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君知るや溶ける白華 5

 粉雪が舞っていた。

 階上から落下しても、痛みは無かった。

 冷えた身体で感覚が麻痺しているのだろう――落下した際、木々の梢に打つかったか、積もり積もった雪が緩衝材に為ったか。不思議な事に未だ生きていた。灰色の空が視界に映り、焼き付ける様に目を閉じる。此の侭朽ちてしまえばいい。しろい此の大地に埋もれてしまえば善いと。

「―――」

「――――」

 異国の言語を遠くで聞いた。仲睦まじく語り合う声。幼い少女が燥ぎ、年上の少年が窘めている。閉じ様としている意識では、耳を澄ます事も侭為らない。だが其の聞き取れない少年少女の遣り取りは、何処か懐かしかった。

 自分にも、あんな風に笑い合って、雪の中でさわいでいた時が有った。窘める役の少年は、何時も傍らに居て呉れた。からかって雪の上に倒れる真似をしたって、困惑と呆れた表情を浮かべ、膝を曲げて、手を此方に伸ばして呉れていた。

「――嘉成かなり

 空に向かって腕を伸ばす。嘗て共に居た幻影の手を、空を掴むと分かっていながら、握り締める。

「お嬢様……」

 途端、其の手を握り返す温かい手が有った。

 何かに後押しされたように、目を開ける。幻影が鮮明に映った。冷えて震えている此方の腕を、血の通った温かい手で力一杯握られる。雪の上にひざまずき、倒れた此方を見下ろしていた。

「…そんなからだで……どこへ、行こうとしたんですか…」

 ――どこへ?

 反芻しようにも、声が出ない。空を掴む筈の掌が、温かい何かに包まれているではないか。

 皺くちゃになった顔。紫色の唇が必死に言葉を紡ごうとしているが、声が掠れてしまっている。初めて会った時に見惚れた、透き通った色の瞳が揺らいでいる。洋燈ランプあかりの様だ。水面の様だ。其の潤んだ虹彩に、自分が小さく映っている。

「俺は……っ」

 ああ、此れはしあわせな夢を視ているのだと思った。

 記憶の中の少年が、こんなに血相を変えて自分に会いに来て呉れる事等、有り得ない。

 落下した時に見た彼の表情は――矢度やっと 呪縛から解放されたと云う、安堵と自嘲の笑みを浮かべていたのだから。

「俺はきっと、あなたを憎むことしかできない」

 其の少年は 此方の手を取り、自らの額に押し付けた。悔恨の念を打ち明ける様に訥々と語る。

 温い水が、感覚の無くなった筈の此方の手に流れ移る。雫が腕を伝い、落ちていく。通った痕が空気に触れた。

「穢すことしか……貶めることしか、できない」

 其処で自分は首を振った。もう終わった事、とでも言うかの如く。

 ……いいえ嘉成。あなたも知らないことがひとつあるわ。

 しあわせな光景を脳裏に浮かばせながら、思う。

 ……あのまま屋敷に居たら、私は確かにあなたの手解きを覚え、愛されることを学んだでしょう。あなたにつけられたこの脣の跡さえも、手のひらに落ちた白華ゆきのように、体温になじみ、やがて消え失せていったでしょう。 

 凍えて感覚のなくなった唇を、無理に動かそうとしながら、願う。

 ……それでも。それでも、ね、嘉成?

 意識が閉じ行くこの躯体からだでは、彼に伝える事が出来ない。

 ……清らかな偽の手を、差し出されるより、私は。

 共に居てくれた。傍で見守って呉れていた。時に窘めて呉れた感謝の意を。

 ……穢れたほんものの手で触れてくれたほうが、私は嬉しかったの。

 嗚呼、自分は今から何処かへ『行く』のだ。

「来てくれて有難う、嘉成」

 せめて微笑んで見せた。もう望みは無い。此の儘一緒に居る事が、枷に為ってしまうのなら。お互いが苦しめられてしまうのなら。

 今、心が触れ合ったこの一瞬が自分にとって全てだ。

「――しあわせだった」



 ◇◇◇



「嘉成さま」

 扉叩ノックの音が聞こえて来て、執事で在る男は目を覚ました。

 暖炉に焼べた薪がぱちりとぜていた。此処は、暖かい。

 気が付けば書斎で眠ってしまったらしい。読み掛けの本が洋燈ランプの揺らめくあかりに照らされている。

「あの、今――お取り込み中でしたか」

「いや、違うよ。うとうととしてしまっていただけだ」

 男は眼鏡を手に取り、扉の向こうに優しく答える。

「入りなさい」

 やや間が空いて、ドアが開いた。洋館の女中メイドに相応しく、黒い衣服に身を包んだ少女が入って来る。

 年の頃は推定十八、九。『推定』であるのは、少女が此の洋館に拾われ、身元不明の儘 働き始めた身分だからだ。

 微かに左手が震えていた。其の震えを隠そうとする為か、彼女は必ず右手を左手に被せて一礼する。

「心配させてしまって悪かった。 ……皆には挨拶してきたかい」

 目を伏せて視線を合わせない彼女に、男は先ずねぎらった。長年仕えている反射的な物か、質問されて少女は顔を上げる。幼い頃は雀斑そばかすを頻りに気にしていたが、今では珠の様な肌と調和して目立たない。淑やかな仕種、柔らかい顔立ちに相まって、混血児かの如く美しく映えるはしばみ色の瞳。誰もが羨む 艶やかな暗金色の髪の毛を黒に染めたいと発言された時には、屋敷の人間が総出で考えを改めさせた程だ。

「……いいえ」

 女中の少女は首を横に振った。男はそうか、と返し、眼鏡の縁を持って掛け直す。

「それなら、出発する前に皆に一声掛けておきなさい。 旦那様が取り計らってくれた縁談だ。あの志村家の末嫡子は、お前を孤児みなしごと蔑まない。きっと幸せにしてくれる」

 良くこんなに穏やかに、美しく育って呉れた物だ。男は内心で彼女を賞嘆した。当時数えで二十だった自分が見つけた時は、あんなにも窶れ、人の仔で無かった様なのに。

「いいえ……いいえ!」

 彼女は問いを否定した。洋物の椅子に腰掛ける此方を確と見る。決壊する前の堰か、駄々を我慢する子供か、感情が溢れるのを抑えている表情を向けていた。男は冷静に訊いた。

「彼をまだ、信頼できないかい」

「いいえ……あの志村様のことを言っているのではありません。わたくしは、ずっと此処に居たいんです。できることなら、この屋敷のために、嘉成さまのために働いていたい。けれど、拾ってくださった旦那様を裏切る真似などできません……!」

 男が何時までも冷静に対処する反動だろうか。はらはらと涙を流して、少女は訴えた。

「ずっとお慕いしておりました。嘉成さま……」

 微動だに出来なかった。一回りは違う少女の切実なる思いが、真摯な声が、部屋に凛と響いた。

 男が少女を見つけたあの日から――十年が経とうとしていた。

 いつかと同じ、地震ない雪崩なだれが発生したあの日、雪の中から一人の少女が助け出された。年は推定、九、十歳。助け出された少女は、服も何処の者か判らない程千切れ、全身が凍傷に為り掛けている有様だった。言葉も理解できず、喋れず、身体も上手く動かせない――今も猶お、少女の左手には麻痺が残っている。

 引き取り手のない彼女を、屋敷で雇うと進言したのは男だった。録に言葉も喋れない少女に、言語を一から教えたのは男だった。生きる術として、屋敷の仕事を覚えさせたのも男だった。

 仕えていた先の一人娘が行方知れずになってから数年が経ち、火が消えたように静まり返る此の屋敷で、彼女は愛らしく振る舞い、皆に愛された。何処か幼さの残る顔立ちに成長した少女に、家主は娘が蘇ったかの様に接した。招かれた上の家柄の末嫡子が縁談を申し入れるのも時間の問題だった。

 自らの罪滅ぼしのように彼女を見守り、育ててきた。縁談も纏まり掛け、肩の荷が降りかかっていた所で待っていたのが――予想だに出来ない 少女のこんな独白だったとは。

「嘉成さま。わたくしは……記憶を失ったのではありません。封じ込めていたのです」

 暫くの沈黙が流れた後で、少女が話し始める。

「覚えております。わたくしは、かつてどこかの村に住み、血の繋がらない兄と共に暮らしていた。兄がわたくしに言い残したことがあります――ですからわたくしは、振り切って生きなければならないのです」

 揺ぎ無い瞳をしていた。青い色が、一層濃く映る。

「あの兄とはもう会えません……いまは、嘉成さまのお傍にいることだけが望みでございます」

「人を心から大事に思うことなど――私には赦されないのだよ」

 沈黙で 男は漸く平静を取り戻し、少女に切り返した。

「私が愛するは憎悪するのと同じだ。良く聞きなさい。私はお前を憎み、穢し、貶めることなどできない。それはお前が、私を含めた屋敷の人間にとっての娘だからだ」

 男は、嘗て己が仕えていた 屋敷の一人娘の姿を思い出す。

 窓から落下し、駆け寄った時にはもう衰弱し切っていた あの少女の事を。

 雪崩が起き、一人娘は助け出されなかった。自分だけが生き永らえてしまった。

 刷り込まれて麻痺した感情だった。憎む事しか出来なかった。穢し、貶める事しか頭に無かった。自分が自由に生りたいが為に、何も知らない相手を追い詰めた。気付けた筈だった。自分が流している涙の意味、狂おしい程の此の感情の名前、――暖かいぬくもり。手を引っ張って呉れた あの手の温かささえ信じていれば、男は 道を違える事等無かった。

虹子こうこ

 少女に近付き、男は彼女のほっそりした手を握る。血の通った温かい体温が、男にも伝わる。

 二度と違える事等無い様に。彼女のぬくもりを確かめる様に。

「お前の名前を旦那様に進言したのは私だ。――“虹彩イリス”、とお前は自分の名前も言っていたからね」

 女中の少女は俯き、ぽろぽろと泣き出す。厭々をするのと同じく、尚も首を横に振った。吃り上げる彼女の手を確り握って、男は感情を込めて云った。

「告げられたことを守るのなら、前を歩かなければならない。私は、お前の幸せを見届けたいんだ。……お前を護ってきた、たったひとりの兄に代わってね。」



 温かい暖炉の傍で、うたた寝をしていた執事は夢を視た。

 例えば其れは、此処より遥か彼方の別の世界、未来でも在り過去でも有り得る場所。

 此処と同じく広がる白い大地の向こう、家裏の小屋で、一人の少女が貯蓄された麦を抱え込もうとする。均等バランスが崩れ、零れ掛けた麦の穂を、傍から慌てて支える少年が居る。やや間が合って、お互いの滑稽な姿に笑い合う。

 慎ましくも平穏な生活。あの少女の隣に居るのは、自分だろうか、其れとも他の誰かだろうか。

 唯 只管ひたすらに願う。

 赦されない物であっても。愚かな物で在っても。独り善がりに満ちた希だとしても。

 如何か、『彼女』が幸せで在る様に。

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