第十一回 定信と大崎
一七九一(寛政三)年。茂姫は、部屋で話を聞いていた。
「それは、まことなのか?」
茂姫が尋ねると宇多が、
「はい。松平様が、大崎様の手を。」
と話した。
『あなた様とわたくしは、いるべきところが異なるのです。では。』
大崎が行こうとすると、定信が大崎の腕を掴んだ。
『わたくしは構いませぬ。』
茂姫はその話を聞くと、黙って考えているように前を見つめていた。
第十一回 定信と大崎
大崎は、薄暗い部屋で座っていた。すると襖が開く音がしたので、大崎は顔を上げてその方を見た。すると、部屋に茂姫が入って来た。それを見た大崎が、
「御台様・・・!」
そう言い、手をついて頭を下げた。茂姫が大崎の前に座り、
「そなた、度々松平老中と逢うておるというのは、まことか?」
と聞くと大崎は頭を下げたまま、
「決してそのようなことは。」
そう言うので茂姫は、話を続けた。
「そなたと松平殿が一緒におるところ見たと申す者が、多数おる。まことのことを、話してはくれぬか?」
すると大崎はゆっくりと顔を上げ、こう言った。
「初めは、そのようなつもりはございませんでした。わたくしとあの方は、日替わりで公方様のご様子を伺うことが多ございました。そしてある日、松平老中がわたくしの部屋に来てこう仰ったのです。」
『表のわたくしと、大奥のあなたで、この江戸城を守って参りましょう。』
大崎はそれを聞いて、
『それは・・・。』
そう言って戸惑っていると、定信は大崎の手を取ってこう言った。
『お頼み申します。あなたでないとならぬのです。』
『はい・・・。』
大崎がそう答えると安心したように定信が、
『それともう一つ、願いがございます。』
と言うので、大崎は聞いた。
『何でしょう?』
すると定信が、
『もし私の改革が、成功すれば・・・、私の、妻になって頂きたいのです。』
そう言うので、大崎が思いも寄らぬ顔をしていた。
話し終えると大崎が手をついてもう一度頭を深く下げると、
「申し訳ございません!!」
そう言っていると、茂姫は大崎の肩を持つと、
「顔を上げてはくれまいか?」
と言うので、恐る恐る大崎は顔を上げた。すると茂姫は、
「この城に仕える者にとって、不義はあってはならぬこと。城に上がって長いそなたであれば、十分にわかっておるであろう。」
と言うので、大崎はこう言った。
「はい。わたくしは、どのような処分もお受け致します。」
茂姫は、
「覚悟は・・・、できておると?」
と言うので大崎が頷くので、茂姫も黙って大崎のことを暫く見つめていたのであった。
その後、家斉と茂姫は話をしていた。茂姫の話を聞いた家斉は、
「定信と大崎がのぉ~。」
と言っていると、茂姫はこう言った。
「わたくしは、やはり二人を許すことが出来ません。」
すると家斉は、
「わしはのぉ、御台。」
そう言うので茂姫は、
「はい?」
と聞いた。すると家斉は続けて、
「わしは定信が不義を行うなど、到底考えがたいのじゃ。何か、わけがあるのではないであろうか。」
そう言うので茂姫が、
「わけでございますか?」
と聞くと家斉は立ち上がり、縁側の前に立つとこう言った。
「わしは、如何なる時も、あの者が人のために尽くせる男じゃと信じておる。それ故、今回のことが信じられんのじゃ。」
家斉は振り返って茂姫をみると、
「そなたは、どう思う。」
そう聞くので茂姫は少し考えた後、こう言った。
「わたくしも、考えは上様と同じでございます。」
すると家斉は笑い、再び茂姫の傍らに座った。すると茂姫は、
「上様、どうかあの二人から詳しい話をお聞き下さい。そして、どうか適切な御沙汰を。」
と言うので、家斉はこう言った。
「もうそなたは、聞いておるのであろう。」
すると茂姫は、こう言った。
「あの者は、本気にございます!どのような沙汰であっても、お受けすると。」
それを聞き、家斉は表情を変えなかったが、茂姫と目を合わさずに深く考え込んでいたようであった。
その話は、江戸・薩摩藩邸にももたらされた。
「松平様が?」
斉宣が聞くと重豪が、
「あぁ。何とも、残念な知らせじゃ。」
そう言うので斉宣は、こう言った。
「わたくしは・・・、それは何かの間違いではないかと存じます。」
それを聞いた重豪が、
「わしとて、そう思いたいが、幕府の老中ともあろう御方が、大奥の女性と契りを交わすなど、断じてあってはならぬこと。間もなく公方様より、相当の御沙汰が下るであろう。」
と言うのを聞いた斉宣が、
「そんな・・・。でもわたくしは、あの御方に限ってそのようなことは・・・。」
と言いかけると重豪は、
「しかしそなた、松平老中が蘭学を禁止されたことに不満だったのではあるまいか?」
そう言うので斉宣は、こう答えた。
「それはそうですが・・・。でもわたくしは、そのようなことはないと思うのです!」
と言うのを聞き、重豪も前を見つめて、
「そうじゃのぉ・・・。」
と、呟いていたのであった。
その頃、大奥では広間で女中達が朝食を取っていた。食べている宇多を見ていたお楽は、立ち上がり、宇多の前に座った。お楽は宇多に、
「大奥にはお慣れ遊ばしまたか?」
そう問いかけると宇多も、
「はい・・・。」
と、答えた。するとお楽は、
「公方様の側室として重要なことはやはり、子を儲けることです。次のお世継ぎを生むことができれば、この大奥に名を残すことと値します。」
そう言うのを聞いて宇多は箸を置き、一歩下がって手を膝に置くと、
「心得ております。」
と答えた。するとお楽が、こう言うのだった。
「されど・・・、芸子からの成り上がり娘が、公方様の側室など務まるでしょうか。」
それを聞いた宇多は、目を丸くした。周りの女性も話すのをやめ、二人を見ていた。宇多は、
「どういうことでございましょう・・・?」
そう尋ねるとお楽が、こう言った。
「所詮、踊りしかできぬおなごが、公方様の側室であるということが、今一腑に落ちませぬ。」
「それは、あなた様がそう思われているだけなのでは?」
「わたくしだけ?」
お楽は笑い、続けた。
「そうかもしれませぬな。しかし公方様に近付くため、御台所に付き、無理矢理認めさせたのも、芸妓ならではの業かと。その綺麗な着物も、御台所からのお下がりであろう。」
「御台様を、呼び捨てに・・・。」
「ならば何じゃと申すか。」
お楽はいつものように笑うと、台に置いてあった煮物を宇多の着物にかけた。すると、それを見ていた女性がざわついた。お楽が立って自分の席に行こうとすると、
「お待ち下さい。」
そう宇多に呼び止められ、振り向いた。宇多は、湯飲みを持って立ち上がった。お楽は怪訝そうな顔で、宇多を見つめた。次の瞬間、宇多によってお楽の顔に茶がかけられた。周りは、騒然となった。お楽は驚いたような表情で、
「な・・・、何をするのじゃ・・・!」
と言って、宇多に掴みかかった。宇多も必死に抵抗し、叫んだ。
「お返ししただけにございます!」
「何じゃと!?この腐り娘が!」
周りにいた女中達も、やめさせようと両者の着物の裾や腕を掴んでいた。
その後、宇多は茂姫に呼ばれた。
「何故、そのようなことを。」
茂姫が言うと宇多は俯きながら、
「申し訳ございません。」
そう言うので茂姫は、
「お楽が何を言ったかは存ぜぬが、目上の者に茶をかけるなど。」
と言うと宇多は手をつき、
「申し訳ございません!!」
とだけ言うのだった。茂姫は立ち上がって宇多の前に座ると、こう言った。
「此度は、わたくしから取り計らっておく。これからは、もうあのようなことはなきように。」
それを聞いて宇多は顔を上げると、
「ありがとうございます!」
そう言い、また頭を下げていた。茂姫も、それを微笑みながら見ていた。
その後、表には松平定信が家斉に呼ばれていた。定信が、
「此度の一件、わたくしの軽率な行動により公方様や、下々の者にご迷惑をおかけ致しましたこと、誠に深くお詫び申し上げ奉ります。」
そう言って頭を下げると、家斉は定信にこう尋ねた。
「そなたは、これからどうしたい。」
すると定信は少し考え、こう言った。
「誠に僭越ながら、申し上げます。わたくしは、このまま御役を引き継ぎとう存じます。」
「それは何故じゃ?」
また家斉が聞くと定信は続けて、
「わたくしの目的は、この国を立て直すことにございます。この国は今、異国の力を借りねばならぬほど、遅れております。このままでは、他の国に侵略されてもおかしくはございません。それ故、これからの政策が肝心なのでございます。なのでわたくしに、わたくしにもう一度、もう一度任せて頂きたいのでございます!お願い申し上げます!!」
と言い、頭を深く下げた。家斉は、こう聞いた。
「定信。そなたにとって、徳川家とは何じゃ?」
それを聞いて定信は顔を上げ、不思議そうな目で家斉を見ると、
「徳川家に・・・、ございますか?」
そう聞き返すと、家斉はこう言った。
「そなたにとっての徳川とは、どのような存在なのじゃ。」
すると定信は暫く考えると、こう言うのだった。
「わたくしの、全てを捧げてもよい存在であると思います。」
「そなたの、全てをのぉ・・・。」
定部は、続けていった。
「わたくしは、この徳川家のために尽くしております!それだけは、嘘偽りございませぬ。徳川をも守れぬ者が、国を守ることなどできますまい。」
「ほぅ。ならば定信、頼みたいことがある。」
家斉が言うので定信は、
「何なりと。」
と言うと、家斉はこう言った。
「そなた・・・、御台と会え。」
「はっ。・・・、え?」
定信は不思議そうに、何故だか微笑んでいる家斉を見つめていた。
その後、定信は茂姫の部屋にいた。茂姫が部屋に入ってくると、定信は頭を下げた。茂姫は上座につき、
「松平殿・・・、面を上げられよ。」
と言うと定信は顔を上げ、
「此度は、誠に申し訳ございません。」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「たった今、公方様より大崎の処分が下りました。」
それを聞いた定信は、
「それは、何と・・・?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「島流しです。」
それを聞いた定信は驚いたと思ったら、泣き崩れた。
「誠に、誠に・・・、申し訳ございませぬ・・・。あなた様の、大奥の大切な御方を・・・。」
と言うと茂姫は立ち上がり、定信の前に座った。
「あなただけのせいではありませんよ。あの者の動きに気付かなかったわたくしの責任です。どうか、そのことをわかって欲しくてお呼びしました。」
定信は顔を上げると、茂姫を見た。
「御台様・・・。」
茂姫も、
「これから、上様にわたくしから御処分を取り消して下さるよう、お願いしようと思います。わたくしも、あの者がただ軽い気持ちでやったとは思えぬのです。」
そう言うと姿勢を正して定信は手をつき、
「代わりに・・・、代わりに、わたくしがその処分をお受け致します。」
それを聞いた茂姫は笑顔で、こう言った。
「いいえ。あなたには、まだやらねばならぬことがいくつも残されております。それを終えるまで、あなたはここにいなければなりません。」
「御台様・・・。」
「あなたは・・・、この徳川家の要なのですから。」
「要・・・。」
「はい。あなたがいなければ、幕府はこの先も衰えていくばかりです。それを立て直せるのは、松平老中だけなのですから。」
茂姫の言葉に、定信は涙を浮かべながら笑っていた。茂姫も、それを頷いて見つめていたのだった。
一方、薩摩藩邸では重豪と斉宣が話していた。
「老中との不貞、やはり真なのですか?」
斉宣が聞くと重豪が、
「どうやらそのようじゃな。松平殿と初めにあった時は、将来この国を率いていく御方じゃと思うておったが、どうやらわしの計算違いだったようじゃ。」
そう言っていると、斉宣が考え込んだような表情をしていた。二人は暫く黙り込んでいると、斉宣は何か思いついたように、このようなことを言い出した。
「父上、お城へ出向いてみては如何でしょうか?」
「城じゃと?」
重豪は、怪訝そうな顔で斉宣を見つめていた。
江戸城では、茂姫は家斉と会った。茂姫は家斉に、
「上様、お願いがございます。」
と言うと家斉は、
「何じゃ。」
と、返した。すると茂姫は続けて、
「大崎のことにございますが・・・。」
そう言いかけると家斉は、それを遮るようにこう言った。
「もう決まったことじゃ。今更そなたが何を言おうと、変えられぬ。」
「そんな・・・。」
茂姫は肩を落としたようにそう言うと、
「ならば上様。同じ不義を行った、松平老中はどうなるのでございましょうか。」
と言った。すると家斉は茂姫の方を初めて見ると、こう言うのだった。
「わしは、あやつを信じておる。あの者は、故意でそのようなことをするはずがない。そなたも、会って確かめたであろう。乗せられただけじゃ。」
「乗せられた?」
「定信は、あの者にしつこく付け回され、仕方なく心を許したのであろう。」
家斉がそのようなことを言い出すので茂姫は、
「そのような・・・、それは上様の偏見にございます。」
と言うので家斉は、
「ならば、証拠があるのか?」
そう言うので茂姫は、
「証拠・・・。」
と言って、言葉を詰まらせた。そして茂姫は思い出したように、
「お宇多の話に寄れば、大崎の腕を掴んでいたのは松平様であったと。」
そう言った。家斉は、
「では、お宇多が嘘を吐いているとしたら?」
と言うので茂姫はまたもや言葉を詰まらせ、
「それは・・・。」
そう呟いた。
「女子の証言など、所詮そのようなものじゃ。」
家斉が言うのを、茂姫も見つめていたのだった。
その後、大奥では茂姫と宇多が部屋で話をしていた。茂姫の話を聞いた宇多は、
「上様は、松平様をそこまで信用されておいでなのですか?」
と聞くと茂姫は、
「女子の話は、所詮飾りに過ぎぬと、そう思われておいでのようじゃ。」
そう冷静にいったが、少し悔しそうにも見えた。すると宇多が、こう言った。
「あと残る問題は、町人などですね。」
「町人じゃと?」
茂姫が聞くと宇多が、
「はい。松平様の信用が下がれば、この国は荒れてしまいます。そうなれば、各地で反乱も起きかねませぬ故。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうじゃな・・・。」
と、呟いていた。すると、
「失礼仕ります。」
と言いながら常磐が来て座ると、こう言った。
「御台様に、お客様がお見えにございます。」
「客じゃと・・・?」
茂姫は、怪訝そうに常磐を見つめた。
茂姫は部屋に入ると、目を見開いた。そこにいたのは、父の重豪だったからだ。重豪は茂姫が入ってくるのを見計らって、頭を下げた。しかし茂姫は、
「父上・・・?」
と言って父に駆け寄り、父の目の前に座ると、
「父上ではありませんか!」
そう嬉しそうにいうのだった。重毫も茂姫を見て、
「元気そうで何よりじゃ。」
と、微笑んだ。茂姫も、嬉しそうに重豪を見ていた。
その後、二人は部屋で向き合っていた。
「そうですか・・・、薩摩に・・・。」
「あぁ。そなたは、上様とは仲良うやっておるか?」
「あ・・・、はい・・・。」
茂姫の反応を見て重豪は、
「どうした?」
と尋ねると、茂姫は話した。茂姫の話を聞いた重豪は、
「そうであったか。わしも、その話は聞いておったが。」
そう言うので茂姫も少し驚いた表情で、
「まことにございますか?」
と聞くと重豪も頷き、こう言った。
「しかし松平殿の信用が落ちぬか、皆案じておってな。わしも公方様のお考えを伺いたく、参ったのじゃ。しかし、目通りは叶わなかった。わしは一度、政から身を引いた故な。」
茂姫はその話を聞き、
「そうですか・・・。」
と言っていると、重豪の顔を上げてこう言った。
「父上。何とか、やめさせる手立てはないのでしょうか?」
それを聞いて重豪は、
「公方様のお心が変わらぬ以上、どうすることもできぬであろう。」
そう言うのを聞き、茂姫は悔しそうにまた俯いた。すると重豪が、
「されど・・・。」
と言うと、茂姫は再び顔を上げて重豪を見た。重豪は、微笑んでいる。すると続けて、
「そのお心を変えられるのは、そなただけかも知れぬ。」
そう言うので茂姫は、
「わたくしが・・・?」
と呟いた。重豪は続けて、
「わしは、そう思うておる。そなたであれば、必ずや、公方様を説得できると。手立てを見つけられるのも、そなたにしかできぬとわしは信じておる。」
と言った。茂姫は目に涙を浮かべながら、
「父上・・・。」
そう呟いた。重豪は、
「わしはもう、ここへは来ぬ。じゃがそなたは、恵まれておる。周りに仕える者、そして、そなたを理解してくれる御方もな。」
そう言うと重豪は立ち上がり、縁側に出て庭を見つめながらこう言った。
「わしはそなたの父であることを、誇りに思う。」
重豪は振り返って茂姫を見つめると、
「立派な、姫になった。」
そう言うのを聞いた茂姫は、嬉しそうに顔を赤らめた。暫く二人は、互いに黙って見つめ合っていた。
夕日が差し込む縁側に、茂姫は座っていた。後ろにいたひさが、
「大崎様、いかがなさるおつもりでしょう。」
と言うと茂姫は、
「このままでは、島流しじゃ。父は、わたくしにしか上様のお心を変えられぬと申されたが、上様は女子の言うことを全く信じようとなさらぬ。一体、どうすればよいのか・・・。」
そう呟いていると、ひさがこう言うのだった。
「公方様は、噂によると、松平様をご自身よりも信用されておいでのご様子。」
それを聞いて茂姫は、
「ご自分より・・・、か。」
と呟いた。そのすぐ後で、何か閃いたように立ち上がった。
「そうじゃ、その手があった!」
茂姫は笑って振り返り、ひさを見つめた。ひさも、まじまじと茂姫を見つめ返していた。
その後、定信はまた家斉にまた会った。そう、茂姫によって会わされたのだ。
「正直に話して下さい。」
茂姫は言った。すると定信は、
「はい。」
と答え、話し始めた。
三年ほど前のある日、大崎は定信の部屋に来ていた。
『この度は、お力添い頂き、誠にありがとう存じます。』
大崎が言うと定信は、
『いえ、力になれて何よりです。』
そう言うと大崎は、
『ではわたくしはこれで。』
と言って立ち上がろうとすると、定信は大崎の手首を掴んだ。大崎は、驚いて定信を見つめた。すると定信は、こう言った。
『わたくしは、以前よりあなたのことが気になっておりました。』
『えっ・・・。』
『初めてお会いした時から、あなたをお慕いしておりました。』
大崎は首を横に振り、
『お待ち下さい。そのようなこと、あってはなりませぬ。だってあなた様は・・・。』
そう言いかけると定信は、不意に大崎を抱き寄せた。大崎は驚いていると定信が、
『誓って下さい。このことは、誰にも話さぬと。』
そう言うので、大崎は頷いたのであった。
定信は話し終えると、前にいる家斉にこう言った。
「全ては、わたくしがしたことにございます。なので、大崎殿の島流しは取りやめにして下さいませ!お願い申し上げます!その代わり、わたくしがどのような沙汰でもお受けする覚悟にございます!」
言い終えると、定信は頭を下げた。
「まことか・・・。」
家斉は、問いただすように言った。定信は顔を上げ、
「はい。」
と、答えた。家斉は、
「御台にそう言えと言われたのではないか?」
そう言うと、家斉の横から声がかかった。
「上様!」
家斉は振り向くと茂姫が、
「わたくしがそのようなことをするとお思いですか?」
と言うのだった。家斉は再び定信の方に目を戻すと、こう言った。
「・・・、わかった。許す。」
それを聞き、定信と茂姫の顔が一気に明るくなった。定信は、
「ありがとうございます!」
と言い、深々と頭を下げた。家斉も、それを見て笑っていた。茂姫も、
「上様。」
と声をかけ、家斉が振り向くと、
「ありがとう存じます。」
そう言い、頭を下げた。家斉も、嬉しそうな表情になっていた。
その後、大崎は茂姫の部屋に呼ばれた。話を聞き、大崎は驚いたように、
「それは・・・、まことにございますか?」
と言うと茂姫は、
「あぁ。松平殿が、上様に全てを話して下さったのじゃ。上様は、そなたはこの城に残れと。」
そう言った。大崎は、
「ありがとうございます!!」
と、頭を深く下げていた。それを、茂姫は笑って見ていた。
浄岸院(その知らせは、直ぐさま薩摩藩邸にももたらされたのでございました。)
重豪が文を読み終えると顔を上げ、
「大奥の大崎殿が、許されたそうじゃ。」
そう言うと前にいた斉宣が、
「まことにございますか?」
と言うと重豪が嬉しそうに文をたたみ、こう言った。
「きっと、於篤が上手くやってくれたのであろうな。」
それを聞いて斉宣が、
「姉上が?」
と聞くと重豪は、
「公方様を、どうにかして説得してくれたのじゃ。もうあやつは、誰の手も借りずにどのようなことでもする。わしは、そう思うのじゃ。」
そう、誇らしげに言った。それを聞いて斉宣も、
「はぁ・・・。」
と言って、父の重豪を見つめていた。
その夜、宇多が大奥の見回りをしていた。すると、向こうで誰かの影が見えたような気がした。宇多は気になって、近付いていった。その影は、ある部屋へと入っていった。宇多は閉まっている襖の前に行燈を置き、そっと襖を開けて中を覗いた。宇多は目を凝らして見ると、それは女性で、その女性の手には何やら光るものを持っていた。宇多はよく見てみると、それは短刀だった。宇多はそれに驚き、思わず物音を立ててしまったのだ。その女性は、ゆっくりと振り返った。宇多はそれを見て、言葉を失った。
「大崎様・・・。」
行燈の日に照らされたのは、大崎であった。大崎は、短刀を自分の首に当てていた。宇多は、
「何をされておいでなのですか?」
と聞くと、大崎はこう答えた。
「わたくしは・・・、己を許せぬのじゃ。」
「だからって・・・、何故そのようなことを。」
宇多は尋ねると大崎は、
「わたくしはこの先生きていても、周りからは疎まれ、幕府からは避けられるようになるであろう。そのような中で、生きていきとうはない。許せ・・・。」
と言って、己の首を切ろうとした。すると宇多は、大崎の所へ飛んできて刀を持っている手を掴んだ。
「おやめ下さい!」
「放せ!」
「何も、死ぬことはありませぬ!!」
宇多は、必死に大崎の手を押さえ付けた。宇多は、
「誰かお呼びしなくては。あぁ、でもそうしている間にも・・・。一体どうすれば・・・。」
と、独り言のように言い始めた。暫くそうしていると、
「何をしておる!」
と言う、声がかかった。二人は、襖の所に目をやった。そこには、茂姫が立っていた。茂姫は、少し悲しそうに大崎を見つめていた。それを見て大崎は、
「御台様・・・。」
と言うと、茂姫はこう聞いた。
「そなた・・・、それで何をしようとしていたのじゃ。」
大崎は、頭を下げながらこう答えるのだった。
「お許し下さい。されど、わたくしはもうここにはおられぬのです。」
大崎は顔を上げ、
「どうか、お願い申し上げます。わたくしに、自害させて下さいませ!」
と言うと、茂姫は泣きながら大崎の所へ走ってくると、大崎の頬を一発叩いた。そして茂姫は、
「上様のお気持ちを・・・、無碍にする出ない!!」
そう言うので、大崎は茂姫を見た。すると大崎の目に涙が溢れ、
「御台様・・・、申し訳ございませぬ・・・。」
と言い、頭を畳に額がつくほど深く下げた。茂姫は大崎の肩を持って、
「そなたは、大奥の要じゃ。そなたはこれからも、この大奥を支えていかなければならぬのじゃ。」
そう言うと大崎はまた顔を上げると、
「・・・、はい。」
と言って、茂姫を見つめていた。茂姫も、微笑みながら大崎を見ていた。その様子を、後ろから宇多も安心した表情で見ていたのであった。
ある夜、茂姫は家斉にその日にあったことを話した。
「そうであったか・・・。」
家斉が無表情で言うと茂姫も、
「はい。あの者も、深く反省しているようでした。」
と言った。すると家斉は茂姫を見て、
「そなたは、わしが他の女子にあっておればどうする。」
そう聞くので茂姫は落ち着いて、
「それは・・・、側室達のことですか・」
と聞き返すと家斉は、こう言った。
「そうであっても、そうでなくとも・・・。」
すると茂姫は微笑みながら、こう言うのであった。
「それは・・・、上様のご想像にお任せ致します。」
それを聞いて家斉も笑い、
「そなたらしいのぉ・・・。」
と言うので、茂姫も笑いながら家斉を見つめていた。
翌日、茂姫は目を覚ました。暫く横になったまま、隣で眠っている家斉を見つめていた。すると遠くから、
「大変にございます!」
と言う、大奥女中の声がした。茂姫は起き上がると、その女中が寝室に入ってきて茂姫の前に手をつくと、
「大崎様のお姿が、見当たりませぬ!」
そう言うので茂姫は、
「えっ?」
と言い、急いでその女中に連れられ部屋を出て行った。その様子を、寝ていたはずの家斉が、布団に横になりながら振り返って見ていた。
その後、着物に着替えて髪を結った茂姫が城を駆け巡って、
「大崎、大崎!」
と、叫んでいた。大崎の部屋に行くと、荷物がなくなっていた。茂姫は、その部屋の前に呆然と立ちすくんでいた。
次回予告
茂姫「大崎は、どこへ向かったのじゃ。」
宇多「江戸の御実家にて、身を寄せているそうです。」
家斉「会いに行かぬのか?」
茂姫「わたくしが・・・?」
大崎「わたくしは、定信様をお慕いしておりました。」
斉宣「何か訳があるのでは?」
重豪「訳か、・・・。」
大崎「わたくしは、愚か者です・・・。」
定信「愚かであったのは、わたくしの方にございます。」
家斉「弱虫は、そなたじゃな。」
茂姫「大崎・・・。」
お蝶「徳川様は然り。」
茂姫「信じておるからこそ、裏切れぬのじゃな。」
次回 第十二回「大崎の秘密」 どうぞ、ご期待下さい!