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零れた氷  作者: 哀ノ愛カ
7/10

第六片

クライマックスです!

 夏とはいえ、山頂の気温は低い。

冷たい風に靡かれて、玉零は思わず身震いをした。

「隼、来たのね。どうだった?」

 従者の気配を背中に感じ、振り向かずに問いかける。

「犠牲者が三人出ました」

 途端にちくりと胸が痛み、胸元を抑え込んだ。もっと早くに来ていれば良かったと後悔が募る。しかし、宮古学園での騒動の後、京都では不審な怨霊事件が発生していた。被害は小さく人命に関わることではなかったとはいえ、放置もできない。陰陽師の手を借りるのも馬鹿らしく、自分達だけで対処していた。事件は六月の中旬まで続き、結局千歳の言う通り修学旅行に同行する形で北アルプスの調査をすることになったのだった。

「それで、陰陽師はどうしてるの?」

「怨霊・・・だと思っているようだったので、釘を刺しておきました。どの道、この地で奴にできることなど何もありません」

「そうね。ありがとう。相手が妖怪である以上、この前みたいにはいかない。彼には大人しくしていてもらうのがいいわ」

 山に入った時から感じている妖気。間違いなく妖怪のそれだ。

 力のある妖怪達が成りを潜めて早一世紀。今の陰陽師は妖怪との実践経験がないに等しい。ここは、妖怪(・・)が相手になるしかない。

 神経を尖らせろ。

意識を集めて。

獲物を捉える。

―――見つけた。

昼間には僅かにしか感じ取れなかった妖気は、朧の時を過ぎて夜半にもなれば一気に高まっていた。居場所を突き止めるのも容易だ。わざと、という可能性も無きにしも非ずだが、そんなことは関係ない。

人を傷つける妖怪は許さない。

「じゃ、会いに行きましょうか」

 玉零は隼の方へと振り返って、歩き出した。


「そういえば、」

 後ろからついてくる隼が口を開く。

「こんなことが前にもありましたよね」

 どれを以て『こんなこと』と言っているのかはすぐに察しがついた。

 随分と昔の話だ。

 雪山で妖怪退治をしたのは。

「そう、ね」

 予想以上に乾いた声が零れ落ちた。



*        *         *



 探しても、探しても、見つからない。建物の中にいないということは外に出たのだろう。

「馬鹿なこと考えてるんじゃないよな!?」

 峻介がいなくなったことを早希に話そうか迷ったが、余計に事態がややこしくなると思い、やめておいた。

 外は随分と冷え込んでいる。薄着でいれば間違いなく凍死するだろう。そんなのは、冗談じゃない。

 莉子の死を峻介が背負う必要がどこにある?

 死を背負うのは死を齎した者だけだ。

「ここで死ぬのは俺なんだよ!」

 苛立ち紛れに吐き捨て、急いで部屋へと戻る。そして、登山着に着替えると、白馬山荘を後にした。


 真っ暗な山道を歩く。流はある時を境に夜目が利くようになっていたので、明かりがなくてもそれほど支障はない。が、思いの外雪が残っていて、捜索は難航した。

 一時間ほど経っただろうか。段々と雲行きが怪しくなってきた。頬に何か濡れるものを感じ、天を仰げば雪がちらついている。これはいよいよ峻介の身が危険だと思い、歩く速度を上げた。

それから闇雲に歩いて三十分。人影を捉えた。

「荒井!!」

 その影は、確かに峻介だった。

 ほっと息を吐いたのも束の間、峻介の背後に大きな塊を見つけ戦慄が走る。そしてどっと押し寄せる今までに感じたことのない妖気。

「死にたい。死にたい。死にたい。死なせてくれ、流」

 おどろおどろしい低い響きが耳に届く。もはや峻介の声ではない。

 憑かれたか。

 否、完全に飲み込まれている。

 浄化をすれば元に戻れるというレベルではない。

なぜならこれは―――

「妖怪っ」

 白い毛に覆われた、雪男―――とでも表現しようか。二階建ての建物ほどもある身の丈に、巨大な体躯。眼光は赤く光り、鋭い牙が口から覗いている。それが峻介の背後に立っていて、まるで玩具を見るような目でじっと見ているのだ。これからどうやって殺そうか考えているような目つきで。

「祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令!」

無駄だと思いつつ放った呪文はやはり無意味。

「水気・水霊・水精!」

ならばと唱えた攻撃もまるで効かない。それどころか力を吸取られたような感触がある。

「馬鹿な、人間共が」

 突如、峻介が人間業には思えない瞬発力で突進してきた。

「っ!」

手には氷でできた刀剣。寸でのところでかわすと、それは深々と地面に突き刺さり、氷の柱を生み出した。

「相手も水系か・・・通りで」

 流は水の術しか使えない。これは五行相剋に準えれば、火には強いが、土には弱く、同じ水同士だと効果はない。同系でもし相手の方が強いなら、その力は吸収される。

 そして、流の力は吸収された。つまり、相手は流よりも格上ということだ。

「流、殺したい、殺したい、殺したああああい!」

 焦点の合わぬ目を向けて峻介が刀剣を再び振るう。

「荒井!正気に戻れ!」

 呼びかけても返事はない。

 心も身体も、妖怪に支配されてしまっている。

「もう、無駄か。こんな操り人形みたいになったら・・・」

 口から洩れた言葉が反響した。

 待て。

 操り人形?

 流の脳裏に過ったもしかしてという仮定。

 視線を妖怪の方にやると、全くと言っていいほど動かない。ただ、流と峻介を見つめたままだ。

そして、見つけた。

 糸を。

「水気・水霊・水精」

 呪文を唱える。

「水気・水霊・水精」

 ただ、平常心を貫いて。

「水気・水霊・水精」

 峻介の持つ刀剣目掛けて。

「荒井、こっちだ!」

 頭上に刃。すばやく峻介の背後に回り、誘導する。

 そして、振り下ろされた刀剣は妖怪と峻介を繋いでいた糸を切った。

 流の攻撃を吸収して何倍にも膨れ上がった力だ。同系であろうと断ち切れないわけがない。

 しかし、威力が大き過ぎた。

 氷の柱が四方に飛び散り、流と峻介の身を裂く。

「冬・北・羽・壬・癸・辰星、この身を守り給え!」

 峻介を抱え、結界を張ったが、完全に怪我を防ぐことはできなかった。

 右の腕と腹部に氷の欠片が刺さっている。峻介の方も顔を切っていた。しかし、流ほどの傷はない。意識を失って動かないものの、ちゃんと息はしている。そのことに安心し、一先ずその場に峻介を寝かせておいた。

「で、これからどうするか」

 妖怪と対峙して、流は呟いた。

 どう足掻いたって勝てるわけがないだろう。

 否、あるにはある。

 もし、七年前と同じ術が使えれば。

 しかし、無意識下でのことだったので、発動の仕方がいまいち分からない。それに、発動できたとしても使う気は更々なかった。

 だから、

「俺を喰えばいい。その代わり、こいつのことは見逃してくれないか?」

 妖怪相手に請うしか方法がないのだ。

「なあ、どうだ?」

 流の提案に妖怪は冷めた笑いを返した。

「人間はどこまでも愚かだな。それで、俺が了承すればお前は救われるのか?」

「了承されないよりは死にやすくなる」

「ならば、答えは『否』だな」

 分かっていたことだ。妖怪相手に請うても無駄なことなど。

「嘘でも分かったって言えよ」

 自嘲の笑いが込み上げる。腕はともかく腹部からの出血が酷い。もう、長くはもたないだろう。

「だったら、冥途の土産にあんたの話を聞かせてくれよ。何で、この山に入ってきた?」

 雪男はしばし無言を貫いていたが、戯れに話してやろうという気になったらしい。その場に座り込むと、口を開いた。

「俺達はもっと北の地にいた種族だ。だが、その土地を何者かに荒らされた。行き場がなくなり、辿りついたのが、主のいないこの山だった。しばらくは大人しく仲間とともに身を潜めていたが・・・俺達は山に認められなかったのだ。それを悟って、今日から生贄を山に捧げることにした。お前も、そこの男も、山に捧げる。そうしなければ、俺達は生きられない」

 妖怪の表情は正直分かりにくかったが、沈痛な声はまるで泣いているようだった。

山肌に咽び泣く大きくて小さな妖怪。

同情心すら涌いてくる。

でも、きっと玉零は許さないだろう。ここで、俺達(人間)が死ねば。

一瞬、意識が遠のきかけ、はっと目を開ける。すると、立ち上がった雪男がこちらに向かって歩いていた。

ああ、殺される。

そんな感想が頭に浮かんだかと思うと、次の瞬間には雪男の手が目の前まで迫っていた。

「俺達のために死ね」

 雪男の野太い声が近くで聞こえる。

 もう終わりだ―――

「いや、お前ら妖怪のためなんかにこいつは死なせねぇよ」

 否。まだ、生きている。

 眼前に着流しの男。

 手には札。

印を切ったと同時に雪男の腕が掻き消え、後方にその巨体が吹き飛んだ。雪山に痛みにもがき苦しむ雪男の咆哮が轟く。

 何が起こったのか分からず、茫然としていると、男が振り返って流の止血を始めた。

「何で、いんだよ。あんたが・・・」

 掠れた声に隅田隆世は「喋るな」と叱責した。

 胸ポケットに入れてあった式神が具現化したのだろう。目の前には和装に身を包んだ隆世がいる。式神を通しているから寒さは感じないのかもしれないが、随分な成りだと思う。

 もはや、幻にしか見えない。

「山全体に結界が張られていて入り込むのに時間が掛かった。まさかここまで無謀なことするとは思わなかったからな。この傷は自業自得だと思っておけ」

 しかし、近くに感じる声も気配も感触も本物の隆世にしか思えず、無性に胸が痛んだ。

 ここに来た目的は明白なはずなのに、丁寧に手当てをする隆世に戸惑いを禁じ得ない。

「俺を殺しに来たんだろ?そんなことする必要なんか」

 やっとのことで絞り出した言葉は、どこか恨みがましい響きを伴っていて、流は自分自身に吐き気がした。

 本人を目の前にすると、心の奥に封印した本当の願いが表層に現れてしまって。

 殺されたい―――それが願いのはずなのに、それしか願ってはいけないはずなのに、許されたいなどと、思ってしまう。

「馬鹿が。手負いの相手嬲って殺す趣味は俺にはねぇんだよ。いいから、お前は黙って見てろ」

 隆世は感情を必死に堪えている流を一瞥すると、布の端をキュッと縛り、立ち上がった。

「よう、そこのでかいの。随分とこいつを可愛がってくれたみたいだな。けどよ、生憎こいつを殺していいのは俺だけなんだ」

 やはり、隆世は流を殺しに来たようだった。

「死ね、死ね、死ねええええ。人間共がああああ」

 腕を一本取られた雪男は頭に血が上っているらしく、ものすごい勢いで突進してくる。

「芸のない妖怪だな」

 一方の隆世は呆れた声でそう言うと、札を取り出した。

「その地を以て形を成せ。この血を以て命を為せ」

 流もよく知っている隆世得意の術式だ。

「鬼熊!」

 札を地面に叩きつけると、そこから一体の巨大な熊が出現した。

「長野県つったら鬼熊だろ?」

鬼熊は長野県木曽谷に伝わる妖怪だ。それを模して隆世は式神を創り出したのである。

雪男と鬼熊が衝突する。

地響きにも似た重低音が鳴り響いた。

 鬼熊が雪男を薙ぎ倒す。しかし、次の一手に移る前に鬼熊は氷の檻に閉じ込められてしまった。

「おかしいな。土剋水のはずだが・・・水じゃなくて氷だからか?」

 隆世の術は土。本来なら土は水に勝つ。しかし、氷ではその関係はあまり成り立たないようだ。

「この程度で俺が倒せるとでも思ったか人間!全員殺してやる。お前もお前もお前も!!死ねえええ」

 即座に次の攻撃の呪文を唱えていた隆世だったが、攻撃はかわされた。そして、雪男が向かった先は流のところだった。

「お前から殺してやる!」

 咄嗟に結界を張るも本調子ではない身では強度が足りない。

 割れた結界に雪男の手が伸びる。

「だから、こいつは死なせねぇって言っただろうが。死ぬのは、お前だ」

 冷えた声。

 強い殺気。

 明らかな怒りを孕んだ顔。

 そして、押し潰されていく雪男の姿。

 隆世が創り出したのだろう。雪男は巨大な岩の下敷きになっていた。

「まだだ。楽に死ねると思ったか?」

 隆世の目は本気だった。呻く相手を甚振るように岩に重力をかけていく。

「隆世!」

 その呼びかけに見向きもせず呪文を唱える姿に流はぞっとした。

「天に坐すは五行の中央、土。宮にありて君主と成りし戊と己に奉る。悪鬼を砕き、再生の―――」

「隆世!!」

 思わず札を手にする隆世の腕を掴んだ。

「邪魔するな!死にたいのか!?」

 一番に殺したいと思っている相手がよく言う。

「そこまでする必要があるのか?あんたの実力は十分に分かったよ。だから、もう死なせてやれ」

 見渡せば、辺り一面が赤に染まっていた。新雪に染み込む妖怪の血だ。

情けを感じたわけではない。

かつては優しかった義兄にこんなことをさせたくはなかった。

ただ、それだけ。

「はっ。妖怪に同情かよ。殺されかけたんだぞ!?正気か!?」

「正気じゃないのはあんたの方だ。俺がどうなろうと構わないだろ?それとも、」


 それとも、そんなにあんた自身で俺を殺したいって言うのか?


 そんな言葉が口をついて出る前に、隆世は流の胸倉を掴んで大声を上げた。

「構わないわけねえだろうが!!」

 その迫力に息を飲む。

 相手の瞳の中に自分が見えるほどの至近距離で睨まれて。しかし、怒りの矛先は自分が思っていたのものとは何か違う。

「お前が死んで俺が喜ぶとでも思ってるのか?」

「でも、あんたは俺のこと恨んでるだろ」

「ああ、恨んでるよ」

「だったら!」

「それでも!」

 隆世は力を込めていた手を放して、再び妖怪と対峙する。二人の口論の合間に、自力で雪男は岩から這い出ていた。

「それでも、お前は俺の弟だろうが」

 ぽつりと静かに響く隆世の声。

 直後、被さるように轟いた雪男の怒号にそれは掻き消えた。

「許さああああん!お前ら、死ね死ね死ねええええ」

「うるせえ。死ぬのはお前だって言ってるだろ」

 数十枚の札を手に取った隆世はそれを宙に放つと、呪文を唱えた。

「天に坐すは五行の中央、土。宮にありて君主と成りし戊と己に奉る。悪鬼を砕き、再生の途を断て。急々如律令!」

 辺りの土が盛り上がり、巨大な壁が四方にできる。そして、高く伸びあがった土の壁に囲まれた雪男はそれらに覆われ飲みこまれていった。

 最後に、沈痛な鳴き声を残して。

「消えたな」

 ぼそりと呟く隆世は随分と疲れているようだった。

 何と言って呼びかけたら良いか分からず、立ち竦んでいると「帰るぞ」という声が降ってきた。

 ここで、俺を殺すつもりじゃなかったのか?

 そんな疑問が頭の中を駆け巡る。

「なあ、」

 意を決して問おうとした時、

「俺達の仲間を殺したのはお前らか?」

 複数の強大な影に囲まれていることに気付いた。

「くそっ。やっぱ、式神を通してだと流れを完全に読むのは無理か」

 隆世が何やら呟き、「来い!」と命じる。

 先ほど創った鬼熊が峻介を抱えて、向かってくる。

「飛び乗れ」

「はあ?」

「いいから、飛び乗れって言ってんだろ!」

 もたもたしていると、鬼熊の手が伸び、流を捉えた。

 隆世を見ると、一番背の低い―――といっても人間の三倍の大きさの雪男に狙いを定めているようだった。

「まさか、あれを突破するつもりか?無理だろ」

「無理かどうかは俺が決める」

どうやら、隆世はこの四面楚歌を突き破る気でいるらしい。

無謀すぎる。

いくら隆世の術がすごいからといって、複数の敵を相手にするのは無茶だ。

それに、先の戦闘でかなりの気力と体力を消耗している。

「いくぞ」

しかし、隆世はそれを実行に移した。自身も鬼熊に乗り、そのまま猛ダッシュで一番弱いと思われる雪男に突進していく。

 案の定、他三体の雪男が一斉に襲い掛かってきた。

「だから、無理だって言っただろ!?」

「いいから、お前は黙ってろ!」

 流の制止にも耳を貸さず、隆世は淡々と呪文を唱える。

 そして、

「お前は先に行け!」

 突如、鬼熊から飛び降りた隆世は、土の壁を作って道を開いた。

 そのおかげで何とか雪男の手から逃げおおせることができたが、隆世はその場に残ったままだ。

 追手が向かわないように戦うつもりなのだろう。

式神化しているとはいえ、これ以上術を使えば身が持たない。本体にも支障がでるはずだ。

「ばか兄貴がっ」

 流はすぐさま戻ろうとしたが、鬼熊がそれを許さなかった。

 隆世の命令でそうしているのか、がっちりと流の体を掴んで放さない。

 そうこうしているうちに白馬山荘が見えてきた。

 必死にもがいていると、突然鬼熊が消え、地面に放り出される。

「っ痛う」

 近くに峻介も転がっており、落ちた時の衝撃で目を覚ましたようだった。

「あれ、流?何で俺ここに・・・え?ちょっ」

 流は峻介の腕を引っ張ると、山荘まで引きずって行った。

「宮根!」

 そして、早希がいる女子部屋を勢いよく開けると、その中に峻介を放り込んだ。

「どうしたん!?いきなり」

「こいつ、しっかり見張っておけ」

 そう言い残して、扉を閉める。

 隆世が創った鬼熊が消えた。

 つまり―――

「隆世が危ない」

 ただ、がむしゃらに走る。

 もと来た道を辿って。



*        *         *



 四体の妖怪と対峙する。

「なんとかなるかと思ったが。あいつの言う通り無茶だわな」

流達を追いかけないように、攻撃をしかけて、相手の攻撃をかわして、態勢を立て直す。そんなことを幾度となく繰り返すうちに、本体の方が悲鳴を上げていることに気付いた。

近くで明臣(ひろみ)の声が聞こえる。

『隆世!一旦戻るんだ!』

 明臣は東京の隅田邸で隆世の本体の傍に控えている。今も千里眼でこの状況を見ているのだろう。

 言われなくても分かっている。

 命が危険であることぐらい。

 しかし、ここで自分が引けば流の身に危険が及ぶ。それは何としてでも避けなければならない。

「フフフフフ」

 突然、一匹の妖怪が笑い出した。

「そんなにあの小僧のことが大事か?」

 答えてやるのも馬鹿らしくて、無言を貫く。

 すると、妖怪はある提案を持ちかけてきた。

「ならば、あの者には手を出さないでやってもいいぞ?」

「何?」

 一瞬理解に苦しんだ。

「見逃してやると言っているのだ」

 見逃す?

「嘘つけ。妖怪の甘言に耳を貸すほど俺の頭はおめでたくできてねぇんだよ」

 一蹴して、はたと立ち止まる。

「条件は?」

 そう言った瞬間、妖怪がにやりと笑うのが見えた。

「お前、陰陽の流れが見えるな?陰陽師としてのその資質、実に見事」

「で?」

「お前の霊力の全てを、この山に捧げる。そうすれば、俺達は山に認められるだろう。この地の新しい主となるための方法として、これほど確実なものはない。どうだ、陰陽師。お前にならできるだろう?その手の術があることは知っているぞ」

 妖怪達は高揚して、足を踏み鳴らした。

 「やれ!」という有無を言わさない声が四方から飛んでくる。

 この提案を受け入れるべきか、否か。

例え提案に乗ったところで、やつらが本当に流を狙わないという確証はない。

 だが、このままでは確実に流は殺られる。

 それは間違いのないことで。

「天地流想の儀、か」

 知識だけはある。

 霊力を注ぎ込み、神の意志と接触する。その目的は神の意志を得ること。すなわちそれは、禁忌の術。

「はっ。やってやろうじゃねぇか」

 消耗で判断が鈍っているわけじゃない。

 冷静さを欠いたわけでも。

 ただ、守らなければならないものがあるなら、守るのみ。

『隆世、何するつもり?妖怪と何を話してるの!?』

 明臣の切羽詰まった声が聞こえる。

 千里眼は見ることしかできず、音を聞くことはできない。それを幸いにして隆世は儀式の呪文を唱え始めた。

『隆世、君の後悔は―――としても、それは君のせいじゃない。こんなのは本意じゃないだろ?―――けば、きっと――だって――――――』

 集中しているせいで、明臣の言葉が妙に遠くに感じる。

『まさか―――つもりじゃないよね?僕との約束―――――思い出してよ、――の悲願は!!』

 悲願?

 隅田家の悲願は、土御門を打ち倒して賀茂家の再興を図ること。

 祖父の悲願は、百花と流を結婚させて神咲家の悲劇を絶つこと。

 明臣の悲願は、土御門家と隅田家の蟠りを消すこと。

『君の悲願は!!』

 俺の悲願は、

 祖父の遺志を継いで、それから土御門と互角に渡り合える力を得て、家を守る・・・・・・

 いや、違う。

俺自身の願いは別にある。

ただ、流とまた兄弟に戻りたい。

 それがこの七年の、俺の悲願だ。

『死んだら、できないよ?』

 鮮明に明臣の声が聞こえるようになった時には、もう既に全ての呪文を唱え終えていた。

 急速に自身の力を吸取られるような感覚に襲われる。

 戦闘の最中に創った式神は一斉に消え、実体を映している人形の式神一点に霊力が集中していく。

「悪いな、ひろおみ。お前との約束、守れそうに、ない」

 聞こえてはいないだろう。

 でも、謝っておきたかった。

『隆世、隆世!』

 意識が遠のく。

 これで神の意志が得られたのかどうか分からないが、成功していてほしい。

 そんな思いが脳裏を過った時だった。

 断ち切られる感覚。

 力が、戻ってくる。

「隆世!」

 これは、流の声だ。

 声のする方を向くと、息を切らした流がいた。驚いたような顔で隆世と、そして何かを見ている。

「こんなことで、山の神が貴方達を認めるとでも思ったの?これは、神との会話に使う儀式。本来は神の怒りを鎮めるために古の陰陽師が使った術よ。命懸けで、ね。こんな不完全な状態で行っていい術じゃない。どんなに優れた陰陽師でも命の危険を伴う。貴方達が新しい山の主になれなかった理由が分かるわ。こんな、無能で、野蛮な妖怪は主に相応しいわけがない」

 目の前に、白い鬼。

 そいつは刀を地面に突き刺して、隆世が呪文で描いた陣の効力を無効下していた。

「何だ、お前は!我々を愚弄する気か!?どこの妖怪だ!」

「殺せ、殺せ、邪魔をしやがって!」

「あともう少しで、俺達は山の主になれたんだ!」

「長を呼べ!全員でこいつらを叩きのめすのだ!」

 憤怒に沸き立つ妖怪達が白い鬼に詰め寄り、怒鳴り散らした。

 しかし、白い鬼はそんなことには意にも返さない様子で、淡々と話す。

「だから、主になんてなれないって言ってるでしょ?どこまで馬鹿なの?ああ、それから、長ってのはこれのことかしら?」

 そして、白い鬼の仲間であろう、もう一匹の妖怪が―――といっても人にしか見えないが―――空に現れて、巨大な塊を落とした。

 それは、雪男の頭部だった。

 辺りが一斉にざわめき始める。

 咆哮と怒号と絶叫が入り乱れ、耳をつんざく。

「長ああああ―――よくも、よくもおおおお」

「何?怒ってるの?冗談じゃないわよ。人を殺しておいて」

「人を殺して何が悪い!生きていくためには必要なことだ!同じ妖怪だったら分かるだろ!?」

 白い鬼は刀を地面から引き抜いて、雪男達と対峙した。

 天地流想の儀で描かれた陣は跡形もなく消えている。

 白い鬼の能力か、はたまた刀の能力か。

 陰陽師が創った陣を一瞬で消し去るなど、普通では考えられないことだ。

 それをやってのけるこの白の鬼は――――

「分かるだろうなんて、私に聞くの?まさか、私を知らない?どこの田舎から出てきたのよ。貴方達の事情は知っている。でもね、同情なんてしないのよ、私は。白鬼・玉零。人に害を成す妖怪は私が全て討つ。覚悟しなさい。無知な餓鬼共」


 白鬼。


 流が言っていた、あの鬼か。

 詳細は明臣から聞いている。

 平安前期に絶滅した幻の鬼。そして、その生き残り『白鬼』は安倍晴明と懇意にしていたという。

 妖怪殺しの妖怪。

 人を愛した神の子孫。

 ここまで流に話したかどうかは忘れたが、二度の再会を果たした流なら十分分かっていることなのかもしれない。


 この鬼は、味方だと。



*        *         *



 ふっと、隆世の姿が消えた。

「隆世!」

 急いで駆け寄ると、ぼろぼろになった人形の式神が落ちていた。

「大丈夫よ。力を使いすぎて本来の身体に戻っていっただけだから。死んではいないわ」

 背中を向けたままの玉零が言う。

「あの陰陽師は貴方の知り合い?驚いたわ。式神を通してとはいえ天地流想の儀の陣を完璧とはいかなくても描ききった。何者なの、彼は」

「隅田の現当主だよ」

 その回答で理解できるかどうか分からなかったが、「あの隅田の」という声が聞こえてきたので、一応陰陽家のことはある程度知っているようだった。

「それより貴方。足手まといだから、大人しくしていてちょうだいね」

「なっ」

 そして、辛辣で最もな言葉を残して、玉零は飛び上がった。

 四体の雪男が宙に舞う玉零を捕まえようと躍起になっているのが分かる。そのせいで、背後に迫るもう一つの影に気づいていない。

「ぐわあああああああ」

 一体の雪男が隼の攻撃で倒れた。宮古学園での戦闘では怨霊相手に手も足も出なかったというのに、二本の短刀で雪男の体を三つの肉の塊へと変える。

あれが、対妖怪との戦いにおける隼の実力。

一方の玉零はというと、二体の雪男の体をそれぞれ真っ二つに切り裂いていた。

返り血を浴びた玉零の姿は椿の花弁を散らした新雪のような美しさを孕んでいる。が、敵を見据えるその黄金の瞳はひどく冷えていて、確かに『鬼』であることを知らしめていた。

「あとは貴方だけね。どうする?貴方はまだ子供みたいだから、見逃してあげてもいいわよ?今後一切人には手を出さないっていうなら、妖連合がその身を保護してくれるはずよ」

 残った一体は、あの一番背の低い雪男だった。

「ふざけるなっ!皆を殺しておいて、よくも、よくもおおおお」

 雪男の目から涙が零れる。

 外見が人間離れしていたから分からなかった。

 そうだ。

 妖怪も涙を流す。

「許さない。許さない。絶対に!!」

「交渉決裂ね。残念だわ」

 玉零が刀を振りかざした。

 瞬間―――

「待て!」

 思わず叫んだ。

 玉零と目が合う。

 雪男が吠える。

 黒く醜い何かが、雪の白も妖怪の血の赤も飲み込んでいく。

 その間、一秒にも満たない。

 しかし、その一瞬で、流れが確実に変わったのを感じた。


 全てが黒に飲み込まれた。それは、そう感じただけで、実際には辺りの様子に変化はなかった。

 ただ、一点を除いて。

「どういうこと?」

 玉零の問いに答えられる者は誰もいなかった。

 雪男の中でも一番小さく、玉零が子供だと言っていたそいつは今や七階建てのビルほどの大きさになっている。

「一体、どうして、いきなり、こんなに大きくなっちゃったわけ?」

 玉零に明らかな焦りが見て取れた。

 その巨大な身体に恐怖を感じてか。

 凄まじいほどの妖気が空気を震わせている。

「うっ」

 突如、腹部の傷が開いた。妖気は人間の体には障るもの。急激に増幅した雪男の妖気にあてられたようだ。

「ちょっと、貴方怪我してるの!?」

「俺は平気だ、から」

「馬鹿言わないでよ。隼、薬を」

「しかし、玉零様。今は」

 その時、雪男の拳が地面に落ちた。

 寸でのところで玉零と流を抱えた隼が身をかわす。

「じゃあ、隼は向こうで陰陽師の手当てをして。この子の相手は私がするから。これは命令よ」

「無茶です!玉零様!」

 隼の言葉を無視して玉零は雪男の目の前に立ちはだかった。

 先の戦闘で体力を消耗しているのか、玉零の攻撃に切れがない。

「おい、大丈夫なのかよ、あいつ」

「黙れ」

「あんた従者だろ?援護してやれよ」

「黙れと言ってるだろ!」

 表情を見ていれば分かる。一刻も早く主人のところに向かいたいことぐらい。しかし、隼は主人からの命令を果たすことにしたようだった。

 隆世が巻いた布を解くと、腹から鮮血が溢れ出している。そこに隼は懐から取り出した薬をどばっとかけた。

「いっ――て」

「我慢しろ」

 見ると、みるみるうちに傷口が塞がっていく。

「何の魔法だよ」

「俺の体液だ」

「はい!?」

 冗談だと思うことにした。

 隼はすぐさま立ち上がり、玉零の元へと向かう。


 流の傷は完全に治癒したようだった。痛みもない。それどころか傷跡もない。ただ、血を失いすぎて身体に力が入らないだけ。

本来なら、陰陽師として妖怪と戦うべきなのだろう。しかし、玉零が言ったように、足手まといにしかならない気がした。

 例え今、玉零達が劣勢に立たされたとしていても、流が戦力になるとは到底思えない。

「玉零様!」

 玉零の刀が雪男の手によって振り払われた。右腕を怪我したのか、反対の手で押さえている。

 隼は玉零を守るようにして前に出たが、為すすべがないような面持ちだ。

 先ほどから二人の攻撃はまるで効いていない。

 雪男の体が鋼にでもなったかのように、傷一つ付かないのだ。

「一旦、引きますか?」

「こんな化け物置いて引けるわけないでしょ?」

「しかし、このままでは」

「ほら、天が味方についてくれている。まだ勝機はあるわよ」

 雪が止んで、雲の間から月が見えた。

 月明かりに照らされて、玉零は幾分か気力を取り戻したようだった。

 だが、

「流――おーい」

「あ、良かった。神咲君や」

 流れは完全にあちらのもののようで。

「嘘でしょ。こんな時に」

 玉零と隼と、雪男。

 少し離れたところに流。

 そこへ向かってくる峻介と早希。

 なぜ、彼らが月の下に舞い込んできたのか。


 なぜ、流れが変わってしまったのか。


「俺が、『待て』と言ったから、か?」

 その言葉がなければ、雪男が変貌する前に玉零が斬っていただろう。そうすれば、ここまで窮地に追いやられることはなかった。

 ただ一人の、たった一言が、流れを変えたのだ。

 安心した顔で近づいてくる二人を見やる。霊力が低いからか、玉零の姿も雪男の姿も見えていないようだった。

「流、心配したで。いきなり山の方に走り出すから」

 峻介はそう言って流の背中をバンバンと叩く。自分が外へ出た記憶はないみたいだ。

 そういえば、峻介も流れを変えていた。

 峻介が登山をしたいなどと駄々をこねなければ、今このような状況にはないというのに。

「なあ、荒井。何で登山が良かったんだ?」

 そんな呟きがつい漏れた。

「それは・・・」

 峻介が答える前に、早希が峻介の腕を引っ張る。

「峻介、これ・・・」

 雪が赤い。

 一面に飛び散った妖怪の血が地面を赤く染めている。それに早希が気づいたのだ。

「神咲君、ここで何があったん!?」

 あった?

 違うよ、宮根。

 今まさに起きていることだ。

「伏せろ!!」

 流は二人に向かって叫んだ。

雪男の腕がさっきまで三人の頭があったところを掠めていった。

「何なん!?今、風がぶわって・・・」

「立つな!まだ伏せてろ!」

 早希を怒鳴りつけ、既に立ち上がりかけている峻介の頭を抑え込む。

「何や言うねん、流!」

「合図したら、走れ」

「えっ、」

「いくぞ!」

二人を叱咤して全速力で走る。何とか玉零達が雪男の気を逸らそうとしてくれているが、雪男は完全にこちらに狙いを定めているようだ。玉零達を蹴散らして、こちらへと向かってくる。

「そういえば、隼がいいひんねんけど。もしかしてあいつを追いかけてこんなところまで来たんか?困った奴やな。勝手に外うろつくやなんて」

 走りながら峻介が言う。

 お前だよと叫びたいのをぐっと堪えて流は走り続けた。しかし、あの巨体が相手だ。一歩二歩と歩くだけですぐに追いついてくる。

「こっちだ!」

「ちょっと、待っ――」

 先頭を走っていた流が急に右に折れたものだから、早希が足を滑らせた。

「大丈夫か、早希」

 峻介が早希に手を差し伸べる。その背後には雪男がいた。

 玉零と隼が駆けてくるのが見える。でもだめだ。

俺でさえ、間に合わない。

雪男の指先が峻介と早希の体に触れた瞬間、二人は倒れ込んだ。昼間、犠牲となった三人の姿が思い起こされる。体に目立った外傷はない。しかし、確実に息絶えていた。

「二人に何をした」

 本当は何をしたかなど明らかだった。

 昼間に三人の遺体を見た時から、何が起こったのか検討はついていたのだから。

 ただ、何というか。

 七年前とあまりにも状況が酷似し過ぎていて。

 現実逃避していたのだ。

「そう、か・・・雪男も雪女と同じようなものだからな。人の体に触れて生気を吸取ることができるんだろ、あんたも」

 七年前、北アルプスでは外傷のない死体が多く発見された。

 登山での遭難者が凍死したのだろうという見解に疑問を持ったのは当時の隅田家当主、隅田隆馬―――隆世の父だった。

 隆馬の見立ては、雪女の仕業ということだった。

 それに納得ができなかった流は隆馬を彼女に合わせることにしたのだ。

 それが、全ての間違い。

「この山の妖怪は俺が全て消してやったっていうのに。何で、あんたみたいなのがまたやって来たんだよ」

 雪男の手が徐々に近づいてくる。殺すなら殺せ。そんな気でいたが、隼に抱えられて宙を飛ぶ。雪男との距離はかなり遠のいた。

 玉零が流の前に立つ。

「今の話、どういうこと?」

 払われたはずの刀は無事に取り戻したようで、その手にしっかりと握られている。

もういっそうのこと、その刃で突き刺してほしい。

 そんな願いが脳裏を過った。

「まさか、七年前の信州の事件って」

「俺だよ」

 玉零の目が見開かれる。

 単純に驚いたのか。

 それとも、恐怖したのか。

 しかし、その目には憎しみや怒りの色はなくて。

「何があったの?」

 ただ真実を見つめていた。

「玉零様、こちらに来ます」

「厄介ね」

 どうするか思案しているのだろう。玉零の顔はやけに険しい。それだけ、危ない状況なのだ。

「もういい。俺は二人のところに行く」

 それが、一番賢明な判断だと思った。

 初めから、この山で死ぬつもりだった。隆世とは、もう少し話し合えば、何かが変わる気もしたが、恐らく気のせいだろう。

 何も、思い遺すことはない。

「前から思っていたけど、貴方って随分と諦めが早いのね」

 諌めるような玉零の声が耳に届く。

「もう一度聞くわ。何があったの?」

 敵が眼前に迫っているというのに玉零は流を見つめたまま動かない。それに痺れを切らしたのか、隼が詰め寄る。

「玉零様。奴が」

「数分でいい。隼、何とかして」

 この状況で従者に丸投げするとは、玉零らしくない。隼の方も訝しげな顔をしたが、流を一瞥すると雪男のもとへと走っていった。

「何やってんだよ、あんた」

「いいから教えなさい。何があったの?貴方の心を凍らせているものは何?」

 腕を掴まれて、問い質される。

 何も教えてやる気はなく、流は口を閉ざした。

 なのに、

「氷雨って誰?」

「っ!」

「雪女?貴方を助けた・・・」

「どうしてっ」

「そして、両親を殺された?」

 心を読まれている。

 そう確信した。でなければ、こんなこと知られるはずがない。

「あんた、読心ができるのか?」

「少し、ね。父方の能力よ。もともと白鬼にこんな力はないわ。私の場合、相手に触れた上で妖力を集中させないとできないから、戦闘ではあまり役には立たない。それに、私じゃ表面しか読めないし」

 流は玉零の手を振り払うと、一歩後ろに後ずさった。

「怖い?」

 玉零が聞く。

「ああ」

 流は素直に答えた。

 心を暴かれるなど、耐えられるものではない。

 そういえば、二度目の再会を果たした日も玉零は心を読んだかのようなことを言っていた。

 でも、あれは人の姿の時だった。

 つまり、もともと人の機微を読むのが上手いのだろう。それに加えて妖怪の姿の時は文字通り心を読むこともできる。

「恐ろしいよ。あんた本当に鬼なんだな」

 憎悪のこもった声でそう言うと、いくらか傷ついた顔をして「それでも私は人を守りたいのよ」と玉零は呟いた。

「玉零様、退避を!」

 隼の叫ぶ声が聞こえる。どこかに飛ばされたのか、姿は見えない。玉零は目の前まで来た雪男の前に立ち、刀を翳した。月明かりに

照らされて、その刀身は妖しい光を放っている。

「妖刀、三日月。この刀に斬れないものなんてないのよ」

 雪男の頭上近くまで飛び跳ねて、刀を振り下ろす。玉零が地面に

着地するのと同時に、雪男の左腕が落下してきた。

「ぐわあああああああああああああああああああ」

「次は右よ!」

勢いよく叫んだ玉零だったが、突如として刀を握る手の力が弱まり、刀が滑り落ちそうになる。

「あんた、右腕怪我したままなのか?」

 てっきり隼の魔法のような薬で治してもらっているとばかり思っていた。

 まさか、自分に使ってしまったから、もう薬はなかったのだろうか。

「隼の薬は切り傷専門なのよ。その他の怪我には効き目が弱いの」

 今は接触していないというのに、心を読んだかのように玉零は答えた。

「これぐらい大したことな―――」

 暴れ狂う雪男の右腕が眼前に迫る。

 その拳に刀を突き刺して、玉零が応戦した。

「逃げなさい!」

 見ると、雪男の拳から刺のようなものが生え出ている。

 氷だ。

 鋭く尖った氷の刃が伸びて、玉零を貫いていた。

「早く、逃げて」

 もういいって言ったのに。

 どうしてここまでするんだ。

「俺のせいだって言えよ」

「は?」

「俺のせいでこうなったんだろ。俺が、この化け物を殺させるのを躊躇ったから。七年前に俺が、この山の主を殺したから。あんたは良い妖怪だよ。せめてあんただけでも助かってくれ。その他は全部諦めてくれればいい」

 とても冷えた心地がした。

 夜の雪山にいるからか。それとも自分自身が冷たい人間だからか。どちらにしろ、流には温かさがない。

「俺のことは見捨ててくれて構わない。あんたが思っているよりずっと、俺は酷い人間なんだ。助ける価値なんてない。俺はきっと、あんたが死んでも泣かないだろうから」



*        *         *



 底冷えのする声音が降り注ぐ。

身体を貫かれて痛いという感覚さえなくなってしまうほどの冷気が襲う。

 やがて雪男の拳が後退し、氷の刃が引き抜かれた。

 口から血が吐き出される。苦しいと思う間もなく、次の攻撃に備えると、真横に人の影が現れた。

 右隣に陰陽師の姿。

 その横顔を凝視して、はたと気づく。

(これが、貴方の氷雨・・・なの、ね)

 そっと触れた左の目元にある黒子。

 否、印。

 俄かに驚いた陰陽師の顔が、一瞬だけ優しい微笑みを湛えた女の顔と重なった。

(貴女が氷雨・・・一度どこかで)

 どこかで、会った気がする。

『見てくれ』

(っ!)

 頭の中に直接響く声。

『そして、この者に真実を伝えてはくれぬか?』

 凛とした綺麗な女性の声だった。

 直後、玉零は全てを理解していた。



*        *         *



「分かったわ」

 突然顔に触れたかと思うと、玉零は俯いてそう言った。

 目の前では雪男が地団太を踏んでのた打ち回っている。左腕を斬り落とされたのが、相当堪えているらしい。

 玉零は下を向いたまま何かを必死で耐えている様子だった。

「分かった」

同じ言葉を繰り返して、やっと顔を上げる。その目元は涙に濡れ、今にも零れ落ちそうだった。

流を見捨てる覚悟ができたのか。

なら、早く退いてほしい。

しかし、玉零は一向に頬に触れた手を下ろさない。

「シロオニ、」

「陰陽師」

 開きかけた口を強い口調で塞がれる。

「聞いて。氷雨からの伝言よ」

「何だ、って」

「貴方の中に残っている氷雨が私に託したの」

 この、白い鬼は何を言い出すのだろう。

 訳が分からない。

 もしくは、そう思いたいだけか。やけに心の奥がざわつく。

「貴方の左目の下にある黒子、それは生まれつき?」

 唐突に、突拍子もない質問が飛び込んできた。それが何だっていうのかと、言い聞かせるつもりで「ああ」とだけ言っておく。

「そう。でも、それはただの黒子じゃない。印よ。昔交流のあった陰陽師が自分の体に印を刻んで、その身に式神を宿していたことがあるの。それと同じよ。まあ、あの人はもっと大きな陣を描いていたけど。こんなに小さなものは私も初めてだわ。今まで気づかなかった」

「はっ。何言ってんだよ。この黒子が印?式神を宿している?つまり、氷雨が、俺の中にいるって。そう言いたいのかよ」

 そんなはずがない。

 あの時、氷雨は俺がこの手で殺したのだから。

 そう、必死に思っていることすら玉零には筒抜けのようで、「貴方の口から否定なんてさせないわよ」と、痛い言葉が降りかかった。

 そうだ、今玉零は流の体に触れている。

 心を読まれている。

 その事実に流は恐怖を感じた。

「やめろ」

 しかし、その拒否の言葉を口にする流の方がよほど怖い。自分でもそう思うのだから、周りが誤解するのも仕方ないと言える。

 冷酷な目。

 冷たい声音。

 凍てついた心。

 その全てが七年前から始まっている。

それまで友達は多い方だった。だが京都に引っ越し、宮古学園の初等部に編入すると、人は流を避けるようになった。

『あの目に睨まれたら凍死しそうや』

 そんな陰口が横行するほどに、流の印象は悪かった。そして、徐々に冷血漢そのものになっていったのだ。

 いや、元々自分は冷たい人間だったに違いない。

 だから、平気であんなことができたのだ。

「それは違うわ。貴方は温かい人間よ」

 だが事実、この七年間、流は人から冷たいと言われ続けている。もともとの気質でないとするなら、氷雨がこの身に宿ったから、そうなったのだろうか。

「雪女を式神として身に宿したからってわけではないでしょうね。だって、貴方の知っている彼女はとても優しい妖怪だったのでしょう?」

 そう、だ。

 でも―――

「やめろ」

 玉零の手を払いのけ、睨みつける。これ以上心を覗かれるのはごめんだった。

「でも、彼女は貴方の御両親を殺した」


 北アルプスの燕岳で、流の義父母が死んだ。

 その日の午後、流は一連の事件が雪女の仕業だという隆馬の意見に納得がいかず、こっそり隆馬に氷雨と会わした。

氷雨は調査に協力的だった。

隆馬も氷雨と話して、考えを改めたように見えた。

夕方、隆馬は妻の美花を伴って氷雨の案内のもと燕岳へと出かけていった。美花も代々巫覡(かんなぎ)の職に就く家の出身だったので、率先して隆馬の手伝いをしていたのである。

その後ろ姿を見届けたのは、流一人であった。北アルプスには隆世も同行していたが、この件は内密に行われた。陰陽総会に妖怪の協力があったと知られれば後々厄介なことになるからだ。妖怪の手に落ちたと見做され――そんなものは言いがかりに過ぎないが――隅田家が断絶されてしまいかねない。それを危惧したのかどうかは分からないが、とにかく隆馬は跡取りである隆世に責任を負わしたくはなかったのだろう。だから『お兄ちゃんには内緒だぞ』と言って、出かけていったのだ。

そして、戻らなかった。

両親の遺体の前で泣きじゃくる義兄を前にして、流は本当のことを言った。

普段の兄からは想像もできないほどのひどい雑言が飛び出して、それらは幼い流の心に全て突き刺さっていった。

『お前のせいだ。お前が殺したんだ。お前が殺せ。その妖怪も、全部・・・全部殺して来い!』

 状況からいって、隆馬達は氷雨に殺されたと見て間違いなかった。遺体に損傷はなく、ただ眠っているかのような死に方は、まさしく雪女の手口。

 だが、氷雨は言っていた。『我々ではない』と。

 だから、他に犯人がいるはずだと信じて、初めは氷雨を探すために山を走っていたのだ。

「氷雨?」

 そしてやっと見つけた氷雨は、なぜか血まみれだった。

「大丈夫!?」

「近寄るな!」

 氷雨は流を拒絶した。

 手には、隆馬が愛用していた魔封じの短剣がある。

「それ、どうして氷雨が持っているの?」

 氷雨は答えない。

「ねえ、どうして!」

 もしかして―――

「私が殺した。そちの両親は私が殺した」

 信じたくない言葉が、信じていた人の口から零れる。

「嘘でしょ。そんなの嘘だ!」

 涙が止まらない。嘘だ嘘だ嘘だと、頭の中がぐるぐる回ってぐちゃぐちゃになっていく。氷雨はそんな様子の流に否定の言葉を掛けてはくれない。代わりに短剣を流の足元へと投げつけ、「殺せ」と言う。

 それこそ、嘘だ。

 どうして、自分が氷雨を殺さないといけない。両親の仇だから?流を裏切ったから?本当は悪い妖怪だったから?

 それでも、流にできるはずがない。

 かつて命を救ってくれた妖怪で、憧れのお姉さんで、友達でもある氷雨を殺すだなんて。

 死んでもできないと思った。

 でも、実際は。

「これで良かったのさ」

 氷雨が震える声で言う。

どうしてこうなったのか。

流の体に氷雨が被さり、氷雨の胸に短剣が突き刺さっていた。

 すぐそばに氷雨の顔があって、みるみる血の気がなくなっていくのが分かる。

「泣くな、流」

 氷雨は流の左目の雫を掬い取って、笑っていた。

 氷雨の目からも一筋の涙が流れる。それは、氷の雫となって流の頬に零れ落ちた。

 その後のことは何も覚えていない。

 ただ、叫んでいた。

 意味不明な呪文を唱えて、山の妖怪を消し去ったのだ。

 奇しくも、隆世に言われた通りのことを実行したことになった。

 全てに片がつき、京都で暮らすようになってすぐ、流は自分の身体の異変に気づいた。

 左の目元にある黒子。写真をとって拡大してみると、それは雪の結晶の模様をしていた。

 氷雨だ。

 直感した。ここに氷雨がいると。

 普通なら喜んだかもしれない。だが、両親を殺した、そして自分に殺された妖怪がこの身に宿っていると知って、恐怖を感じた。

 呪い。

 これは氷雨の呪いだと、そう思った。

 自分は報いを受けるべき人間で。

 普通の生活を望んではいけない。

 誰かと繋がってはいけない。

 救いを求めてもいけない。

 心から笑顔になることも、安らぎに安堵することも、期待してはならない。

 ましてや、凍らせた涙を溶かして零すことなど、絶対にあってはならない。

『泣くな、流』

 どういう意味で言ったのか。未だに分からない、氷雨の最後の言葉。

 ただ、分かることは、流が取り返しのつかない罪を犯したということ。

 そして、それら全てを凍らせて、自分の身の内に封印し、七年間生きてきたということだ。


「でも、それは事実じゃない」

 玉零が流を見つめる。

「いや、事実だ。氷雨が言った。自分が殺したと」

「だけど、貴方はそれを今でも信じてないでしょ?」

 はっとして、玉零を見つめ返す。

 揺るがない瞳に吸い込まれそうになりながらも、どうにかして踏み止まる。

「信じて、ない」

「嘘。貴方は宮古学園での怨霊との戦いの時に、彼女を頼った。窮地に追い込まれて、諦めていた貴方を奮い立たせたものは何?何を思って、あの時百花と私を助けようとしたの?大事な場面で彼女の名前を呼んだのは、術を放つためじゃない。あれは貴方の心の叫びよ。貴方は初めから彼女を信じていた。あの日、貴方は山で真実を聞き出そうとしたのよね?『殺せ』と言う彼女に必死に問い掛けた。でも、できなかった。その後悔が貴方をずっと苦しめてきた原因。どこかで『諦めた』から、氷雨を救うことを『諦めた』自分がいたから、それが許せなくて。でも、どうしようもなかったのも事実で。『諦め』を間違った形で覚えてしまったのよね。違う?」

「違う」

「目を背けるな!」

ついに玉零は怒鳴った。怒りを孕んだ哀れみの目で、泣きそうになりながら訴えかける。

「もし、彼女が両親を殺した犯人だと思っているのなら、その仇を討ったことにどうしてそこまで罪の意識を感じる必要があるのよ。彼女は犯人じゃない。彼女の仲間も人を傷つけるような妖怪じゃない。だから、その彼女と彼女の仲間である山の妖怪を全て葬ってしまったことに、貴方はひどく苦しんでいる。そして、その見立ては間違ってはいない。氷雨が見せてくれたわ。七年前の真相を」

 流は黙ったまま聞いていた。玉零は近くで暴れ狂う雪男を無視して話し続ける。

 いつ、踏み潰されるか分からないというのに、物ともしない。それだけ真剣な様子の玉零に流もいつしか飲み込まれてしまっていた。

「七年前、雪女による犯行に見せかけた事件が横行した。氷雨は氷雨でその事件を調査していたみたいよ。本来なら妖怪を統括している妖連合が介入するはずだけど、この山は自治を貫いていたから。それで、貴方の紹介で隅田隆馬と再会(・・)した」

「再会?」

「ええ。彼女は昔、隅田隆馬に会っている。そして、恋をした」

「ちょっと待て!恋って何だ?」

「大昔一目ぼれした青年に顔が似てたとか何とかよ。言っとくけど、再会する前から結婚したことは知っていたみたいだし、痴情の縺れでってのはないから。まあ、それは置いといて」

とても気になることを放置し、玉零は再び口を開いた。

「彼女は、彼と彼の妻と共に燕岳を登っていった。そして、出くわしたのよ。一連の犯行を企てた犯人に」

「犯人?」

「ええ、影よ」

 影―――

「影っていうのは?」

「正体が分からないってこと。妖怪はその姿を容易には晒さないわ。でも、彼女も隅田夫妻もそれが犯人だと分かった。分かったのはいいけど、その瞬間には隅田夫妻はその者の毒牙にかかっていた。氷雨は運よく狙われずに済んで、そして、そのまま影は去っていった。氷雨は夫妻を人の目の付くところに安置すると、隅田隆馬の魔封じの短剣を持って、影を探した。そして、見つけて、戦闘になって、奴を殺したの。でも、剣を突き刺した時にそいつの『影』が飛び散って、自我が蝕まれていった」

 話がややこしくなってきた。

 影と『影』はどう違うというのだろう。

 流は玉零に問うた。

「そいつの『影』って何なんだよ。そいつが影だったんじゃないのか?それに、氷雨はそれを倒したんだから正体も分かったんだろ?」

 しかし、玉零は難しい顔をして首を振る。

「その妖怪の正体は結局分からなかったそうよ。剣で貫いた時にはもう、『影』に染まっていて。元が何であったかなんて、それこそ上位の妖怪や大陰陽師にしか分からない。ただ、言えるのは、その『影』とは、妖怪の怨念、怨霊そういう類だってこと」

 妖怪の怨霊―――そんなものは初めて聞いた。人から生まれた怨霊を相手にしたことはいくらでもある。しかし、妖怪の怨霊とは。

「厄介なものなのか?」

「ええ。場合によっては上位の妖怪よりも強くて質が悪い。暗黒で冷酷で、陰惨なもの。取りつかれたら、地獄に落ちた方がまだマシってくらいに苦しむわね」

 そんなものと氷雨は。

 胸が締め付けられる気がした。

 しかし、玉零は一転して朗らかな声音で「だから、」と言う。

「だから、彼女は貴方に救われたのよ。彼女の胸を貫いた時、悪霊は魔封じの効力で浄化された。貴方は彼女を殺したんじゃない。苦しみから彼女を救ったのよ」

 玉零は優しい笑みを湛えて流を見つめた。

 本当に、そうだったらどんなにか。

だが、それは詭弁に過ぎない。

「そんなものは、詭弁だ。それに関係のない妖怪もたくさん・・・」

「確かに、関係のない妖怪も貴方が手に掛けたのかもしれない。でもね、悪霊は既に山を覆っていたはずよ。どの道、誰かが完全に浄化しなければならなかった」

「・・・それも、詭弁だ」

 そう言いつつ、救われる気がするのは何故だろう。そんな流の心中に気づいてか、玉零はふっと微笑んだ。誰かの笑顔と重なる。

 その時、とうとう雪男が攻撃の態勢に入ったようだった。

「シロオニ」

「何?」

「俺は、妖怪が好きなんだ」

「・・・変わってるわね。妖怪は陰陽師の倒すべき敵よ」

「妖怪だって人間と同じだよ。悪い妖怪もいれば良い妖怪もいる。罷り間違っても悪い妖怪を好いたりしない。俺は良い妖怪だけ好きなんだ。だから、氷雨も」


―――良い妖怪だったんだよ。

 

玉零が頷くのが見えた。その直後、視界がぼやけて何も見えなくなる。何も見えないはずなのに、全てがクリアで、躊躇いなど微塵もおきない。

 ただ、彼女の名を叫んで、叫んで、愛おしい思いで呼んだ。

「氷雨!」

 億か兆か、それほどの数の氷の刃が降り注ぎ、雪男を貫く。

 雪男も応戦して氷の柱を生み出すが、氷雨(・・)には敵わない。ついには倒れ込み、凍土の上で動かなくなった。

 辺りは急に静けさに包まれ、何事もなかったかのように、風が通り過ぎていく。

「玉零様・・・」

 近くで、隼のくぐもった声が聞こえた。

 玉零はいち早くその声に反応して隼を探した。そして、岩にもたれ掛かるようにして座り込んでいる隼を見つける。

「隼、無事?」

 深い怪我を負っているというのに、そんなことは微塵も思わせない機敏な動きで玉零は従者の元へと駆け寄り抱き起こした。

「ごめん。無理させたわね」

「いいえ。私が不甲斐ないばかりに」

 隼は右腕の骨と両の足の骨を折っていた。

 流はその様子を見て、遣り切れない気持ちでいっぱいになった。数十メートル先には峻介と早希が横たわっている。

助かった命と助からなかった命。

二人の命は、流が救えなかった命だ。

重い足を動かして、やっとのことで流は二人の傍へと寄った。ピクリとも動かない二人を前にして、膝から崩れ折れる。

「ごめん。ごめん、二人とも・・・助けられ、なかった」

 謝罪の言葉を繰り返すだけで、涙は出ない。とても悲しいというのに、それを表現する術が流にはなかった。

 気配で玉零と隼が近くに来たのを感じる。ただ、乾いた声で「俺のせいだ」と呟いた。

「俺のせいだ。俺が、もっと強かったら」

 隆世ほどの術が使えていれば、きっと、二人は死なずに済んだ。玉零は「そんなことない」と言うが、事実そうだろう?

「俺が、俺が・・・」

 乾ききった瞳が映し出す二人の遺体はどこか遠くて。

 どうして自分が生きているのか不思議に思った。

 その時―――

『もう、泣くなとは言わぬよ。だが、繰り返すな』

 突如として、脳裏に懐かしい声が響く。

『そちは十分よくやった。あとは、陰陽の流れに身を任せればいい』

「陰陽の、流れ・・・」

「どうしたの、陰陽師」

 玉零の心配そうな声が聞こえて、

「あ、れ」

 止めどなく、流の瞳から涙が溢れ出した。

 否、氷の粒が溢れて、次から次へと落ちていく。

「どう、して・・・これ」

 ぽたぽたと大粒の氷の涙が零れて止まらない。それらは峻介と早希の上に落ちて。

落ちた瞬間、その顔を濡らした。

 いつの間にか早朝になっていたようで、東の空が白み始めていた。朝日が昇り、その光に照らされて氷は水となる。

「零れた氷が、溶けていく」

 玉零の呟きから間を置かずに、二人の呻く声が聞こえてきた。

「あ、流?もう朝か?何かすごい夢見てた気がする」

「ていうか、ここどこ?すっごい寒いんだけど・・・って外やん!」

「荒井、宮根さん・・・」

 二人が生きて、動いて、喋っている。

「うおっ。何でお前泣いてんだよ」

 気づけば、流の目からは普通の涙が零れていた。

「悲しくて・・・」

 峻介と早希が死んだと思って、悲しくて。

凍らせたはずの氷の雫が溶け出した。

「どうしたん?何があったん?神咲君」

 そして二人が生き返って、嬉しくて。

 溢れる涙が止まらない。

「いや、今は嬉しくて」

「どっちやねん!」

 何がどうなって、二人が生き返ったのかは分からない。

 ただ、二人が生きているという事実は確かなもので。

流はしばらくの間、二人に挟まれて泣いていた。


やっと、凍てついた心が溶けましたね。

氷雨はずっと流を見守っていたんですけど、それを流は受け入れられずにいたんでしょう。

真実が分かって良かった良かった。

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