君知るや溶ける白華 4
森の入り口付近に辿り付いた時、イリスは何かが雪の上に落ちる音を耳にした。
少し遅れて、ひゅんと冷たい冷気が肌に届く。積もった重みに耐え兼ねて、梢がばさばさと雪を落としていく音だった。
空が雲掛かっているとは言え、午後に為って雪が溶け始めたのかも知れない。目を瞑って耳を澄ましてみれば、彼方此方で 雪の滑り落ちる音を聞いた。
――…とさり。
だが今の音は、梢と雪が擦れ合う音では無かった。
予期せぬ出来事の様な気がして、イリスははっと顔を上げる。
「……う……」
そして、目の前の光景が信じられずに、あんぐりと口を開けっぱなしにしてしまう。
是れは一体如何した事だろう。少女が雪の上に横たわっている。
例えば其れが、木に登っていて、足を滑らせて落ちた物なら、彼女の頬に付いた雪も説明が付くだろう。崖から足を踏み外しただとか、雪崩で此処まで流されてしまっただとか、無理にこじつければ納得が行く。
だが目の前の少女は――如何と説明出来そうに無かった。イリスが目線を戻した時に、もう其の場に『落ちて』いたのだから。
彼女の格好は易々と注視出来る物で無かった。釦が取れて居るのか、肩を大きく露出し、見慣れぬ行灯袴の裾も捲れ上がって、太腿が露に為っている。
そして、イリスが最も驚いたのは、其の太腿の間から垂れ流れている『筋』だった。裾が捲れ露に為った太腿の間から、赤色と白濁色が混ざった、薄紅色の液体がつつと伝わり、雪の上に垂れている。
「う、あ……」
ぞわりとした。吐き気が襲って来る様な気がした。
恐らく、是の少女は、何処かで、誰かに。
「イリス? どうしたんだ」
其の言葉にイリスの意識が立ち返る。一緒に歩いていた同郷の幼馴染が、此方に遣って来ようとしていた。慌てて上着を脱いでばさりと少女の上に掛ける。両手を開いて、この光景を見せまいと幼馴染に立ち向かった。
「――……人!?」
が、所詮イリスの小さな腕では、少女の姿を全て隠し切る事など出来ない。幼馴染は、様子に気我付いた様で 益々訝しみ、此方へ駆けて来る。
「だっ、だめっ! カナンは近寄っちゃ駄目っ!」
其処でイリスは大声を発した。幼馴染の少年の足が、ぴたりと止まる。
「服がめくれてるのっ! 私が一度直すから、あっち行ってて!!」
「……」
只ならぬ威圧を感じたのか、少年が引き下がった。
「……小川を探してみる。僕が戻るまで、凍傷にならないよう処置しておくんだ」
イリスが目一杯伸ばしている両手の、その向こう側に居る存在を一瞥し、彼は後ろを向いて歩き出した。
幼馴染の姿が小さくなった所で、イリスは改めて少女と向き直った。
上着を退かし彼女の裾を元通りに直す。釦が千切れて肌蹴ている上半身に上着を移動し、手持ちの鞄から水筒と綺麗な手拭を取り出した。裾を被せたまま、裾中に手を入れ、太腿の間を拭う。
……だれが、こんな…非道いこと……
村での情操教育を、イリスは事早く受けていた。奉公に出向く際、また戦が起こった際、望まぬ待遇を受けてしまうのは、大抵村出身の少女であるからだ。
少女の顔は憔悴し切っている。泣き腫らした跡があった。首には掻きむしった痕があり、辛うじて寝息を立てているが、苦しそうだ。
この倒れている少女のぼろぼろになった姿を見た際、イリスは自分がされた事の様に気持ちが悪くなった。誰かに同性としての『誇り』を踏み躙られた気がして為らなかった。暴力に訴える事と何ら変わりない。同郷の少年に進んでみせる物でも無い。……もし自分だったら、少年に見られるのは厭だと思った。
……とにかく、こんな雪のところじゃなくて、どこかに休ませてあげなくちゃ……
少年が戻ったら、村へ一旦戻ったほうが善いだろう。
おばあちゃんのお友達に会う約束の日には間に合うかな、と一瞬イリスは考え、直ぐに否定した。
この少女の状態と、予め決められた約束を天秤に掛ける物では無い。村の皆も義理の祖母も、義祖母の友人も屹度事情を察して呉れる。如何すれば善いかも、解って呉れる筈だ。
「……っ」
顔を拭いて遣っていると、瞼の辺りがぴくりと反応した。驚いたイリスは、手拭ごと手を少女の頬の上で離してしまう。数秒経って、少女の目が虚ろに開いた。焦点の定まらない瞳が、此方を捉える。水筒の水が冷たくて、無理やり目を覚まさせてしまったのかも知れない。
「あ、あの……冷たかった、よね…」
相手を気にする様に途切れるのも当然だった。目の前の少女は自分より五、六歳は上に見える。
「でもいま水筒の水しかなくて…… 本当はもっと温かいお湯で拭いてあげればと思ったんだけど……」
現況把握が難しかったのだろうか。イリスの言葉を聞いた後で、少女が暫し固まる。
その固まった状態は、イリスも同じだった。やや語弊があるが、ぼんやりしている姿にイリスは見惚れてしまっていたのだ。黒髪で色白、濃い茶色というよりかは琥珀色の瞳。本でしか知らない、異国に住む少女。見た事のない衣装にすっと伸びる手足が映える。顔には一つも染みが無く、雀斑に悩んでいる自分とは豪い違いだ。
だが、次の瞬間、少女のその頬にかっと赤みがさした。自分がされたことの一部始終を思い出し、羞恥心が湧き上がったのだろうか。勢い良く起き上がるが、傷に響いたのだろう、痛さに顔を顰める。イリスは少女の意識を混乱させない様、努めて柔らかく話そうとした。
「あっ、あの、私拭いただけだから!カナンも見てないしっ」
結局はあわあわする話し方に終わってしまったが。
「……カナリ…」
「え、ええと、カナンっていうのは私の幼なじみで、私を引き取ってもらった家の男の子でっ! お兄ちゃんって呼んだほうがいいんだろうけど、やっぱり私にとってはカナンって呼んだほうがよくてっ」
困った。何を言っているのか自分でも解らない。目の前の少女だってきょとんとしているではないか。
「…え、ええと……」
頓珍漢な事を喋ってしまってから、イリスは一呼吸置いた。
「とにかく、私たち、向こうの村から来たの。カナンが来たら、連れてってもらおう?」
「………」
少女が琥珀色の瞳で、イリスを見詰める。兎みたいな動作だと思った。良く義祖母が教えて呉れた――言葉が通じない動物は、人の発した声の抑揚で感情を見極める。優しい声色を出せば心を開いてくれるし、厳しい声色を出せば警戒するのだ、と。目の前の少女が言葉を理解出来ていないとは考えにくい。だとしたら、彼女が言葉を発しない理由は――発することが出来ないから、だ。
「そうだ!」
イリスはぱんっと手と鳴らした。びくりと目の前の少女が震えるのを他所に、辺りを見回す。雪に覆われていない木下の叢を見つけると、大きな葉と防寒の上着を数枚敷いて、彼女を手招きした。
「……あ、あのね! カナンが来るまで、お話してもいい?」
凍傷には気を付けろ、との幼馴染の助言を受けて実行していたのもあったが、少女の緊張を解せないかと思っての事だった。彼女が其の場所に腰を落ち着けて呉れたので、イリスも隣にちょこんと座る。
……よかった、嫌じゃないみたいで。
だからイリスは、考え無しにこう訊ねたのだ。
「あなたはどこから来たの? ひょっとして城下町?」
聞いてから、自分ではっとした。彼女は口が利けないと知った許りではないか。
「ご……ごめんなさい、髪の毛とか瞳の色とか、ここの土地の人じゃないなって……っ」
物凄く慌ててしまう。目の前の年上の少女の瞳は、物言わぬが上にイリスの胸に突き刺さるのだった。
勿論少女は悲しそうな顔を向けていた訳でも無く、恨めしそうな顔をしていた 訳でも無いのだが、どうせなら笑っておいて欲しかったのだ。
「えっ、えっとねっ、私のおばあちゃん、昔その城に仕えていたんだってっ」
如何やらイリスは、余計な気を回すとぺらぺらと喋り出す傾向に有るらしい。自然な気遣いは、幼馴染の方が得意だった。彼に倣い実践してみたのだが、道程は険しい。
「どんなお仕事してたか知らないけど……急に昨日話してくれたんだ。今まで聞いたことなかったからびっくりしたし……でもなんでやめちゃったのって聞いたら、しあわせになりたかったからって云ってた。『何も知らないでいるからこそ、物事は万物と流れていくものだ』、って」
膝を抱え、蹲りながら話す。目を瞑ると、昨夜の情景が浮かんできた。難しい話を時折する義祖母だったが、昨夜の様子は、聊か変だった。矢張り城下町で会う予定だった人物と関係があるのだろう。孫である少年にも何か手渡していたようだった。
「よくわからなかったけれど、おばあちゃんが教えてくれた詩は気に入ってるの」
漠然とした不安を振り払うように、イリスは精一杯笑って見せた。
「“しあわせはきっと かぜにみずに、 ながれるものすべてに みえないものすべてに にてるわ”」
「――……“セイセイルテン”」
……え?
少女が何か呟いたと思ったのは、聞き違いだったのかも知れない。
何故なら、その意味を問い質そうとする前に、怪しい音が鳴り響いたからだ。
羞恥で顔を真っ赤にした少女に、ようやくイリスは合点が行った。荷物から黒麺麭を取り出し、食べやすいように千切って渡す。少女は恥ずかしそうに俯いていたが、イリスの勧めで口にした。場が気まずくならない様に、イリスは「そうだっ」と復たもや手を打ち鳴らす。
「帰ったらスープ作ろうと思ってるんだ。…カナンがいっつも味見いやがるけど。よかったらいっしょにどう、かな」
「……僕は味見じゃなくて毒味が厭なだけだ」
「カナン!」
後方の声にイリスは驚いてしまった。振り返ると、渦中の人物が水筒と手拭と何か草を手にして突っ立っている。やや襟足に癖のある茶色の髪に、灰みがかった濃紺の瞳。幼馴染でも在り、共に住む家族でも在る少年だった。
「い、いつからそこにいたの?」
「『そうだ』から」少年は抗議するイリスを退け、雪の上に座っている少女に声を掛ける。
「創作料理をしなければイリスは及第点の料理だと思う」
数種類の薬草を揉み解しつつ、凍傷が有れば塗り込むようにと伝える。てきぱきと動くその様子に、イリスは矢張り「カナン」だと思った。自分は彼女を見て動揺してばかりであったのに、少年は揺るがず的確に動いている。言葉は足りないが、彼は優しいし、面倒見が良い。小さい時から面倒を『見られている』自分が言うのだから、間違いは無い。
少年は雪の上に膝立ちになると、黒髪の少女と目線を合わせ、緩りと話しかけた。
「僕の名前は、カナンリエス」
略称された名でなく、正式な名前で自らを名乗る。
「その子の名前は、『シェイディア=アス=シェキラス』。きみの――名前は?」
少女の琥珀色の瞳が瞬いた隣で、イリスもまた、瞬きを数回行っていた。
……シェキラス?
何故彼は、国の名前を口に出したのだろう。シェキラスとは、この地に住まう者なら誰しもが知っている、代々統治者の刻み名だ。それを――何故、イリスの名前だと話したのだろう。
少女はじっと少年を見詰める。それから、何かに気がついたように、視線を落とした。
その視線の矛先に、少年は気付かなかった。周りにイリスも少女も居ないかの如く、独り言つ。
「やっぱりか。“シェキラス”の名を呼んでも反応しない。ということは――…」
「だ、だめだよカナン!」
勝手に結論付けようとする幼馴染に、イリスが制止を掛けた。この遣り取りで精神状態や受け答えを試していたとしたら、早合点である。
「この人、まだ喋れないんだから。無理に聞き出そうとしちゃだめ」
「聞き出す? 誰がそんなことしようとしてるんだ」
「カナンがだってば! それに統治者の名なんて持ち出してどうしたの? 私の名前は――」
イリスでしょ、とは最後まで言い切れなかった。話していた途中で、情景がグラリと揺れたからだ。
例えるなら、目眩だった。立ち眩みが起こり、イリスの肢体が緩やかに曲がる。曲がる、曲がる、落ちていく。だが歪になっていたのは、イリスが見た景色ではなく、地面全体だった。
周りの木々に積もっていた雪が、一斉に落ちた。猛々しい声を上げて、地滑りした雪が向かってくるのが見えた。
「地震!? 今頃かっ……」
幼馴染の少年が、胸元の物体を握り締め、忌々しく唸っていた。
物体は――少年の手の中で鬱金色に光っていた。
目で捉えられたのは其れだけだ。
「――イリス!」
何が起きたのか分からなかった。抽象的でしか恐怖は表せなかった。白が迫る。ほんの僅かな間に、イリスは暗闇に鎖され、一切の色を、音を、温かさを失った。
これは夜なのか。凍った様に細い月が、真っ暗な闇に浮かぶ夜なのか。
いいや、昼だ。曇天の空が 突き刺すようないたみをくれる、厳冬の昼だ。
……やだ。こわい。たすけて。やだ。やだ、カナン!
白い獣は、叫び声すらも掻き消して行った。
ただイリスを、常闇に鎖したままで。