まだ名前のなかった駅で、君と
車内のアナウンスが、夜の空気を切るように流れた。
「次は――星野駅です」
聞いたこもなく、知らない駅名だった。
僕は顔を上げ、窓際の外を見ると、街灯が途切れ途切れに並び、夜の明かりが微かに輝いていた。
見慣れたはずの帰り道なのに、どこか遠くへ運ばれているような感覚があった。
行き先表示には、確かに「星野」と表示されてたいる。
しかし、そんな駅は、存在していなかった。
「……ねえ」
隣から声がした。
振り向くと、制服姿で身長が低く、目がぱっちりとした可愛い女の子が座っていた。
いつからそこにいたのか、分からない。
「この電車、変じゃない?」
女の子は小さな声でそう尋ねた。
その言葉に、胸の奥で固まっていた違和感が、ゆるくほどける。
「やっぱり、そう思う?」
「うん。星野駅って……聞いたことない」
同じことを考えていたらしい。
「俺も、この路線ずっと使ってるけど、そんな駅ないはずなんだよな」
そう言いながら、自分の言葉に確信が持てなくなる。
本当にそうだったのかさえ、曖昧になる。
「だよね……」
彼女は窓際の外に視線を戻した。
夜は、何も答えないまま静かに流れていく。
「名前、聞いてもいい?」
少し間を置いて、彼女が聞いた。
「高橋悠斗っていうんだ。」
僕がそう名乗ると、彼女はゆっくりと頷いた。
「あたしは佐藤舞だよ。」
彼女は僕に自分の名前を名乗る。
そして、電車は揺れ続け、 規則的な振動が、思考を少しずつ曖昧にしていく。
「ねえ。高橋くん」
舞は、窓にうっすら映る自分を見ながら言った。
「もしさ。この電車が本当に知らない場所に行くとしたら――どうする?」
唐突な問いだった。
僕は少し考えた。
「……降りないと思う」
「どうして?」
「分からないけど」
僕は言葉を探しながら、続ける。
「戻れなくなる気がするから」
舞は、小さく笑った。
「私も、同じこと考えてたぁ。」
その笑い方には理由のない安心感があった。
沈黙が、今度は心地よく流れた。
「ねえ」
舞が、少しだけ声を落とす。
「将来さ。」
「うん。」
「普通に結婚して、普通に大好きな人と暮らしたいなって思ってるんだ」
夜の窓に、自分の輪郭がうっすら映る。
「普通って?」
「帰る場所があって、好きな人がいつもいて。」
舞は少しだけ考えてから、言葉を足す。
「一緒にご飯食べたり、くだらない話したり」
それだけのことを、大事そうに言う。
「そういうの、いいなって。」
電車の音が、わずかに大きく響く。
「、、いいと思う」
僕は自然にそう答えていた。
「高橋くんは?」
「似たようなもんかな」
本当は、そこまで考えたことはなかった。
けれど、その場では、それが一番しっくりきた。
「そっか」
舞は、ほんの少しだけ嬉しそうに笑った。
その表情だけが、妙に記憶に残った。
揺れが激しくなる。
瞼が、重い。
「ねえ。」
遠くで、声がした。
「覚えてなくても、いいから」
意味を考える前に、意識が途切れた。
――目を覚ますと、いつもの電車だった。
見慣れた車内。そして、いつものアナウンス。
夢だったのかもしれない。
ただ、隣の席だけが、かすかに温もりを残していた。
それから数年後。
仕事帰りに立ち寄った店で、彼女と再会した。
「……あ」
同時に声が出る。
初対面のはずなのに、どこかで会っている気がした。
「どこかで会ったこと、あるよね」
舞が尋ねる。
「……たぶん」
僕はそれ以上は分からない。
けれども、それで十分だった。
言葉にしなくても、距離は自然に縮まっていった。
何度も会って、同じ時間を重ねて、気づけば――隣にいるのが当たり前になっていた。
そして、僕たちは結婚した。
ある日、新しい駅が開業するというニュースを見た。
その名前に、耳が止まる。
――星野駅。
「行ってみる?」
僕がそう聞くと、舞は少しだけ考えてから、頷いた。
夜の電車に乗る。
窓の外には、街の灯りが静かに流れている。
どこか、あの夜と似ていた。
「ねえ、悠斗」
舞が言う。
「こうやってさ」
「うん?」
「一緒に電車乗って、帰る場所があって」
少しだけ間を置き
「隣に誰かがいる生活。」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れる。
「前に、そんな話、した気がするんだよね」
アナウンスが流れる。
「次は――星野駅」
電車が、ゆっくりと減速を始める。
僕は、舞を見る。
彼女は窓の外を見たまま、静かに言った。
「帰る場所があって、誰かがいる生活。」
ほんの少しだけ、笑う。
減速を始める、電車とともに
『悠斗?』
舞はゆっくり言う。
『あたしのこと、好き?』
『大好きだよ。』(終)




