第九回 弟の登城
宇多「わたくしの考えは、御台様とは少し違います。」
茂姫「言うてみよ。」
宇多「わたくしは、大切な人の為なら人をも殺す覚悟でおります!」
茂姫「どうか・・・、あの者を、側室にはしないで下さいませ!!」
家斉「何故じゃ?」
茂姫「あの者は、上様の側室には相応しゅうないと思うた次第にございます。」
宇多「ただ・・・、公方様にお仕えしたいというのはまことにございます。」
茂姫は、縁側に座って空を眺めていた。すると後ろからひさが心配そうに、
「御台様?どうなさいました?」
と聞くと茂姫は我に返り、
「あぁ、ちと父上のことを思い出しておった。」
そう言うとひさが、
「お父上様ですか?」
と聞くと、茂姫はこう答えた。
「あぁ。父は以前、ここが女の戦場だと言うておられた。」
すると茂姫はまた上を見上げて、
「父上が言っておられたことは、間違いではなかった・・・。」
そう言うと茂姫は思い出したように、
「ただ・・・。」
と言うのでひさは、
「ただ?」
そう聞くと、茂姫はあの時のことを思い出した。宇多が言った言葉だ。
『わたくしが誰かを愛せば・・・、きっと誰かが傷付きます。』
茂姫は、
「あれは、一体何だったのであろう・・・?」
そう言い、首を傾げて暫く難しそうな表情をしていた。
第九回 弟の登城
一七九〇(寛政二)年。茂姫は、家斉に酒を注いでいた。家斉は、憂鬱そうな顔をして酒を飲み干していた。それを見た茂姫は、
「上様、どうされました?」
と聞くと家斉は、
「あ、いや。」
そう言い、また茂姫に杯を差し出した。茂姫はそれに酒を注ぐと、家斉は杯を手前に引き、飲む前にこう話した。
「ちと、定信のことで気になることがあっての。」
「気になること?」
茂姫は聞くと、家斉はこう言うのだった。
「あやつは、煎餅と饅頭なら、どちらが好きかと思うてな。」
「はい?」
茂姫は、思わず聞き返した。家斉は、
「そなたは、どちらじゃと思う?」
そう聞くので茂姫は呆れたように、
「知りませぬ。」
と、言っていた。すると茂姫は思い出したように、
「そう言えば・・・、このお城に上がる前、江戸の薩摩藩邸に行った時、弟とよく饅頭を食べておりました。」
と言うのを聞いた家斉は、
「そなた、弟がおったのか?」
そう聞くと、茂姫は答えた。
「はい。ご存知なかったのですか?」
すると家斉は、
「いや。ところで、母親は違うのか?」
と聞くと茂姫は、
「あ、はい。」
そう答えると、今度は家斉に質問した。
「それより、上様にも兄弟はおられるのですか?」
それを聞いて家斉は、
「あぁ。わしの知っておる兄弟は、弟が二人おる。」
そう言うの茂姫が、
「二人?」
と聞くと、家斉は話し始めた。
「一人は、治国という名じゃ。」
「治国様・・・。」
茂姫は、そう繰り返した。家斉は続けて、
「そいつは母が同じでな、わしが将軍家を継いだと同じ年、近衛府中将を叙された。もう一人は、斉隆という。六歳の時に、筑前の黒田家に養子に入った。」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「そうですか。お二方とも、お会いしてみとうございます。」
そう言うので、家斉はこう言った。
「そなたは、また好奇心旺盛じゃな。」
それを聞いた茂姫は、
「だって、上様のご兄弟ともあらば、わたくしの兄弟でもございます故。」
と言うのを聞き、家斉は笑いながらこう言っていた。
「そのうちな。」
それを聞いて茂姫も笑顔で、
「はい!」
と、言いながら家斉を見ていたのだった。
ある日、江戸の薩摩藩邸では斉宣が父の重豪に呼ばれていた。斉宣が部屋に入り、重豪の前に座るとこう言った。
「父上、お呼びにございましょうか。」
すると重豪は、こう言った。
「於篤から、文が参った。」
それを聞いて斉宣は顔を上げると、
「では、また母上に?」
そう言って聞くと重豪は、首を横に振るのだった。すると重豪は、
「此度は、そなたにじゃ。」
と言うので斉宣は驚いたように重豪を見つめると、
「え・・・。」
と、思わず呟いた。重豪は文らしきものを斉宣の前に置くと、こう言った。
「これには、そなたに会いたいと書かれておった。」
「えっ?」
斉宣は、思わず聞き返した。すると重豪は続けて、
「そなたはこの前、幕府の林殿に会って抗議したいと話しておったの。そのことについては、わしが今、あちらに掛け合っておる。もう暫くすれば、お達しがあるであろう。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「宜しくお願い致します!」
と言い、頭を下げた。すると重豪は、
「そのついでと言っては何だが・・・、於篤に会わぬか?」
そう言うので斉宣は顔を上げ、
「姉上に・・・!?」
と聞くと重豪は頷き、
「あぁ。あやつも喜ぶであろう。」
そう言った。それを聞いて斉宣は、
「わたくしが・・・、姉上に・・・?」
と、少し俯きながら呟いていたのであった。
その頃、旗本・水野家では水野忠直が書状のようなものを読んでいた。そこへ、
「失礼仕ります。」
と言う声がかかり、一人の娘が盆を持って部屋に入ってきた。忠直が、
「おぉ、宇多か。」
そう言うと宇多は茶を置き、忠直にこう尋ねた。
「あの。」
「何じゃ?」
「老中の松平様が、異学を禁じられたというのはまことにございましょうか。」
「何故、そのようなことを聞く。」
忠直は聞き返すと、宇多はこう言った。
「公方様が、異国についてお好きそうでしたから。」
宇多はそう言って立ち上がると、部屋を出て行こうとした。すると忠直がそれを呼び止め、
「待て。お前、公方様と話をしたのか?」
そう言って聞くと宇多は振り向き、
「少し、お話をしただけにございます。」
と言うとまた向きを変え、部屋を出て行ってしまった。
一方、幕府では松平定信と林錦峯が話をしていた。定信が、
「薩摩藩主の島津斉宣殿が、林殿に会いたいと。」
そう言って伝えると林が、
「わたくしに?」
と聞くと、定信は答えた。
「わたくしが異学を禁じたことに対し、林殿にその異を唱えたいとのこと。」
それを聞いた林は、
「その島津家の当主とは、どのような者なのです。」
と聞くと、松平はこう言った。
「御台様は、島津家本家の娘。その実の弟君に当たるのだとか。」
「御台様の、弟・・・。」
林はそう言って呟いていると定信は立ち上がり、縁側の前に立つとこう呟いた。
「御台様の、弟君とはな。無謀なことを考えるものじゃ。」
すると林は不敵な笑みを浮かべながら笑い、
「はははは、面白いではござらぬか。」
そう言うと定信の方を見ると、
「わたくしは、会っても構いませぬ。」
と言うのを聞いて定信も振り返り、林の顔を見つめていたのだった。
浄岸院(それとは別に、寛政二年一〇月一五日、家斉様の弟、黒田斉隆殿が、一四歳で筑前福岡藩の第九代藩主に就任し、筑前守の称号を賜っておりました。)
斉隆の前には、一橋斉済や徳川治国がいた。斉済が、
「いやぁー、まさか一四で当主になるとはな。もうお父上が亡くなられてから、八年以上も経つのか。これから、しっかりとやるのじゃぞ!」
そう言うと斉隆も、
「はい。」
と、答えていた。すると斉済が、
「知らせは、家斉にも届いておるかの-。」
そう言って、上を見ながら呟いていた。
それとほぼ同じ頃、家斉はお富から知らせを聞かされていた。家斉は、
「斉隆ですと?」
と聞くと、お富はこう言った。
「そうです。本日、就任の儀式が行われました。よいですか?斉隆殿の主君は、公方様、あなたなのです。それをようお分かり下さいませ。あなたがしっかりしておらぬと、あなたの弟たちも困るのです。」
するとそれを聞いて家斉は思い出したように、
「そう言えば、御台も会いたいというておったのぉ・・・。」
と、呟いた。それを聞いたお富は、
「御台所の話など、今はよいのです。それより・・・。」
そう言いかけるとそれを遮ったように家斉が、
「わかっております。」
と言うとお富は、
「まことですね?」
そう聞くと家斉も、
「はい。」
と、答えていた。お富はそれを聞くと、
「ならばよいのです。」
そう言って立ち上がると、部屋を出て行った。家斉は、若干笑いながらそれを見ていたのだった。
浄岸院(そして数日後。)
重豪は部屋に斉宣を呼び、こう話した。
「幕府から、通達があった。」
斉宣は少し驚いたように、
「えっ・・・。」
と声を上げると、重豪は落ち着いてこう言った。
「そなたの、登城を許可すると。」
それを聞いた斉宣は嬉しそうな表情で、
「まことですか!?」
と言うと重豪は、
「あぁ、わしからも言わせてもらう。登城せよ。」
そう言うのを聞き、斉宣は、
「ありがとうございます!」
と言い、頭を下げていた、それも、父の重毫も嬉しそうに見ていた。
その話は、家斉のところにももたらされていた。家斉が、
「薩摩藩主じゃと?」
そう聞くと、目の前にいた定信はこう言った。
「はい。一四の若さで前代藩主・島津重豪様の跡を継いだ、斉宣様にございます。ついでは御台様の、弟に当たるのだとか。」
それを聞くと家斉は顔色を変え、
「弟・・・?」
と尋ねると定信は続け、
「はい。」
そう答えた。すると家斉は興味のわいたような表情で、
「ほぅ・・・、面白そうじゃ。」
と、呟いたのであった。
ある日、茂姫は廊下を歩いていた。すると、向こうからお楽が歩いてくるのが見えた。茂姫は足を止め、お楽が来るのを待った。お楽も茂姫の少し前まで来ると、足を止めた。お楽は、
「これは、御台様。何かご用でございましょうか。」
そう聞くのだった。茂姫は、
「いや。どこへ向かうのじゃ?」
と聞くと、お楽はこう言った。
「公方様のところへです。」
お楽はそう言い、一人の女中を連れて茂姫の横を通って行くと、茂姫は振り返って呼び止めた。
「どうしてそなたは、わたくしが嫌いなのじゃ?」
するとお楽も足を止め、振り返った。するとお楽はわざとらしく笑うと、
「それは、御台様もわかっておられるのでは?」
そう言うのを聞き、茂姫はただただお楽を見つめていた。すると、お楽はこう言った。
「ご存じの通り、この徳川将軍家は、代々公家から御台所を迎えておりました。されど何故今になって、薩摩の田舎の出である、しかも城の中で刀を振り回す野蛮な姫様を迎え入れたのは、遺憾かと存じます。」
「遺憾・・・。」
茂姫も、それを聞いて呟いた。お楽は、
「いっそのこと、わたくしであればよかったのに。」
そう言うとまた再び、着物の裾を翻して歩いて行こうとした。茂姫は、
「あっ・・・。」
と声をかけようとした瞬間、お楽はこう言った。
「わたくしが気に食わぬのでしたら、どうぞ追い出して下さい。でも・・・。」
お楽はまた振り向き、
「お忘れですか?わたくしは、お富様の腹心です。あなた様が何か変わったことをなされれば、すぐにお母上様のお耳に入りますことを。」
そう言うとお楽はまた前を向き、女中を引き連れて歩いて行くのだった。そして、茂姫はやるせない表情で堪えていた。
浄岸院(そして、斉宣殿が登城する日が来たのです。)
重豪は斉宣に、
「はっきりと申すと、あちらは考えを変える気はさらさらないであろう。されど、そなたの姿勢次第で変わることもある。そのことを、、よう心がけておくのじゃぞ?」
と言うと斉宣は、
「はい、父上。言って参ります。」
そう言って頭を下げると、立ち上がろうとした。すると、
「お待ち下され。」
と言う声がするので斉宣は見ると、お登勢が何かを手にして部屋に入ってきた。
「母上様・・・。」
斉宣は言うとお登勢は斉宣の前に座り、白い紙に包まれた何かを手渡した。
「もしも御台様に会ったら、これをお渡し下さい。」
斉宣は少し戸惑いつつも、
「はい。」
と、笑顔で答えていた。重毫もそれを、笑って見つめていた。
屋敷を出て斉宣が数人の役人を従えて歩いて行くと、城が見えた。暫くの間、斉宣は帽子の間からそれを見つめていた。
そして斉宣は林錦峯との対面がかなった。錦峯は上座に腰を下ろしながら、
「まさか、薩摩の新しい藩主殿がわしに異を唱えたいとはなぁ。」
そう言った。斉宣は、
「本日は目通り願い、誠に有り難き存じます。ではさっそく・・・。」
と言うと、錦峯は止めた。
「あぁ、待たれよ。左様に急ぐことではありますまい。」
それを聞いた斉宣は顔を上げ、
「はっ・・・?」
と小さく声を上げると、錦峯の顔を見た。錦峯は部屋の外へ合図を送ると、戸が開いて盆を持った女中が二人ほど入ってきた。そして、錦峯の前に外国製であると思われる酒を置いた。斉宣は、それを唖然として見ていた。女中二人が部屋を去ると錦峯は勝手にその酒を注ぎ、斉宣に差し出した。
「どうかな?」
錦峯は尋ねると、斉宣は差し出された見たこともない酒をまじまじと見つめた。その酒は、濃い赤紫色で、
「あの、これは・・・?」
と斉宣は尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。
「それは、ワインとかいう酒でな、フランスという国から送られてきたものじゃ。」
「えっ・・・。」
斉宣はまた声を上げると、錦峯はこう言った。
「島津殿は、老中の松平殿が異学を禁じたことに対して、賛同派のわしに異議を唱えに来たのだと聞き及びまするが、それで間違いありませぬかな?」
錦峯はわざとらしい表情で斉宣を見つめると斉宣も、
「はい。」
と、答えた。斉宣は続けて、
「されど、これは・・・。」
そうワインという名の西洋の酒を見ると、錦峯は声高く笑い、こう言うのだった。
「これは、失礼。わしが嫌うておるのは、学問じゃ。」
「それは、何ゆえなのでしょうか。」
斉宣が尋ねると、錦峯はこう聞き返した。
「今この国に必要なことは、何だとお考えですかな?」
それを聞いた斉宣は、
「それは・・・。」
と言い、言葉に詰まると錦峯は、
「それはな、己の存在を知ることじゃ。」
そう言った。斉宣は、
「己の、存在を知ること・・・。」
と、繰り返した。錦峯は、続けてこう言うのだった。
「近頃、この国の人間は異国ばかりに目を向けるようになり、日本人としての誇りを失いつつある。わしは幼き頃から儒学を学び、そう思った。それ故、新しい蘭学などを学ぶよりも、朱子学などの古来よりの伝統を受け継いでいかねばなるまい。そうは思わぬか?」
それを聞いて、斉宣はこう言った。
「しかし、西洋の異国から新しい要素を取り入れることで、未来が切り拓けるのではないでしょうか。我々は、異国から学ぶべきです!」
すると錦峯は表情を急変させ、
「異国は皆、敵じゃ!」
そう言い、その言葉に斉宣は言葉を失った。錦峯は、
「これは、異国で作られたものじゃ。」
そう言い、ワインを手に取った。すると錦峯は続け、
「確かに、あちらの文化や伝統を知るのは悪くないかもしれぬ。されどな、あまりに異国に固執すれば、無効もその気になっていつでもこの国にやってくる。そうなれば、この国は異国の思うがままに、異国の属国となってしまうやもしれぬ。」
そう言うと斉宣も、
「属国・・・。」
と繰り返すと、錦峯も頷いた。錦峯は力強い目で斉宣を見つめ、斉宣もそれを押され気味で見つめ返していた。
そのあと斉宣は、ある部屋で待機していた。斉宣は庭の方を見つめ、ただただ自分のやるせなさに対し、虚しそうにしていた。すると、
「島津殿。」
という、男の声がかかった。斉宣はその声に反応して、ゆっくりと振り向いていた。
その後、斉宣は大きな部屋の下座にて平伏していた。そして上手から部屋に入ってきたのは、何と家斉であった。家斉は上座に座ると、
「その方が島津斉宣殿か。面を上げよ。」
そう言うと、斉宣は恐る恐る顔を上げた。家斉が、少し笑って斉宣を見つめていると斉宣はたまらず、
「あの・・・。」
と、声を発した。すると家斉が、
「そなたは、蘭学は好きか?」
そういきなり聞くと、斉宣は少し驚いたような表情をした。そして斉宣は、
「はい。」
と答えるのだった。斉宣は、
「公方様は、蘭学や異国について書かれた書物がお好きだと、父より伺っております。」
そう言うのを聞き、家斉はこう言った。
「そなたの父も昔、朱子学よりも蘭学に興味を示しておったようじゃな。」
それを聞いて斉宣も、
「はい!」
と、答えていた。すると家斉は、こう言った。
「今日そなたをここへ呼んだは、聞きたいことがある故じゃ。」
斉宣は家斉を見つめ、恐る恐る聞いた。
「・・・、何でございましょうか。」
すると家斉は、
「そなたにとっての、学問とは何じゃ。」
そう聞いたのだった。それを聞いた斉宣は黙り、俯いて考えた。それを見た家斉は少し笑い、
「・・・わからぬか。」
そう言うと、斉宣は顔を上げてこう言った。
「わたくしにとっての学問とは、学ぶものではなく、学ばされるものだと考えます。」
「どういう意味じゃ。」
「学問は、人から作り出されるものにございます。その師の教えに触れ、考えさせられることにより、これから己が何をすべきかが見えてくるのだと、わたくしは思います。それ故、学問は学ぶのではなく、教えられ、学ばされることで、己の未熟さを知ることができる、そう考えております。」
斉宣の言葉を聞いて家斉は、
「成る程・・・。」
と呟き、話題を変えてこう言った。
「時にそなた、人は何故、喜び、時には悲しむのか、教えられるか?」
それを聞いた斉宣は少し戸惑ったように、
「それは・・・。」
と言った。すると家斉は続けて、
「実は、そなたに教えて欲しいというものがおっての。」
そう言うと、上手の方を見た。すると上手から、女性が入ってくるのが見えた。斉宣はその顔を見ると、目を丸くした。それは、茂姫だったのである。茂姫は部屋に入ると、下座にいる斉宣を冷静な目で見つめていた。斉宣は、
「姉上・・・?」
と呟くと、家斉は言った。
「こやつが城へ上がる前以来であろう。ゆっくりと話すがよい。」
家斉が笑顔で言うと、斉宣は茂姫を見続けていた。
部屋の一室で、斉宣と茂姫は向き合った。暫く沈黙が続いた後、斉宣がこう言った。
「あの・・・、姉上。お久しぶりです。」
しかし、茂姫は答えずにただ斉宣を見つめていた。すると斉宣が、
「あの、どうされましたか?」
と聞くと、茂姫は気が付いたように慌ててこう言った。
「あ、いや・・・。大人になられましたね。」
「えっ・・・。」
斉宣は思わず声を漏らすと、茂姫は続けてこう言うのだった。
「あんなに、弱虫で意気地のなかった虎寿丸とは、まるで別人のようです。ほんに、逞しくなられた・・・。」
それを聞いて斉宣は照れ笑ったように下を向き、
「そのような・・・。」
と言った。茂姫は、
「父から、藩主の座を譲られたと聞きました。」
そう言うと斉宣は表情を戻して顔を上げると、
「はい。」
と、答えた。すると茂姫が、
「これからは、あなたが我が薩摩藩を背負って立たれるのですね。」
と言うので斉宣は戸惑ったように、こう呟いた。
「わたくしが、薩摩を・・・?」
茂姫は続けて、
「そうです。薩摩も、いずれはこの国のために、大事を成す時が来ると思います。例えば、異国と渡り合うために、まずは異国の文化や学問を取り入れなければならない、そうお考えなのでは?」
そう言うのを聞き、斉宣はこう言った。
「はい。わたくしは、このままでは駄目だと存じます。いくら学問に励んでも、いくら剣術を学んでも、異国の技術にはかないますまい。それ故、異国から学ぶことも大切なことと思います。」
それを聞いていた茂姫は、
「そうですか・・・。わたくしも、そう思います。」
と言うので斉宣は、
「姉上も?」
と尋ねると、茂姫は言った。
「わたくしは、このお城へ上がって間もなく十年になろうとしております。わたくしは思ったのです。幕府の老中達は、視野の狭い者ばかり・・・。せめて、あなたのような考えを持った方が一人はいてくれたら、今頃、この国は変わっていたかもしれません。この国は、今鎖国状態です。外に出たいと願う人も、たくさんいるはずなのに・・・。わたくしも・・・。」
斉宣は茂姫に、
「あの、何かあったのですか?」
そう聞くと、茂姫はこう言った。
「わたくしは、もっと広い世界を見てみとうございます。」
「広い、世界ですか?」
「はい。この十年、一歩も城の外へ出たことがありません。ずっと同じところにいると、心までもが窮屈になってしまうようで、ならぬのです。」
斉宣は、茂姫の言葉を黙って聞いていた。茂姫は、
「人の感情というのは、そのようなものなのでしょうか・・・?」
と言うと、斉宣を強く見つめるとこう言うのだった。
「教えて下さい。人は何故喜び、怒り、時に悲しむのか。そして、何故、人の心には憎しみが生まれるのか。教えて頂けませんか。」
それを聞いた斉宣は暫く黙り、こう言った。
「それは・・・、心が同じところで迷っているからでは?」
「それは・・・?」
茂姫が問うと斉宣が、
「心がいつまでも同じところにいて、前に進めずにいるから、それが憎しみに変わるのだと、わたくしは思います。感情は、人が生きていく上で欠かせない、体の一部でもあります。それがどう表れるのかは、心の進み具合によるのではないでしょうか。」
そう言って細くするのを聞いて茂姫は、
「心の、進み具合・・・?」
と言って、繰り返すと斉宣も、
「・・・はい。」
そう言うのだった。茂姫は、笑って斉宣を見ていた。それに対して斉宣も、笑い返していた。茂姫が、
「今日は、良い日になりました。虎寿・・・。あ・・・、いや・・・。」
と言うので斉宣は微笑み、
「斉宣です。島津斉宣。」
そう言うと茂姫も斉宣の顔を見て、
「斉宣殿・・・。」
と、呟いていた。
その後、縁側に立って庭を眺めながら、二人は様々な話をした。笑顔で会話をしている二人を、後ろである人物が見ていた。それは、お楽であった。それに気付くはずもない二人は、暫く庭の前で話していた。
「これを・・・。」
夕方、帰る際に斉宣はお登勢から預かった白い紙に包まれた何かを手渡した。茂姫は、
「これは・・・?」
と尋ねると、斉宣はこう言った。
「お母上から、預かったものです。姉上に、渡して欲しいと。」
「そうですか・・・。」
茂姫はゆっくりと、包みを解いていった。すると、中から押し花のようなものが出てきた。それを見た茂姫は嬉しそうに、
「これは、薩摩藩邸の庭に咲いてあった菊の花です。」
そう言うのを、斉宣は微笑みながら見ていた。茂姫が、
「斉宣殿。」
と言うと斉宣も、
「はい。」
そう答えた。そして茂姫は、こう言った。
「父と母に、宜しくお伝え下さい。」
そう言うと斉宣も、
「はい。」
と言い、頷いていた。それを、茂姫は安心したような表情で見つめていたのであった。
札は藩邸に帰ると、重豪がこう聞いた。
「どうであった?於篤は。」
すると斉宣が、
「ようございました。父上と、母上に、宜しく伝えて欲しいと。」
そう父と母を交互に見ながら、言った。父の重豪は、
「そうか。ならば良かった。」
そう言い、母のお登勢も、安堵したような表情になっていた。すると、重豪は思わぬことを言った。
「時にそなた、薩摩に帰らぬか?」
「薩摩に?」
斉宣が聞くと、重豪は続けてこう言った。
「ちと、薩摩の様子が気になっての。一度帰ろうかと考えておるのじゃが・・・、そなたも一緒に行きとうはないか?」
それを聞いた斉宣は戸惑ったような顔で、
「わたくしが、薩摩に・・・?」
と、呟いていた。
その頃、江戸城の一室の縁側には、錦峯が立っていた。するとすぐ後ろに座っていた家来が、
「どうだったのですか?新しい薩摩藩主は。」
そう言うと、錦峯はこう答えた。
「そうじゃのぅ。あのような考えでは、異国と対立するなど、到底無理な話じゃ。」
「はぁ・・・。」
家来はそう返すと、錦峯は腕を組んで空を見上げながら、こう呟くのだった。
「やれやれ・・・。薩摩も、終わりじゃな。」
その夜、同じ城の一室では幕府の儒官・柴野栗山と岡田寒泉が二人で話をしていた。
「薩摩藩主の島津殿と林殿が対面をした?」
柴野が言うと岡田が、
「はぁ。そのようで。」
と言うと柴野は、
「何と、誰がそのようなことを許したのであろう?」
そう言うと、岡田はこう答えた。
「それが、許しを出したのは松平老中であると話す者もおれば・・・。」
岡田はそこまで言いかけると柴野のみに口を近づけ、声を潜めて、
「公方様がそうしたと噂する者もいるとか・・・。」
そう言うのを聞いた柴野は、
「公方様が・・・!?」
と言い、目を丸くして岡田を見つめていた。
その晩、寝室では家斉と茂姫がいた。家斉が、
「わしはあの者が気に入っておっての。」
と言うと茂姫は、
「斉宣殿のことでしょうか。」
そう言うと家斉は、
「あぁ。そなたの弟は、どこかそなたに似ておった。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「お次は、わたくしが上様の弟にお会いしとうございます。」
それを聞いた家斉は笑い、
「どうかのぅ・・・。」
と言っていると、茂姫は言った。
「わたくしは、変わりました。」
「何がじゃ?」
すぐに家斉が聞き返すと茂姫は、
「わたくしは・・・、昔は女子も男みたいに生きてみたいと思っておりました。されど、気が付いたのです。女子には、女子にしか出来ぬことがあると。」
そう言うのを聞いて家斉は、
「言うてみよ。」
と言うので、茂姫は家斉を見つめてこう言った。
「上様の、お子を作ることにございます。」
すると家斉は、暫く茂姫を見つめていた。そして、急に茂姫を抱きしめたのである。茂姫は初めは驚いたが、すぐに笑顔になって家斉の背中に手を添えていた。家斉も、愛おしそうな表情で茂姫の後ろの襖を見つめ、抱きしめていた。
その頃、お富のところへお楽が知らせに来ていた。
「弟じゃと?」
お富が聞くと、お楽はこう言った。
「はい。それはそれは楽しそうに話しておりました。」
それを、常磐や大崎も見つめていた。するとお富が、
「弟なら仕方ないであろう。」
と言うのでお楽は、
「しかし・・・。」
そう言っているとお富は立ち上がり、開いている襖の前に立つとこう言った。
「くだらぬことを一々知らせに来るでない。御台所のことならよいが。」
お富はそう言い捨てるように言うと、部屋を出て行った。お楽は、悔しそうな表情をしていた。
そして、茂姫は家斉の隣で寝ていた。茂姫は寝返りを打って横を向くと、眠っている家斉を見つめていた。そして、茂姫も目を閉じたのであった。
次回予告
茂姫「殺生・・・?」
ひさ「公方様の猫が、死んだ・・・?」
お楽「御台様が、喉元を刺したと。」
お富「只今より、御台に制裁を与える。」
常磐「側室ですと・・・!?」
茂姫「そなた・・・。」
お楽「いい気味じゃ。」
お富「己のしたことを否定するのは、如何なものかと。」
茂姫「わたくしは・・・。」
宇多「本日より、わたくしが御台様の側近です。」
家斉「わしも同じじゃ。」
茂姫「わたくしは、『まこと』が何なのか知りとうございます!」
次回 第十回「大奥の合戦」 どうぞ、ご期待下さい!