婚約者候補が妹を選んだので、やめました
選んでいただきありがとうございます。
ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
シャンデリアの光が、緩やかに揺れるグラスの中身を黄金色に染めていた。
公爵令嬢シェンナは、妹であるリリーの背後に寄り添うように立ち、指先ひとつ動かさずに周囲の空気を探っていた。
今日はデビューして3年以内の者たちの集まる夜会。デビュタントして間もないといっても貴族の端くれ。
「あら、ごきげんよう、カトリーヌ様。その首飾りの色、今日は少し……珍しい組み合わせですね」
リリーがふと口にした言葉に、侯爵令嬢カトリーヌの表情が微かに固まる。社交の場において、相手の装いを「珍しい」と評するのは、さしたる親交がない相手にはただのあてつけだ。
シェンナは即座に一歩踏み出した。
「カトリーヌ様の瞳の色に合わせた、素晴らしい選択ですわね。光の当たり具合で深い翠が引き立って、見ていて飽きませんわ」
シェンナの滑らかな声が、リリーの失言を霧のように霧散させる。令嬢の眉間に寄った皺がほどけ、彼女は優雅に扇を閉じた。
「……あら、そうですか。シェンナ様にそう仰っていただけると、勇気がわきますわ」
その直後、背後から影が差した。
第二王子であるフィリップが、柔らかな微笑を浮かべて割って入る。その瞳には、保護者のような温かさが宿っていた。
「リリー嬢、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。……シェンナ嬢、少しよろしいか」
フィリップはシェンナを数歩外側へ促した。
喧騒が少しだけ遠のく。フィリップの言葉は、氷のように冷徹な雰囲気をまとっていた。
「君は、少し厳しすぎるのではないかな」
「……厳しすぎる、ですか?」
「彼女は怯えている。……妹君を抑圧するのは、もうおやめなさい。彼女はもっと自由であるべきだ」
シェンナは視線を落とし、ただ一度だけ深く息を吐いた。
反論は喉の奥に沈めた。言い訳を並べれば、この男はさらに自らの「慈悲」に酔うだけだ。
「……さようでございますか」
シェンナは静かに礼を執り、小さく微笑む。
「これからは、彼女の意志を尊重いたします。……もう、何も止めないことにいたしましょう」
フィリップは満足げに頷き、リリーのもとへ戻っていった。
遠くで、リリーが心底安堵したような表情を浮かべるのが見える。彼女は自由を謳歌し、再び誰かの胸を抉るような無邪気な言葉を紡ぎ始めた。
シェンナはその様子を、まるで遠い異国の風景を眺めるような瞳で見つめた。
同じ公爵令嬢、同じ教育を受けたはずなのになぜこうも、違うものなのか。
シェンナは心の中で嘆息する。
父母からの愛情も、特に大きな差はない。強いて言えば、シェンナの方が長女であるゆえに当主教育のこともあるので、多少厳しかったかもしれないが、妹がとても甘やかされた、と記憶はしていない。
家庭教師からも大きな問題があるとも聞いていないように思うが、なぜ。
デビュタントして間もないとはいえ、公爵令嬢として恥ずかしくないようにリリーには促してきたつもりだったが、伝わっていなかったらしい。
でなければ、まさか後ろであんな顔をしているなんて夢にも思わない。
必要ないというのであれば、やめるまで。
嫌われ役になってまで注意することではない。そもそも、デビュタントして間もないとはいえ、すでに貴族の仲間入りをしているのだから。
*****
フィリップは昔から、王宮特有の空気をどこか息苦しく感じていた。
何を言うかより、誰が言ったかを気にする会話。曖昧に濁した言葉の裏を読み合い、笑顔の角度ひとつで相手との距離を測るような空気を、彼はあまり好まない。
もちろん王族として必要なものだとは理解している。理解しているが、時折ひどく疲れた顔をすることがあった。
だからだろう。
リリーの反応は、フィリップには妙に眩しく映った。
思ったことがすぐ顔へ出るところも、気まずくなると誤魔化すみたいに笑うところも、社交界では危うい。失敗も多いし、言葉選びが浅いと思う瞬間もある。
けれど少なくとも、“何を考えているのか分からない”類の人間ではなかった。
まるで、冷たい水の中でようやく息ができる場所を見つけたみたいな顔だった。
たぶん彼は、リリーを庇っているつもりでいる。
けれど実際には、“素直でいられる自分”を、あの妹に重ねているのだろうと、シェンナはぼんやり思っていた。
*****
それからしばらくして、若手貴族たちの集まりでは、リリーの姿を見かけることが増えた。
以前ならシェンナの隣で、半歩引いたように笑っていたのに、最近は違う。
第二王子の隣で笑っている。
それだけで、人は自然と道を開けた。
「リリー様、その髪飾り素敵ですわ」
「ありがとう。殿下が選んでくださったの」
嬉しそうに答える声は明るい。
その様子を少し離れた場所から眺めながら、シェンナはグラスの縁を指先でなぞった。
笑っているぶんには、本当に愛らしいのだ、妹は。
昔から、甘え方だけは誰より上手かった。
「最近は、妹君も随分楽しそうですね」
隣から落ちた声に、シェンナはグラスを傾けた。
振り返ると、以前若手夜会で何度か顔を合わせた伯爵令息が立っている。
「殿下が気にかけてくださっていますから」
「……なるほど」
伯爵令息はそれ以上踏み込まなかった。
ただ少し間を置いてから、シェンナのグラスへ視線を落とす。
「そちらの赤、南方のものですか」
「ええ。少し渋みが強いですけれど」
「分かります。少し癖がありますよね、この赤」
伯爵令息はグラスを軽く傾ける。
「飲んだ直後は結構重たいのに、変に香りだけ残るというか。……ああ、でも、そこが好きなんですが」
不思議な感想だな、とシェンナは思った。
けれど嫌ではなかった。 誰かが言葉を選び損ねるたび、以前なら別の笑い声や話題が自然に重なって、その場の空気ごと滑っていったはずなのに、今は小さな沈黙がそのまま場へ残る。楽団の音だけが妙に耳につき、誰かが扇を閉じる音や、グラスの触れ合う硬い音ばかりが、変に響いた。
*****
「その刺繍、地方のものですわよね?」
ある夜会で、リリーが侯爵家の令嬢へ声をかけた。
相手は嬉しそうに頷く。
「ええ、祖母から譲られたもので――」
「やっぱり。王都だと最近あまり見かけませんものね」
悪意のない声だった。
むしろ、見つけられたことを喜んでいる響きすらある。
けれど。
侯爵令嬢の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
「あら……そうかもしれませんわね」
そこで会話が止まった。
以前ならシェンナが、「古い意匠ほど誤魔化しが利きませんものね」とでも微笑みながら言葉を挟んでいたはずだった。そうすれば相手も悪い気はしないし、リリーも“褒めたつもりだった”顔のまま頷ける。そうやって曖昧に丸めた空気を、今夜は誰も拾わなかった。だが今、シェンナは何も言わない。
少し離れた位置で、ただ会釈だけを返す。
沈黙は、沈黙のまま落ちた。
「……リリーは観察眼が鋭いな」
フィリップが笑う。
リリーも嬉しそうに顔を上げた。
その会話へ、もう誰も入っていかなかった。
「では、わたくしはこの辺で」
笑顔は崩れていない。けれど会釈は短く、そのまま自然に輪の外へ抜けていく。引き留める声もなかった。
リリーは一瞬だけ訳が分からないといいたげに、きょとんとした顔をした。
「わたくし、何か変なこと言いました?」
「気にしなくていい」
フィリップは軽く笑う。
「この場は、少し言葉を気にしすぎる人が多いだけだ」
リリーは安心したように笑った。
シェンナは視線を落としたまま、グラスの脚へそっと指を添えた。
こういうやり取りを、最近何度見ただろうと思う。
以前なら、リリーが余計な言葉を口にするより早く視線で止めていたし、もし間に合わなくても、その場の空気ごと別の話題へ滑らせてしまえば済んだ。刺繍の話でも、流行色でも、誰かの領地の噂でもいい。少し笑って、誰かが相槌を打てば、それで場は繋がった。
けれど今は、小さな違和感が小さくともそのまま残る。
誰かが曖昧に笑い、別の誰かがワインへ口をつける。その一瞬だけ会話が途切れ、何事もなかったように別の輪ができる。怒る者はいないし、咎める声も上がらない。ただ、気づけば同じ相手と二度続けて話す人間が減っている――そんな程度の、静かな変化だった。
ふと顔を上げると、少し離れた場所で数人の令息たちと視線が合った。
そのうちの一人が、何かを飲み込むみたいに息を吐き、それから苦笑ともつかない顔でグラスを傾ける。以前なら“厳しい姉君”としてシェンナを見ていたはずなのに、今そこにあるのは妙な納得と、薄ぼんやりした居心地の悪さだった。
たぶん彼らも、ようやく気づき始めている。
この場で誰が空気を繋いでいたのかを。
シェンナは何も言わず、指先だけでグラスを回した。薄い金色の液面がゆっくり揺れ、その向こうで、リリーの笑い声だけが妙に明るく響いていた。
*****
その日の茶会は、若手中心の夜会とは空気が違っていた。
招待客の数はそこまで多くない。だが、そのぶん顔ぶれが重い。
王家と距離の近い侯爵家、古くから中央政界へ影響力を持つ伯爵家、宮廷で発言権を持つ夫人たち。笑い声こそ柔らかいものの、交わされる話題には常に誰かの領地と利害がぶら下がっていた。
本来であれば、シェンナも同席する予定だった。
だが数日前、王妃主催の別茶会への招待が届き、シェンナはそちらへ参加していた。
結果として今日は、リリーが母親と共にこの場へ出席していた。
「緊張しているのか?」
隣からフィリップが小声で囁く。
リリーは慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ。ただ……皆様、いつもの夜会より大人びて見えて」
「大丈夫だ。君はそのままでいい」
フィリップは柔らかく笑う。
その言葉に、リリーも少しだけ肩の力を抜いた。
最近の彼は、こうして頻繁にリリーの隣へ立つようになっていた。周囲ももう、それを咎める空気ではない。むしろ半ば、“そういうもの”として受け入れ始めている。
テーブルでは、南方の交易について話題が移っていた。
「今年は染料の値が随分動いておりますのね」
侯爵夫人の言葉へ、何人かが頷く。
「海路が不安定だそうですわ」
「ええ、特に南東側が――」
「ああ、あそこは昔から少し荒っぽい方が多いのでしょう?」
リリーが、ふと思い出したように口を挟んだ。
悪意のない声音だった。
ただ、場が静まるには十分だった。
カップを置く音が、やけに近く聞こえる。
向かいに座る母親も、一度だけ目を見開いている。普段なら即座に言葉を挟むはずなのに、その瞬間ばかりは反応が遅れたらしい。
何人かの視線が、ゆっくり侯爵夫人へ向く。
その夫人の実家は、南東海路を束ねる大貴族だった。
若手夜会なら、誰かが笑って流していたかもしれない程度の言葉だった。けれど、この場は違う。
ここでは、“誰がどこと繋がっているか”を知らない発言そのものが危うい。だが、リリーは、たぶん知らない。
「リリーに悪気はありません」
フィリップが先に口を開いた。少し硬い声だった。
「辺境気質、くらいの意味でしょう。そうだろう?」
「え、ええ。活気があるというか……皆様はっきりものを仰るので」
慌てて言葉を継ぎ足す。
だが、その補足が余計にまずかった。
侯爵夫人は笑顔を崩していない。ただ、紅茶へ伸ばした指先だけが、先ほどよりゆっくりだった。
「……そうかもしれませんわね」
侯爵夫人は穏やかに微笑み、そのまま静かに紅茶へ口をつけた。
咎める声は上がらない。空気が露骨に凍ることもない。ただ、先ほどまで自然に続いていた視線や相槌が、一度そこで途切れた。
誰かが隣席の夫人へ観劇の話を向け、そのまま別の場所で小さな笑い声が重なる。最近仕立てたドレスの話題が始まり、交易路の噂へ移り、気づけばリリーは輪の中に座ったまま、会話の流れから半歩だけ置いていかれている気がした。
輪から外されたわけではない。
その静かな変化を、この場の人間たちは驚くほど自然に共有していた。母親も含めて。
フィリップだけが、それをまだ“少し場が静かになった”程度にしか思っていないようだった。
「気にしなくていい」
彼は小さく笑い、リリーへ声を落とす。
「この場は昔から、言葉を重く考えすぎる人が多いんだ」
リリーは困ったように笑った。
安心したいのに、なぜか胸の奥がざわついている、そんな顔だった。
***
その頃、王妃の茶会へ出席していたシェンナは、久しぶりにいい香りのする紅茶を楽しんでいた。
花の香りが強めの茶葉だった。リリーはあまり好まない香りだな、とぼんやり考えてから、そこでようやく、今日は妹を伴っていないのだと思い出す。
「最近は、妹君が第二王子と随分親しくしているそうね」
穏やかな声音だった。
ただ、茶会の空気がほんのわずかに静まる。
「……ええ」
シェンナは小さく微笑む。
王妃はそれ以上追及しなかった。カップを戻し、まるで別の話題へ移るみたいに視線を庭園へ流す。
「貴女も、少し肩の力を抜きなさいな」
一瞬だけ、シェンナの指先が止まった。
それがどういう意味の言葉なのか、わざわざ説明する者は、この場にはいない。
*****
外交使節を招いた晩餐会は、若手ばかりの夜会とは空気そのものが違っていた。
リリーはその夜、珍しくほとんど口を開かなかった。
件の茶会以来、自分が何かを間違えていることだけは理解したのだろう。話しかけられても一拍置いてから返事をし、笑う時も、先に周囲の顔色を窺っている。
その慎重さが、かえって見ていて痛々しかった。少なくともフィリップにはそう感じていた。
フィリップはそんな彼女を気遣うように、今夜は普段以上に傍を離れない。
リリーが安心したように笑うたび、彼の表情もわずかに緩む。シェンナは少し離れた席からそれを眺めながら、この人はたぶん、“彼女を守れている自分”を見ることで安心しているのだろう、とぼんやり考えていた。
料理が二皿目へ移る頃には、場の空気もだいぶ落ち着いていた。
リリーも今のところ、大きな失敗はしていない。
向かいに座る伯爵令嬢が、穏やかに劇場の話を振る。
「最近、南方楽団の演目が人気だそうですわね」
「ええ、衣装がとても綺麗で……」
リリーも慎重に言葉を返した。
ちゃんと会話になっている。以前のような危うさもない。
ただ、伯爵令嬢の笑みは薄いままだった。礼を欠いてはいないが、どこか一歩引いたまま会話を続けている。その程度の距離感は、この場では珍しくもない。
だから本来なら、誰も気に留めないはずだった。
「……随分冷たいな」
不意に落ちた声で、空気が止まる。
フィリップだった。
伯爵令嬢が目を瞬く。
「殿下……?」
「彼女は歩み寄ろうとしているだろう」
静かな声だった。
怒っているわけではない。むしろ諭すような口調ですらある。
「以前の噂だけで距離を取るのは、あまり感心しないな」
その瞬間、シェンナは小さく目を伏せた。
たぶん本人は、本気で場を取り持ったつもりなのだ。
リリーが怯えないように。
周囲がもっと優しく接するように。
けれど、この場で今、“立場”を持ち出したのは第二王子の方だった。
伯爵令嬢はすぐに微笑みを整える。
「そのようなつもりはございませんわ」
「なら良いんだ」
フィリップも穏やかに笑い返す。
それで終わった。誰も反論しない。それでいい。
楽団も止まらず、給仕も静かに皿を下げていく。
ただ、それまで自然にフィリップへ向いていた会話だけが、そこで一度流れを失った。
隣席では老侯爵が使節団へ航路の話を向け、そのまま別の輪で小さな笑い声が重なる。別の場所では狩猟会の予定が語られ、気づけばフィリップとリリーの周囲だけ、妙に静かな空間が残っていた。
輪から外されたわけではない。
けれど、“次に声をかける相手”として選ばれなくなる。
その変化を、今度はリリーも感じ取ったらしい。
膝の上で扇を握る指先が小さく揺れている。
「……わたくし、何か失礼を……」
掠れた声で零すと、フィリップは即座に首を振った。
「違う」
迷いのない声だった。
「君は気にしすぎだ。皆、最初から君を色眼鏡で見ているだけだよ」
リリーが不安そうにしつつも笑う。
するとフィリップも、ようやく安心したように表情を緩めた。
王妃は何も言わない。
国王も、重臣たちも、誰一人としてフィリップを咎めない。
ただ、晩餐会が終わる頃には、彼の周囲にできる人の輪だけが、最初より目に見えて小さくなっていた。
リリーは俯いたまま歩き、フィリップはそんな彼女へ何度も優しい声をかけている。
帰りの回廊は少し冷えていた。
後ろではフィリップが何か低い声で話している。時折、リリーが小さく相槌を返す声も聞こえた。
けれど、もうシェンナは振り返らない。
以前なら気にしていたはずだった。リリーがちゃんと笑えているか、場を壊すようなことを口走っていないか、フィリップが妙な庇い方をしていないか。そういうことばかりを、気づけばいつも考えていた。
その癖がまだ身体に残っていることに、自分で少し驚く。
しかし今日の夜会で、使節団や王を含め重臣たちが二人へ向けていた静かな距離感を思えば。
長いこと肩へ乗っていた重みが、ようやく静かに落ちていく気がした。
ふと、昼間の茶会で出された紅茶を思い出した。
花の香りが強い茶葉だった。リリーはあの香りを嫌っていたな、と考えて、それからもう、自分が妹の好みに合わせて茶葉を避ける必要もないのだと気づく。
夜風が頬を撫でる。
*****
第二王子の外遊予定が取り消された、という話は、数日後には社交界へ静かに広がっていた。
理由を口にする者はいない。
ただ、“しばらく中央から離れるらしい”という噂だけが、妙に穏やかな顔で交わされる。
結局、フィリップとリリーの婚約は正式に進められた。
王家としても、今さら引き離す方が余計な混乱を生むと判断したのだろう。
もっとも、与えられたのは王都中心から離れた離宮と、小規模な公務ばかりだった。
離宮は静かだった。
王都の喧騒から離れているぶん、朝も夜も妙に音が少ない。手入れ自体は行き届いているし、出される食事や調度品に不足があるわけでもない。けれど、廊下へ飾られた花はいつ見ても控えめで、暖炉へ火が入る時間も王宮より短かった。
時折来る来客も、公務に必要な者ばかりだ。
以前のように、夜会帰りの貴族たちがふらりと立ち寄ることもない。新しい噂話や、誰それが誰と親しくなっただの、そんな王都特有のざわめきだけが、綺麗に抜け落ちていた。
雨の日などは特に静かだった。
窓硝子を流れる雨音と、時計の針の音ばかりが妙に耳へ残る。リリーは最近、その音を聞きながらぼんやり外を眺めていることが増えていた。
「まるで厄介払いみたいね」
雨の降る午後、窓の外を見ながらリリーが小さく零した。
フィリップは眉を寄せる。
「気にする必要はない。王都の連中は昔から堅苦しいんだ」
そう言って彼はリリーの肩を抱き寄せた。
「父上も母上も、結局は周囲ばかり気にしている。少し失言したくらいで、人を遠ざける方がおかしい」
リリーは唇を尖らせたまま、その腕へ寄りかかる。
「お姉様だって、昔からああだったもの。皆の前では優しい顔をするくせに、いつも細かいことばかり……」
そこまで言ってから、リリーは少しだけ黙った。
窓硝子を流れる雨粒をぼんやり目で追いながら、小さく息を吐く。
「……でも、最近は、何を言えば良かったのか分からないの」
フィリップはすぐに首を振った。
「考えすぎだ。君は周囲に合わせようとしすぎていただけだよ」
その声は優しい。
優しいのだが、どこか“彼自身にも言い聞かせている”ようにも聞こえた。
二人とも、まだ分かっていない。
たぶん最後まで、分からないままだ。
*****
数ヶ月後、シェンナは伯爵家との顔合わせの席へ呼ばれていた。
春先らしく、窓辺には淡い色の花が飾られている。テーブルへ置かれた紅茶は少し香りが強く、口へ運んだ瞬間、ふとリリーなら嫌がりそうだなと思った。
そう考えてから、もうそこを気にしなくていいのだと気づく。
向かいに座る伯爵令息は、以前夜会で会った時と変わらず、必要以上に言葉を重ねない人だった。
沈黙が落ちても慌てて埋めようとはしない。ただ、途切れた空気をそのまま放っておくわけでもなく、窓の外の庭木や、紅茶の香りや、そんな他愛ない話題が自然と続いていく。
シェンナは小さく微笑んだ。
「花の香りが強めの紅茶ですが、お口に会いますか?」
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたなら嬉しいです。
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