「大切の人の死を受け入れられず、立ち止まっていると、泣きたくても泣けぬのだと思います。それはまず、姉上が、敦之助殿の死を認めるべきではないのですか?」
そう言うと、茂姫の目から涙が溢れてきた。茂姫は口を押さえ、
「そうですね・・・。あなたのおかげで、わかった気がします。ありがとうございます。」
と言うので斉宣は、
「そのような・・・。」
そう言っていると、茂姫は泣き出した。泣きながら茂姫は、
「申し訳ありませぬ・・・。」
と言いながら、必死に涙をこらえている茂姫を、斉宣は優しく抱きしめたのだった。茂姫は斉宣に抱かれながら、
「敦之助・・・、すまぬ・・・。敦之助~!!」
と言っているのを、斉宣も聞いていたのだった。
部屋に帰ると、茂姫は宇多から話を聞いていた。
「公方様は、ご自分を責めておられます。」
「上様が?」
宇多の言葉に、茂姫は聞き返した。宇多は続けて、
「はい。御台様から、敦之助様を引き離してしまったと。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうか・・・。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「ならば、上様に伝えて欲しい。わたくしは、もう気にしておらぬと。」
それを聞いた宇多は、
「御台様・・・。それは、ご自分でお伝えすべきと存じます。」
と言うので茂姫が、
「わたくしが・・・?」
そう聞くと、宇多も頷いた。宇多は、
「恐らく、今の公方様は御台様以外の方とはお会いになられぬと思います。あの方のお心を癒せるのは、御台様ただ一人にございますから。」
そう言うので茂姫は、
「わたくし・・・、だけじゃと?」
と聞くと宇多はもう一度頷き、
「はい。だから、どうぞ行かれて下さいませ。」
それを聞いた茂姫は微笑み、宇多を見つめていたのだった。宇多も、茂姫を見つめ返していた。
家斉は、部屋でただ座っていた。すると老中が、
「公方様。御台様がお目通りを願うておられますが。」
と言うので家斉は、
「通せ。」
そう言うと老中は下がり、部屋に茂姫が入ってきた。家斉は、
「どうした。」
と聞くと、茂姫は手をついてこう言った。
「敦之助の件、聞き及びかと存じます。」
「あぁ。」
家斉は言うと、茂姫はこう言ったのだった。
「本日をもって、忘れることと致します。」
それを聞き、家斉は暫く黙ってから、
「よいのか?」
と聞いた。茂姫は、
「はい。ただ・・・、わたくしは、生きようと思います。敦之助の分まで、生きようと思います。それが、わたくしにとって唯一、敦之助のためにできることにございます故。」
そう言うのを聞いて家斉は笑い、
「敦之助も・・・、天からそなたのことを誇りに思うであろうな。」
と言った。茂姫が、
「わたくしは、もう迷いませぬ。己の子の死は、やはり辛うございませぬ。されど立ち止まっていては、前に進めませぬ。わたくしは、これからもあなた様の妻として、生きていく覚悟にございます。」
それを聞いた家斉は、
「やはり、そなたらしいの。」
と言うのを聞いて、茂姫はこう言った。
「今日まで、わたくしも己を見失っておりました。されどある人に言われ、気がついたのです。わたくしがわたくしでなければ、天にいるあの子が悲しむと。」
家斉は茂姫を見つめて、
「悔いはないといった顔じゃな。」
そう言うので茂姫も家斉を見つめ、
「はい、ございませぬ。」
と言うと、それから暫く二人は見つめ合っていたのであった。
その後、薩摩藩邸にいる重豪は部屋にお登勢を呼んでいた。重豪はお登勢を見つめると、
「今日は、話があって呼んだ。」
そう言った。お登勢が重豪を見つめると、
「何でございましょう。」
と尋ねた。重豪は、単刀直入に言った。
「帰らぬか、薩摩に。」
お登勢はそれを聞き、
「え・・・。」
と、呟いた。重豪は続けて、
「そなたも、故郷へ帰りたいであろう。」
そう言うのでお登勢は、
「いえ・・・、わたくしは・・・。」
と戸惑っていると、重豪は聞いた。
「於篤のことが心配か?」
それを聞いたお登勢は、重豪を見つめた。すると重豪は笑い、
「心配いらぬ。薩摩からでも、多少時間はかかるが、様子を伝えることはできる。どうじゃ?」
と聞くと、お登勢は黙っていた。
「わたくしは・・・、帰りません。」
それを聞いて重豪は、
「そうじゃ。そなた、出立前に於篤を連れて桜島を見たと言うておったな。今の桜島の様子を文に書いて、あの者に知らせればきっと喜ぶであろう。」
と言うと、お登勢は言った。
「殿は・・・、どうされるのですか?」
それを聞いた重豪は、
「わしは、まだやることがある。しかし薩摩の様子も気になってきた故、いずれ帰ろうと思う。いつになるかはわからぬが、心配することはない。」
と言うのでお登勢は安堵したように、
「はい。」
そう答えるのを、重豪も見ていたのだった。
浄岸院(一方、薩摩ではのちに騒動を引き起こす、些細な動きがございました。)
家老・市田盛常を尋ねてきたのは、のちに家老となる薩摩藩主・樺山主税であった。盛常は、
「今日は何じゃ。」
と尋ねると、樺山は言った。
「いえ。大したことではございませぬ。ただ・・・、江戸におわす大殿様についてですが・・・。」
それを聞いた盛常は、
「お父上が、どうした。」
と聞くと樺山が、
「大殿様、重豪様は藩主時代、藩校の設立や蘭学に関する施設の建設、そして他地域からの商人の招聘などで、膨大な金を使われておりました。今では、その借金の返済に藩士たちは苦しんでおりまする。今では斉宣様に家督を譲られておいでですが、藩に帰るどころか、未だに藩政を握っておられます。このままでは、いつ藩がお取り潰しになってもおかしゅうござませぬ。」
そう言うので盛常は顔を青ざめさせ、
「何じゃと・・・!?」
と言った。樺山は、
「あなた様のお力をお借りして、どうか、大殿様を政から遠ざけとうございます。」
そう言うので盛常は、
「それはできん!わしは、あの方に感謝しておるのじゃ。」
と言うのを聞いた樺山は、
「それは・・・、盛常様の姉上が大殿様の側室だからでは?」
そう言うので、盛常は言葉に詰まった。すると樺山は薄く笑い、こう言った。
「あの方は、ちとやりすぎる時がございます。このまま放っておくと・・・。」
盛常は、息を飲んだ。そして樺山は敢えて小声で、
「大変なことになりますよ。」
そう言うので、盛常は怒りに震えながら樺山を見つめていたのである。
その頃、茂姫は縁側に出て花を眺めていた。そこへ、
「失礼致します。」
という声がするので、茂姫は振り返った。
「お楽・・・。」
茂姫は、呟いたのだった。お楽は座ると、
「御台様。」
と言うので茂姫は優しく、
「何じゃ。」
と聞いた。お楽は、
「これを・・・。」
そう言って、栞のようなものを差し出した。茂姫は受け取って、
「これは?」
と、尋ねた。するとお楽は、
「敦之助からもらった花で作ったものです。」
そう言うので茂姫は、
「そうか・・・、これが・・・。」
と言い、お楽にこう言った。
「先だっては、すまぬかったな。わたくしは、心のどこかで敦之助の死を拒んでおったのかもしれぬ。そなたに、気付かさせてもらった。」
茂姫の言葉を、お楽は黙って聞いていた。茂姫は続けて、
「されど、いつまでも悲しんではおれぬ。敦之助の為にも、わたくしは前に進まなければならない。これからも、上様の妻として、上様をお支えし、生きていくと決めたのじゃ。」
そう言うので、お楽はこう言った。
「ならば・・・、わたくしも申します。」
茂姫は、それを聞いてお楽の方を見た。お楽は続けた。
「わたくしも、あのお方の妻にございます。されど、御台様とは考えが違います。わたくしは、家慶を立派な将軍にする為に、日々教育に励むだけ。わたくしは・・・、やはり御台様が嫌いです。真面目なことばかり仰せになって、上様を持っていかれるのですね。」
「何を言っておる?」
茂姫はそう聞くとお楽は、
「わたくしは、己の子だけを幸せに致します。側室は御台所と違い、上様の付属品に過ぎませぬ故。では、失礼致します。」
と言うと頭を下げ、立ち上がると背を向け、向こうへ歩いて行った。茂姫は、それを同情したような表情で見送っていたのだった。
薩摩藩邸では、重豪は縁側に立ち、斉宣と話をしていた。斉宣が、
「母上様を?」
と聞くと重豪は、
「あぁ。薩摩に帰そうと思う。」
そう言うので、斉宣は聞いた。
「それは・・・、この先母上様が、あまり永くはないからですか?」
それを聞いて重豪は、
「それもあるが、薩摩には家老の市田盛常という者がおる。お登勢の弟に当たる者じゃ。」
と言うのを聞いて、斉宣も重豪を見つめ続けていた。重豪は振り返り、斉宣の顔を見て言った。
「そなたも知っての通り、わしは藩主時代、膨大な金を使った。それ故、今は民にも迷惑をかけておるであろう。わしにも、それはわかっておる。それ故、隠居の実でありながらも、未だに反省から身を引けぬのじゃ。どうにかして、民を救いたいという思いからの。」
「父上・・・。」
斉宣はそう呟き、続けてこう言った。
「それであれば、後はわたくしにお任せ下さい!」
それを聞いた重豪は笑い、
「よい。これは、わしが解決したいのじゃ。そなたは、他にもやることがようけある故の。」
と言い、再び目線を庭に戻した。斉宣はやるせなさに、俯いていた。
翌朝、江戸城の広間では参拝が行われていた。家斉の後ろで、茂姫も手を合わせていた。気付かれぬよう、ゆっくりと後ろを振り返ると、側室たちの中でお楽も目を閉じ、手を合わせていたのだった。茂姫は再び前を向くと、斜め前にいる家斉を見つめていた。そして茂姫は目線を正面に合わせ、目を閉じて拝んでいたのであった。
次回予告
常磐「家慶様が、行方不明にございます!」
茂姫「いつしか、己のことしか考えられぬようになる時もあるのじゃな。」
家斉「そなたはどう思う。」
お楽「家慶!」
樺山主税「重豪様に国元の様子を知らせるためではないかと。」
お楽「家慶にもしものことがあらば、わたくしは自害する覚悟にございます!」
斉宣「父上に反対する者は、捕らえられてしまうのですか?」
重豪「薩摩へ帰る。」
茂姫「親と子にしかわからぬものがある。」
お楽「わたくしも、上様のお側にいとうございます。」
茂姫「上様、どうかお解り下さいませ!」
次回 第二十回「お楽の決意」 どうぞ、ご期待下さい!