矮星の静寂 2
――甲高い嘶きが耳を劈いた。
引き千切った、というよりかは、もぎ取った、という表現が正しいか。
今し方吐き出された肉の塊を一瞥し、無残な変わり様に 笹目は眉を顰めた。
鼓動三音前には村の少女であった眼前のモノは、既に異様な肉塊に成り下がっている。
頭上に近い箇所は蒼白し、もげた首周辺は紫に染まっている。顔面は斑色に変化し、歯で掠め取られたような擦り傷が幾つも見られた。鼻であった箇所は削げ、恐怖の為に見開かれた眼窩が凝固し、乾き始めている。
村の『殲滅』遂行は完了した。夜を奇襲し、松明に火を点け、混乱の最中家に押し入った。粗方済んだところで軍を退かせ、自分を含めた三人と一匹で残党狩りを行った。二百名程度の集落に子供は五十、大人は百五十、老人は五十。全て残らず裂いた。出来るだけ血が流れるやり方で、尚且つ残忍な切り方で。
これで他の集落は恐れ戦き、無駄な抵抗をしないだろう。被害は格段に減り、此方も無益な殺生をしないで済む。軍の総統も威圧は掛けて来ない筈だ。『魔嬢』の名は大陸に遍く知れ渡り、六の順序に辱められることもない。権威に座する日も――現時点での継承有力者共の鼻をあかしてやれる日も近い。
「…は……っ はァっ……」
獣の雄叫びに混じって、『上司』の乱れた呼吸を聞き、笹目は現実に立ち返った。
薄暗い納屋で、袴に身を包んだ女が息を荒くしている。
身体を小刻みに震わせ、膝が笑っていた。目は強張り、眉間がひくひくと動き、涎も出掛かっている。
血の匂いにやられたか。笹目はすぐ傍へ駆け寄り、声を掛けた。
「嬢、気を確かに。深呼吸を」
「……はぁっ……はあ、はあ、は、あ、はぁっ……」
非情で慈悲を持たない。任務遂行のためなら異国の村を焼き、村ひとつを見せしめに蹂躙する。威圧の象徴、畏怖されるべき概念。……『魔嬢』とはよく言ったものだ。
実際の『魔嬢』は、こんな光景に慣れない少女であるというのに。
それでも腹心の笹目が近づくと、その少女は自分で呼吸を戻そうとしているのか、口元をふるふると動かした。
笹目は懐の皮袋を取り出すと、先を窄ませて、少女の口を塞いだ。皮袋に吐いた息が流れ込み、膨らむ。吐いた息がそのまま吸われていく。皮袋を膨らませ萎ませる動作を数回行うと、少女の小刻みだった呼吸は止み、遅れてげほりと咳き込んだ。
「…………はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
「ご立派でした、紗銀嬢」
笹目が皮袋を離しても、少女は虚ろな目でまだ荒い呼吸を繰り返していた。
努めて冷静に続ける。
「嬢の鮮やかな軍捌き、格式高い威厳を、この笹目、とくと見ておりました。一連の遂行は嬢の軍統率を他国に知らしめすものであり、我國でも遍く知れ渡りましょう。士気は向上し、より一層の勢力拡大が望まれる筈です。殿下もお慶びになることでしょう」
格式高い振る舞いとは、果たして外れの集落を襲撃し、火を点け一人残らず肉塊にすることか。口調を変え、外見を塗りたくり、見せ掛けの統率者資質で、軍の人間を鼓舞することか。
しかし笹目はそれを非としなかった。仕えるべきは我が主君。是するは我が國、己が下されたのは令。是としないのは、命に背き、行動を全うしない己だ。
「御祖父様が……これを知って、喜ぶと思う」
『魔嬢』――軍の象徴として担ぎ上げられた少女・紗銀は、口元の涎を拭い、答えた。
「私は…所詮、御祖父様の駒に過ぎないわ」
明らかなる自嘲であった。笹目は返す。
「いいえ。駒とは手中の一手を担えてこその名称。貴女の振舞いは閃光のように真直ぐで迷いが無い。御身を常に省み総て善しとしないのも、貴方のその心根に拠るものです」
笹目は代々皇族に仕える家令の名家に生まれた。紗銀が生を受ける十数年前から、笹目は主君が彼女であると定められていた。
「…笹目」
「帰りましょう。皆が、嬢の帰りを待ち侘びています」
直接的な主君は紗銀になるが、大元の主君は紗銀の祖父であり、総帥である。 総帥の命は、紗銀を軍の象徴として担ぎ上げること、人の目を向けさせること――だからこそ笹目は教育係として、地帯を恐怖で陥れる『魔嬢』を育て上げなければ不可なかった。
「――飼い慣らされた『軍の専売雌狗』が、一丁前に駒気取りかァ?」
笹目が紗銀を小屋外に連れ出すと、薄汚れた白い景色の中で、粗野な言い分を吐く者が居た。
『薄汚れた』というのは、血で赤く斑に染め上がった集落を、積雪が半ば白くしていたからだ。
笹目は声の出所を捉え、睨みを利かせる。くつくつと笑う声は、小屋のすぐ脇に立っていた。
「利用価値があるとでも思ってんのか? 何にも斬れねェガキが、テメェの股の間の血でも眺めてろ」
鴉の如き黒い髪に、右目に取り付けられた眼帯が真黒く主張する。残った左目の垂れた三白眼が一層不気味に映った。『高階』卿。笹目と同じく、帝國軍隊第六部隊の特別側近の人間である。笹目はこの高階を蛇蝎の如く嫌悪していた。自分と同じ黒様式の服を纏う立場であることが許せなかった。猊座に仕える名家に生まれ、順当な手筈でこの地位に着いた笹目と違い、高階は生も特殊で、半ば強引にこの地位に上り詰めている。いくら建前で同じ『卿』と呼ばれる立場にあるとしても、笹目にとって高階は、下の立場に位置する賎しい身分であり、侮蔑の対象に過ぎなかった。
傍らの『黒塊』は、依然低い唸り声で咆哮を続けていた。
「……その耳障りな化物を早く鎮めろ」
血を拭い取ったばかりの得物の柄に触れつつ、笹目は悪意を持って言い渡す。返答次第では、第六皇嗣者の御前で不敬を払う『忌応体』に、刃を向けるも厭わなかった。
「はッ、馬の一匹や二匹手懐けられない奴が何言うんだよ」
答え、高階は明後日の方向を向く。笹目の言動に注視するわけでもない。代わりに『黒塊』が笹目を見下ろし、グルグルと唸っていた。高階と同じく、全身を黒く短い毛で覆い、興奮して丸く見開かれた目が二つと左右対称についている。細長い顔、咀嚼する口からは、血を垂れ流し、肉食の証である犬歯をぎらつかせていた。
細く締まった足、右往左往する長い尻尾、よく動く耳――高階は『馬』と言ったが、こんなにも血を滴らせている草食獣が居ていい筈なかった。外見は確かに馬であるものの、獣はそれより一回り大きく、筋肉が細く締まっている。そして明白に馬と違うのは、類を見ない艶を帯びた漆黒の毛並みであること、額に尖った角があること、さらに、背中に黒鷹の比ではない、巨大な翼を生やしていることだった。
『黒天馬』、外見を馬に喩えられるその獣は、総じてそう呼ばれる。天の馬、とはその麗しい見目から名づけられたものだが、希少種であることを差し置いても、出来過ぎた種名だった。実際は獰猛で、卑陋極まりない化物だと言うのに。退化し、無用の長物と成り下がった翼、気味悪いほどの純然たる黒毛、常時狂気を内に滾らせているかのような黒目――場に居るだけで不愉快になる、笹目は苦々しく思った。性質が似ているのだ。この化物は、隣に居る飼い主に。
「返答はそれだけか。化物と同じく、『忌応体』も調教と処分の行使をすべきようだな」
物と同義に呼称し、威圧を込めて言い放った。
「『軍狗の親玉』が何だって? ムッツリは鎖に繋がれてヌけやしねェってか」
「……貴様」
下卑た揶いに、笹目の眦が強張る。猊座の傍に居ることこそが信念であり忠誠であると、骨の髄まで教え込まれた笹目にとって、『軍の狗』なる呼称は、己の生を否定されるのと同義だった。高階は鼻で笑う。
「いいぜ、斬り掛ってみろよ? 『忌応体』に組み敷かれる野郎の面がどんなモンか、その『軍で担がれた小娘 』に見てもらえ」
自ら『忌応体』と呼んで憚らない者には、『狂い馬』との呼称が相応しかった。高階の眼帯で覆われている方の目も、青眼であれば同様に狂気を滾らせていたに違いない。忌憚すべき一つ目を、笹目は三日月のようにきつく撓らせ見返した。その眼を突き刺せば、少しは痛みを味わわせるだろう。
「――笹目卿篤比良。収めなさい」
隻腕で柄を引き抜き呼吸と同時、刃先を急所に突き刺さんとして――笹目は止めた。突如割り込んできた人の影に不意を突かれた。収めなさい、つまり、得物を。動揺を隠せなかった。 紗銀が笹目に背を向け、手を開いて抑止していたのだ。
空洞になっている笹目の服の左袖が、はたはたと音を立てて風に煽られていく。
「竝びに高階卿喬地。退がりなさい」
先程噎せている少女が、すっと場に現われていた。気配が有っただろうか。笹目は記憶を辿り、結果、自分の察知能力が劣ってはいないと結論付けた。彼女は気配なく笹目の前に立って現われたわけではない。『魔嬢』と呼ばれる女低音の冷えた声を聞き分け、笹目の体が本能で抑制したのだ。冷えて凍りつかせる物言いであった。第六皇嗣者が配下を『卿』付けの本名で呼ぶことは早々無い。即ち、紗銀は笹目を今『待て』と命じた。
首だけで振り返り、主である紗銀は言った。
「笹目。私ならいいわ、高階が言ったその通りなのだから」
「紗銀嬢。御体は」
「もう大丈夫よ。 ……高階。『黒花狼牙』はまだ気が立っている?」
高階は返事をしない。それが質問の答えだと解したのか、紗銀は臆することなく『黒塊』の化物へ近寄っていった。化物は未だグルグルと唸りを上げている。笹目を見る時と同じ、狂気を孕む黒い瞳を紗銀に向けた。笹目の顔が強張る。あろうことか、紗銀は自ずと獣の顔に触れたのだ。
「ロウ……疲れたでしょう」
喉のあたりを摩る。すると、唸っていた黒天馬はビクンと体をくねらせた。二度首を傾けたかと思った次には、ゴプァ、と奇妙な音を立てて塊を吐き出していた。赤茶色に煤けた咀嚼後の残骸がごぽりと出てくる。先程もぎ取った少女の成れの果てか、興奮の最中引き千切った人間の一部か。細長い口の周りがぬらぬらと光った。滑りを帯びた液体は、黒毛をさらに黒く染め上げ、白牙の間を垂れ落ちた。
「喉に引っ掛かっていたのね。良かった…」
肉塊の蒸気が白く立ち上る。撥ねた血が紗銀の袴に付着した。口周りのぬかるんだ血が、手にもまとわりついた。紗銀は厭わない。寧ろ黒天馬に頬を近づけ、そっと寄り添う。化物はブルルル、と馬に程近い唸りになり、次第にその興奮も落ち着いたかのように見えた。咆哮に近い唸声を続けていたのは、肉塊が喉で痞えていたからか。労う紗銀の行為を受け止めているのか。
「高階、どうして吐かせてあげなかったの。ずっと吼えていたのに」
黒天馬の耳裏を掻いてやりながら、紗銀が問う。間髪入れずに高階が答える。
「ガタガタうるせェよ。絡んできたソコのムッツリに言え」
笹目は見ていた。目の前で交わされる二人の会話を、傍らで待つ『黒塊』の姿を。
「分かっていたのに放っておくものではないわ。笹目を嗾ける必要はなかったはずよ」
「利用価値の無ェヤツがほざいてろ。オマエのやれることなんざ、この馬の世話しかねェだろが」
「………。そうね。本当に、そうね」
目を閉じて、紗銀は黒天馬に額を付ける。高階が明後日の方向を見つつ口に出したのは、不敬の言葉だ。だが奴の物言いがいつもの毒気を含んでいないことに、笹目は気付いた。紗銀の口許が綻ぶ瞬間を、目の当たりにした。
……この情景、既視感がある。何処で。何時。
遣り取りを見ている笹目は、いつか見た光景を思い出した。
忘れる筈もない。六年も前になるか。この二人と一匹と自分が、同じように立ち会った。
あの時も、吹き荒ぶ雪は止んでいた。仄かに降る白い水晶体だけが、血の海を少しずつ消していた。紗銀はいつでもよく笑い、高階の目は二つとも青眼であり、笹目の両腕も未だ――残っていた頃だった。