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第十八回 息子の巣立

「世継ぎを決めた。」

茂姫とお楽は、その言葉を真に受けていた。暫くの沈黙の後、家斉は口を開き、

「次の世継ぎは・・・・・・。」

と言い、辺りを見回した。お富も、その様子を微笑しながら見ていた。その後も、数秒間の沈黙が続いた。そして家斉はとうとう、こう言った。

「お楽が生んだ長男、敏次郎とする。」

それを聞き、茂姫のみならず、お楽でさえも耳を疑った。家斉は続けて、

「御台の子、敦之助においては徳川御三卿の一つ、清水家に養子に出すことと相成った。来年、縁組を行う。以上じゃ。」

と言うのだった。それを聞いてお蝶は残念そうに肩を落とし、宇多も悔しそうな表情をしていた。

茂姫はその後、お富と向き合った。お富が、こう話した。

「御台所はかつて京の公家から招いておった。」

「そなたの子は所詮、薩摩の子。将軍になど相応しゅうないと、公方様には呉々もお忘れなきように伝えおいたのわたくしじゃ。」

茂姫は目を丸くした。

浄岸院(茂姫は、複雑な立場に立たされておりました。)

茂姫は、お富を複雑な表情で見つめていたのだった。



第十八回 息子の巣立


茂姫は、部屋であのことを思い出していた。

『そなたの子は所詮、薩摩の子。将軍になど相応しゅうないと、公方様には呉々もお忘れなきように伝えおいたのわたくしじゃ。』

すると、

「失礼仕ります。」

と言う声が聞こえたので、茂姫は顔を上げた。見ると、戸が開き、宇多が頭を下げている。宇多は顔を上げて、こう言った。

「御台様。まことに、申し訳ございませんでした。」

そう言い、再び頭を下げるのだった。茂姫は、

「何故、そなたが詫びるのじゃ。」

と言うので宇多は顔を上げ、こう言った。

「わたくしが御台様に余計なことを申さなければ、このようなことには。」

それを聞いて、茂姫は立ち上がると、宇多の前に来て座った。そして茂姫は、

「いや。わたくしは、自らの考えを上様にお話ししただけじゃ。そなたのせいなどではない。」

そう言っても宇多は、

「しかし!」

と言って、自分を責めているような顔をした。茂姫は宇多を見つめ、

「母上様が仰せられる通り、わたくしの子は三男。それに、薩摩の血が混じっておる。」

と言うのを聞き、宇多は首を少し横に振りながら、

「それは違います。あの公方様がそのような理由で世継ぎをお決めになるなど・・・。」

そう言った。それを聞いていた茂姫は微笑しながら、

「もうよい、終わったことじゃ。敦之助の養子先も決まったのじゃ。わたくしは、悔ておらぬ。」

そう言うので宇多は茂姫を見つめながら、

「御台様・・・。」

と呟いた。茂姫は立ち上がり、

「よし、久方ぶりに二人きりで花など生けてみぬか?」

そう言うと宇多も少し笑い、

「はい。」

と、答えていた。茂姫は、準備をしに行ってしまった。しかし宇多にとっては、茂姫は無理に笑顔を見せている、そのように見えたのだ。

一七九七(寛政九)年三月一日。

浄岸院(そして間もなくのこと。家斉様の長男で、次の世継ぎと定められた敏次郎様の元服の儀が表で執り行われたのでございます。)

まだ幼い敏次郎の前髪は、切られていた。それを、皆は手を合わせて見守っていた。茂姫、お楽、お富も出席していた。

浄岸院(これにより、敏次郎様は名を家慶いえよしと改められました。)

老中により、発表されていた。老中は皆に紙を向け、そこには「家慶」と書かれていた。その様子を、茂姫も真剣に見つめていた。

浄岸院(それからのち、この家慶様を茂姫は補佐することになりますが、この時はまだ誰も予想もしておりませんでした。)

薩摩藩邸にも、知らせは届いていた。薩摩藩小松家当主の小松こまつ清宗きよむねが、

「将軍・家斉様の御嫡男、敏次郎様が元服遊ばし、名を家慶様と改められたそうにございます。」

と報告した。すると重豪は独り言のように、

「わからぬ。」

と呟いた。それを聞いて小松は、

「はっ?」

そう聞くと重豪は気がついたように、

「あいや、何でもない。」

と言っているので、小松は悟ったかのようにこう言った。

「重豪様は、やはり敦之助様を押していたのですか。」

それを聞き、重豪もこう言った。

「あぁ。何故、公方様は御台所の子ではなく、側室の子を選んだのであろうかと思うてな。」

小松が、

「長男であったからでは?」

と聞いた。重豪はそれを聞くと、

「やはりそうであろうか・・・。」

そう呟くのを、小松も残念そうに見ていたのだった。

一方でお富は菓子を食べながら、

「敏次郎がお世継ぎとなってくれて、ほっとしておる。」

そう言うので、常磐がこう言った。

「しかしながら、徳川一橋家御当主の治済様は島津重豪様と共に敦之助様をとお考えであったご様子。」

それを聞いてお富は、

「あのお方は、御台所の父親に騙されておられただけであろう。いくら御台所の子と言い張って三男をお世継ぎにしようとしても、無駄じゃ。」

と言うのを聞いて常磐は、

「はぁ・・・。」

そう返していた。すると後ろから、

「そうでしょうか。」

という声がした。常磐が振り向くと、お万が座っていた。お万は進み出て、

「わたくしは薩摩の出でありながら、公家と縁組をさせ、己の娘を将軍家に送り出した島津様をたいそう勇気あるお方と感じております。」

そう言うのであった。お富が、

「何じゃと?」

と聞くと、お万はこう言った。

「奥方様は、島津様のことを薩摩の田舎一派と思っておいでかもしれませぬが、娘を一人、見ず知らずの人々の中へと送り込んだ、その立派たる志をわかって頂きとうございます。」

お富はそれを聞き、

「それとこれとは、話は別ではないか。」

と言うと、お万はこう言った。

「一橋家の御当主様も、それはおわかりのはずであったのではないかと。」

するとお富は笑い、こう言うのだった。

「左様なことあるはずがないであろう。仮にそうであったとしても、御台所の子を推す理由にはなるまい。全て、そなたの想像じゃ。」

お万は、お富を見つめ続けていた。お富はそれを見ると、

「もしやそなた・・・、男子を産めなかったことを悔いておるのではないか?」

そう言って、お万を見つめた。お万が答えずにいるとお富は、

「どうやら、図星のようじゃな。」

と言い、思い出したように常磐を見てこう言った。

「時に、常磐。あの話はどうなっておる?」

「あの話?」

お万が聞くと、無視したかのように常磐がお富に言った。

「はい。公方様にも、通達致しましてございます。」

それを聞いてお富も、

「そうか。ならばよい。」

と、言っていた。それを、お万はずっと見ていたのであった。

その後、その話を聞かされた茂姫が、

「お蝶が、上様の側室?」

そう聞くとお万も、

「はい。」

とだけ答えた。茂姫は、

「されどそれは、上様のご意志であろうか?」

そう言っているとお万が急に、

「許せません。」

と言った。それを聞いた茂姫が、

「それは・・・、お蝶のことか?」

そう聞くと、お万はこう言うのだった。

「奥方様にございます。」

「母上様?」

茂姫が聞くと、お万がこう言った。

「お世継ぎが決まる前、あの者を城に上がらせ、御台様の教育係として差し向け、御台様のご様子を自身に知らせていたのです。もともとあの方は、お楽の子をお世継ぎにするおつもりだったのです。」

それを聞いて、茂姫が言った。

「されど、あれは上様のお考え・・・。」

「違います。」

お万は続けて、

「お蝶は公方様宛に、御台様のお子は病弱であるといった内容の偽りの書まで送っていたのです。それを命じたのはやはり、奥方様でございました。」

それを聞いて、茂姫は立ち上がった。

「表へ参る。」

茂姫がそう言って行こうとすると、お万は止めた。

「お待ち下さい!」

すると茂姫が、

「何故止める。わたくしが上様に会って、確かめねば!」

と言うので、お万がこう言うのだった。

「御台様が動かれては、気づかれてしまいます。わたくしが密かに取り計らいます故、もう暫しお待ち下され。」

それを聞き、茂姫は仕方なくお万を見ていた。

その頃、おちょうは自室で生花を嗜んでいた。お蝶はふと手を止めると、家斉のことを思い出していた。

『次の世継ぎは・・・。』

『お楽が生んだ長男、敏次郎とする。』

それから、お蝶は再び手を動かしていたのだった。

そして夜、茂姫は寝衣を着て女中に行燈で前を照らされながら、廊下を進んでいた。そして寝間に入ると、茂姫は布団の前に座り、家斉を待っていた。暫くして、鈴が鳴り響き、家斉が部屋に入ってきた。茂姫は、それを感じて頭を下げた。そして、入ってきた家斉が布団の上に座った。すると茂姫は顔を上げ、こう言い始めた。

「上様。本日は誠に勝手な願いをお聞き入れ下さり、まことに・・・。」

そう言いかけると家斉が、

「そうじゃ。そなたに詫びねばならぬな。」

そう言うので、茂姫は恐る恐る聞いてみた。

「それは・・・、お世継ぎのことにございましょうか。」

それを聞いた家斉は笑い出し、

「そなたは、正直者じゃのぉ。」

と言うので、茂姫も思わずつられて笑ってしまった。家斉は茂姫の顔を覗き込むようにして、

「恨んでおるのか?」

そう聞いた。すると茂姫は首を横に振り、

「そのようなことは。」

と言った。茂姫は続けて、

「上様に、お尋ねしたきことがございます。」

そう聞くと家斉が、

「何じゃ。」

と聞くので、茂姫は手をついてこう言った。

「何ゆえ、敦之助ではなく、敏次郎を御嫡男に定められたのですか。お蝶が書き送った文故にございましょうか。」

家斉はそれを聞き、こう言った。

「また母上が命じたのであろう。わしはあのようなもの、信用しておらぬ故な。」

それを聞き、茂姫は顔を上げて、

「では、何ゆえ・・・。」

と言うと家斉が、

「知ってどうしようというのじゃ。」

そう聞くので、茂姫は言った。

「わたくしは、理由が知りとうございます!」

すると家斉は考えたように上を向き、

「理由のぅ・・・。」

と言い、再び茂姫を見るとこう言ったのだった。

「やはり、御台の子じゃからな。将軍では、勿体ない気がしたのじゃ。」

「勿体ない?」

茂姫が聞き返すと、家斉は続けた。

「そなたの子であれば、ただならぬ何かを秘めているような気がしたのじゃ。将軍ならば、常に上におるからの。己の考えをなかなか言わせてもらえぬのじゃ。あやつはそなたと、そなたの弟に似て、何かと幕府に意見を言ってくると思うての。養子に出すことにしたのじゃ。わしは、あやつに冒険をさせてやりたかった、それだけじゃ。」

それを聞いていた茂姫は涙ぐみ、そして笑みがこぼれた。

「やはり・・・、あなた様には敵いませぬ。」

そして茂姫は涙を拭うと、続けてこう言った。

「上様。誠に、ありがとうございました。」

そう言うと茂姫は、手をついて頭を下げた。家斉はそれを見て、

「どうしたのじゃ、急に。」

と言い、笑っていた。茂姫も体を起こし、

「いえ。」

そう言って、首を振っていた。家斉はその後、茂姫を抱きしめていたのだった。

翌朝、お蝶が茂姫の部屋に来ていた。お蝶は頭を下げ、

「この度は、御台様には、なんとお詫び申し上げてよいか・・・。」

と言っていると、茂姫は微笑んでこう言った。

「そなたに、頼みがある。」

それを聞き、お蝶は顔を上げて茂姫を見た。茂姫は表情を崩さず、

「そなたの子ができたら・・・、わたくしに預けてはくれまいか?」

と言うとお蝶が、

「預ける・・・?」

そう聞き返すと、茂姫がこう言った。

「わたくしの子、敦之助は、もうすぐ遠くに行ってしまう。それ故、側室の子をちゃんと育てたいのじゃ。頼む。」

茂姫が軽く頭を下げるのでお蝶は涙を見せながら、

「はい。」

と言うと茂姫は、

「よかった・・・。これからは、同じ上様の妻として、共に上様を支えて参ろうぞ。」

そう言った。それを聞いてお蝶も、

「ははぁ!」

と言い、手をついて頭を深く下げていたのであった。茂姫も、それを嬉しそうに見つめていた。

その後、表では二人の老中が話をしていた。戸田とだ氏教うじのりが、

「お世継ぎが決まった今、家慶様の教育係が必要にございますなぁ。」

と言うと、安藤あんどう信成のぶなりがこう言った。

「はぁ。時に本多殿は、御台様の身内と手を組んでおられたとか。」

二人は、老中の本多ほんだ忠籌ただかずの顔を思い出していた。戸田はそれを聞き、

「されど一般的に考えると、やはりお世継ぎは長男が継ぐのが最善にござる。それを、あの方達は思い知ったであろう。」

そう言って、笑い出した。安藤は、

「次は、嫁にございますなぁ。」

そう言うので、戸田は笑うのをやめると詰め寄った。

「そうじゃ。此度は、薩摩外様大名などではなく、れっきとした名門公家からお迎えするよう、働きかけてみましょう。」

戸田がそう言うので安藤も頷き、

「そうですな。若君様はまだ五つといっても、ことは早めに行った方がよいと思います。」

そう言うので、戸田も安藤を見つめて頷いていたのであった。

薩摩藩邸の重豪は、斉宣に対してこう言った。

「今日は、そちに会わせたい奴が来ておる。」

斉宣が不思議そうに、

「会わせたい者?」

と聞いた。重豪は部屋の向こうに、

「入るがよい。」

と、話しかけた。そして、部屋には一人の若い青年が入ってきた。その青年は、重豪に近い、部屋の側面に座った。重豪は、

「この者はわしの子で、十年程前に奥平家に養子に出した。」

そう言うので斉宣も思い出したように、

「あぁ、中津藩の奥平殿でございますね?」

と言うので重豪も、

「左様。」

そう言うと、隣で中津藩奥平家当主・奥平おくだいら昌高まさたかが会釈をした。すると、重豪が思わぬ発言をしたのだった。

「この者は幼き頃から、父の影響で蘭学を学んでおる。」

するとそれを聞いた斉宣が、急に目を輝かせた。

「蘭学を?」

重豪は続けて、

「あぁ、そうじゃ。昌高の養子先の祖父に当たる方とわしは以前、共に蘭学を語っておった。それ故、その一家は代々、蘭学を学問としておる。」

と言うと、昌高もこう言った。

「私も養子先の父に習い、一日中オランダ語の資料を見ておりました。」

すると重豪が、

「それでは、目が疲れるであろう。」

と笑い飛ばすと、昌高も笑っていた。重豪は斉宣を見て、

「どうじゃ。こやつの部屋に行ってみぬか?」

そう言うので斉宣が、

「わたくしが?」

と聞いていると、昌高はこう言った。

「是非、お越し下さいませ。」

そう言われると、斉宣は期待に満ちあふれた顔で、昌高を見つめていたのだった。

部屋に行く途中、二人は話をしていた。昌高の話を聞いて斉宣が、

「では母上は、お登勢様なのか?」

と聞くと昌高は、

「生みの母は、私を産んで間もなく亡くなりました。父上によって、預けられたのです。母上は、姉上を嫁に出したばかりで悲しんでおられると思ったのでしょう。」

そう言うと斉宣は笑い、

「父上は、心配性故な。」

と言うと前を歩いていた昌高は立ち止まって振り返り、

「兄上は、最近御台様にお会いしたとか。」

そう言うので斉宣は戸惑いながら、

「あ、あぁ。まぁ・・・。」

と、恥ずかしそうにしながら言った。昌高は、

「姉上様は、父によるとまるで男のような考えを持ち、己の意見をはっきりと申されたそうです。」

そう言うので斉宣は、

「わたくしはそんな姉上が羨ましい。己に自信がないのじゃ。」

と言った。すると昌高は、こう言った。

「兄上とて、幕府に意見書を出されたそうではないですか。自信がないのは、私にございます。」

「昌高殿も?」

「はい。反対されることを恐れ、いつまでも己の考えを言えません。周りに流されてばかりで、異国と渡り合うという、祖父や父の意志を継げるのかもわからず・・・。」

そう弱々しく言う昌高を斉宣も、

「昌高殿・・・。」

と言って、見つめていたのだった。

昌高の部屋に行くと、蘭学などの様々な資料が山積みにされていた。それを見ると斉宣は、

「凄い!これ、全部昌高殿が?」

と言うと昌高は、

「アハハ、殿はおやめください、兄上。昌高でよろしゅうございますよ。」

そう言うと斉宣は、

「では昌高は、いつ頃から蘭学を学んでおるのだ?」

と聞いた。すると昌高は一冊の本を手に取り、頁をめくった。昌高はその中身を斉宣に見せ、こう話した。

「これは、オランダ語で書かれたものを藩医で蘭学者の前野良沢先生が、日本語に翻訳したものです。」

斉宣はその本を手に取ると、

「これが・・・。」

と言って、それを眺めた。昌高は続けて、

「しかしこれは、わたくしが祖父上から聞いた内容を書き写したものです。」

そう言うので斉宣は驚いたように、

「そなたが?」

と聞いた。すると昌高は笑い、

「翻訳の際は、オランダ語の意味などが載った本もなく、訳すのに苦労されたようです。祖父上は、その様子をずっと見守っておられたとか。その本には、人間の体のことについて詳しく書かれております。」

そう言うので、斉宣は頁を適当に開くと、それらしい絵や図が出てきた。昌高は、

「『解体新書』は、刊行された当初、大騒ぎとなりました。幕府も最初、それを取り締まるよう命じましたが、前公方様のお目にかかり、鎮圧されたようです。」

そう言うのを聞き、斉宣はその「解体新書」といわれる本を見つめながら、

「これが・・・、『解体新書』・・・。」

と、少し生き生きとした表情をしながら呟いた。昌高は、

「この世界には、まだまだ知らないことがたくさんあります。私は、それを見てみとうございます。この国はもはや、異国を必要とする時期なのでしょう。」

そう言うのを聞き、斉宣もこう言った。

「わたくしもそう思う。松平殿は異国との交易を禁じておられましたが、それは間違いであると、我々が気づかせるべきだ。」

それを聞いた昌高は感嘆したように、

「兄上。ちゃんと己の意見を言えております。」

と言うのを聞いて斉宣は恥ずかしそうに、

「そ、そういう昌高だって・・・!」

そう言うので、二人は暫くの間、笑い合っていたのであった。

浄岸院(年が変わって、寛政一〇年。)

一七九八(寛政一〇)年二月。江戸城では、息子の出立の準備が進められていた。今年に入り、三歳になった敦之助は髪にが伸び、歩けるほどにまで成長していた。そしてこの日、女中から着物の採寸を受けていた。それを、部屋の外から茂姫と宇多も見守っていた。宇多は、

「いよいよにございますね。」

と言うと、茂姫がこう言った。

「あぁ。わたくしは、あれでよかったと思うておる。されど・・・。」

宇多はそう言う茂姫を見て、

「どうかされたのですか?」

と聞くと、茂姫がこう言ったのだった。

「わたくしは、母らしいことを一つもしてやれなんだ。まだ幼き敦之助であるから、大人になる頃にはわたくしのことなど覚えてはいてくれぬであろうな。」

それを聞いて、宇多がこう言った。

「そのようなことはありませぬ。」

「お宇多・・・。」

宇多は話を続けて、

「敦之助様は、きっと、御台様の子であることを誇りに思うでしょう。その日が来るまで、見守って差し上げるのが、これからの御台様のお役目かと存じます!」

そう言うので茂姫も微笑んで、

「そうじゃな。」

と返すと、宇多も笑って頷いていた。茂姫は一歩進み、女中から採寸を受けている敦之助を見て、

「あの子と過ごせるのも、あと少しとなる。それまで、母の役割を全うするまでじゃ。」

そう言っているのを、後ろで宇多も見つめていたのだった。

浄岸院(それからの月は、瞬く間に過ぎゆきました。そして、敦之助が出立の日。)

同年七月。茂姫は、家斉のところに来ていた。茂姫は、

「上様。この度は、敦之助によき縁組をして下さり、まことに、嬉しゅう存じ上げます。」

そう言うと、頭を下げた。それを聞いた家斉は表情を変えず、

「そうか。」

と言った。茂姫は顔を上げ、

「まだ幼き敦之助故、まことを申せば不安にございますが、それでもわたくしはあの子の母であったこと、そして共に過ごせたことを心より嬉しく思います。なのでこの先何があろうと、わたくしは、母としてあの子を守りたいと思います。これが、わたくしの覚悟と心得ております故。」

そう言うので家斉は、

「後悔はないのか?」

と聞くと、茂姫は答えた。

「ございません。」

家斉も安心したように、

「ならばよかった。」

と言っていると、一人の老中が駆け込んできた。老中が膝をつき、

「大変にございます!」

そう言うと家斉が、

「何じゃ。」

と聞くと、老中はこう言うのだった。

「敦之助様のお姿が、どこにも見当たりませぬ!」

それを聞いた茂姫は驚き、

「えっ?」

と言い、それを見つめていた。

その頃、お楽は部屋で書を読んでいた。女中が、

「あの。本日、敦之助様御出立にございますが、以下がなされますか?」

と聞くと、お楽は言った。

「御台所の子であろう。行く気などない。」

お楽は一言そう言うと、書を読み続けていた。暫くして、庭で物音がするので、お楽は気になって書をその場に置き、縁側に出た。すると、庭でなんと敦之助が蝶を追いかけていたのだ。それを見てお楽は、

「何をしておる!」

と、声をかけた。するとそれに気づいた敦之助は、お楽のところに寄ってきた。お楽は縁側にしゃがむと、

「今日は、出立ではなかったのか?」

そう優しく聞くと、敦之助はお楽に懐から一輪の花を差し出した。お楽はその花を受け取り、

「これは何じゃ?」

と尋ねると敦之助が、

「母上が好きなお花にございます。」

そう、可愛い声で言ったのだ。お楽は少し驚いた表情をしてから、表情を和らげた。すると敦之助の頬に手を当てながら、

「母は好きか?」

と尋ねた。すると敦之助は、元気よく頷いた。お楽も笑って、

「そうか。」

そう言うと、敦之助の頭を撫でていた。敦之助も動かず、じっとお楽を見つめていたのだった。

茂姫は一方、自室の縁側に座っていた。茂姫は心配そうな表情でいると、

「御台様。」

と、呼ばれる声がした。茂姫は見ると、そこにはお楽がいて、そのすぐ前には敦之助がいた。茂姫は立ち上がり、

「敦之助・・・!」

と言い、立ち上がると、そこへ駆け寄った。お楽は、

「わたくしの部屋の庭で、遊んでおりました。」

そう言うと茂姫が、ホッとしたように言った。

「そうであったか。すまぬかったな。」

「いえ。」

お楽もそう言うと、茂姫はしゃがみ込んで敦之助の顔を見るとこう言った。

「駄目ではないか。そなたは、のちに当主となるのじゃぞ。」

すると、敦之助は下を向いた。それを見て茂姫は、

「でも・・・、無事でよかった・・・!」

そう言い、敦之助を抱きしめた。その様子を、お楽は近くから見ていたのだった。

その後、茂姫は敦之助を籠の前まで連れて行った。そこには家斉もいて、縁側に座っていた。茂姫は敦之助を見つめ、こう言った。

「よいか?あちらに行っても、ちゃんとやるのじゃぞ。」

それを聞いて敦之助は、

「はい。」

と言った。それを、側室達も見ていた。その中に、お楽の姿もあった。敦之助は、茂姫を見つめていた。その無垢な目は、茂姫を涙ぐませた。茂姫はもう一度、敦之助を抱きしめた。

「敦之助・・・。わたくしは・・・、いつまで経ってもそなたの母じゃ。」

「はい・・・。」

茂姫の言葉に反応したように、敦之助は言った。茂姫は敦之助から離れると、

「頑張るのじゃぞ。」

と言い、敦之助に背を向かせた。そして女中に手を取られ、籠の中へと入った。茂姫は下がり、家斉のすぐ後ろに座った。籠の中から、敦之助は茂姫を見ている。籠の扉が、ゆっくりと締められた。男達にって籠は持ち上げられ、茂姫達から遠ざかっていった。茂姫は、ひたすら涙をこらえていたのだった。

浄岸院(こうして、これが息子・敦之助との最後の別れとなったのでございます。)

その日の夜、茂姫は家斉と寝室で話していた。黙っている茂姫を見て家斉は、

「のぅ、御台。」

と声をかけると茂姫は、

「はい。」

と返した。家斉は、

「やはり怒っておるのか?」

そう聞くので茂姫は、

「何のことですか?」

と言って、聞き返した。それを聞き、家斉はこう言った。

「まだ生まれてから三つにも満たない敦之助を、養子に出したのじゃ。そなたも、辛いであろう。」

それを聞いて茂姫は、

「それは、上様も同じにございましょう。それに、あちらは徳川御三卿の一つです。きっと将来、この城にも戻って来ましょう。」

と言うのを聞いていた家斉は冗談ぽく、

「強がっておるだけではないのか?」

そう言うと茂姫は首を横に振り、こう言った。

「いいえ。わたくしは、上様の妻なのですから。」

「妻?」

家斉が聞くと茂姫は続けて、

「はい。わたくしは上様の妻として、これからはあなた様のお考えに従うことに致しました。折角生まれた子を早々に養子に出したのは、やはり寂しゅうございますが、悔やんでなどおりません。わたくしは、それが徳川家の妻たる者の定めと心得ております。」

そう言うので家斉も、

「定め・・・。」

と、繰り返した。茂姫は、

「はい。」

そう答えると家斉はまた笑い、

「やはり、そなたは面白いのぉ。」

と言うので、茂姫も笑い返していたのだった。

翌日、薩摩藩邸で重豪はこう呟いていた。

「わしは、於篤に悪いことをしてしまったかの。」

「えっ?」

前に座っていた斉宣がそう聞くと、重豪はこう言った。

「世継ぎ争いのことでじゃ。わしが敦之助を推したことで、あやつの誇りを傷つけてしまったのではないかと思うてな。それにより、恨まれておるのではないか心配でな。」

すると斉宣は、

「それは・・・、ないと思います。」

と言うのを聞いて重豪は、

「何故、そう思う。」

そう言うと、斉宣はこう言うのだった。

「わたくしが父上の文を届けに参った時、姉上はすごく嬉しそうでした。言葉ではおっしゃいませんでしたが、わたくしにはわかったのです。父を、そして家族をこよなく愛しておられると。」

その部屋の前を、偶然お登勢が通りかかった。そうとは知らない斉宣は続けて、

「姉上も、父上の思いは受け止められたはずです。」

と言うと、茂姫と会った日のことを思い出した。

『父上に、宜しくお伝えください。斯様な心配は無用だと。』

「それから姉上は、心配はいらぬと仰せでした。わたくしは、姉上を尊敬しております。自分のことだけで手がいっぱいでも、他の人に気配りができる。そのように、強く、優しい方なのです。されど、これだけは言えると思います。」

斉宣の言葉を、お登勢も部屋の外で聞いていた。重豪も、斉宣を見つめていた。斉宣は続けて、

「姉上は、父上に感謝しているはずです!そのように育てられたのは、他でもない、父上なのですから。」

そう言うので重豪は薄く笑い、

「そうであればよいな。」

と返すので斉宣も笑いながら、

「はい!」

そう言っていた。部屋の外では、お登勢も安心したような表情をしていたのであった。

その後、斉宣と昌高は屋敷の縁側に座って話をしていた。斉宣は、

「昨日、姉上の子の敦之助様が養子りしたそうじゃ。」

と言うのを聞いて昌高は、

「きっとお強いのでしょうね。」

そう言うので斉宣は、

「えっ?」

と聞くと、昌高は続けた。

「いくら夫の命令とはいえ、幼い己の子を外に出すのは、なかなか勇気がいることではありませんか。それを姉上は、躊躇うことなく成し遂げられたのですから。」

斉宣はそれを聞き、

「躊躇ったかどうかは、わからぬがな。」

と言い、二人は暫く共に笑っていたのだった。

夕方、お楽は部屋で書を読んでいた。そして、そばに置いてあった栞を手に取った。その栞は、敦之助からもらった花を押し花にしたものであった。お楽はそれを見つめ、微笑んでいた。

茂姫も、縁側に出て出立の日に母からもらったお守りを眺めていた。そして、

「母上・・・、これに何度助けられたことか。」

と、独り言のように言っていた。それから茂姫は顔を上げると、夕日を眺めていた。茂姫のその表情は、何事も恐れない、そのようにも見えたのであった。



次回予告

茂姫「敦之助が病気!?」

宇多「最後に仰せになった言葉は、母上であったとのこと。」

茂姫「敦之助~!!」

宇多「公方様は、ご自分を責めておられます。」

お楽「何故、お泣きにならぬのですか!?」

茂姫「わたくしは・・・。」

重豪「大丈夫か!?」

斉宣「母上様!」

茂姫「母上が・・・?」

お楽「わたくしも、あの方の妻にございます。」

斉宣「泣けぬのは、立ち止まっているからなのでは?」

昌高「はい。」

重豪「帰らぬか、薩摩に。」

茂姫「わたくしは、生きようと思います。」




次回 第十九回「母の誓」 どうぞ、ご期待下さい!

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