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『三段飛ばしの恋はしない』  作者: 久遠 睦


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第五章:琥珀色の時間、解ける魔法の余韻

 「こんばんは、瀬戸さん。……少し、冷えますね」

 お店の灯りに照らされた佐野蒼介は、やはりあの日と同じ、穏やかな空気を纏っていた。

 夏美は「こんばんは」と返すのが精一杯だった。冷たい夜気のせいか、それとも彼を目の当たりにした緊張のせいか、指先が微かに震えているのを悟られないよう、バッグの持ち手を強く握りしめる。

 「予約していた佐野です」

 彼に促されるまま、レンガ造りの階段を下り、店内に足を踏み入れる。

 そこは、外の喧騒が嘘のように静まり返った、隠れ家のような空間だった。控えめなジャズが流れ、琥珀色のライトがテーブルを温かく照らしている。

 案内されたのは、壁際の小さな二人掛けの席。

 コートを脱ぐのを手伝おうとする彼の手を、「大丈夫です」と慌てて制してしまい、夏美はすぐに自分の無粋さを後悔した。

(落ち着いて。私は仕事でも数々の修羅場をくぐってきたディレクターじゃない……)

 けれど、目の前に座る佐野が、メニューを広げながら「ここのパスタ、自家製で美味しいんですよ」と微笑むだけで、積み上げてきたはずの自信は砂の城のように崩れ去る。

 

 「佐野さんは、よくここへ来られるんですか?」

 「ええ。疲れた時や、少しゆっくり考えごとをしたい時に、ひとりで。……今日は、瀬戸さんと来られて良かったです」

 さらりと言われた言葉に、夏美の心臓が大きく一度、跳ねた。

 お世辞かもしれない。ビジネスマンとしての社交辞令かもしれない。

 そう自分を戒める「冷静な夏美」の声が、今はひどく遠くに聞こえた。

 シャンパングラスが触れ合い、かすかな音が響く。

 最初は、やはり仕事の話が中心だった。進行中のプロジェクトの課題、業界の動向。共通の話題があることは救いだった。仕事の話をしている時の夏美は、いつもの冷静な自分を保っていられるからだ。

 けれど、前菜が運ばれてきた頃。

 佐野がふっと表情を緩め、ワイングラスを置いた。

 「瀬戸さん。……今日は、仕事の話はもう、おしまいにしませんか?」

 「え……」

 

 「もちろん、瀬戸さんのプロフェッショナルな姿勢は尊敬しています。でも、あの日、駅の階段で僕に声をかけてくれた時のあなたは、きっとディレクターとしてではなく、一人の女性として立っていた気がして。……僕は、そっちの瀬戸さんのことも知りたいんです」

 まっすぐに見つめる眼差しに、夏美は射すくめられた。

 嘘がない。駆け引きもない。

 あの日、老人の歩幅に合わせていた時と同じ、混じりけのない誠実さがそこにはあった。

 夏美の緊張の糸が、ぷつり、と切れた。

 張り詰めていた肩の力が抜け、自然と溜息が漏れる。

 「……見抜かれていましたか。実は、さっきから心臓がうるさくて、食事の味もよく分からなかったんです」

 正直に告白すると、佐野は声を上げて笑った。

 「僕もですよ。実は、プレゼンの時より緊張していました」

 

 そこからの会話は、まるで魔法がかかったように滑らかに流れ出した。

 佐野蒼介、三十二歳。

 趣味は古いカメラでの街歩き。休日は、あてもなく電車に乗って、知らない街の路地裏を散策するのが好きだという。

 「あの駅の時も、実は少し早めに着いて、駅周辺の古い看板とかを撮っていたんです。だから時間に余裕があっただけで……特別なことをしたわけじゃないんですよ」

 謙遜する彼に、夏美は首を振った。

 

 「時間に余裕があっても、あんなふうに自然に手を差し伸べられる人は、多くありません。少なくとも、あの時の私にはできませんでした」

 

 「瀬戸さんは、自分に厳しすぎるんじゃないかな。……あの日、僕のことを見ていてくれた。それだけで、あなたは十分に優しい人だと思います」

 彼の言葉が、一年前から冷え切っていた夏美の心に、じんわりと染み込んでいく。

 自分を肯定してくれる温かい言葉。

 誰かに、こんなふうに見てほしかったのだと、初めて気づいた。

 デザートが運ばれてくる頃には、夏美はすっかりリラックスしていた。

 彼が撮った写真を見せてもらい、自分が最近ハマっているお取り寄せスイーツの話をして、笑い合う。

 共通の趣味があるわけではない。けれど、言葉のテンポ、沈黙の長さ、笑うタイミング。

 そのすべてが、驚くほど心地よくフィットした。

 一年前の恋は、常に相手の顔色を伺い、期待に応えようと爪先立ちで歩いているようなものだった。

 けれど、佐野との時間は違う。

 背伸びをする必要もなく、三段飛ばしで急ぐ必要もない。

 ただ、そこに座っているだけでいい。

 「……もう、こんな時間ですね」

 

 佐野が時計を見て、名残惜しそうに言った。

 時計の針は、すでに二十一時に近づいている。

 平日の夜。明日も、お互いに責任ある仕事が待っている。

 「そうですね。……本当に、あっという間でした」

 

 お会計を済ませ、店を出る。

 外の空気はさらに冷え込んでいたが、不思議と寒さは感じなかった。

 

 二人は並んで、渋谷駅へと向かって歩き出した。

 奥渋の静かな路地。街灯の影が、アスファルトの上で長く伸びている。

 二人の影が、時折触れそうで触れない。そのもどかしい距離が、今は愛おしかった。

 

 「佐野さん。今日は……本当にありがとうございました。自分からお誘いしておいて、こんなに楽しませてもらってしまって」

 

 「こちらこそ。瀬戸さんと話せて、明日からの仕事も頑張れそうです。……次は、カメラの話の続きをさせてくださいね」

 

 「次」という言葉が、夏美の胸を甘く締め付ける。

 

 渋谷駅の雑踏が見えてきた。

 あの階段を、今度は二人で下りていく。

 あの日、彼が老人を助けていたあの場所で、二人は足を止めた。

 

 「僕は、JRの方へ。瀬戸さんは……東横線ですよね?」

 「はい」

 

 「お気をつけて。おやすみなさい、夏美さん」

 

 初めて名前を呼ばれた。

 「瀬戸さん」ではなく、「夏美さん」。

 その響きが、心臓を直接撫でられたような衝撃となって、彼女を立ち尽くさせた。

 

 「……おやすみなさい、佐野さん」

 

 彼が背中を向け、人混みの中へと消えていく。

 その背中を見送りながら、夏美は深く息を吐いた。

 

 冷たい空気。夜の街の匂い。

 すべてが、さっきまでとは違って見える。

 

 東横線のホーム。

 夏美は電車に乗り込み、窓側に席を見つけた。

 窓ガラスに映る自分の顔は、驚くほど柔らかい表情をしていた。

 

 (私、あんなふうに笑えるんだ……)

 

 ガタン、と電車が揺れ、夜の底へと走り出す。

 高揚感と、少しの疲労。そして、一人になった瞬間に押し寄せてくる不安。

 

 (彼は、本当に楽しんでくれたのかな。やっぱり、大人の対応だったんじゃないかな)

 

 そんな考えが頭をもたげた時、バッグの中でスマートフォンが短く震えた。

 

 慌てて取り出す。

 画面には、佐野からのメッセージ。

 

『無事に電車に乗れましたか?

 実は、さっき言い忘れてしまったことがあって。

 

 今日、お会いした時からずっと思っていたのですが。

 アイボリーのニット、とてもよく似合っていました。

 

 少し冷えるので、暖かくして休んでください。

 また明日。』

 

 「……っ!」

 

 夏美は、声を押し殺して、スマートフォンを胸元に抱きしめた。

 

 迷いに迷って選んだ、あのアイボリーのニット。

 彼は気づいてくれていた。それどころか、わざわざメッセージで伝えてくれた。

 

 アイボリーのニットに、鎖骨のライン。

 「また明日」という約束のような言葉。

 

 夏美は、顔が燃えるように熱くなるのを感じた。

 電車の窓に映る自分の顔は、もう、隠しきれないほど幸せそうに綻んでいる。

 

 一年前、枯れ果てたと思っていた涙が、じわりと瞳を潤ませる。

 それは悲しい涙ではなく、止まっていた世界が、あまりに鮮やかな色を持って動き出したことへの、歓喜の震えだった。

 

 三段飛ばしの恋はしない。

 一段、また一段。

 けれど、今夜のこの一段は、間違いなく、彼女の人生を永遠に変えてしまうほどの、光に満ちた一段だった。

 

 夏美は震える指で、返信を打ち始めた。

 夜の線路を走る電車の中で、彼女の新しい物語が、加速していく。


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