君知るや溶ける白華 1
【今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな】
「冗談、でしょう」
息まで凍り付いてしまいそうな、冷え切った夜だった。
雪が止んで、昏黒の空に浮かぶのは半月。部屋に燈ったのは、弱弱しい月明かり。
孝子は寝台の上に組み伏せられている。手首を確りと押さえ付けられ、結わきを解かれ、白い敷布の四方に黒髪を投げ出している。
――今、自分を見下ろしているのは、誰なのか。
嘘だ、と孝子は頭を振った。信じたく無かった。だが、部屋に押し入って来た相手は、態と孝子の前に顔を突き出した。相手の髪の毛が、自分の鼻にぱらぱらと流れて当たる。月明かりが、暗闇の中で蠢く顔を明確に照らし出す。
「冗談ではありませんよ、お嬢様。俺はあなたが嫌いでした」
皮肉めいた口調が、暗くて寒々しい室内に響いた。
獣にしては低く、闇く、憎悪を向ける――声だった。
「あなたさえ居なくなれば、俺は自由なのだから」
君知るや溶ける白華
あれは、孝子が数えで十に生った時の頃だ。
萌える季節の午後だった。洋装で出て来る様に云われた孝子は、女中に着替えさせられ部屋を出た。
屋敷の広間で待って居たのは、父と父の執事と、同じ年位の見知らぬ少年。
「孝子。今日から山江の息子が、片桐家に奉仕見習いとして出入りする。彼に挨拶なさい」
父の云う通りに、洋服の裾を広げてお辞儀した。一つ下だという少年は、ずっと孝子を見詰めていた。
……何て透き通った目をした子なんだろう。
胸が高鳴るのを感じた。見惚れて其の次が告げられない孝子に、少年は、憂いを湛え微笑んだ。
「山江 嘉成です。よろしく」
片桐家に奉仕するなり、少年は、序所に其の頭角を顕して行った。彼の立ち居振る舞いに、屋敷の者は目を見張った。山江が孝子の父の敏腕な執事だった様に、少年もまた、右腕に為る様な力を宿していたのだろう。
父は孝子に是う云った。山江の息子は、彼れと同様に腕が立つ。必ずお前の役に立つだろう。だからいつでも傍に置き、共に学び、お前が指示をしてやりなさい。
然うして、孝子の隣にはいつも山江の息子が居るように為った。父の言付が有る事は勿論だったが、何よりも孝子自身が、望んで少年を連れていた。
少年は屋敷の中では良き奉仕見習いであった。裏山へ行く時は孝子の警護役であり、お目付け役だった。庭で居る時は孝子の遊び相手であり、話し相手でもあった。二人で居る時は、敬語を使わずに話して呉れた。我が侭を云えば、諭して呉れた。其れが孝子には嬉しかった。
……考えて。考えて、孝子。
溜まった涙を、舌でじっくりと舐め取られる。甚振られる様な其の過程に耐えながら、孝子は思考を巡らせていた。
相手の様子が奇怪しくなったのはいつか。
外の出掛けに応じなくなったのはいつ頃からか。
二人でも敬語を使うようになったのはいつか。
遜るまでの言葉を使うようになったのはいつか。
執事らしくなっていく少年に、自分が距離を感じる様になったのは、いつなのか。
「あなたと会ったのは、俺が数えで九つ、あなたが十の時でしたね」
思い出を語る口調だったが、少年の行動には落差が有った。瞼から頬、首筋に渡って、粟立つ肌を舌で辿っていくという行為は、屋敷の一人娘を貶める以外の何物でも無かった。
「七年です」
カリ、と小さな音がした。少年が、口で孝子の襟元の釦を外しに掛かっていた。
一つ目を外し終えると、少年は顔を引き上げる。孝子の茫然自失としている姿を見遣り、満足げに笑った。
「俺はこの家に来てから、あなたの嗜好と思考を徹底的に覚えさせられました。何を考えているか。次に如何したいか。如何されたいか。……自分の意思とは無関係に、七年間も」
薄闇に浮かぶ少年の目が、孝子の身体を降下する。開いた襟元から覗く、喉元。次に鎖骨。華奢な身体の線。襟元に視線が戻ったかと思うと、少年は孝子の服の襟を口で咥えた。奥歯を使って噛み直し、其の儘象牙色の布地を勢い良く引き裂いた。
「俺がこの家に来た本当の理由――教えてあげましょうか?」
釦が弾け飛ぶ。白い網目刺繍が綻ぶ。洋物の懐古服だとして、父が茶話会用にと設えて呉れた物だった。肩と胸元を晒された格好になり、孝子は短く呻いた。
「やッ……」
かたかたと歯が鳴った。少年に四肢の自由を奪われ、発した自分の声は余りにも無力だった。
「あなたはずっと俺を信頼してきたんでしょう? 如何思われていたか知らないで、俺に笑い掛けてきたんでしょう?」
理性の無い獣が、こんな含み笑いを見せるものか。
口元を柔らかく曲げて、翳りを帯びた目で、侮蔑を表す表情を向けて来るものか。
孝子は未だ信じている――こんな含み笑いを、嘉成がする筈、無い。そんな欺瞞に満ちた目を、私に向ける筈が無い。これは夢だ。日没前に疲れて寝てしまったのが不可ない。だって嘉成は、今日の茶話会を屋敷の人間と一緒に援けて呉れた。誕生日おめでとう御座いますと云って呉れた。お父様だってお母様だって、是れで孝子も縁談を探せるようになるって――
「俺はね、孝子お嬢様」
上から抑えつけられていた両手首の圧迫が、更に強くなる。
「お嬢様と笑顔で話している裏で、『是れ』は如何な風に扱えば俺に媚びねだる様になるだろう、そう思っていたんですよ」
有無を言わさない威圧があった。理性を未だ残す其の寒々しい目を見るなり、体躯が震えた。四肢の自由を抑圧され、屈伏されている恐怖に。裏切られた事に対する深い絶望に。元凶の相手を身体に跨がせているという、脅威に。
「………め……っ」
止めて。止めて頂戴、ねえ嘉成!
震える声でそう懇願しても、ただ嗚咽が漏れ、目に涙が溢れるだけだった。
願いは聞き入れられなかった。少年は冷えた目で見下ろすと、乱れた服の裾を目繰上げた。喰われる寸前の草食獣が、覚悟出来ぬまま肉食獣の牙に掛けられる様に、孝子は少年の行為に蒼褪めるしか無かった。
少年が孝子の片脚を押し遣った。宛ら、猛獣が相手の意思を問わぬ儘、捕食対象の喉元に牙を突き刺す様に。開かせ、固定し、全体重を掛けて孝子の動きを封じた。
其の途端、孝子は身体を仰け反らせ、声に生らない悲鳴を上げた。
塞がっていた扉を、何の準備も無しに抉じ開けられたのが分かった。
割り込まれる。捻じ伏せられる。潰される。掻き回される。侵食される。
心が、引き千切られていく。
抵抗する力も疾うに失せた孝子に、少年は尚も囁いて突き落とした。
「止めることは許されません。……あなたの父上は、あなたの純潔より、手解きを覚えて良い家柄の男に嫁ぐことこそ重要と考えていらっしゃる」
吐息混じりに聞いた言葉こそ、阻喪の孝子を追い詰めるには充分だった。其の内に孝子は、自分が何をして、如何な情況下に居るのかが曖昧になった。涙で滲んだ目では何も見えない。血と汗と生臭さで利かなくなった鼻、ただ異物を押し込まれて鈍くなった感覚、五感の内の四感が急速に機能を失い、其処に誰が居るのかすらも曖昧にした。
聴こえて来るのは、跳ねて押し留まる水音。此方を貶めるだけの密やかな声。荒く、不規則な息遣い。声にも成らない、喉で鳴るだけの嗚咽。
「そのうちにあなたは、手練手管を身に付けることになるでしょう。その身体に男の毒を染み込ませるようになるでしょう。そうしてあなたは、どこぞの貴婦人だ」
生気の抜けた孝子に、少年は宣告した。
孝子は目を瞑って遮断しようとする。未だ聴こえる密やかな声。水音。荒い息遣い。
――いつだっただろう。家庭教師の目を盗んで、孝子はこっそり相手に耳打ちしたことがあった。
退屈な授業を放り投げて、外へ連れ出した。雪が綺麗に降り積もった次の日だった。
何処も彼処も真白くなっていた。未だ除雪されていなかった庭園は、靴跡をくっきりと残した。
生まれてから何度も見た景色だった。其れでも、抜け出してきた解放感で一杯に為って、銀色の世界を駆け出していた。荒い息遣いで、後ろを早くと促した。
相手を待っている間、雪を掬ってみた。手のひらに乗せた途端、結晶が体温に馴染み、じわりと肌を濡らした。握り締めると、液体がぽたりと垂れて、雪の大地に流れていった。
ねぇ嘉成。見て。こんな風に雪を手のひらに乗せると、溶けていくのよ。
振り返って見せて遣ると、少年は大人のように微笑み、頷いた。
其の顔が――思い出の中で笑っていた相貌が、緩りと嘲笑に変わった。
迸って滑る音が聴こえた。相手の体温が遠ざかる。麻痺した体躯が束の間の幻影を見せていたのか。目の間から液体がぽたりと垂れて、雪色の敷布に流れていった。
「その前にあなたはただ……俺の手に、弄られていればいい」
ねぇ。嘉成。見ないで。
白く濁っていく意識の中で、孝子はただ彼に請うている。
……私をそんな、慰み物の様に見ないで。