矮星の静寂 1
誰が 駒鳥を殺したか?
「それは私」と言うには雀
「私がこの弓と矢で
――――駒鳥を殺しました」
Who Killed Cock Robin? - Mother Goose Nursery Rhymes
歯の根が合わない音だった。
抑えようとしても止むことはない。がちがちがち、がちがちがちがちと不協和音を鳴らし、それが響いてしまうのが怖くて、少女は無理に下唇を前歯で噛む。音は止まない。力の入らない奥歯が小刻みに揺れ、顔が強張る。息を吸って吐くという動作が困難になる。右手を左手で押さえつけながら、少女は身を縮こませ、目を硬く瞑った。
目裏にこびり付いているのは黒ずんだ赤。耳朶にこびりついているのは金切り声。
途端に喉の奥が引き攣る。唾を嚥下しようにも、からからに乾いて舌を濡らせない。
あのどろどろに溶けた赫い液体は、生き延びろと言い残した父の血だ。あの場を劈いた音は、出てきては駄目と警告した母の断末魔だ。
目を瞑ることが出来たなら、一時でもこれは夢だと言い聞かせられたものを。先程の凄惨な情景が焼きついて、少女は耐え切れず目を開けるしかなかった。
月が侵され消え失せた夜だった。寝台に入る刻、村の鐘がけたたましく鳴り響いた。外を見れば一面が橙色に輝いている。近隣の家を焼く炎の色だった。何処かで上がる悲鳴、野太い男の威嚇と蛮声、擦れる刃の音、木の爆ぜる音、変容した村の騒音に入り混じって、父親と母親が部屋に飛んできた。血相を変えて少女の手を掴み、家を抜け、奥に隠れていろと一方的に納屋に突き飛ばされた。
いったい何が起こったと言うのだろう。自分らが何をしたと言うのだろう。冷え切った納屋の中で、少女は血色悪く紫色に染まった自分の指を、必死に押さえる。
……天空に御座します我らが御主よ、御妃よ。
礼拝の言葉も続かなかった。納屋に隠れて一時間、最初の詠唱を只管繰り返すだけに終わる。天空に御座します我らが御主よ、御妃よ、天空に御座します我らが御主よ助け御妃よ、どうか、どうか、天空におわしますだれかわれらがたすけて御主助けて御妃よ、たすけて助けてどうか助けて助けてどうか誰か助けて!
不意に。納屋の戸がかたりと開いた。
白い羽根が舞い込んできたと思ったのは刹那か。目を瞬かせてしまえば、その羽根は吹き込んできた雪の欠片に過ぎない。だが、一面に敷き詰められた白の大地が反射して、薄暗い納屋に逆光が映る。腿まで届いて靡く髪、此方に伸ばしてくるしなやかな手……この方はもしかして聖典に出てくるあの御方の化身ではないのか。
御妃様、と声を出し掛けて、少女は息を飲んだ。
「やっと見つけたわ。村の最後の一人」
先に、低く艶やかな――想像していた御妃様の化身と正反対の――声を聞いたからだ。
納屋の戸が全開にされたことで逆光が解け、誰何の姿が露になる。確かにしなやかな手だったが、化身は見慣れぬ衣装を纏っていた。髪は確かに長くさらさらと靡いていたが、闇夜のように重く沈んだ黒色だった。肌は陶器のように白く、しかし眦は猫のように丸く釣り上がり、唇は濃い紅を差したかのように艶かしく――そして歪曲した。
「あ、あ、あ、あ」
弛緩していた筋肉が一気に収縮する。御妃の化身どころではない、死の匂いを運ぶ存在の姿が浮かんだ。いや、違う、この女は――!
「骨が折れたわね。あなた一体どこに隠れていたの」
……『魔嬢』!
強迫観念で相手の名が弾き出たが、少女はそれを声に出すことなど出来なかった。
自身の髪を掻きあげ、女が問うてくる。だがそれは嘲笑を含んだ物で、返答を待つ悠長な問い掛けではない。事実、少女が堪えきれずがちがちと盛大に歯の根を鳴らすと、いっそう女はその眼を鋭くさせた。
噂に違わぬ、奇妙な出で立ちだった。両袖は振るほどに生地が長く垂れ下がっており、襟元は 巻いた葉のように、幾重にも折り重ねられている。下半身の服は男物の段袋のように股で分かれていて、合理的なのか非合理的なのかわからなかった。異国の服装とはこのようなものか。
「ああ、この衣装が見慣れない? これはね、『袴』というものよ。私達の国の民族衣装」
仕留め損なった獲物を、窮地に追いつめてほくそえむ。
大人同士の談義を偶然聞いてしまったことがある。隣国の王である皇嗣が、領土拡大の為に大掛かりな軍隊を編成して、近隣地まで踏み込んできているらしいと。財源の確保が目当てで、国交が断絶している国の侵略や、かつて植民地であった国の再支配を繰り返していると。成果を上げているのは、ある部隊で、指揮を執っているのは――辛辣で傲慢で、非情極まりなく、嬢の齢で魔王の如き采配を振るう女であると。
「高階」
かくして、人々に『魔嬢』とこぞって隠喩され恐れられるその女は、右に目を向けた。
「斬りなさい。今直ぐ」
女低声の簡潔な物言いが、粉雪と冷気に混じって少女の耳に届いた。
がんと頭を強く打たれたような衝撃が加わる。
『斬る』。今この女は、隣に居る者に自分を斬れと命じたのだ。
「はッ――斬れ? マジで俺のでそいつ斬れっつってんのか?」
柄の悪い男の罵声が飛んできた。続いて、調子狂った嬌声が一頻り小屋に谺する。狭い戸口の右端から現れる人影――右に黒い眼帯を取り付けた男の姿。黒様式の服、黒皮靴を履き、黒手袋を嵌めた物々しい格好。それが帝國軍隊の特別側近制服であることに考えが及ぶ筈もなく、少女は螺子の外れた笑い声に怯えた。
一転。男は脈絡もなく甲高い笑い声を止め、鋭い眼光で女を睨め付ける。
「ふざけた事そのクチでくっちゃべってんと殺すぞ。ンなガキ、クズ笹目の相手にでもさせろや」
常軌を逸している。眼帯の男は、覆われていない方の黒目を左に動かした。
「ホラ ムッツリ、相当溜まってんだろ? ガキに一発ナカ出してその腹掻っ捌いちまえよ」
顎でしゃくり上げると、せせら笑う。
眼帯の男の左側には魔嬢と呼ばれる女が居る。そしてその女の左隣――出てきたのは、第三の男だった。
「……下賎な物言いだな、『狂い馬』」
恐らく 揶揄する言い草で、第三の男は冷徹に言葉を返した。『狂い馬』、確かに眼帯の男の振る舞いは、その呼び名が相当する。かくいう第三の男の姿も、少女にとって異様であることに変わりない。眼帯の男と同じく、厳しい黒様式の服の格好だったが、男の右袖が抵抗することなく風に戦がれていたからだ。第三の男は隻腕であった。――ことに、威圧を受けるこの物々しい軍服で、片方の腕が見当たらないというのであっては。
「血を見せ付ける必要がある。私の尖剣と嬢の短剣とで突くより、お前の軍刀改で斬った方がよく飛び散る筈だ」
隻腕の男が、事実を淡々と隣に告げた。女を挟んで隣に居る眼帯の男は、答えない。
「たかだかお前の様な『忌応体』が、総て赦されると思うな」
「笹目」
吐き棄てる言い方を咎めたのか、宥めたのか、女が口を開いた。
「この娘に私の名を教えてあげなさい。通り名でしか知らないでしょうから」
「――は。御前にありますは六伽藍國第六皇嗣者にして、外討伐隊第十六指揮官・久稔和歳雪紗銀様であらせられます」
六伽藍國第六皇嗣者――後の言葉は聞き取れなかった。元が同じ国で同言語体系とはいえ、数百年が経ち各々で発展した今となっては、発音と意味の相違が多々有る。もはや異国となった地の言葉は、聞き取れない。
だが皇嗣者という冠を訊き、少女はまた慄くのだった。
第六皇嗣者にして外討伐隊揮官とは、なんということだろう。『魔嬢』と呼ばれ近隣諸国で恐れられている女の正体は、六伽藍國と呼ばれる国の冠を有す後継者だった。その皇女が自ら指揮を執っている。隣国は血筋を前線に出しても何も思わないというのか。
「よろしい。そして私の右側に居るのが笹目。左側に居るのが――高階」
斬り落とす者への最後の礼儀か。外の國で六番目にあたる後継者は、左右の連れの名も明かした。
しなやかな指で再度髪を後ろへ撫で付けながら、非情にも決定を言い放つ。
「笹目。左胸から頭にかけて突きなさい。掻き回した後に引き抜けば飛沫も上がるでしょう」
「承知」
「高階。斬る代わりに『あれ』を」
左隣の男の返答の有無など聞く由もない。少女の感覚は麻痺していた。怒りと困惑と畏怖は震えを通り越し、却って少女を冷静にさせた。結果、彼女は弾かれるように声を発した。
「……鬼魔、だわ」
少女の国でもっとも忌避される聖典の言葉を、彼女はかっと目を見開き、投げつけた。
「鬼魔の化身に違いないわ……あなたたちは人の道から堕ちた鬼魔よ!」
だが、返答の代わりに少女の耳に届いたのは、火付け石のような、指を鳴らす音。
――獣が嘶く声が響いた、と思ったより早く。
かつ、かつ、と革靴の音を出しつつ、右の男が前に出る。素早い動作だった。鞘から得物を引き抜き、自身の手首を捻って先端の尖った方を天に向けたかと思うと、その細い針先が消え失せた。ごりり、ぶつりぶつり、と聴いたこともない音が体の内側から聞こえた。硬く鋭いものが体を通過していった。熱い感覚とともに訪れたのは、息を吸えなくなる苦しさと、口の中に溜まったものが飲み込めない苦しさ。細槍が自身の身体を貫通していると知ったのは、隻腕の男がそれを引き抜き、数回同じ箇所をずぶずぶと刺して掻き回した後だった。
「あ、う、あ、ああああああ」
ずるりと熱いものが背中からはみ出てくる。躍動の如く其の場に跳ね、少女は霞む目で天を見上げた。
小屋の天井が赤黒く染まっている。まだ塗られたてで、所々から液体も滴り落ちている。自分の体内の飛沫だ、と理解する間もなく、少女の視界を塞いだのは『黒い塊』だった。黒く尖った角、激しい怒りに満ちた黒い大きな獣の目。黒曜石の如き混じり気のないその目に、血を垂れ流す少女の姿が映った。黒塊の巨大な口が開き、体ごと飲み込むようにして、実際は首から上を挟み込まれ引き千切られるようにして、少女はあらゆる体液を流し絶命した。
「悪いわね。私はまだ――」
首を噛み千切られる直前に、少女は女の声を聞いたような気がした。
「――堕ちるわけにはいかないのよ」