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第十七回 世継の行方

この頃の日本では、当主と呼ばれる人物が一家に一人いた。その家督を巡って、兄弟同士で対立することも珍しくはなかった。それは、徳川将軍家でも例外なことではないのである。

将軍家斉の側室・おたのが生んだ長男の敏次郎としじろう、同じく側室の字多うたが生んだ次男の敬之助たかのすけ、そして、御台所・茂姫しげひめが生んだ三男の敦之助あつのすけがいた。

一般的には、家督は長男が継ぐものであるが、正室である御台所が生んだ敦之助もまた、重要視されていたのである。茂姫の子・敦之助を推す者。

本多忠籌「しかし御台様は公方様の御正室。それだけで有力視されるのもわかりまする。」

島津重豪「於篤の子が、世継ぎになってくれると良いがの。」

そして、長男・敏次郎を推す者。

戸田氏教「わたくしとしては・・・、長男の、敏次郎様を推したいかと。」

その戦いは、もう始まっていたのである。

茂姫「わたくしは上様にあの子にあった生き方を選んで欲しゅうございます。」



第十七回 世継の行方


一七九六(寛政八)年五月。

浄岸院(茂姫が敦之助を生んで、二ヶ月程が過ぎておりました。)

茂姫は、書を読んでいた。すると、籠の中の敦之助が突然泣き出した。茂姫は驚き、敦之助を籠の中から出すと抱きかかえた。しかし、敦之助は泣き止まない。すると部屋におちょうが入って来て、

「御台様、そのように強う抱いてはいけませぬ。」

と言い、敦之助を茂姫から取り上げて抱いた。すると敦之助は、ピタリと泣き止んだ。お蝶が敦之助をあやすと、敦之助も笑い出した。茂姫は、それを驚いたような表情で見ていた。

その頃、家斉はお富から話を聞いていた。

「お蝶?」

「はい。御台様への教育係でございます。」

お富が言うと家斉は、

「御台は、それを受け入れておるのですか?」

と言うので、お富はこう言った。

「敦之助は、もしかすると次の将軍になられるやもしれませぬ故。御台様があのようでは、可愛そうです。それに徳川家の奥方として、自覚を持って頂きませぬと。」

「自覚?」

「はい。以前は、薩摩の弟君を大奥に招き入れていたとか。」

「でも、あの弟はなかなか使えますぞ。」

家斉が言うとお富が家斉を見て、

「それとこれとは別です。」

と、言うのだった。お富は下を見つめて、

「ほんに昔から、勝手気ままよのぉ・・・。」

そう呟いた。すると家斉は、

「母上は、真面目すぎなのではありませぬか?」

と聞いた。お富は再び家斉を見ると、

「わたくしが?」

そう聞くと家斉は、

「もう少し、羽目を外してみては如何です?」

と言うのでお富は厳しい顔をし、

「何を言うておるのです!将軍ともあろうお方が、そのようなことを!」

そう言うのを聞いて家斉は、笑いながらこう言った。

「わかっております。今のは、ほんの冗談にございます。」

そして家斉は、書を読み始めた。お富はその横で、

「それで、お世継ぎはいつお決めになるのですか?」

と聞くと家斉は書を読みながら、

「母上まで世継ぎの話など。まだよいではありませぬか、皆まだ幼いのですから。」

そう言うのでお富は、こう言った。

「この先、何が起こるかわかりませぬ故、申しておるのです。」

するとそれを聞いて家斉は、

「縁起でもない。もう暫く考えさせて下さいませ。」

と言って、書を読み続けていた。お富は、それを心配そうな顔で見つめていた。

一方、薩摩藩邸では重豪はこう言っていた。

「お世継ぎの件は、老中の本多殿と戸田殿で話し合っておられるようじゃ。」

それを聞いて、斉宣がこう言った。

「あの・・・、父上。ふと疑問に思ったことがあるのですが。」

「何じゃ。」

重豪が聞くと斉宣が、

「何故、今決める必要があるのでしょうか。お三人は、まだ幼いと聞きます。もう少し、待ってみることはできないのでしょうか。」

そう言った。すると重豪が、

「何を言う。世継ぎは早いうちに決めておいた方がよいであろう。」

と言うので、斉宣がこう言った。

「されど、兄上様もそれは望んでおられぬはずです。」

「何故、そうわかる。」

怪訝そうに重豪が聞くので斉宣は焦りを見せ、

「あ、いや。そのような気がしまして・・・。」

そう言うので、重豪は顔を上げて何か考えているような表情をしていた。

その頃、茂姫の部屋には字多が来ていた。

「器比べ?」

茂姫が聞くと、字多はこう言った。

「はい。母親がそれぞれの己の子のよきところを話して競い、それから上様に気に入られた者が次のお世継ぎになるというものにございます。」

茂姫はそれを聞き、

「かようなこと、誰が言い出したのじゃ。」

と聞くと字多も首をかしげ、

「さぁ・・・。」

そう言っていると、

「失礼仕ります。」

と言いながら、お蝶が入ってきた。お蝶は茂姫の前に座ると、

「器比べのこと、お聞き致しました。表でも噂が広まり、皆高まっておられます。」

と言うので茂姫は驚き、

「まことか?」

そう聞くとお蝶は続け、

「はい。これはよき機会にございます故、御台様には最大限の力を尽くして頂きとう存じ上げます。よってただ今から、稽古を行いまする。」

と言った。それを聞いて茂姫は怪訝そうに、

「稽古じゃと?」

そう聞いた。するとお蝶は立ち上がり、

「さぁ、こちらへ。」

と言って、茂姫を案内した。

その後、茂姫は個室へ連れて来られた。そこには敦之助も眠っていて、お蝶は言った。

「この子の、よきところ、誇れるところをおっしゃって下さい。」

「誇れるところ・・・?」

茂姫は聞くとお蝶が、

「御台様の、敦之助様にしかないものにございます。」

と言ってくるので茂姫は混乱したように、

「左様なこと、急に言われても・・・。」

そう言いながら、困った表情で敦之助を見つめ、

「よきところ・・・、のぅ。」

と、呟いていたのだった。

お富は、お楽を部屋に呼んでいた。

「そなたか、器比べの噂を流したのは。」

お富が言うとお楽は頭を下げたまま、

「恐れながら、どなたからお聞きになったのでございますか。」

と聞くとお富は、

「お万じゃ。」

そう言うので、お楽は目を丸くして後ろを振り返った。すると、後ろにいたお万が笑った。お楽はお富を見ると、

「されど、わたくしは・・・。」

と言いかけるとお富は、

「そなたは、あのような噂を流してどうするつもりであったのじゃ。勝てるとでも思っておったのか?」

そう聞くので、お楽はこう聞き返した。

「恐れながら・・・、お富様はどう思われまするか。」

するとお富は、

「そなたの子が勝つに決まっておろう!」

そう言うのだった。お楽は、驚いたようにお富を見つめていた。お富は続けて、

「わたくしは、御台所の子よりそなたの敏次郎の方が次にお世継ぎに相応しいと思うておるのじゃ。」

と言うのでお楽は嬉しそうに、

「まことにございますか?」

そう聞くと、お富は言った。

「まことじゃ。ただし、そなたの態度が気に入らぬ。公方様に対して直々にお目通りを乞い、わたくしにも手を貸せなどと、虫が良すぎる!」

するとお楽は頭を下げ、

「申し訳ございませぬ!」

と言った。お富は、

「されど、公方様はまだお決めにならぬそうじゃ。あの方のお心が動かぬ以上、わたくしもどうすることもできぬ。残念であったな。」

そう言うと立ち上がり、部屋を出て行こうとした。

「お待ち下さいませ!」

お楽はそう言って呼び止めたが、お富は振り返ることなく部屋を出て行ってしまった。お楽は頭を下げながら、またしても悔しそうな表情であった。

茂姫は、部屋で敦之助を抱いていた。そこへ、

「失礼致しまする。」

という声がかかった。部屋に入ってきたのは、お万であった。茂姫はそれを見て、

「お万・・・。」

そう呟いた。お万は座ると、

「敦之助殿の誕生の折、ちゃんと挨拶しておりませんでした。改めて、おめでとう存じ上げます。」

そう言うと、頭を下げた。すると茂姫は笑って、

「よいのじゃ。ところで、器比べの話はどうなっておるのじゃ。」

と聞くと、お万は顔を上げてこう言った。

「あれは・・・、お楽が流したでたらめにございます。公方様も、行う気はないと仰せられたそうです。」

それを聞いて茂姫は安心したように、

「そうか・・・。」

と言った。そこへお蝶が駆け込んで来、

「器比べがなくなったというのは、まことにございますか?」

そう聞くと茂姫は、

「そうらしいのじゃ。」

と言うと、お蝶はひどく落胆したように肩を落とした。するとお蝶は開き直ったように、

「されど御台様、これでまた機会ができました。それでは、失礼仕ります。」

そう言って頭を下げると、部屋を出て行った。茂姫はそれを見て、

「あの者のまことの目的が何なのか、いまいちわからぬのじゃ。」

と言っているとお万は、

「御台様。」

と言うと、茂姫はお万の方を見た。お万は続け、

「あの者にはお気をつけ遊ばされませ。」

そう言うので茂姫は、

「何故じゃ?」

と聞いた。するとお万は、

「あの者は、何か企んでおるように見えました。」

そう言うので、茂姫はこう聞いた。

「どこを見てそう思ったのじゃ?」

すると、お万はこう答えた。

「目にございます。」

「目・・・。」

茂姫も、そう呟いた。お万は続けて、

「お楽と同じような目をしておりました。きっと何か考えがあって、ここへ上がったのでございましょう。」

そう言うので茂姫は、

「あの者が・・・。」

と呟き、お蝶が出て行った方を見つめていたのだった。

その夕方、薩摩藩邸のお登勢は縁側に座って上の空だった。すると斉宣が来て、

「母上様?」

と聞くとお登勢は我に返ったように振り向き、

「あぁ、何でしょう。」

そう聞き返すのだった。斉宣が、

「姉上のことですか?」

と聞き返すと、お登勢はこう言った。

「わたくしは、もう案じてはおりませんよ。あの子に、また文でも送りましょう。」

お登勢はそう言うと笑顔で立ち上がり、部屋に入って行ってしまった。その様子も、斉宣も見ていた。

浄岸院(それから月日が経ち、約半年後の寛政九年一月。)

一七九七(寛政九)年一月。茂姫は、字多から話を聞いていた。

「そなたの子の具合が?」

茂姫は聞くと、字多が答えた。

「はい。今朝から、何も口にしようとしないのです。」

茂姫は心配そうに、

「医師には、伝えたのか?」

そう言うと字多は、

「はい。されど今は、風邪かもしれぬとのこと。」

と言うので茂姫はこう言った。

「流行り病かもしれぬ。医師にしかと伝え、直ちに的確な処置を行うようにと。」

それを聞いて字多は、

「はい!」

と言い、茂姫を見つめていた。

その夜、寝間で茂姫は家斉と共にいた。暫くの沈黙の後、

「母上は、今年中に世継ぎを決めよと仰せなのじゃ。」

と言うので、茂姫はこう聞くのだった。

「何故幼いうちから、決めておかねばならぬのでしょうか。」

それを聞いて、家斉はこう言った。

「わからぬ。されど、一家の家督を継ぐのは、常識的に考えると長男と決まっておる。よって家督を継ぐのは、敏次郎となる。されど御台の子のことも、考えねばならぬ。母上は、そなたの子を世継ぎにしたくないのじゃ。」

すると茂姫は、

「それは、母上様がわたくしのことをお嫌いだから?」

と聞くと家斉は、

「いや。母上がお楽を側室にしたのは、あの者に他ならぬ期待を抱いておったからじゃ。最初から、あの者が男子を生んでくれることを想定しておられた。好都合なことに、お楽は男子を儲けた。それも、わしにとっての初めての男子であった。その知らせを聞いた時、一番喜んだのは恐らく母上であろう。故に、長男である敏次郎を次の世継ぎにして欲しいのであろう。」

そう言うのを聞いて茂姫は、

「されど、まことにそれだけの理由で良いのでしょうか。」

と言うので家斉は、

「どういう意味じゃ?」

そう聞いた。すると茂姫は、

「あ、いえ。ただ、将軍になるには、教養などもっと他の素質がいると思うのです。」

そう言うのを聞いて家斉は笑い、

「そのようなことは、決まってからでも身につけられる。」

と言うので茂姫も笑って、

「そうですね。」

そう言った。家斉は、茂姫にこう聞いた。

「そなたは、もうよいのか?」

「何がでしょう。」

茂姫が聞くと、家斉は言った。

「そなたの子を世継ぎにしたいとは思わぬのか?」

それを聞くと茂姫は、

「はい。」

と答えると、家斉は笑みを浮かべ、布団に入っていった。家斉が寝始めると、茂姫は小声でこう呟いた。

「わたくしにとっての幸せは、あなた様と過ごせることなのですから。」

茂姫はその後も、暫く家斉の寝顔を眺めていたのだった。

浄岸院(そして僅か数日後・・・。)

茂姫は、女中を引き連れて廊下を小走りで歩いていた。そして向かった先は、字多の部屋であった。部屋に着くと、茂姫の視界に入ってきたのは、布団に横たわった敬之助の亡骸、そして、その手を強く握っている字多の姿であった。茂姫は、恐る恐る近づいていった。茂姫がゆっくり字多の隣に座ると、字多はそれに気がついた。字多は涙を流しながら、

「御台様・・・。わたくしは、侮っておりました。」

と言うので茂姫は、

「えっ?」

と聞いた。字多は続けて、

「己の子を亡くすことが、このように辛いものであるとはつい知らず、このような事態を招いてしまったのはわたくしにございます。」

そう言うので茂姫は、

「そのような・・・。」

と言っていると、字多は敬之助の布をめくり、こう言った。

「まだ髪も伸びておらぬというのに・・・、何故このようなことが起きるのでしょうか・・・。」

それを見て茂姫も、

「お字多・・・。」

と言っていた。すると字多は、

「敬之助~!!」

そう言って、泣き出したのだった。泣き続ける字多を、茂姫は慰めるかのように背中に手を当てていた。

そして、表では・・・。

「お字多殿の敬之助様が亡くなった?」

三河吉田藩主・松平まつだいら信明のぶあきらが聞くと、老中の本多ほんだ忠籌ただかずがこう言った。

「はぁ。まさか僅か三歳で亡くなられるとは。お世継ぎ問題も、御台様の敦之助様と、お楽様の敏次郎様に限られるようになりました。」

信明は頷き、

「となれば・・・、長男がなるか、正室の子がなるか、にございますな?」

と言うので、本多もこう言った。

「もし御台様のお子が選ばれた場合、三代将軍の家光公以来にございます。」

それを聞いた信明は、

「なるほど・・・。それで皆、期待しておるのですな。」

と言うので本多は、こう言った。

「あいや。それに限ったことではございませぬ。第一、御台様は島津家の出。以前までは、御台所といえば公家などの名門から招き入れておりました。それ故に、反発の声も出ておるとか。」

それを聞いた信明が、

「兎にも角にも、いよいよにございますな!」

と言うので本多も、

「いよいよにござるか・・・。」

そう呟いていたのであった。

浄岸院(お世継ぎ争いの話は全国にも及び、まず最初にお力を求められたのは、茂姫のお輿入れの際、養父となられた、近衛このえ経熙つねひろ様でございました。届いた書状は、茂姫の父・重豪殿からでございました。)

経熙は、嘆願書のようなものを受け取っていた。

その後、表では二派に分かれて話し合いが行われていたのである。治済が、

「御台様のお子、敦之助様こそ、次のお世継ぎに相応しい!」

と言うと向かいに座っていた戸田とだ氏教うじのりが、

「されど、家督は長男が継ぐのが昔からの倣いにござらぬか。」

そう言った。戸田の隣にいた老中・安藤あんどう信成のぶなりも同様、

「そうにございます。いくら御台様のお子とはいえ、三男いございまするぞ!」

そう言うので治済が、

「島津家を発展させる、よき機会にございますぞ!薩摩が栄えれば、何かと徳川家のお役に立つかと存じまするが。」

と言っているのを、隣で本多も見つめていた。それを聞いた戸田と安藤は、顔を見合わせていた。

一方で薩摩藩邸では、重豪が書状を読んでいた。重豪はそれを見つめながら、

「近衛様は、嘆願書の内容を了承して下さった。」

そう言うとその側でお登勢も、

「まことにございますか?」

と聞くと重豪も、嬉しそうに頷いた。重豪は、

「聞くところによると、於篤自身は己の子を世継ぎに望んでおらぬというが、将軍の母になるということは、御台所以上の誉である。わしは、そう思うておる故な。」

と言ってお登勢を見るとお登勢も、

「はい・・・。」

そう答えた後、少し心配そうな顔になった。すると重豪は書状を折りたたみ、

「もはや、これは戦じゃ。」

そう言うのでお登勢も、

「戦・・・。」

と、呟いた。重豪は続けて、

「そうじゃ。両派の対決により、世が乱れねばよいが・・・。」

そう呟くようにして言うので、お登勢は更に不安そうな表情になっていたのだった。

茂姫はその頃、金魚に餌をやっていた。

「命というのは・・・、儚いものよのぉ。」

そう呟いているのを、後ろからひさが見つめていた。すると女中が来、こう告げた。

「御台様、お客様がお見えにございます。」

茂姫が振り返ると、

「客じゃと?」

と言っていた。

茂姫は部屋に入ると、待っていた者の顔を見てこう呟いた。

「斉宣殿・・・。」

そこにいたのは、斉宣であった。茂姫は斉宣の前に座ると、

「今日は、どういったご用件ですか?」

と聞くと斉宣は、

「本日は、父上から文を預かって参りました。」

そう言うので茂姫は、

「父上から?」

と言い、文を受け取った。斉宣は、

「時に、世継ぎのことで幕府が二手に分かれてもめているとか。」

そう言ってくるので茂姫は、

「そのようですね。しかしわたくしは、己の子を将軍にできなくともよいと思っております。あの子に負担がかかることは、できるだけしとうはありませんから。」

と言うと斉宣は、

「されど父上は、姉上の子を推しているようです。養父の近衛様にも、嘆願書を差し出されたとか。」

そう言った。すると茂姫は、

「近衛様に?」

と聞くと斉宣は頷き、

「はい。」

と、答えた。茂姫は疑問を持ったように、

「されど、父上は何故そこまでして?」

そう聞くと、斉宣は言った。

「母上様によると、父上はこう言われていたそうです。」

『将軍の母になるということは、御台所以上の誉である。』

その話を聞き、茂姫は呟いた。

「わたくしを・・・、将軍の母に・・・。」

斉宣は続け、

「でも母上様は、姉上がそのようなことを望んでいるはずがないと言っておられましたが。」

そう言うので茂姫は、顔を上げてこう言った。

「父上に、宜しくお伝えください。斯様な心配は無用だと。」

それを聞いた斉宣は、

「はい。」

と頷くので、茂姫もそれを見て笑っていた。

その後、部屋で茂姫は文を読んでいた。

『於篤。いや、今は茂姫であったな。息災にしておるか。時に、世継ぎの件はとうに聞き及んでおろう。わしは、そなたの敦之助を推したいと思うておる。』

茂姫はそれを見て、

「父上・・・。」

そう呟いていた。茂姫は、読み続けた。

『御台所は、重要な役割じゃ。されど、将軍の母となれば立場は変わる。仮に他の側室の子が将軍になれば、次の将軍となった時に、立場が入れ替わるやもしれぬ。敦之助は、わしにとっても実の孫じゃ。孫が将軍となれば、そなたが生んだことして薩摩は活気に満ち溢れるであろう。そなたから、公方様にお頼み申し上げてはくれまいか。これは、これからの薩摩に関わるようになるかもしれぬのじゃ。父からの、願いである。聞き入れるも入れまいも、そなた次第じゃ。』

それを読み、茂姫は目に涙を浮かべながら呟いた。

「父上・・・。わたくしには・・・、それはできませぬ・・・。」

茂姫は文を折りたたむと、それを傍らに置いた。すると、泣き声が聞こえた。茂姫はそれを聞き、立ち上がるとその方へ走って行ったのだった。

同じ時分、お楽はお富に頭を下げていた。お楽は頭を下げながら、

「今までの勝手な働き、お詫び申し上げます!されど今一度、公方様にお目通りを!」

と言うとお富は、

「しつこい!」

そう声した。お楽は顔を上げると、

「わたくしの願いはただ一つにございます!何卒、何卒・・・!」

と言うのを、お富の側でお蝶も見ていたのだった。お富は、

「ならぬものはならぬ。それだけじゃ。」

そう言い、立ち上がるとこう言った。

「そちの傲慢さに振り回されるのは、もううんざりじゃ。金輪際、ここに顔を見せるでない。」

お富はまた部屋を出て行こうとすると、お楽は叫んだ。

「お富様!」

するとお富は立ち止まって、

「おぉ、そうじゃ。」

そういうと振り返り、お楽にこう言うのだった。

「お世継ぎの件、公方様は御台の子になさるそうじゃ。今度、正式に宣言なさるおつもりであろう。」

お楽はそれを聞き、わかっていたと言わんばかりに、悔しそうにしていた。お富はまた前を向くと、部屋の外へ行ってしまった。お楽は、泣きそうになりながら両手を握りしめていた。

茂姫はその頃、部屋で座って庭を見つめていた。すると、

「失礼仕ります。」

と言う声がするので、茂姫は前を見た。そして、宇多が入ってきたのだ。

「お宇多・・・。」

茂姫もそう呟き、宇多を見つめていた。宇多は顔を上げると、茂姫は聞いた。

「そなた・・・、もう大丈夫なのか?」

すると宇多は無理に笑顔を作り、

「はい。」

と答えた。茂姫は、

「何か、用があって来たのか?」

そう聞くと、宇多はこう言った。

「御台様に、どうしてもお伝え申し上げたいことが。」

茂姫は優しく、

「何じゃ。申してみよ。」

そう言うと宇多は、話し始めた。

「わたくしは敬之助を亡くすまで・・・、何か大事なものを忘れていた気がします。それは、己にしかわからぬものであると、わたくしはそう思ったのでございます。」

宇多の話を、茂姫は真剣に聞いていた。宇多は続けて、

「側にいて当たり前だと、そう考えておりました。まさかあのようなことになるなんて、思ってもみませんでした。わたくしは、敬之助が生きた証を残してあげたかった。されど、早すぎる死によってそれは叶いませんでした。わたくしは、御台様にも同じような思いをさせとうはございませぬ。後悔して欲しゅうないのです。御台様は、敦之助殿をお世継ぎにしたいと、本当はそうお考えなのではないですか?」

そう言うので茂姫は、

「それは・・・。」

そう言葉に詰まると、宇多はこう言った。

「されど敦之助様のことを考えると、躊躇してしまう。そうなのではないですか?」

茂姫は何も言わず、宇多を見つめていた。宇多は、

「わたくしもそうでございました。例え幼くして死のうと、世継ぎであったことには変わりありませぬ。それだけで、どれだけ誇りであったか・・・。非常に後悔しておリます。それ故・・・、御台様にはして欲しゅうないのです!」

そう言うのを聞いて、茂姫は宇多をただ見つめていた。宇多は、

「わたくしの話は、それだけにございます。失礼致します。」

と言うと頭を下げ、立ち上がって部屋を出て行った。茂姫はそれを見て、

「お宇多・・・。」

そう呟いていたのだった。すると、また泣き声がした。茂姫は籠の中を覗き、敦之助を見た。敦之助は、無邪気に泣いている。すると、重豪からの文の一文が蘇った。

『そなたから、公方様にお頼み申し上げてはくれまいか。』

茂姫は敦之助を見つめながら、考えた表情をしていた。

その夜、茂姫にお渡りがあった。寝間で、茂姫は家斉を待っていた。すると、

「公方様、おな~り~!」

と女中が言うので、茂姫は頭を下げた。そして家斉は、部屋に入ってきた。布団の上に座ると、姿勢を崩した。家斉が、

「敦之助の様子は?」

と尋ねると、茂姫は答えた。

「変わりのう、元気に育っております。」

家斉はそれを聞いて安心したように、

「左様か。」

と言い、寝床に着こうとした。それを見て茂姫は咄嗟に、

「あの、上様!」

と呼んだ。家斉が、

「何じゃ?」

そう尋ねると、茂姫は一歩下がり、手をつくとこう言い始めた。

「今宵は、上様にお願い申し上げたいことがございます。」

それを聞き、家斉は言った。

「申してみよ。」

そして茂姫は、心を決めたように話した。

「上様。わたくしの敦之助を、次の将軍に定めて頂きたく存じます。お願い申し上げます!」

茂姫がそう言って頭を下げると、家斉はそれを聞いて暫く黙った。茂姫は顔を畳に近づけたまま、家斉の返答を待った。すると家斉は口を開き、

「それは・・・、母上か誰かから言えと言われたのか?」

と聞くと茂姫は顔を上げ、こう言った。

「いえ。わたくしの考えにございます。」

すると家斉は、

「そうか。」

と言い、布団をめくった。茂姫は続けて、

「上様のお答えが聞きとうございます。」

そう言った。家斉は振り返り、

「そなた前に、自分の子には重荷を背負わせとうないというておったな。」

と聞くので茂姫も少し下を向き、

「はい。」

そう答えた。家斉は、

「あれは、嘘であったのか?」

と聞いてくると、茂姫はこう言った。

「まことにございます。されど思うたのです。わたくしは、ずっとあの子の側にいてやりたい。養子に出したら、度々会えなくなるでしょう。それを思えば、あの子の幸せを考えれば、それが一番であると、そう思うたのです。これが、わたくしの決意にございます!」

それを聞いた家斉は暫く黙った後、こう言った。

「わしはのぉ、そなたを信じておった。まことに、それが敦之助にとっての幸せであると思うか?」

茂姫はそれを聞き、黙って家斉を見つめた。家斉を続けて、

「将軍になれば、そなたが思うておる以上に、周囲から目を向けられ、世の安泰を迫られる。それでも、あやつにとって幸せであると言えるのか?」

と言うのを聞いた茂姫は、

「上様・・・。」

そう、やるせなさそうな表情で呟いた。家斉は、

「もうよい。休め。」

と言い、自身も布団に入り背を向けると目を閉じた。茂姫は、少し後悔したようであった。

翌朝、茂姫は魂が抜けたような表情で座っていた。するとひさが来て、こう告げた。

「あの、公方様がお呼びにございます。」

茂姫はそれを聞き、

「え・・・。」

と呟いた。ひさは、

「それも、お世継ぎをお決めになったとのことで。」

そう言うので茂姫は、

「世継じゃと・・・?」

と聞き返すとひさも、

「はい。」

そう頷いていたのだった。

その後、茂姫は部屋に向かった。部屋には、お富、そして側室が全て揃っていた。茂姫はそこで待っていると、女中から声が上がった。

「公方様、お成りにございます!」

それを聞き、茂姫含めその部屋にいた者は、一斉に頭を下げた。そして、部屋に家斉が入ってきた。家斉が周りを見渡し、

「皆の者、面を上げよ。」

そう言うと、皆は一斉に顔を上げた。家斉の横に座っていたお富が、

「只今より、公方様からお世継ぎの発表があります。」

そう嬉しそうに言った。茂姫、宇多、そしてお楽は真剣な顔で家斉を見ていた。その後ろでお蝶、お万、志賀しがも見ていた。家斉は、落ち着いて言った。

「世継ぎを決めた。」

茂姫とお楽は、その言葉を真に受けていた。暫くの沈黙の後、家斉は口を開き、

「次の世継ぎは・・・・・・。」

と言い、辺りを見回した。お富も、その様子を微笑しながら見ていた。その後も、数秒間の沈黙が続いた。そして家斉はとうとう、こう言った。

「お楽が生んだ長男、敏次郎とする。」

それを聞き、茂姫のみならず、お楽でさえも耳を疑った。家斉は続けて、

「御台の子、敦之助においては徳川御三卿の一つ、清水家に養子に出すことと相成った。来年、縁組を行う。以上じゃ。」

と言うのだった。それを聞いてお蝶は残念そうに肩を落とし、宇多も悔しそうな表情をしていた。お富は、

「そう言うことにございますので、これにて。」

そう言い、家斉と共に立ち上がった。家斉が部屋を出て行こうとすると茂姫は、

「お待ち下さい!」

と、家斉を呼び止めた。茂姫は、

「それは、昨夜わたくしが上様に申し上げたからにございましょうか。もしそうなのであれば、お詫び申し上げます。されど、敦之助はまだ幼く、養子縁組はもう少し先延ばしに・・・。」

そう言いかけると家斉は振り向き、

「そういうことではない。ただ敦之助よりも、長男である敏次郎を世継ぎに定めただけじゃ。」

と言うと、部屋を出て行った。お富も、それに続いて言ったのだった。茂姫は、下を見つめながら悔しそうな表情をしていた。その後ろで、お楽は一人嬉しそうにしていた。一方で、宇多は後ろから心配そうに茂姫を見つめていたのであった。

茂姫は部屋に戻ってくると、力尽きたようにその場に座り込んだ。ひさが心配そうに、

「御台様。」

と声をかけると茂姫は、

「あぁ。大事ない。」

そう言って、横を向いて庭を眺めていた。そこへ、

「失礼致します。」

という声がするので、茂姫は見るとそこにはお富がいた。

「母上様・・・。」

茂姫はそう言い、お富を見つめていた。

茂姫はその後、お富と向き合った。お富が、

「そなたがどのような気持ちでおるのか気になっての。」

と言うと茂姫も、

「はい。」

そう答えていた。お富は続けて、

「さぞや、悔しいであろうな。薩摩父の期待に添えなかったのであるからな。」

と言うので、茂姫もこう言った。

「されど、上様のお考えにございます故、仕方ありませぬ。」

それを聞いたお富は、

「そうか。ならば一つだけ教えてやろう。」

と言うので、茂姫はお富を見つめていた。お富は続け、こう話した。

「ご存知の通り、御台所はかつて京の公家から招いておった。わたくしは、ちと悔ておるでの。」

「悔いる?」

「そなたを公方様から離縁させて薩摩へ返し、新しい御台として京から連れて来れば良かったと。そなたの子は所詮、薩摩の子。将軍になど相応しゅうないと、公方様には呉々もお忘れなきように伝えおいたのわたくしじゃ。」

茂姫は目を丸くして、

「そのような・・・。」

そう言うとお富は続けて、

「されど、それにしても徳川御三卿のご当主におなり遊ばすのだから、よき縁にございますねぇ。」

と、嫌味っぽく言うと立ち上がり、去ってしまった。茂姫は、それを複雑な表情で見つめていたのだった。



次回予告

茂姫「わたくしは、理由が知りとうございます!」

お富「無駄じゃ。」

宇多「きっと、御台様の子であることを誇りに思うでしょう。」

茂姫「わたくしは・・・、いつまで経ってもそなたの母じゃ。」

奥平昌高「きっとお強いのでしょうね。」

茂姫「お蝶が、上様の側室?」

お万「許せません。」

斉宣「姉上は、父上に感謝しているはずです!」

重豪「わからぬ。」

家斉「恨んでおるのか?」

茂姫「いいえ。わたくしは、上様の妻なのですから。」




次回 第十八回「息子の巣立」 どうぞ、ご期待下さい!

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