君知るや溶ける白華 2
雪の広野は果て無く続き、全てを覆い隠してしまう程に真白かった。
先程まで降っていた雪は止んでいた。此の侭先に進めば吹雪に遭わず、城下町に行けるだろう。
カナンは手袋の上から雪を掬い取ると、握って潰さぬよう気を付けながら空気中へ離してみた。僅かに出た風に、さらさらと流れていく。直に手で掬えば、指の間を通っていく雪の感触を確かめられただろうか。
そんな思いも頭を過ぎったが、今体温を下げる事は避けたかった。
十回目の星の巡りの日は過ぎた。定められた掟は、速やかに遂行しなければ為らない。
カナンはすっくと立ち上がると、銀世界の中に居る誰何を探した。
先程、自分の手から離れて、雪の広野に駆け出してしまった少女の事だ。
すぅと息を吸い込む。怒鳴れ声色にならないよう気を付けながら、少女の名前を呼んだ。
「――イリス!」
栗色の髪の毛を帽子で覆った少女。榛色の瞳と、微かに在る雀斑が愛らしい。
彼女はカナンの窘める声に気が付くと、名を呼ばれた仔犬の如く、緩やかな弧を描いて戻ってきた。
「ねぇねぇカナン! 見て」
この地に生まれてから、幾度も見た景色の筈だ。其れでも、村を抜け出して来た解放感で一杯に為ったのか、一面の銀世界の上で跳ねていた。村一番のお転婆に育った三つ下の少女は、笑顔で手の平を広げて見せる。
「こんな風に雪を手のひらに乗せてるとね」
「……溶けていくんだろう」
カナンが溜め息を見せ付けてやると、少女は先手を打たれてきょとんとした。が、次の瞬間に、ぱあっと目を輝かせて同意する。
「そうなの。ひらひら落ちてきた雪がじわじわ水になるの! ひんやりして気持ちいいんだよね」
…この少女に厭味は通じないらしい。
雪が嬉しくて仕様が無い、と身体全体で表現する少女に向かって、カナンは努めて冷静に諭そうとした。
「イリス。きみは凍傷になりたいのかい」
「…凍傷?」
「ほら、直ぐ手拭で水を取って。手袋を着けるんだ」
うん分かった、と素直な声が返ってきた。カナンに手渡された手拭で、少女は手の平の水気を拭き取る。
革の手袋は家を出る時に手渡されたものだ。表地を牛の革で、裏地を兎の毛並みで揃えた上等の品。親指の付け根の部分に押された刻印。――他ならぬ、城の皇家だけが身に付ける事の出来る代物だった。
手袋を嵌めた両手を擦り合わせ、温かい息を吹き掛ける少女。
其の無邪気な仕種を見遣りながら、カナンは思い返していた。
「――いいかい。お前は、『あのお方』を城まで届ける義務がある。
あのお方はいずれ、この国の礎になる運命にある。そしてお前は、あのお方をこの国の人柱として崇める定めにある。
でなければ、私たちが命を賭けて秘匿してきた意味がない。あのお方を 他の子どもたちと同じく育てて護ってきた意義がない。」
物心ついたときから、繰り返し家の嫗に言われてきた言葉を。
『先読み』が出来るカナンの嫗は、長年城で術者として仕えてきた。能力で先を探り、国の繁栄へのよりよい道を提示する役目だ。呪術の能力が衰えてからは、退任し、城より遠く離れた村で家族と暮らしていたのだが、ある勅命を賜ったのだと言う。
『人柱』の秘匿。それは、五百年に一度、万物に捧げる定めに生まれた皇族の娘を、十の星の巡る日まで、匿って育ててほしいというものであった。
そしてカナンが数えで五つになる時、その少女はカナンの新しい家族としてやって来た。
まだ三つにも満たない彼女は、泣いてばかりいた。環境の違いに怯えていたのだろう。それでも、此処は危害を加えない場所であること、村の誰もが歓迎していること、新しい家族になりたいということ……村の人間が教えていくと、よく笑う様に為った。
あれから――星は巡った。
怯えていた彼女は、自らを 何かの事情で預けられた子供だと悟った一方で、活発な少女に成長した。今では 村一番のお転婆娘として周囲の人間を梃子摺らせるようになったほどである。
「他の子どもたちと同じく育てて、護ってきた意義がない」――嫗の言った事は確かだ。村の大人達が、少女を皇族の人間だと特別扱いしたことは無い。むしろ、他の子らと訳隔てなく叱り、褒め、育ててきた。カナンも同じく、少女を妹として叱り、褒め、護ってきた。こんな日がいつかやって来るとわかっていながらも。
「カナン、城下町にはあとどのくらいかかる?」
くいくいとカナンの服の裾を引っ張り、少女が無邪気に訊ねてきた。
『嫗の旧い友人に会って、手紙と品と渡して欲しい』、是れが少女を城下町まで連れて行く口実である。一度は城下町に行きたいと少女が言い出すのを加味していた。長い旅路を我慢できたら、帰りに城下町で上等の服を仕立ててもいい……その提案に、少女は喜んでカナンについてきた。
知らないのだろう。嫗の旧い友人とは、城の人間のこと。品とは、献身する少女そのもの。上等の服とは――彼女が身を清める際に着る最高級の絹の服の事だと。
「おばあちゃんのお友達、きっと私たちのこと待ってるよね」
――待っている。五百年に一度、贖ってくれる『人柱』の存在を。
この少女を城に届けて、一帯はどうなるのか。城の人間に受け渡した後の事を、カナンは推し量った。
数日の間に通達が出て、城下町は元より、離れた土地の者までもが『人柱』の儀礼を知るだろう。
隠されていた末の皇女の存在を知り、人々は新しい名前で皇国と皇女を讃えるだろう。
少女は、数ヶ月の間に身を清められ。呪術を施され。白い服に着飾り。呪術者たちの手によって。その胸目掛けて、剣を刺されて。血は崇高なものとして振舞われ。肉は細切れに。名は永遠に。
以後の五百年間を安寧に過ごせる『礎』として、その名を城に刻み付けるだろう。
五百年。
その年月の為に、この少女は犠牲になるのか。
村の人間も、嫗も、その安寧の五百年の為に、少女を偽りの笑顔で育ててきたのか。
……ちがう。何を考えているんだ、僕は。
ふっと湧いた思考を、カナンは慌てて否定した。どんな思いで、嫗が自分たちを送り出したか。どんな思いで、城の人間を迎えを拒み、この役目を託してきたか。忘れてはならない事を思い出したからだ。
「私ね。おばあちゃんのお友達に、伝えたいことがあるの」
歩みを止めてしまったカナンを促そうとしたのか、少女が先を歩いた。踝まですっかり入ってしまう雪道を、とっとっと間隔を開けて、片足ずつ交互に跳びながら進んでいく。
「……そのお友達が、私をおばあちゃんに預けていったひとだったら、だけど」
はっと胸を突かれる。どう切り返していいものやら、カナンは迷った。「お友達」が自分の出生にまつわる人間だと薄々気付いていたのではあるまいか。行っても良いと言われた場所が、外れの村に住む十の娘が容易に行ける処ではないのだと感づいたのかも知れない。どちらにしろ、カナンには肯定も否定も出来ないのだ。答えは、そのどちらでもないのだから。
「話したいな。カナンやおばあちゃんや村のみんなと、楽しく過ごしてるって。そりゃあ、おばあちゃんみたいにうまく縫いものは出来ないし、凝ったお料理はまだ修業中だけど……裏のおばさんに教わって、野菜作りの才能あるわって褒められたんだよ」
朗々と話す目の前の少女を追う事が出来なくなって、カナンは目を逸らしていた。彼女の目を見てしまえば、嘘が曝け出してしまう様な気がしたからだ。……否、カナンは嘘を吐いていない。少なくとも、彼女を前にして嘘を吐いた事など無い。騙して来たと、罵られるのが厭なだけだ。五百年の安寧の為に、偽りの笑顔で見て来たのかと、問い質されるのが怖いだけなのだ。
「村のどの男の子よりも数を覚えられるし、魚だって釣ってこられるし。カナンだって知ってるでしょ?エリック先生が、私の作った人参と、釣った虹鱒で美味しい野草料理作ってくれたこと」
だが、そんなカナンの心中を他所に、少女は口を果敢に動かした。さく、さくと雪に入っては出てを繰り返し、先を綴る。広大に広がる雪の大地に、彼女が歩いた軌跡が残っていく。
「だから――」
少女の屈託ない話を聞きながら、カナンは空を見上げる。吐き出した自分の息が、白い煙になりながら空へ上っていく。
……灰色だ。
思わず左手で、首に掛けた六角水晶を握り締めていた。
「離れてても、私のことは心配しないで、って――」
「――カナン。おまえに、言っておきたいことがある」
出発する前日の夜。少女にとっては暫しの別れる前の宵であり、嫗にとっては今生の別れとなる宵だった。少女が寝静まった後に、嫗はカナンの部屋を訪ねて来た。差し出されたのは、鎖に巻かれた六角水晶だった。
「わたしの『先読み』の能力は、家族の誰にも受け継がれていないと伝えたね。……だが、おまえには、少しだけだが有るんだよ」
鎖に巻かれ、重心を真中に保つ透明な水晶が、嫗の手の下で揺れていた。カナンが受け取ると、しゃらん、と金属の擦れ合う音が、夜の部屋に響いた。
どうしてこれを? 言いかけたカナンの問いを遮って、嫗が先に切り出した。
「この土地の向こうに、磁場が開く場所がある」
普段耳にしない単語だった。恐らくは呪術用語だろうか。家で『先読み』の能力のことを一切話そうとしない嫗が、単語を話に持ち出したのは始めての事だった。
「わたしの読みによれば、これから何がしかの理由で場所の一部が歪む。うまく行けば、共時並行世界へ繋がるかも知れない」
淡々と、嫗が話した。限られた知識を、最低限だけでも教える様に。
「もしお前が義務に抗ってでも、あのお方の未来を案ずるのであれば――」
其れは、嫗なりの秘めた決意だったのかも知れない。城での勅命を裏切ってでも、反故しても、国の安寧を引き換えにしてでも――少女の行く末を思った、言葉。
「何処まででも逃げておゆき。……私たちを、村を、城を敵にしてでも、護っておゆき」
その時の嫗の切ない顔を、カナンは頭から切り離すことが出来ない。
「『イリス』を、頼んだよ。」
嫗が、少女を 家族の一員として呼んだ、其の夜の事を。
“これから何がしかの理由で場所の一部が歪む――”
「どうしたの?」
少女の一声で、意識が立ち返る。
握り締めていた六角水晶は、体温に馴染まずまだ冷たかった。
嫗の言葉を察するに、磁場の歪みでこの水晶が反応するということだろう。
六角水晶には、嫗の能力の残滓が入って居る。何某かの理由で、力が引き出されるとしても――共時並行世界へ繋がるとは如何云う意味だろう。逃げるとは……村を、城を、敵に回してでも彼女を護れとは、嫗は何を提示している?
ずっと考えている。大義と、使命と、世界の安寧、秩序。一人の少女を礎にする事と、五百年の安寧の約束とは同義であるか否か。幼き頃より、自分に課せられてきた使命を、義務を全うしようとしていない自分の此の揺らぎは――赦される行為なのか。
「……イリス」
六角水晶を手から離しながら、カナンは其の名を呼んだ。城へ受け渡せば、生涯呼べなくなる 皇女の仮初の名前だった。
「なあに。カナン」
ずっと考えている。屈託無く返して呉れる この少女が居なくなる其の日を。自分で望む望まないに関わらず、『人柱』に成る為に少女が生まれてきた意味を。
「きみは……いま、しあわせ?」
カナンが問い掛けると、彼女はにこりと笑う。そして、如何してかふるふると首を横に振った。
「“しあわせはきっと かぜにみずに、 ながれるものすべてに みえないものすべてに にてるわ”」
詩の詠唱の様な言い方だった。呆気に取られたカナンを置いて、少女は 彼方の森を指差しながら、元気良く駆け出していく。
「つまりはそういうことだって、おばあちゃんが言ってたの」
カナンの傍を離れて、白い景色の中を走っていく。
「だからね、きっと――あとでしあわせって思えるのが、しあわせってことだよ!」
“幸せはきっと風に。水に。流れるもの全てに。見えないもの全てに、よく似ている。”
見えないもの全てに。ならば此れは雪の様なしあわせなのだろう、とカナンは皮肉った。
雪の様に空から現れ、形に残り。捕まえた瞬間に手のひらの上で溶けてしまう様な、そんな 限りの有る幸せで在ると。
苦笑しつつ、カナンは再度 頭上に目を向けて見た。
白い花弁はもう降って来なかった。代わり映えのしない灰色が、天蓋を覆っているだけだった。
そう、苛立ちをぶつけられる存在など――灰の空の何処にも居やしない。