表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

君知るや溶ける白華 4

 森の入り口付近に辿り付いた時、イリスは何かが雪の上に落ちる音を耳にした。

 少し遅れて、ひゅんと冷たい冷気が肌に届く。積もった重みに耐え兼ねて、梢がばさばさと雪を落としていく音だった。

 空が雲掛かっているとは言え、午後に為って雪が溶け始めたのかも知れない。目を瞑って耳を澄ましてみれば、彼方此方あちらこちらで 雪の滑り落ちる音を聞いた。

 ――…とさり。

 だが今の音は、梢と雪が擦れ合う音では無かった。

 予期せぬ出来事の様な気がして、イリスははっと顔を上げる。

「……う……」

 そして、目の前の光景が信じられずに、あんぐりと口を開けっぱなしにしてしまう。

 是れは一体如何した事だろう。少女が雪の上に横たわっている。

 例えば其れが、木に登っていて、足を滑らせて落ちた物なら、彼女の頬に付いた雪も説明が付くだろう。崖から足を踏み外しただとか、雪崩で此処まで流されてしまっただとか、無理にこじつければ納得が行く。 

 だが目の前の少女は――如何と説明出来そうに無かった。イリスが目線を戻した時に、もう其の場に『落ちて』いたのだから。

 彼女の格好は易々と注視出来る物で無かった。ボタンが取れて居るのか、肩を大きく露出し、見慣れぬ行灯袴スカートの裾も捲れ上がって、太腿が露に為っている。

 そして、イリスが最も驚いたのは、其の太腿の間から垂れ流れている『筋』だった。裾が捲れ露に為った太腿の間から、赤色と白濁色が混ざった、薄紅色の液体がつつと伝わり、雪の上に垂れている。

「う、あ……」

 ぞわりとした。吐き気が襲って来る様な気がした。

 恐らく、是の少女は、何処かで、誰かに。

「イリス? どうしたんだ」

 其の言葉にイリスの意識が立ち返る。一緒に歩いていた同郷の幼馴染が、此方に遣って来ようとしていた。慌てて上着を脱いでばさりと少女の上に掛ける。両手を開いて、この光景を見せまいと幼馴染に立ち向かった。

「――……人!?」

 が、所詮イリスの小さな腕では、少女の姿を全て隠し切る事など出来ない。幼馴染は、様子に気我付いた様で 益々訝しみ、此方へ駆けて来る。

「だっ、だめっ! カナンは近寄っちゃ駄目っ!」

 其処でイリスは大声を発した。幼馴染の少年の足が、ぴたりと止まる。

「服がめくれてるのっ! 私が一度直すから、あっち行ってて!!」

「……」

 只ならぬ威圧を感じたのか、少年が引き下がった。

「……小川を探してみる。僕が戻るまで、凍傷フロストヴァイトにならないよう処置しておくんだ」

 イリスが目一杯伸ばしている両手の、その向こう側に居る存在を一瞥し、彼は後ろを向いて歩き出した。



 幼馴染の姿が小さくなった所で、イリスは改めて少女と向き直った。

 上着を退かし彼女の裾を元通りに直す。釦が千切れて肌蹴はだけている上半身に上着を移動し、手持ちの鞄から水筒と綺麗な手拭を取り出した。裾を被せたまま、裾中に手を入れ、太腿の間を拭う。

 ……だれが、こんな…非道いこと……  

 村での情操教育を、イリスは事早く受けていた。奉公に出向く際、また戦が起こった際、望まぬ待遇を受けてしまうのは、大抵村出身の少女であるからだ。

 少女の顔は憔悴し切っている。泣き腫らした跡があった。首には掻きむしった痕があり、辛うじて寝息を立てているが、苦しそうだ。

 この倒れている少女のぼろぼろになった姿を見た際、イリスは自分がされた事の様に気持ちが悪くなった。誰かに同性としての『誇り』を踏み躙られた気がして為らなかった。暴力に訴える事と何ら変わりない。同郷の少年に進んでみせる物でも無い。……もし自分だったら、少年に見られるのは厭だと思った。

 ……とにかく、こんな雪のところじゃなくて、どこかに休ませてあげなくちゃ……

 少年が戻ったら、村へ一旦戻ったほうが善いだろう。

 おばあちゃんのお友達に会う約束の日には間に合うかな、と一瞬イリスは考え、直ぐに否定した。

 この少女の状態と、予め決められた約束を天秤に掛ける物では無い。村の皆も義理の祖母も、義祖母の友人も屹度きっと事情を察して呉れる。如何すれば善いかも、解って呉れる筈だ。

「……っ」

 顔を拭いて遣っていると、瞼の辺りがぴくりと反応した。驚いたイリスは、手拭ごと手を少女の頬の上で離してしまう。数秒経って、少女の目が虚ろに開いた。焦点の定まらない瞳が、此方を捉える。水筒の水が冷たくて、無理やり目を覚まさせてしまったのかも知れない。

「あ、あの……冷たかった、よね…」

 相手を気にする様に途切れるのも当然だった。目の前の少女は自分より五、六歳は上に見える。

「でもいま水筒の水しかなくて…… 本当はもっと温かいお湯で拭いてあげればと思ったんだけど……」

 現況把握が難しかったのだろうか。イリスの言葉を聞いた後で、少女が暫し固まる。

 その固まった状態は、イリスも同じだった。やや語弊があるが、ぼんやりしている姿にイリスは見惚れてしまっていたのだ。黒髪で色白、濃い茶色ブラウンというよりかは琥珀色アンバーの瞳。本でしか知らない、異国に住む少女。見た事のない衣装にすっと伸びる手足が映える。顔には一つも染みが無く、雀斑そばかすに悩んでいる自分とはえらい違いだ。

 だが、次の瞬間、少女のその頬にかっと赤みがさした。自分がされたことの一部始終を思い出し、羞恥心が湧き上がったのだろうか。勢い良く起き上がるが、傷に響いたのだろう、痛さに顔を顰める。イリスは少女の意識を混乱させない様、努めて柔らかく話そうとした。

「あっ、あの、私拭いただけだから!カナンも見てないしっ」

 結局はあわあわする話し方に終わってしまったが。

「……カナリ…」

「え、ええと、カナンっていうのは私の幼なじみで、私を引き取ってもらった家の男の子でっ! お兄ちゃんって呼んだほうがいいんだろうけど、やっぱり私にとってはカナンって呼んだほうがよくてっ」

 困った。何を言っているのか自分でも解らない。目の前の少女だってきょとんとしているではないか。

「…え、ええと……」

 頓珍漢な事を喋ってしまってから、イリスは一呼吸置いた。

「とにかく、私たち、向こうの村から来たの。カナンが来たら、連れてってもらおう?」

「………」

 少女が琥珀色の瞳で、イリスを見詰める。兎みたいな動作だと思った。良く義祖母が教えて呉れた――言葉が通じない動物は、人の発した声の抑揚で感情を見極める。優しい声色を出せば心を開いてくれるし、厳しい声色を出せば警戒するのだ、と。目の前の少女が言葉を理解出来ていないとは考えにくい。だとしたら、彼女が言葉を発しない理由は――発することが出来ないから、だ。

「そうだ!」

 イリスはぱんっと手と鳴らした。びくりと目の前の少女が震えるのを他所よそに、辺りを見回す。雪に覆われていない木下のくさむらを見つけると、大きな葉と防寒の上着を数枚敷いて、彼女を手招きした。

「……あ、あのね! カナンが来るまで、お話してもいい?」

 凍傷フロストヴァイトには気を付けろ、との幼馴染の助言を受けて実行していたのもあったが、少女の緊張を解せないかと思っての事だった。彼女が其の場所に腰を落ち着けて呉れたので、イリスも隣にちょこんと座る。

 ……よかった、嫌じゃないみたいで。

 だからイリスは、考え無しにこう訊ねたのだ。

「あなたはどこから来たの? ひょっとして城下町?」

 聞いてから、自分ではっとした。彼女は口が利けないと知ったばかりではないか。

「ご……ごめんなさい、髪の毛とか瞳の色とか、ここの土地の人じゃないなって……っ」

 物凄く慌ててしまう。目の前の年上の少女の瞳は、物言わぬが上にイリスの胸に突き刺さるのだった。

 勿論少女は悲しそうな顔を向けていた訳でも無く、恨めしそうな顔をしていた 訳でも無いのだが、どうせなら笑っておいて欲しかったのだ。

「えっ、えっとねっ、私のおばあちゃん、昔その城に仕えていたんだってっ」

 如何やらイリスは、余計な気を回すとぺらぺらと喋り出す傾向に有るらしい。自然な気遣いは、幼馴染の方が得意だった。彼に倣い実践してみたのだが、道程は険しい。

「どんなお仕事してたか知らないけど……急に昨日話してくれたんだ。今まで聞いたことなかったからびっくりしたし……でもなんでやめちゃったのって聞いたら、しあわせになりたかったからって云ってた。『何も知らないでいるからこそ、物事いきかた万物あらゆるものと流れていくものだ』、って」

 膝を抱え、うずくまりながら話す。目を瞑ると、昨夜の情景が浮かんできた。難しい話を時折する義祖母だったが、昨夜の様子は、いささか変だった。矢張り城下町で会う予定だった人物と関係があるのだろう。孫である少年にも何か手渡していたようだった。

「よくわからなかったけれど、おばあちゃんが教えてくれたうたは気に入ってるの」

 漠然とした不安を振り払うように、イリスは精一杯笑って見せた。

「“しあわせはきっと かぜにみずに、 ながれるものすべてに みえないものすべてに にてるわ”」


「――……“セイセイルテン”」


 ……え?

 少女が何か呟いたと思ったのは、聞き違いだったのかも知れない。

 何故なら、その意味を問い質そうとする前に、怪しい音が鳴り響いたからだ。

 羞恥で顔を真っ赤にした少女に、ようやくイリスは合点が行った。荷物から黒麺麭パンを取り出し、食べやすいように千切って渡す。少女は恥ずかしそうに俯いていたが、イリスの勧めで口にした。場が気まずくならない様に、イリスは「そうだっ」とたもや手を打ち鳴らす。

「帰ったらスープ作ろうと思ってるんだ。…カナンがいっつも味見いやがるけど。よかったらいっしょにどう、かな」

「……僕は味見じゃなくて毒味が厭なだけだ」

「カナン!」

 後方の声にイリスは驚いてしまった。振り返ると、渦中の人物が水筒と手拭と何か草を手にして突っ立っている。やや襟足に癖のある茶色ブラウンの髪に、灰みがかった濃紺グレイッシュ・ネイビーの瞳。幼馴染でも在り、共に住む家族でも在る少年だった。

「い、いつからそこにいたの?」

「『そうだ』から」少年は抗議するイリスを退け、雪の上に座っている少女に声を掛ける。

「創作料理をしなければイリスは及第点の料理だと思う」

 数種類の薬草を揉み解しつつ、凍傷が有れば塗り込むようにと伝える。てきぱきと動くその様子に、イリスは矢張り「カナン」だと思った。自分は彼女を見て動揺してばかりであったのに、少年は揺るがず的確に動いている。言葉は足りないが、彼は優しいし、面倒見が良い。小さい時から面倒を『見られている』自分が言うのだから、間違いは無い。

 少年は雪の上に膝立ちになると、黒髪の少女と目線を合わせ、ゆっくりと話しかけた。

「僕の名前は、カナンリエス」

 略称された名でなく、正式な名前で自らを名乗る。

「その子の名前は、『シェイディア=アス=シェキラス』。きみの――名前は?」 

 少女の琥珀色の瞳が瞬いた隣で、イリスもまた、瞬きを数回行っていた。

 ……シェキラス?

 何故彼は、国の名前を口に出したのだろう。シェキラスとは、この地に住まう者なら誰しもが知っている、代々統治者ソヴリンの刻み名だ。それを――何故、イリスの名前だと話したのだろう。

 少女はじっと少年を見詰める。それから、何かに気がついたように、視線を落とした。

 その視線の矛先に、少年は気付かなかった。周りにイリスも少女も居ないかの如く、独り言つ。

「やっぱりか。“シェキラス”の名を呼んでも反応しない。ということは――…」

「だ、だめだよカナン!」

 勝手に結論付けようとする幼馴染に、イリスが制止を掛けた。この遣り取りで精神状態や受け答えを試していたとしたら、早合点である。

「この人、まだ喋れないんだから。無理に聞き出そうとしちゃだめ」

「聞き出す? 誰がそんなことしようとしてるんだ」

「カナンがだってば! それに統治者シェキラスの名なんて持ち出してどうしたの? 私の名前は――」

 イリスでしょ、とは最後まで言い切れなかった。話していた途中で、情景がグラリと揺れたからだ。

 例えるなら、目眩めまいだった。立ち眩みが起こり、イリスの肢体が緩やかに曲がる。曲がる、曲がる、落ちていく。だが歪になっていたのは、イリスが見た景色ではなく、地面全体だった。

 周りの木々に積もっていた雪が、一斉に落ちた。猛々しい声を上げて、地滑りした雪が向かってくるのが見えた。

地震アースクウェイク!? 今頃かっ……」

 幼馴染の少年が、胸元の物体オブジェクトを握り締め、忌々しく唸っていた。

 物体オブジェクトは――少年の手の中で鬱金きん色に光っていた。

 目で捉えられたのは其れだけだ。

「――イリス!」

 何が起きたのか分からなかった。抽象的でしか恐怖は表せなかった。白が迫る。ほんの僅かな間に、イリスは暗闇にとざされ、一切の色を、音を、温かさを失った。

 これは夜なのか。凍った様に細い月が、真っ暗な闇に浮かぶ夜なのか。

 いいや、昼だ。曇天の空が 突き刺すようないたみをくれる、厳冬の昼だ。

 ……やだ。こわい。たすけて。やだ。やだ、カナン!

 白い獣は、叫び声すらも掻き消して行った。

 ただイリスを、常闇に鎖したままで。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ