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第十三回 お楽の懐妊

「アダムじゃと?」

一七九二(寛政四)年一一月。家斉が、怪訝そうに聞いた。すると定信は、こう説明した。

「はい。アダム・ラクスマン。オロシアから来航した異人で、日本人漂流者数人を預かっており、返還と引き換えに日本との通商を求めてきております。」

それを聞いた家斉は、

「成る程・・・。」

と、呟いた。定信は、

「その者は、この国の漂流者を人質に貿易を強制的にさせるつもりなのです。」

そう言うと家斉も、

「されどその者達も、鎖国の禁を破った者達なのであろう。」

と言った。すると定信は、

「わたくしは、一度長崎へ行くように指示してみます。長崎では、今でもオランダと交流がございます。もし通商が免れぬ場合、真っ先に貿易の場となるのはおそらく長崎かと。」

そう言うのだった。家斉は庭を見ながら、

「どうかのぉ・・・。」

と、呟いていた。



第十三回 お楽の懐妊


「アダム・ラクスマン?」

茂姫は聞いた。家斉はこう言うのだった。

「異国から来て、漂流者と引き換えに日本に通商を求めてきておる奴じゃ。二ヶ月程前から、来航しておるらしい。」

それを聞いて茂姫は、

「そうですか・・・。されど、それには開国が必要なのでは?」

と聞くので家斉は、こう言った。

「下手に開国すれば、噂を聞きつけてそこら辺の国が集まって来るであろう。そうなれば、この国は反乱ばかりとなる。」

茂姫は、

「成る程・・・。」

と、呟いた。家斉は立ち上がり、

「いずれにせよ、日本は選択を迫られておるのじゃ。開国するか、鎖国を貫き通すか・・・。」

そう言うのを、茂姫も黙って見ていた。すると、部屋に三~四歳程の娘が入って来た。その娘は、家斉に抱きつくと後からお万が来て、

「これ、いけませんよ。」

そう言うので家斉は、

「どうしたのじゃ?」

と聞いた。するとお万は対偶が悪そうに、

「いえ。この子が、どうしてもお父上に会いたいと。」

と言うのだった。茂姫は、

「もしや、その子は・・・。」

そう言うと、お万が答えた。

しずといいます。結納の時期が決まりましたので、報告をと思っていたところです。」

それを聞いて茂姫は顔を輝かせ、

「ならばやはり、あの時の・・・。」

と言うとお万は、

「はい。」

そう嬉しそうに言うのだった。茂姫も、

「そうか・・・。大きゅうなって。」

と言い、その鎮という娘の頭を撫でていた。家斉とお万も、その様子を笑顔で見つめていたのだった。

別の部屋では、お楽が何やらそわそわしていた。女中が、

「お楽様、如何なさいましたか?」

と聞くと、お楽はこう言った。

「如何したも何もない。今日、公方様と会うと約束したのじゃ。何をしておいでなのか。」

するとお楽は足を止めてはっとしたように、

「まさか、御台所の所に・・・。」

と呟くと、急に口を押さえて座り込んだ。すると女中は驚き、

「お楽様!?」

と、お楽の方に駆け寄った。お楽は、

「案ずるでない。」

そう言うと、また気持ち悪そうにした。それを見た一人の女中は驚いた表情で、

「これは、もしや・・・!」

と言い、周りの女中達と顔を見合わせた。

その頃、家斉は茂姫の部屋で鎮と遊んでいた。茂姫は、

「宜しいのですか?このような所にいて。」

と聞くと家斉は、

「なにがじゃ?」

そう聞き返すと、茂姫は言った。

「今日、お楽と会う約束があるのでございましょう?」

それを聞いて家斉は、

「よいではないか。気が変わることもある。」

そう言うのを、茂姫は呆れながら聞いていた。すると女中が走って来て、

「大変にございます!」

と言うので、茂姫は聞いた。

「如何した。」

すると女中は顔を上げ、嬉しそうに言った。

「はい!先程、お楽様御懐妊の知らせがございました!」

それを聞いた茂姫は驚いて思わず、

「お楽が懐妊?」

と聞いた。すると知らせに来た女中は笑顔で、

「はい!」

そう答えるのだった。

その後、二人はお楽の部屋に行っていた。家斉が、

「何月じゃ。」

と聞くとお楽は、

「四月にございます。」

そう答えた。家斉の隣にいた茂姫も、

「おめでとうございます。」

と言うのでお楽も、

「ありがとうございます。」

そう言うと、頭を下げた。家斉は、

「子を産むのは、そなたの願いでもあった故な。」

そう言うとお楽は顔を隠して、自分のお腹を見つめながらこう言った。

「この子は、公方様とわたくしの証にございます。この子が広き心を持った大人に育ってくれれば、この上ない幸せにございます。」

「そうか・・・。」

家斉も、そう言ってお楽のお腹を撫でていた。それを、茂姫も複雑な表情で見つめていたのだった。

二人は、廊下を歩いていた。家斉はふと足を止めて、振り返ると茂姫にこう言った。

「そろそろ、世継ぎのことも考えねばな。」

「えっ?」

不意をつかれたように茂姫が返すと、家斉はこう言うのだった。

「世継ぎは、早いうちに決めておくのが一番じゃと思うてな。人は、いつか死ぬかわからぬ故。」

それを聞いて茂姫は俯きながら、

「はい・・・。」

と、答えた。家斉が心配そうに、

「どうした?」

と聞くと茂姫は我に返ったように、

「あ、いえ。」

と返した。そして続け、

「上様の子であれば、きっと利口な子でございましょう。それでは。」

そう言い、茂姫は逆方向に歩いていってしまった。それを、家斉は見ていた。

浄岸院(そして年が明け、寛政五年四月。)

一七九三(寛政五)年四月。茂姫に、ある話がもたらされた。

「尊号・・・、ですか?」

茂姫が聞くと、家斉はこう言った。

「あぁ、貴族などにおいて目上に敬意を示す為に贈られる称号じゃ。五年程前、みかどが実の父親、典仁親王に対してその尊号を送ろうとした。しかし、天皇の座についておらぬお方に尊号を送るなど、先に例がないと定信が言うてな。されど、公家はその反対を無視し、尊号を送ろうとしたのじゃ。それを知った定信は、その一件に処分を下した。」

「公家に、処分・・・。」

茂姫は驚きのあまり、言葉を失うと家斉は言った。

「大政委任論じゃ。」

「大政委任論?」

「聞いたことはあるであろう。」

「はい。確か、幕府は天皇より大政を担い、日本国を統治しているといった内容にございます。」

茂姫が言うと家斉は、

「そうじゃ。」

と答えると、茂姫は不満そうにこう言った。

「されど、武家である江戸幕府が、公家を処分するなど。」

「全ては、己の為か。」

家斉がそう言うので、茂姫は家斉を見つめた。すると家斉は、話を変えてこう言った。

「そうじゃ。わしも、尊号を贈ろうかの。」

「誰にですか?」

茂姫は聞くと家斉は、こう答えた。

「父上じゃ。」

「父上様?」

「あぁ。大御所の尊号を贈り、一橋が幕府の政に加わりやすいようにしようと思う。」

それを聞いた茂姫は、

「きっと、お父上も喜ばれますよ。」

と言うと、家斉も微笑んで茂姫を見つめていた。

浄岸院(そして、同年五月一四日。江戸城に、新たな命が誕生したのです。)

一七九三年五月一四日。ある部屋には、産声が響き渡っていた。

茂姫はその知らせを聞き、立ち上がって、

「生まれたのか!?」

と聞くと、知らせに来た常磐は笑ってこう言った。

「はい!元気な男の子にございます!」

「男の子・・・。」

茂姫は小さくそう繰り返し、嬉しそうにしていた。

お楽の横で眠っているのは、生まれたばかりの赤子であった。

浄岸院(この子は敏次郎としじろうと名付けられ、この赤子こそが、後の十二代征夷大将軍・徳川家慶公でした。)

茂姫はその後、部屋にお万を呼んで話をした。

「初めは複雑であった・・・。されど、あの者があのように喜ぶ顔を見たのは初めてじゃ。ほんによかった。」

茂姫は話すとお万は、

「御台様、あの者の今後にお気をつけ下さいませ。」

と言うのだった。茂姫は怪訝そうな顔をし、

「どういう意味じゃ?」

と問うと、お万は言った。

「お楽は、自分の子を次の将軍にしたいのです。」

「次の将軍・・・。」

それを聞き、茂姫もそう繰り返した。お万は続け、

「あの者の狙いは、己の子をお世継ぎにすること。お楽は、手段を選びませんから、どのようなことをしてでも次の将軍にして下さるよう、公方様に近づくつもりでしょう。」

そう言うので、茂姫はこう言った。

「待て。それは、そなたの偏見ではないのか?」

すると、お万は言った。

「いえ。御台様も、あの者の本性を薄々ご存知かと。」

「それは・・・。」

茂姫はそう言いかけると、あることを思い出して言葉を詰まらせた。

『あなた様が嫌いにございます。』

茂姫は、下を向いていた。

一方、家斉の母・お富は息子の家斉に会いに来ていた。お富は茶を飲みながら、

「まさか、お楽に子ができるとは。」

そう呟き、家斉を見て言った。

「それで、どうです?お世継ぎの件は、もうお決めになりましたか?」

それを聞いた家斉は、

「急かさないで下さいませ、母上。長男だからといって、将軍家が必ずや継げるわけではございませんから。」

そう言うのでお富は、

「何をおっしゃいますか。現に、家光公の時はそうではなかったですか。御家を継ぐのは、昔から長男と定められております。」

と言うので、家斉はこう言った。

「いつまでも、昔に囚われていてはいけませんよ、母上。時代は、常に変わっておるのです。」

「ほぉ~。」

お富は、納得したような表情になった。家斉は立ち上がると、

「では、娘の結納の準備もございますので、わたくしはこれで。」

そう言い、部屋を出て行った。お富はそれを見送ると、

「時代はわかる・・・、か。何とま、公方様らしい。」

そう呟いていたのであった。

浄岸院(それから数日が経ち・・・。)

ある部屋では、出立の儀が執り行われていた。

浄岸院(この年五歳となった鎮は、淑姫ひでひめと名を改め、尾張藩九代藩主・徳川宗睦様の孫に当たる、縁組みしている五郎太様との結納の為、出立しようとしておりました。)

お万は淑姫の両肩を持つと、

「母は、共に参れません。ですが、いつでもここからそなたのことを思い出しております。ちゃんと言うことを聞き、周りの方達の迷惑にならぬよう、振る舞いなされ。」

と言った。それを聞いて淑姫は、

「はい。」

問いって、頷いた。それを見てお万も、安心そうにした。そして別の侍女に連れられて、淑姫は部屋を出て行った。それを追いかけるように、お万は廊下から淑姫を見送っていた。淑姫は、侍女に手を引かれながらも、お万の方を振り返ってみていた。そのやり取りの様子を、部屋から茂姫も見つめていたのだった。

浄岸院(そして、同じ年の六月三日。尾張の徳川家において、淑姫と五郎太様の結納の儀が執り行われました。)

上座には、第九代尾張藩主の徳川とくがわ宗睦むねよしが座っていた。淑姫は一三歳の徳川とくがわ五郎太ごろうたと初めて対面し、互いに目を合わせていた。

茂姫は大奥の縁側に立ち、

「わたくしがこの大奥に上がってから、一二年程が経った。」

そう言うとすぐ後ろに座っていたひさが、

「早うございましたね。」

と返した。茂姫が、

「色々なことがあったの。わたくしも、今年で二一となる。側室に先をこされ、思い悩んだこともあったが、それはもう過去のことじゃ。今は、己にお子が宿ることを願うのみ・・・。」

と言うのを聞いてひさも、

「はい!」

そう答えるので、茂姫も嬉しそうに微笑んでいた。すると女中が走って来て、

「大変にございます!」

そう告げた。

「如何した?」

「お楽様が・・・。」

女中が言うので茂姫は怪訝そうな顔になり、

「え?」

と聞き返していた。

その頃、お楽は家斉の部屋に来ていた。

「公方様!どうか、ご決断を!」

「だから、何度も申しておるであろう。まだ決めるつもりはないと。」

お楽の発言に、家斉もそう返していた。すると、

「何の騒ぎですか?」

と言って、部屋に茂姫が入って来た。お楽は無視して、

「わたくしが生んだ子は、男子おのこにございます。長男であれば、家督を継ぐのは必然。どうか今一度、お願い致します!」

そう言い、家斉に頭を下げた。それを、茂姫も黙って見ていた。

その後、家斉と茂姫は縁側に座って話した。家斉が、

「お楽は、焦っておるのであろう。己の子を次の将軍にすれば、次の代になった後、御台所の次に権力を握ることができる。されどそれは、皆同じじゃ。」

そう言うので茂姫は、

「わたくしも・・・、もし男子を生めば・・・、そう思うやも知れませぬ。」

と、難しそうな顔で言うのだった。それを聞いて家斉は、

「そうかのぉ~。」

そう呟いていた。すると茂姫が、

「それで、どうだったのですか?尊号の件は。」

と、話を変えた。すると家斉は思い出したように、

「あぁ。今度、定信に話してみようかと思う。」

そう言うので茂姫は笑って、

「上様は、家族のことを一番に考えておられるのですね。」

と言うと家斉は少し照れ笑い、

「何を申すか。」

そう言った。二人はその後、暫く笑い合っていていた。

浄岸院(更にこの年の六月二〇日、松平殿は九か月程前に根室に来航したアダム・ラクスマン一行と、アダムによって保護された日本漂流民の大黒屋だいこくや光太夫こうだゆうを松前へ呼び、幕府側と交渉するように指示を下しました。)

アダム・ラクスマン一行は、対面所で松平定信達と対面していた。

浄岸院(そして松平殿は、アダムの要求に対し、ロシアとの貿易は拒否せず、一度長崎にあるロシア商館と交渉するようにと回答を下したのです。)

一方で、江戸城では・・・。

「帰った?」

茂姫が聞くと、家斉はこう言った。

「あぁ。アダム達は長崎へは行かず、ロシアへ帰ったそうじゃ。」

「では、漂流した者たちはどうなったのでございますか?」

茂姫が聞くと、家斉が答えた。

「幕府の指示通り、江戸へ送られるそうじゃ。」

それを聞いた茂姫は安心したように、

「そうですか・・・。」

と言った。家斉は続けて、

「されど、罪はまだ許されておらぬ。よって、これから城内で審議が執り行われるであろう。」

そう言うので茂姫も真剣な表情に戻り、

「はい。」

と言った。家斉は立ち上がり、庭を見つめながらこう言った。

「鎖国しておる以上、異国との共存は困難であろう。」

それを聞き、茂姫は心配そうに家斉を見ていたのであった。

ある日の朝、茂姫は広間で毎朝必ず行われる参拝に出ていた。家斉が手を合わせているすぐ後ろで、茂姫も手を合わせていた。家斉の参拝が終わり、立ち上がって部屋を出て行った。茂姫も立ち上がり、部屋を出て行こうとすると声がかかった。

「お待ち下さい。」

茂姫は振り返り、声の主の方を見た。それは、お富であった。お富は続け、

「御台様は、少しお残りになって下さいますよう。」

そう言うので、茂姫は不思議そうにお富を見つめていた。

その後で、茂姫とお富は部屋に残り、広間にいるのは数人の女中だけとなった。茂姫は、

「あの、どうなさいましたか?」

と聞くとお富は言った。

「お楽にお子ができたことは、知っておろう。」

「はい。」

「そなたは、世継ぎに関してどう思っておるのかと思うてな。」

「どう思う、でございますか?」

「そうじゃ。」

お富に言われ、茂姫は少し考えた。すると、こう言った。

「・・・わたくしにはまだわかりません。子を授かることの喜びも、次の将軍にしたいと思う気持ちも、授かってみなければわからぬと思います。」

「ほぉ・・・。」

その話を聞き、お富は言った。そしてお富は続け、

「ならば、もう一つ聞く。子を産むことは、武家に嫁いだ女子の役目。ならば、何のために生む。」

そう言うので茂姫は、

「何のために・・・?」

と、呟いた。するとお富が、こう言った。

「己の子を世継ぎにするためではない。」

茂姫は、黙ってお富を見つめていた。お富は立ち上がり、

「全ては、将軍家のためです。」

と、言うのだった。お富は続け、

「生まれた子が女子であれば、しかるべき家柄に嫁がせ、男の子ならば養子に差し出す。こうして、御家の均衡を保つのです。さすれば、世は保たれ、徳川家も安泰となります。無理に家督争いが起きれば、世は反乱が起き、乱れるでしょう。」

と言い、振り返って茂姫を見た。お富は、

「そなたも、お楽のように野心が芽生えては、世の中を荒らすこととなる。それを、よう心がけておくのじゃ。」

と言って、部屋を出て行った。部屋の外で、ひさが心配そうに中の様子をうかがっていた。

その頃、家斉は表に定信を呼んでいた。定信が、

「一橋家の御当主、一橋治済様に大御所の尊号を送りたいと?」

と聞くと家斉が、

「あぁ、そうじゃ。」

そう言った。すると定信が、

「恐れながら、帝が典仁すけひと親王に太上天皇の尊号が贈れぬ今、それはできぬかと・・・。」

と言うと家斉が、

「ならば、認めればよいではないか。」

そう言うのだった。しかし定信は、

「いえ。しかしこれは、かつて前例のないことにございます。認めてしまうと、天皇よりも権限を持ってしまう恐れもございます。」

そう言うので、家斉は暫く黙り、こう言った。

「そうか。ならば仕方がない。諦めるとしよう。」

そう言うと、立ち上がって部屋を出て行ってしまった。定信は、申し訳なさそうに頭を下げていた。

「できなかったのですか?」

茂姫は聞くと家斉が、

「あぁ。あの者であれば、認めてくれると思うておったがな。」

と言った。茂姫は、

「理由があるのでしたら、仕方ありませぬ。」

そう言い、家斉を慰めた。家斉は、

「父上は、今頃どうしておるのかのぉ。」

と言うと、茂姫は聞いた。

「文のやり取りなど、しておられぬのですか?」

すると家斉が、こう答えた。

「あぁ。されど母上は、度々文を送っておるようじゃな。」

その言葉を聞き、茂姫は思い出した。

『己の子を世継ぎにするためではない。』

『全ては、将軍家のためです。』

「如何した?」

茂姫の様子を見て、家斉は声をかけた。茂姫は気がつき、

「あ、いえ。何でもございませぬ。」

と言い、俯いていた。それを、家斉も見ていたのだった。

薩摩藩邸では、家斉の父・一橋ひとつばし治済はるなりが重豪の所を訪れていた。重豪が、

「お久しぶりでございます。」

と言うと治済も、

「元気にしておりましたか。」

そう返していた。治済が、

「時に、家斉がわしに大御所の尊号を贈ろうとしていたようでござるな。」

そう言うと重豪は、

「はい。帝の件もあり、やむを得ずそれが叶わなかったとか。」

と言うと治済が、こう言った。

「しかし何故今、あやつがわしに尊号などを贈ろうとしておったのかの。」

それを聞いて重豪も、こう言うのだった。

「それは、治済殿が、お父上であらせられるからでございます。」

すると治済が笑い、

「時に重豪殿は、姫様いや御台様のことを案じておらぬのでござるか?」

と言うので重豪も少し不意をつかれたといったような表情で、

「あ、はぁ。」

そう言っていた。すると治済は続け、

「己と離れ離れの子を案ずるのは、親の性でもあります。しかしそれは子が成長するのを、心の底より願っておるからかもしれませぬな。」

と言うので重豪は笑みを浮かべ、こう言った。

「全く、その通りでございます。」

二人はその後、笑い合っていたのだった。

浄岸院(その一方で、大奥ではある噂が駆け巡っておりました。)

宇多は、廊下を歩いていた。すると、女中同士のこのような会話が聞こえて来た。

「ねぇ、聞いた?」

「何なの?」

その後、何やらひそひそ話している声が聞こえた。

「え~、嘘~。」

「他の老中の方がおっしゃるには、公方様に愛想を尽かされたそうよ。」

宇多は、気になって襖に耳を当て、詳しい話を聞いていた。

茂姫は、部屋で縫い物をしていた。すると、

「御台様!」

と言う宇多の声がするので、茂姫は振り向いた。向こうから、宇多が走って来た。

「如何したのじゃ。」

茂姫は聞くと、宇多は顔を上げるとこう言った。

「先程、大変な噂を耳に致しました。」

「申してみよ。」

茂姫が言うと、宇多は恐る恐る口を開いた。

「松平老中が・・・、役職を解かれたと。」

それを聞き、茂姫は目を丸くした。

「松平殿が、御役御免じゃと?」

「話によれば、数日前、公方様は松平様を部屋に呼び、失脚の意を示した文を読み上げられたと。」

宇多の話を聞いた茂姫は、

「まことかどうか・・・、確かめて参る。」

と言うと立ち上がると、表に向かって歩いて行った。

「御台様!」

そう言い、宇多も後を追って行った。

その後、家斉と茂姫は二人向かい合って話した。

「上様。何故、松平老中のお役を免じたのでございますか。」

それを聞いた家斉は、

「来ると思うておった。」

と言い、茂姫から目をそらした。茂姫は、

「教えて下さいませ、何故ですか?」

そう言うので、家斉は言った。

「わしは、あの時あの者を許したのは間違いだったと思うてな。ここ数年、わしが将軍になった頃からあの者は改革に身を尽くし、世のため人のためを考えておった。されど、それ故にあの一件は残念であった。大奥の女中と体を接するなど、あってはならぬこと故な。」

「それが、理由でございますか・・・。」

茂姫は涙を浮かべながら家斉を見つめると、家斉は立ち上がって背を向けて言った。

「もう十分じゃ。あやつをもう城においておくわけにはいかぬ。」

「何故今になって、そのような!」

茂姫は、叫ぶように言った。茂姫は、

「定信殿は言っておりました。命に代えても、城を守ると。あなた様も、それを望んでいたはずです。まだ、この幕府はあの方の力を借りねばなりません。どうか今一度、お考え直し下さい。」

そう言うと家斉は振り返り、

「そなたは、道具にはなりたくないのであったな。」

そう言うので茂姫は、黙って家斉を見上げた。家斉は座ると、

「あの者から、言って来たのじゃ。城を下がりたいと。」

そう言うので茂姫は、

「ご本人がでございますか?」

と聞くと、家斉はこう言った。

「そなたがそう思っておるならば、そなたであの者を説得するがよい。」

それを聞いた茂姫は、

「・・・わかりました。上様のおっしゃることがまことであれば、わたくしがあの方を説得致します。」

と言い、強気な目をしていた。

その日の夕方、茂姫は自室に定信を呼んだのだった。茂姫は、

「あなたと初めてお会いしたのも、この部屋でしたね。」

そう言うと定信は、

「はっ。」

と返した。それを見た茂姫は優しい顔で、

「どうぞ、気楽になさって下さい。」

と言うので定信は、

「はぁ・・・。」

そう言い、少し姿勢を崩した。そして茂姫は、本題に入った。

「上様から、あなたが自ら老中を辞したいと申されたとお聞きしました。」

「はい。」

「何故、今になってそのような?」

茂姫が聞くと、定信はこう答えた。

「わたくしは、己の役目を全て果たしたと存じます。ただ、それだけにございます。」

すると茂姫は、

「改革は、もうよいのですか?」

と聞くと定信は、

「他の者に、託すことにしました。わたくしは、もう・・・。」

そう言うので、茂姫がこう聞いた。

「大崎のことですか。」

茂姫が言うと、定信は顔を上げて茂姫を見た。茂姫が続けて、こう言った。

「やはり、まだ気にしているのですね。」

「いえ、わたくしは・・・。」

「よいのです。されどわたくしは、残念にございます。あなたならば、これから先も政を任せられる、上様とてそう思っておいでであったはずなのに。」

「御台様・・・。」

定信はそう言い、茂姫を見ていた。すると茂姫は、

「今一度、考え直すことはできぬのですか?幕府は、あなたが必要なのです。今までのご活躍もあり、松平定信という人物がこの国には必要なのです!」

そう言った。定信が、

「わたくしが、必要・・・?」

と、呟いた。その後で定信は我に返り、

「されど、あのようなことをしては、とてもこの国を任されるような者にはなれませぬ。わたくしは、今の己を許すことはできませぬ。どうか、お許し下さいませ。」

と、言うのだった。茂姫は定信を見つめ、

「気持ちは、変わらないのですね?」

と問うた。それを聞いて定信も、答えた。

「はい。されど・・・。」

「されど?」

「一つ心残りがあるとすれば、公方様です。」

「上様?」

茂姫が聞くと、定信は言った。

「わたくしは、将軍補佐としてしかと公方様をお支えすることができたのでしょうか。」

それを聞いた茂姫は定信を見つめて、

「大丈夫です。あなたは、ちゃんとお役目を果たしましたよ。」

そう微笑んで言うので定信も、

「御台様・・・。」

と言い、茂姫を見つめていた。茂姫は、続けてこう言った。

「最後にわたくしからもひとつ、約束して下さい。」

「約束、ですか?」

「はい。いつか、必ず自分自身を許すと。確かに、あなたのやったことは城に仕える者として許されぬ罪です。されど、いつまでも過去にとらわれていては前に進めませぬ。いつの日か己を許し、またこの城に戻って来て下さい。いいですね?」

それを聞いた定信は嬉しそうに、

「はい!」

と、言った。そして茂姫は最後に、

「後のことは、任せて下さい。上様は・・・、あとはわたくしが守ります。」

そう言った。それを聞いた定信も、

「はい!」

と返事をした。茂姫も、定信を見つめながら笑っていたのであった。

浄岸院(寛政五年(一七九三年)七月二三日。正式に、松平殿に対して公方様より辞職の沙汰が下ったのでございます。)

表で、家斉が書状を読み上げていた。定信は伏してそれを聞き入れていた。しかし、定信は晴着を着て悔いはないと言った表情をしていたのだった。

浄岸院(その話は、瞬く間に全国の藩に知れ渡り、ここでも・・・。)

薩摩藩邸にも、その知らせは届いていた。

「松平老中が、辞職?」

斉宣が驚いた顔で聞いた。すると重豪が、

「あぁ。老中自らが公方様に願い出たそうじゃ。まことに、最後まで己の信念を貫いたと、幕府の方々は賞賛しておるようじゃ。」

と言うのを聞いて斉宣も少し俯き、

「そうですか・・・。」

そう言っていた。重豪がそれを見て、

「どうしたのじゃ。」

と聞くと斉宣が、

「いえ。ただ、己の信念を突き通せるのが羨ましゅうございます。わたくしは、すぐに人の意見に賛成してしまいますので。」

そう言うので重豪は、

「何を申すか。そなたもたまに、己の意見を申すではないか。」

と言うので斉宣は笑って、

「はい。」

そう言って頷き、赤くなっていた。それを、重豪も笑いながら見ていたのであった。

夜。茂姫は寝間で家斉と話していた。家斉が、

「お楽の子は、どのような子なのじゃ?」

そう言うと茂姫が、

「はい。よく泣いて、よく笑う子にございます。」

と言うのを聞いて家斉は笑うと、こう言った。

「そなたも、早う生みたいであろうな。」

それを聞いた茂姫が、急に笑い出した。

「何じゃ。」

家斉が言うと茂姫は、

「いえ。」

と言い、笑うのを止めてこう言った。

「はい。わたくしも、そろそろ生みとうございます。」

そして一瞬沈黙になると、二人は顔を合わせて吹き出した。それから暫く、二人は笑い合っていた。

浄岸院(寛政五年も、暮れが迫った頃・・・。)

ある日、朝のの参拝の後、茂姫は部屋を出て行こうとした。すると、部屋の外で女子が背を向けて踞っているのが目に入った。それを見て茂姫はその女子に近付き、声をかけた。

「如何したのじゃ?」

するとそのうめという名の女子は振り向き、茂姫を見て立ち上がると、何も言わずに口を押さえて走り去ってしまった。茂姫は、ただそれを心配そうに見送っていたのだった。



次回予告

茂姫「弱っている女子を、上様は見殺しになさるのですか!?」

家斉「ならば、どうせよと申す。」

お梅「わたくしは、恐うございます。」

重豪「運が巡って来たようじゃ。」

茂姫「何か隠しておいでなのでは?」

宇多「御台様は、お優しいお方です。」

斉宣「お願い致します!」

茂姫「あなたは・・・、運命が招いたのかもしれませんね。」

お富「世継ぎ世継ぎと、騒がしい。」

茂姫「どうか言ってあげて下さいませ。」

斉宣「あなたを・・・、守ります。」




次回 第十四回「愛しき人」 どうぞ、ご期待下さい!

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