第六章:朝のカフェラテ、加速する鼓動
深夜二時。横浜のワンルームマンション。
夏美はベッドの中で、何度も寝返りを打っていた。
普段なら仕事の疲れで泥のように眠っているはずの時間だ。それなのに、脳裏には琥珀色のライトに照らされた佐野の横顔と、耳の奥に残る「おやすみなさい、夏美さん」という低く甘い声が、リフレインのように繰り返されている。
(……眠れない。どうしよう、明日も朝から会議なのに)
夏美は観念して起き上がり、スマートフォンの青い光を眺めた。
画面には、彼からの『アイボリーのニット、とてもよく似合っていました』という一文。
それを見るだけで、心臓の奥がキュンと、物理的な痛みを伴って収縮する。
二十八歳。分別も経験もあるはずなのに、たった一行のテキストにこれほどまで翻弄される自分が、滑稽で、それでいて愛おしかった。
結局、まどろみの中に落ちたのは明け方近くだった。
けれど、驚いたことにアラームが鳴る十五分前、午前六時にはパチリと目が覚めた。
いつもなら「あと五分……」と自分に言い訳をして二度寝を決め込むはずが、今日はまるで全身の細胞が「早く外へ出ろ」と急かしているようだった。
「……おはよう、世界」
窓を開けると、凛とした冬の朝の空気が流れ込んでくる。
昨日までモノクロームに見えていたはずの街並みが、朝日を浴びてキラキラと輝いている。
夏美は丁寧に髪を整え、昨日彼が褒めてくれた自分を肯定するように、少しだけ上質なファンデーションを肌に乗せた。
いつもより三十分早く家を出た夏美は、渋谷の会社近くにある、お気に入りのカフェへと足を運んだ。
まだ人影もまばらな店内。コーヒー豆を挽く香ばしい匂いが立ち込めている。
窓際のカウンター席に座り、熱いカフェラテを注文した。
(……よし、送ろう)
夏美は震える指でスマートフォンを取り出した。
昨夜、返信を打ちかけては消し、打ちかけては消しを繰り返したメッセージの続きだ。
『おはようございます。昨日は本当にありがとうございました。
お料理も、佐野さんのお話も、全部が特別で……。
実は、私もまだ少し昨夜の余韻でフワフワしています。
ニットのこと、気づいてくださって嬉しかったです。
今日も一日、お互い頑張りましょうね。』
送信ボタンを押す瞬間、ふっと指が止まった。
「特別で」という言葉は、重すぎるだろうか。
でも、今の正直な気持ちを隠したまま、また「効率的なディレクター」の仮面を被ることは、彼に対して失礼な気がした。
「えいっ」
画面をタップする。メッセージが吸い込まれていく。
送信完了。
それだけで、夏美は背筋が伸びるような思いだった。
会社に着くと、夏美はいつになくテキパキと仕事を片付け始めた。
デスクの上に積み上がった未処理のメール、複雑な予算案の修正、滞っていた企画書の骨子。
それらすべてが、驚くほどのスピードで処理されていく。
(なんだろう、この集中力……)
自分でも不思議だった。
誰かを想うエネルギーは、これほどまでに仕事のパフォーマンスを向上させるものなのか。
「瀬戸さん……なんだか今日、すごく素敵ですね。何かいいことあったんですか?」
午前中の打ち合わせが終わったあと、後輩の由香が目を輝かせて近づいてきた。
「え? そうかしら。いつも通りよ」
夏美は努めて冷静を装ったが、口角がどうしても緩んでしまう。
「いえいえ、絶対何かあります! オーラが違いますもん。ピンクっていうか、こう、内側から発光してる感じです。宝くじでも当たりました?」
「宝くじより、もっとずっと……素敵なことかもしれないわね」
夏美はウィンクをして、由香を驚かせた。
いつもは厳格で、隙のないディレクター。
そんな彼女が、まるで見違えるように柔らかく、しなやかに立ち振る舞っている。
職場に流れる空気まで、彼女の明るさに引きずられるように活気づいていた。
ランチタイムも、会議中も、ふとした瞬間に彼のことを考えてしまう。
佐野さんは今、何を考えているだろう。
あの大手IT企業のオフィスで、またあの真剣な眼差しで画面に向かっているのだろうか。
私のメッセージを見て、一度くらいは思い出してくれただろうか。
午後からのハードなプレゼンも、彼に見られているような気がして、完璧にやり遂げた。
クライアントからの称賛を浴びながら、夏美の心はすでに、この一日の終わりの「ご褒美」へと向かっていた。
午後七時。
定時を少し過ぎた頃、夏美はオフィスを後にした。
渋谷駅へ向かう道すがら、冬の夜風が頬を刺す。
あの日、彼を見かけた階段。
今はそこを一段ずつ、踏みしめるように下りていく。
(一歩ずつ。……でも、私の心はもう、駆け足だわ)
東横線のホームで電車を待っていると、バッグの中でスマートフォンが短く、鋭く震えた。
慌てて画面を開く。
佐野からの返信だった。
『瀬戸さん、お疲れ様です。
朝のメッセージ、仕事の合間に見て、すごく力をもらいました。
おかげで今日の難しい商談も上手くいきました。
実は僕も、仕事中ずっと昨夜の夏美さんの笑顔を思い出していました。
またすぐにでも、お会いしたいです。
……週末、もしお時間があれば、僕の好きな「街歩き」にお付き合いいただけませんか?
カメラを持って、ゆっくり歩くようなデートですが。』
「……っ!」
夏美は思わず、ホームで小さく声を上げた。
周囲の人が怪訝そうにこちらを見たが、そんなことはどうでもよかった。
『またすぐにでも、お会いしたいです』
『デート』
その言葉が、網膜に焼き付いて離れない。
「デート」という二文字が、これほどまでに甘美で、破壊力のある言葉だったなんて、十代の頃だって知らなかった。
夏美は電車に乗り込み、座席に深く体を沈めた。
窓ガラスに映る自分の顔は、もはや「ディレクターの顔」ではない。
恋に落ち、世界を丸ごと愛してしまおうとしている、ひとりの女の顔だ。
一年前の失恋で、彼女は「愛される資格」を失ったのだと思い込んでいた。
もう誰かの特別になることはない、ただ効率的に、安全に、独りで生きていくのだと。
けれど、佐野蒼介という存在が、その強固な壁を跡形もなく粉砕してしまった。
(私、もう戻れない……)
震える指で、『喜んで。楽しみにしています』と返信を打つ。
電車は夜の闇を切り裂きながら、横浜へと向かって走る。
夏美の心は、完全に彼という引力に捉えられていた。
三段飛ばしの恋はしない。
そう誓ったはずだった。
けれど、彼が差し出してくれる手の温もりを想うだけで、夏美の魂は、階段のすべてを飛び越えて、彼の胸の中へと一直線に飛んでいきたいと叫んでいた。
それは、痛烈なまでの、本当の恋の始まりだった。




