ふゆそら
雪色の土地は、冷えていてもどこかぬくもりを感じた。
カーテンを開けて、差し込んできた眩しい光に目を細める。
途端、眼下にあらわれたのは、一面白い景色と、靄の中にいると錯覚してしまいそうな、曇り空。
「うわあ……」
うつらうつらしていた頭もどこかへすっ飛んでしまった。
二重窓から見下ろす、一面の銀色。向こうに見える畑も、厩舎も、入り口付近に見える『ふゆファーム』の看板だってなんだって、朝露に光って、きらきら輝いている。
昨日は夜に着いたから、暗くて雪景色が見られなかったのだ。鳥の声で目が冴えてよかった。朝じゃないと、こんな景色は見られない。
……うん、そうなんだ。今年もやっぱり、此処に来たんだ。
嬉しくなった私は、外の冷気に触れてみたくて、窓を開ける。
赴由 藤次郎代表 農場、『ふゆファーム』。
雪の土地で 私の祖父が経営する個人農場の名前だ。「自然であること」をテーマに、野菜や果物や豆を出荷している。頑固一徹が作る冬貯蓄型の有機栽培、の名が定着して、今では有名な料亭さんが直に仕入れてくれるまでになった。
この地では珍しい小規模敷地なんだけど(それでも大きいことには変わりない)、祖父はこれ以上畑を広げるつもりがないらしい。大規模で栽培すると質が落ちるとかなんとかで、有名チェーンレストランの直契約も頑なに断り続けているって話。
でも、なんとなくわかる。祖父は この農場を、できるかぎり自分の手で護っていきたいのだろう。
この銀世界に包まれた土地を見れば、いとおしくなるのも当然だ。
でなければ私も、冬休みを狙って毎年ここに来ようとなんかしない。
夏じゃなく、雪が降っているこの季節だからこそ行くのだ。
冬に来れば、本来の雪の土地を感じ取ることができる気がするから。
何より、こんな銀世界を見ることの出来る この農場が私も好きだから。
「……あれ」
二枚目の窓を開けて、自宅と違う冷気を肌で感じていたとき。
私は、白い銀世界をさくさくと歩く誰かの姿を見かけた。
黒のダウンジャケットをフードまで被り、全身黒ずくめになって浮いたあやしい人物。
「おーい。いつきくーん」
手を振ってまで呼びかけたのに、黒フード君が気付いてくれる様子は全くなかった。
『ふゆファーム』の看板を横切って此方に向かってきてくれると思ったら、歩くスピードを変えるどころか、畑を目指してるっぽいし……
「いつきくんてばーっ」
大声張り上げてるのに、なんで無視されちゃってるの。
「いつきくー…… …ああもう ハクサイ! こっちに気付けぇー!」
だんだん腹が立ってきて、ぐいっと窓枠に身を乗り出した。
すると――耳から何かを引っこ抜いた誰何が、素早く左右を見回した。先端にボアがついたフードをばさりと外したかと思うと、声の在り処を正確に捉えてくる。
つまり、怒鳴り散らしたばかりの私の大きな口を見上げていた。
仏頂面と思い切り目が合った。反応速度の速さに、固まったのは私のほうだ。
いや、気付けって言ったのはこっちだけど……さっきまで無視同然だったのに、なんでこんなすぐに。
「…あ。ザイマース、お嬢さん」
此方のそんな驚いた顔を見ても まったく気にせず、彼は飄々《ひょうひょう》と朝の挨拶をしてきた。
――いつきくんは、そんな人だった。
ふゆそら
「シャッフル買ったんだね、いつきくん……」
ストーブがやかんを乗せたまま、シュンシュンと懐かしい音を出している。
そんな昔ながらの灯油ストーブがあるリビングで、朝ごはんを食べつつ、私はひとり納得していた。
でもいつきくんからの返事はない。何をするでもなく、部屋の暖に当たっている。
いや、何かはちゃんとしていた。彼のツナギ服から伸びているのはイヤホンだ。携帯音楽プレーヤーを聞きつつ彼は暖房器具の前に居る。…だからさっき外を歩いていたときも、私の呼びかけに遅れたというわけだ。
「紗和ちゃん、豆ご飯どうだった。甘めにしてみたんだけど」
キッチンに居たおばさんが、にこにこしながら聞いてきた。ストーブのやかんを下ろして、私の分といつきくんの分のお茶を注いでくれる。食後の一杯をもらった私は、もちろんとばかりに即答した。
「うん、とっても美味しかった。枝豆大豆入ってたよね」
「そうなのよ。ペンションにも出してるんだけど、気に入ってもらえてうれしいわ」
篤子おばさんは私の父の妹で、『ふゆファーム』併設のペンションを経営している。厨房も担当していて、料理の腕がいいと評判だ。
そんなおばさんのご飯を独り占めできている私は、しあわせ者かもしれない。
というのも、この時期にペンションはクローズしている。お休みしているペンションに、私は孫と姪のよしみで プチ留学させてもらえているというわけなのだ。
「いつきくんは向こうでご飯食べてきたのよね」
小回りよく動くおばさんは、ぼうっとストーブの火を眺めているいつきくんにも声を掛けた。
「おじいちゃんはもう起きて畑に行ったのかしら。お昼はみんなで食べましょうって伝えてくれる?」
でもいつきくんは相変わらずシャッフルに夢中(?)で、おばさんの呼びかけに無言だ。
……そういやいつきくんてば、どうして家に上がってきたんだろう。
確か畑に行こうとしてなかったっけ。私が下に降りてきたらリビングに居たんだよね。私がご飯食べてる間ずっとぼうっとしたままだったんだよね。
ああ、いつきくんてばおばさんに返事もしないどころか見ようともしてないよ。
さっきみたいにあの呼び名にしないと、反応しないんじゃないかなあ……。
などとはらはらしていたとき。
「――紗和ちゃん、畑のおじいちゃんに挨拶してくる?」
私に呼び声がかかったので、慌ててしまった。
「えっ、あっ、うん。昨夜は会えなかったしっ」
「なら良かった。いつきくんに案内してもらってね。おじいちゃんも喜ぶわ」
微笑みながら、おばさんは空の食器を下げる。キッチンに向かう際、視線を移して言った。
「いつきくん。紗和ちゃん待っていてくれてありがとうね」
「……うす」
え。もしかして。
私を案内するために、上がって待っててくれてたんだろうか。
そんな考えが頭を過ぎったけれど、むっくり起き上がって、すたすた歩く彼を見たら、ううん違うよなと思わざるを得なかった。いつきくんの思考回路は、ちょっと謎。
――ペンションの玄関を開ける。やっぱり雪の町に来たんだなって再確認した。
途端に冷気が押し寄せてきて、負けそうになってしまう。
雪の町の女の子は気合が入ってるっていうけど、本当だ。
昨日の夜 駅前を見て分かった。この寒いのに、みんなスカート短いんだもん。色白いんだもん。
そんな気合は農場では必要ないので、私はジーンズにスニーカーにセーターにダッフルコートに手袋、イヤーマフラーと、思い切り武装したけど。
女の子の歩幅を考えないいつきくんを追って、外へ出る。
「い、いつきくんは……向こうの寮に居るんだっけ、確か」
振り返ったいつきくんは、数秒黙った。フードは外してるし、シャッフルのイヤホンはないから、今のは耳に届いてたはずだ。……たぶん。
「エエ。俺は住み込みで働いてる社員ですけど、お嬢さん」
「…あの、そこまで律儀な返答を望んでいたんじゃなくて……。ていうか、その呼び名、なんとかしてくれない? 私お嬢さんって柄じゃないし、いつきくんと同い年だし」
「俺は18です」
「『俺は』って、そんな お前とは違うみたいに言われても… あの、私これでも一応3月で18になるし」
「ひとつ違うじゃないですか」
「学校だと一緒の学年になるのー!」
話がかみ合ってないような気がする。昔からいつきくんはこうなのだ。ちょっと垂れ気味の目で、顔が女の人みたいに細い割りに、独特のテンポを持つというか、達観しているというか、浮世離れしているというか。
「……いいんです」
ゆったりした伸びで、いつきくんが切り返した。
いいんです? 何がだろう。
「あなたはこのファーム代表のお孫さんですしね。立派な令嬢です」
微笑まれた、と思ったのは気のせいだろうか。
自論で片付けて、彼はまた前を向いた。
数年前からその態度は変わらない。仏頂面で、飄々《ひょうひょう》としていて、敬語を使うくせに横柄で。
私がいつきくんと初めて会ったのは、中学を卒業する前の冬休み。春から働く奴だ、って祖父に紹介されたのが始まりだ。なんで農場で働こうと思ったの?って聞いたら、「俺は野菜作るほうが好きなんです」という平坦な返事をもらった。
あっけらかんとしすぎてて、祖父の代弁がなかったら「ほんと?」と聞き返していただろう。
祖父の代弁いわく、「野菜は手間を掛けるほどきちんと成長して美味しくなってくれる。厳しいことをしても一人前になってくれるから好きなんだとよ」とのこと。一人前になったところで食べられてしまう運命だよね、なんてことは口が裂けても言えない。好きな野菜作るために学校は通信制で充分と言ってるのは、果たして夢を貫くからいいことなのか、もったいないことなのか。
「その情熱を、いっちょ惚れた腫れたの話に発展させればいいのによぉ」…とも、私の祖父は付け足していた。
まあ、生き甲斐とか天職ってのは、誰にでも等しくあるわけで。
他人がどうこう言えるものでもないってのは、祖父も私も分かってるつもりなのだ。
右にはさっき私たちが居たペンションが見える。左には、雪にいくつもの足跡がある馬場があった。
「紗和ちゃんも夏に来て、ホーストレッキングしてみない? いつきくん教え方うまいのよ。レッスンしてもらうといいわ」なんておばさんが言っていたのを思い出した。『ふゆファーム』には乗馬施設も併設していて、乗馬もできるらしい。
乗馬指導しているいつきくんなんて想像できない。ツナギを着て、ダウンジャケットを羽織ってて、軍手をして……野菜を手入れしている姿のほうが、私にとっては見慣れているのだ。
「……ほんと、名前まで野菜だもんねぇ。ハクサイくん」
除雪された道を歩きながら、ふふと笑ってしまう。
すると。前を歩いていたはずの彼が、ゆらぁり、と身体を反転させた。
「…いいかげん俺の名前音読みで呼ばないで下さい。カシワ イツキ。柏 斎です」
しっかり聞かれていた。
どうやら今のは私の独り言に換算してくれなかったらしい。
野菜が好きなのに、自分が野菜っぽい名前で呼ばれると怒るというのは、これいかに。
「ごめんごめん」
手のひらをひらひらさせて、相手に降参ポーズを見せる。
慌ててなだめないと、後々言われてしまいそうだ。
「でもいつきくんだって私のこと変な風に呼ぶじゃない。おあいこだよ」
「……」
だが彼は此方を見下ろすだけだった。まだ釈然としていないのだろうか。若干生気が消えかかっている目で凝視されているというのは、気が張った。眠そうな目なのに、なんでこんな威圧あるんだろう。
「……お嬢さんは、いいんです」
私が呼びかけるより早く、彼は伏し目がちにそれだけ答えた。
予想もしない言葉に、気が抜けたのは此方だった。
考えもしなかった彼の表情に、面食らってしまっていた、という方が正しい。
いつきくんは意外にまつげの多いその目を瞬かせ、遠慮がちに視線をはずす。
半分だけ口元を緩めて、笑いかけてくれると思ったのに。
結局は、私を見ようとしなかった。
「ねぇ。いつきくんはどうして……」
……どうして、いつも笑いかけるのをやめるの。
言いたかったのに、どきりとしてしまったせいで、俯いたまま、別の質問を口に出していた。
いつだってそうだ。いつきくんは、笑いかけてくれたことなんて一度もない。
さっきも。笑ってくれようとしてたじゃない。
なのに、どうして……そんな風に、視線をそらすの。
「なんで、私はいいとか……言うの」
「ねぇお嬢さん」
顔を上げる。いつきくんはもう前を向いていた。
「……もし別世界の、別の時代の、別次元で、別の歳の自分がいたらどう思いますか?」
黒いダウンジャケットがゆっくりと歩き出す。
区切ってゆっくり問いかけてくれたのに、その意味が解らなかった。するといつきくんはまた質問してくる。
「どうして俺がお嬢さんって呼ぶのか、分かります?」
「……『代表の孫だから』?」
最初に令嬢だなんだと答えたのはいつきくんだ。
それを聞くと、彼は首を斜め後ろに動かして、いつもと大して変わらない眠たそうな目で私を見てきた。
「……じゃあいいんです。それで」
無感動に。あっけらかんと、それだけ。
「思い出さないでくれたほうが――笑ってくれていたほうが、しあわせってことですよ」
相手はさくさくと歩き出す。この道の向こうにある、雪一面の畑を目指して。
きっとそこでは祖父が作業をしているはずだ。雪の中から、秋に収穫して貯蔵しておいた野菜を取り出している。小さなこの農場で、頑なに方針を護りながら、一途に、作り続けている。
質問を振られてそのままになってしまった私は、話が追いつかずわけがわからない。
けれど思い直した――祖父にこの謎の人物の代弁をしてもらえればいいのかもしれない、と。
私が来たのは、まだ昨日だ。冬休みはまだあるし、この土地にいるのもまだまだ先なのだ。
いる間に聞き出せばいい。どうしてそんなことを言うのか、本当に話したかったのはなんなのか。
そうと決まれば。
小走りになって、彼を追いかけた。黒いダウンジャケットを、後ろからくいと引っ張ってやる。
思いがけない引力だったのか、相手が振り返る。鳩が豆鉄砲を食らったような顔になったのがおかしかった。
「……いつか教えてね。どうしてお嬢さんって呼ぶのか」
宣言みたいに言うと、やっぱりいつきくんは私から目を逸らした。
まるで この土地をぼやかしていくゆきいろのように、曖昧な表情を浮かべて。
■「ふゆそら」について
テーマ:「冬」
各話題名予定
・ふゆそら
都会育ちの少女と、雪の土地の農場で働く少年。
・君知るや溶ける白華 1〜6
館の一人娘と、館に仕える少年。(15歳以上推奨)/村に住む少年と、家に引き取られた少女。
・矮星の静寂 1〜
軍の象徴の女と、護衛の青年。(グロテスク描写有り)
・ユキソラ
都会育ちの少女と、雪の土地の農場で働く少年のその後。
・崖下の王 1〜
蔦を操ることができる村長の娘と、巨大遺跡を目覚めさせてしまった異世界の少年。
・“Alice that returned” 1〜
『鏡の国のアリス』をモチーフ。『赫の王様』の本体を探す『アリス』。
・cauchemar de neige
■恋愛要素を含むファンタジーとして投稿しています。
二話目以降、180度変わった趣向になりますので、読む際はお気をつけください。
……と一応注意書きを。
裏テーマやら目論見(笑)やらあるので、今回は「後書き」で色々語ろうと思っています。
思ったより長丁場になりそうなのですが、宜しければお付き合いください。