君知るや溶ける白華 6
城下町の家裏に在る小さな土地は、昨夜降った雪に拠って白く埋め尽くされていた。
いつの間にか粉雪に為ったらしい。今日中で有れば、吹雪に為る事無く村に行けるだろう。
青年は、手袋の上に粉雪を乗せてみた。皮に覆われた掌が、僅かに白く染まっていく。直に手に乗せれば、結晶が指の温かさで溶けて行っただろうか。
そんな思いも頭を過ぎったが、体温を無闇に下げることは避けたかった。
『約束』の日は来た。過去と向かい合なければ為らない日が来たのだ。
青年は粉雪を丁寧に払うと、真新しい銀色の世界に居る誰何を探した。
毎朝と同じように、家の裏手の小屋に向かって歩いている少女の事だ。
寒くなる前に麦や果物を貯蔵した貯蔵小屋――朝になると その小屋から麦を取ってきて黒麺麹を作るのが、少女の日課だった。
青年は姿を見付けて呼び掛けようとする。
「――――」
併し。少女を呼ぼうとして、喉の奥がぐっと締まった。吃驚いて声を出すのを止めてしまう。
わらべ謡が聞こえたのだ。
聞き慣れぬ音調。不思議な言葉。独特の発声法。
白い雪の上に、黒い髪が踊る。広がっては元の場所に戻る緞帳のように、彼女の黒髪は風を受けて靡く。羽織から覗く白い指が、寒空の大気に触れる。
此の地に『来て』から、何度も見た景色の筈だ。其れでも、城下町の家を出て、真っ白な土地を見て 開放感で一杯に為ったのだろうか。淑やかな彼女にしては珍しく噪いでいた。
何故、彼女の紡ぐ歌がわらべ謠と思ったのか解らない。
彼女の声質がそうさせるのだろうか。流れる曲は物悲しい語りの様でも、懐古的な歌の様でも有った。
逡巡しながら眺めて居たのは十秒にも満たない。少女が不意に此方を向いた気がしたからだ。
青年はすぅと息を吸い込むと、彼女の『今』の名を呼んだ。
「キリエ」
声に気付き、少女が視線を合わせる。
歌は口遊に為って居たが、耳に残る不思議な音程は続いている。追い付いた青年は、朝の挨拶を交わす前に訊いた。
「……その歌は、きみの故郷の歌かい」
少女の濃い茶色、何方かと言うと琥珀色の瞳が、僅かな間 見開いた。
彼女自身も、指摘される迄 口遊んで居た事に気が付かなかったらしい。
「ええ。もう歌うことはないと思っていたけれど……口をついて出るものなのね」
まるで其れが『歌っては不可ない』と言う様な、跋の悪い顔をする。
青年は重ねて訊いても良かった。何時覚えたのか、今の歌の歌詞は如何な意味なのか。
だが――聞く前に、相手は隙の無い顔に戻って居る。
少女は身を翻した。ばさりと羽織が揺らぎ、周りの粉雪が振り払われた。
「よかったらリエスも麦を運んでくれないかしら? 出る前に焼いていこうと思うの」
彼女と共に居る事は、其の儘あの雪の日から遠ざかる事を意味していた。
――五年前、此の地の『人柱』は死んだ。
城に届ける筈だった秘匿の皇女は、雪崩に巻き込まれて消えた。
青年は覚えて居る。嫗の託した六角水晶の残滓で、自らが取った行動を。忘れる筈等無い、思い出す度に體が震えに襲われる。
企みは成功した。地震が引き起こした雪崩が元になって、磁場が開いた。六角水晶の残滓が時の流れを緩やかにし、機を見計らった青年は皇女を割れた隙間へ送り込んだ。…嫗の言う、『共時並行世界』へ。
嫗は何処迄でも逃げろと言った。あの御方の未来を案ずるので有れば、私達を、村を、城を敵にしてでも護ってゆけと告げた。イリスを頼む、と。
だが――青年は、嫗の言う通りに、二人で一緒に逃げる事をしなかった。
二人で逃げ続けることが、果たして秘匿の皇女の幸せに繋がるのか。此の土地に居る限り、此の次元に居る限り、皇女は柵から解放されない。嫗を残し、村と城を裏切り、共時並行世界へ逃げ遂せて――皇女を護れると言えるのか?
自問自答した中で、答えを導いたのは、落ちて来た少女の存在だった。
この地の統治者である“シェキラス”の刻み名を話しても、反応しない年上の少女。見慣れぬ髪の色、目の色、肌の色。嫗から聞いていた事と同じだった。やや有って、地盤が揺れた。地鳴りがした。磁場が開いたのは『地震』が引き起こしたものだったと思い当たった。
青年の出した答えは明確だった。
共時並行世界へ皇女のみを行かせ、自分は此処に残る。
皇女は雪崩に巻き込まれ、最期を見届けたのが自分だと報告する。
任務を遂行しなかったとして、城の審問会に監禁される一生になると重々承知していた。村と城を敵に回し、術を教えて呉れた嫗を裏切ったのだから。
けれども、事態は違っていた。
青年と少女は、雪崩に巻き込まれた後で、城下町近くの人間に拾われたのだ。
衰弱し切っていた少女は、高熱が三日三晩続いた後で、絶望的な状況から序所に回復していった。
一方で、青年は城の公式な報を耳にした。――秘匿の皇女は病死した。責任を取って、村で秘匿していた一家は焼き死んだ。崩御した皇女の御体は丁重に葬られ、村は聖域地区となって出入りが禁止に為っている。
そんな莫迦な、と青年は耳を疑った。自分は未だ村に『大儀』を果たしたか如何か 報告すらしていない。其れなのに既に村の家が焼かれたと報が来ている。嫗の遺体が上がって来て居ると報告が有る。時機が良すぎた。真逆――嫗は、青年と皇女を送り出す時点で『先読み』していたのだろうか。青年が皇女を如何するか、共時並行世界から来た少女と如何出会うか、然して 青年の出した答えを見通して、『証拠』を焼き払ったと言うのか。
臍を噛む思いだった。村全体で皇女を育ててきた以上、青年に加担したという全ての証拠は消さなければならない。だから嫗は自らと家を焼き消した。今、自分が出て行ったら、生きていると知らしめる事に為り、村の人間にも城の目が行ってしまう。だが、村に行かなければ、全ての事態の把握が出来ない。死ぬ筈が無いと此の目で信じたかった。
加えて身体は、凍傷は完治した筈であるのに、城下町を出る事が適わなくなっていた。村へ戻る積もりで町を出ようとすると、体の震えが止まらなくなるのだ。寄りにも寄って、向かおうとしていた此の城下町に自分が居るとは、皮肉だった。痛くて堪らなかった。秘匿の皇女、嫗、村と板挟みになった精神は、疾うに軋みを上げていた。
歯痒い思いをしながら、城下町で青年は少女と共に過ごし――五年が過ぎた。
「村に行くつもりなら、私も連れて行って欲しいの」。
そんな少女の申し出があったのは、今から三月も前になる。
青年の体と精神の傷が癒えるまでに五年を要した。少女の居場所も出来た今、機会を伺い自分の村へ戻ろうとしていた青年を、少女は勘付いていたのだ。
同じ地の 村から町へ来た青年に比べ、共時並行世界から来た少女の順応振りは凄まじい。
記憶を失っているのか、異国から来たのか――此の土地の言葉も知識も家事も何一つ知らない彼女は、強かに生きた。深く理由も聞かずに家に置いてくれた城下町の店主の下で、最初は病気の老人の看病をし始め、言葉も通じない環境で、皆と意思疎通を図る様に成った。
元々聡明だったのだろう、彼女は瞬く間に此の地の言葉を覚えてしまった。今では進んで店主の手伝いをし、看板娘に為っている程だ。
然して今、青年は 彼女と共に、あの雪の日に向き合おうとしている。
短い様で長い年月だった。秘匿の皇女の声も、青年は忘れ掛けている。
「キリエ」
少女と共に麦の穂を抱えた青年は、小屋を出て 先を歩く彼女の名を再度呼んだ。
「どうしたの。リエス」
振り返った彼女の胸元には、服の下で『六角水晶』が光っている筈だ。青年が嫗から託され、そして復た青年が少女に託した、あの水晶が。
「どうして君は、僕をそう呼ぶんだい。普通、愛称は後ろを略すものだろう」
彼は、本当に聞きたい事柄と違う事を訊ねた。本当は如何でも善い。自分が如何呼ばれるか等、大した問題では無い。だが青年は、是を足掛かりにして如何しても聞いておきたい事が有った。
「……違う。どうでもいい。本当はずっと訊きたかったんだ、きみの」
一呼吸区切って続ける。
「きみの、本当の名前を聞かせて欲しい」
さあっと粉雪が舞い散って行った。
城下町の雪は、水を多く含んでいて湿り気が有る。青年の故郷の様に更々と流れるのは、本格的に降る前の粉雪の時だけだ。
長い黒髪を惜しげも無く麦穂に晒し、少女は麦の穂を抱え直した。
ふるふると首を横に振る。
「私は一度、自分の名前と共に死んでしまったのよ」
麦の穂に隠れて、少女の微笑が見えた。
寂しくて、張り詰めた糸が切れてしまいそうな、そんな崩れる前の表情だった。
「貴方に告げた名前が、今の私だもの。……その名前で私を呼んでくれたら嬉しい」
青年は何も言わなかった。
頭上から雪が舞い落ちて、麦の穂に掛かって行く。
『しあわせはきっとかぜにみずに、ながれるものすべてに、みえないものすべてににてるわ』
「『しあわせは似ている』……か」
空を見上げて青年は呟いていた。
嘗て嫗と秘匿の皇女が、其の言葉を口に出して居たのを思い出しながら。
見えないもの全てに似ている。ならば此れは雪の様なしあわせなのだろう、と皮肉った時が在った。
雪の様に空から現れ、形に残るもの。捕まえた瞬間に手のひらの上で溶けてしまう様な、そんな雪のような限りの有る幸せであると。
だが、今は。
中途半端に残して消えていく、是の雪こそがしあわせの形であると、気付いた。
「ねぇリエス。……雪は、綺麗ね。」
空を見上げながら、少女が同意を求める様に呟く。
「ああ。…ああ、そうだな……」
青年は再度 頭上に目を向けて見た。
白い花弁が後から後から降ってくる。代わり映えのしない灰色が、屋根と屋根で狭まった 町の空から覗いている。罪も咎も無い、無垢な白を一心に降らせている。
苛立ちは――もう無い。
代わり映えの無い空は、此の場所も灰色に染め上げている。
◇◇◇
此れは夜なのか。凍った様に細い月が、真っ暗な闇に浮かぶ夜なのか。
いいや、昼だ。曇天の空が 突き刺すようないたみを呉れる、厳冬の昼だ。
「……イリス。聞こえるかい」
其れなのに何故、声の主の姿が見えない。
何故自分は、其れに答えることが出来ないのだろうか。
「僕はこれから、きみを『此処ではない場所』へ送り出そうと思う。……君が命を狙われない場所に」
意味が解らない。嫗のお使いは如何なったのだろう。大切な人に何かを渡すのでは無かったか。
問い掛け様としても声が出なかった。凍傷に為り掛かってしまったのだろうか――先程の揺れから始まった雪崩に、若しかして自分は巻き込まれてしまったのか。だとすれば此処は何処だろう。目が開けられない。身体が動かせない。だが、声の相手は自分の傍に居てくれた。
「僕は、きみのために生きる」
抱きしめられた。力一杯、胸板を押し当てられた。背中に回された手が、震えているのが分かった。
「だからきみも、生きてくれ」
如何してそんな、切ない声で囁き掛けるのだろう。
嗚咽を堪えた様な、此方の息が止まってしまう声で云うのだろう。
「……生きていて、ほしい」
頷く事も首を横に振る事もできない。せめて、ひとこと伝えたかった。
相手が悲しまないように。笑って呉れるように。
カナン、わたしは――しあわせだよ、と。
【――赦されるなら忘れなければならないなら想いを断ち切ると君に言いたいせめて僕の口から伝えたい。】