君知るや溶ける白華 3
「教えて呉れないかしら」
凍った様に細い月が、真っ暗な闇に浮かぶ夜だった。
「あなたは……ずっと、私を貶めようとしていたの」
開け放たれた窓から、ひゅるりと冷気が押し寄せる。
窓に備え付けられた緞帳が、翻って音を立てる。
窓際に座る少女は、乱れた服装と髪のまま、寝台の上の嘉成に訊いた。
哀れみも怒りも憐憫もなく、ただ淡々と、感情を内に潜める様に。
◇◇◇
「今抜け出せば、気が付かれないで外に行けると思うの」
家庭教師が指示を出して、部屋を出て行った後。窓の外をぼんやり見ていたと思っていた少女が、こっそりと耳打ちしてきた。
独逸語の書取を真面目にしていると思ったら、一頁も終わらずに是である。
口を開けば、出てくるのは勝気な言葉。道を歩けば、先導を歩いて振り返る。煩瑣回避を悪びれずに提案するこの少女こそ、片桐家の一人娘であり、山江 嘉成が仕える相手となった主であった。
少女のお守り兼お目付け役兼、話し相手で幼馴染でもある少年は、さてこの提案を如何切り返し、勉学に勤しませようかと考えた。
「溶ける前に嘉成だって見たいでしょう。雪」
如何にも気を利かせた姉ぶるが、外に出たいのは少女の本心である。
嘉成は暖炉の暖が隅々まで渡った部屋で、ちらりと西洋風の窓の外を覗き見た。
灰色の曇天の下には、誰の足跡も見当たらない銀色の裏庭。
午後には屋敷の者と庭師が除雪に入るだろう。数時間後には、一面の白色が茶色塗れになってしまうに違いない。
「……ね?」
少女はもう椅子から立ち上がって、此方に手を伸ばしていた。
この少女が時折見せる表情に、嘉成は不意打ちを喰らってしまう事が多々有る。
少女の姿と行動が相反しているから、余計にそう思ってしまうのかも知れないが――初めて挨拶した時から嘉成は感じていた。
目と鼻の造詣が明確に顕れているのに対し、少女の口元に浮かんでいるのは柔和な笑みなのである。不均等の美とでも言えばいいのだろうか。嘉成には、いつか見た異邦の裸婦像が思い起こされるのだった。気高く、美しく、清らかで在る少女。いつでも彼女は、屋敷の小さき姫だった。
しょうがない、と嘉成は肩をすくめた。面倒事にも、屋敷の人間を論破する弁論術にも、もう慣れた。
差し出された手に自分の手のひらを乗せた。
少女が握る。手の甲を引っ張られ、屋敷の中を駆け出して行く。
温かいぬくもりが在った。
――此処を抜け出せたらどんなに良いだろう。夜が来る前に、彼女と一緒に。
だが、其の手の温もりが、却って己の被虐心を深く抉り、痛みを増幅せしめているとは知らなかった。
昼は少女の傍に居させ、思考を覚えさせる。
夜は少女から離し、女中に依って少女の嗜好を叩き込む。
其れは嘉成が一人娘の『付き人』として生り得るに、避けて通れない試練だった。
嘉成は夜が来る度に震えていた。女中達が代わる代わる遣って来て、嘉成の自由を利かなくさせるのだ。
心の内で厭だ止めたい痛い気持ち悪いと思っていても、身体は悉く嘉成を裏切った。
女中達の嗅がせる香に反応し、一挙一動を抑制され、自分のとは思えない声を出した。
そうして屋敷で数年の試練を受ける内に、嘉成は服従から支配に立場を逆転させる術を覚えていた。
こうすれば嫌が応にも反応し、歓喜に震え、大人しくなり、全てを委ねる様に為る。
手練手管と抗う術を知ってしまえば、今迄精神で感じていた不快が、嘘の様に晴れた。
温かい身体が、酷く生温い肉の塊に思えた。
蕩ける蜜の声が、狂った猫の鳴き声に聴こえた。
涎を見っとも無く垂らして、乞うて来る生き物が、彼には酷く浅ましい物に感じた。
相手の目を塞いでしまえばいい。手足を自由にさせて、仰け反らせてしまえばいい。
然し、嘉成は気付いたのだ――自分が、特定の匂いと、特定の声にしか反応しなくなった事に。
自分が見て良いと思う物、善しと感じる物が、誰かと似通っている事に。
彼は少女の全てを覚え込まされていた。やがて少女に教え込む自分の使命も刷り込まされていた。
覆そうとして、抗おうとして、術を覚え、優越感を抱いたのは過信だった。
刻印付されていたのは――紛れもなく自分で有ったのだ。
「礼を言うわ、山江 嘉成。あなたの力添えがあったから、皆を楽しませることが出来たのよ」
知らないのだろう。この少女は、親が如何な事をして上に伸し上がって来たかを。
右腕の使用人の息子を、一人娘を懐柔の道具にして、如何な計算と策略を立てているかを。
今――其の使用人の息子が、何を考えているのかを。
其れであるから、茶話会が終わった夜半過ぎに、嘉成の部屋に遣って来たのだ。
疲れているのに訪ねて御免なさい、直ぐ帰るから、一人娘はそう前置きした。
屋敷内とは言え、嘉成が少女に仕える側に在るとは言え――傍から見れば、年頃の娘が同伴者も無しに若い男の部屋に出向く図である。目撃された場合、誰の責になってしまうかという内情を、分かっての事だったのだろう。
「あなたは立場を考えて接してくれているのだと思うけれど……時々なら、昔のように話してもいいかしら」
堅苦しい迄の敬語で話して、遠避けていた筈だった。其れなのに少女は笑う。微笑んで見せる。嘉成が、立場上から彼女を突き放したと考えている。
本当は、裏表など無いであろう片桐家の一人娘を見る度、心の何処かが軋んでいくのを感じたからだ。
得体の知れない物を抱え、曝け出してしまいそうだったからだ。
彼女が通る度に、彼女と形式通りの言葉を交わす度に、嘉成は頭の中で片桐の一人娘を蹂躙し、喰らい、屈服させていた。幾度も少女が乞う姿を夢想した。少女の姿を消そうとして、嘉成は夢の中で少女を穢していた。七年の間に植え付けられた感情は、確実に嘉成を侵食していた。
廊下に明かりが燈っている。ゆらりゆらりと揺らめき、少女のレース生地を暖色に染めている。
少女の問いに答えた嘉成は、そのままぐいと髪を掴み、顎を近づけて呼吸を塞いだ。
夢想の出来事と同じく、言葉で脅し。刻印付されたことと同じく、丁寧に剥ぎ取り、舐め取っていき。
四肢の自由を奪い、一方的に虐げた。
――嗚呼、解った。
狂おしい程の是れは、この感情の名は……
◇◇◇
「憎悪ですよ」
肌を凍傷くような冷気が、二人の髪を揺らした。
努めて冷静に訊く少女に、嘉成は対峙する様に笑って答えた。
「俺は刻印付を克服出来たと思った。……けれど間違いだった。あなたが居る限り、俺は呪縛から逃れられない」
細く為った月の僅かな光が、部屋に入る。反して、窓際の少女の瞳は、何の光も燈していなかった。
「だから、あなたを追い詰めて、貶めて、自分が自由になりたかったんです」
酷く冷えている。部屋も。外も。この様子を第三者の如く冷静に見続けている、嘉成の心も。
「そう」
そして少女は、嘉成の言葉を聞くなり、虹彩を燈さない其の瞳を閉じた。
「だったら今、私が嘉成を放ってあげる」
過去に勉強部屋から抜け出した時のごとく、如何にも気を利かせた姉ぶって、口角を曲げた。
「……ね?」
立ち上がり嘉成に向かって手を伸ばしてきたと思ったのは、錯覚だった。
少女は相手の意志を慮る一言を問い、柔和な笑みを湛えていただけだったのだから。
屋敷に囲われ、使用人たちに傅かれ、小さき姫はただ愛された。
其れ故に脆く、儚い存在だった。
切迫感にも似た錯覚に身を任せた嘉成が、手を伸ばし掛けた其の時――地震は起こったのだ。
契機にして、嘉成は我に返った。少女が重心を窓の外に向ける。手を窓枠から突き放す。
地震の兆候の揺れが起こる中、嘉成は見ていた。緩りと其の情景を見続けて居た。
欧州調の懐古服が、沙い月の光を受けて青白く映る。釦が弾け散った跡と、開けた肌に自分が付けた痕。数々の痕跡が確りと解った。
跳ねた魚が放物線を描いて戻る様に。
どさり、と。
其の鈍い音は、冷たい風が頬を撫でたのと同時に、嘉成の耳に入って来た。
凍った様に細い月が、真っ暗な闇に浮かぶ夜だった。