第四章:クローゼットの迷宮、渋谷へ続く秒針
決戦、という言葉は少し大げさかもしれない。けれど、月曜日の朝を迎えた瀬戸夏美にとって、それはあながち間違いではなかった。
明日、火曜日の十九時。渋谷。佐野蒼介との食事。
その事実が、週明けの気だるいオフィスの中で、夏美の意識を支配していた。
「瀬戸さん、例の進行表なんですけど……」
「あ、ええ。確認するわ」
後輩の問いかけに、夏美はいつもの「仕事ができるディレクター」の仮面を被って答える。指先は淀みなくキーボードを叩き、目はモニターを捉えている。けれど、脳内のリソースの半分以上は、明日のシミュレーションに割かれていた。
(まず、何を着ていけばいいの?)
それが、月曜日の午前中を費やした最大の懸案事項だった。
明日は平日だ。会社から直接向かうことになる。あまりに気合の入ったワンピースでは「今日、何かあるんですか?」と社内で邪推されるし、何より佐野に「この日のために準備してきました」という必死さが伝わってしまうのが怖かった。
かといって、いつもの地味なネイビーのテーパードパンツにブラウスでは、彼という鮮やかな光に対してあまりに無機質すぎる気がする。
(二十八歳の「ちょうどいい」って、どこにあるんだろう……)
一年前までの彼女なら、こんなことで悩まなかったはずだ。当時の恋人と会う時は、彼が好む「清楚で控えめな服」を選べば正解だった。自分の意思よりも、相手の正解を探し当てる方が効率的だったからだ。
けれど、佐野蒼介という人はどうだろう。
あの駅の階段で見せた、飾らない、けれど芯の通った優しさ。あんな人が好むのは、流行を追った服なのか、それともその人自身の個性が滲み出るようなスタイルなのか。
(……わからない。何も知らないんだ、彼のことを)
お昼休み、夏美はデスクでスマートフォンの画面を眺めていた。
昨日送ったメッセージの履歴。彼からの返信。
『渋谷のイタリアンを予約しました』という、短くも誠実な一文。
「まず何から話そう……」
夏美は小さく溜息をつき、メモ帳の端に「話題リスト」を書き出しそうになって、慌てて手を止めた。そんなことをしたら、それこそ商談の準備と同じになってしまう。
趣味は何ですか? 休みの日はどうされていますか?
普通なら、そこから始めるべきだろう。でも、二十八歳の初対面(正確には二度目だが、プライベートでは初めてだ)において、その質問はあまりにテンプレートすぎて、どこか空虚な気がした。
でも、それ以外の何を聞けばいい?
「どうしてあの日、お年寄りを助けたんですか?」なんて、道徳の授業のような質問も変だ。
「佐野さんのような素敵な人に、彼女がいないなんて信じられません」……いや、これもダメだ。もし本当に彼女がいたら、その瞬間にこの食事はただの「お悩み相談」か「不毛な社交」に成り下がってしまう。
(プライベートの領域に、どこまで踏み込んでいいのか。その距離感が、一年前の私には分かっていたはずなのに、今はまるで霧の中にいるみたい)
午後からの仕事は、もはや精神修養に近かった。
不意に、佐野のあの穏やかな微笑みが脳裏をよぎる。会議室での、凛としたプレゼンテーションの姿が重なる。
そのたびに、夏美の胸はキュッと締め付けられた。
これは「いいな」と思っている程度の感情ではない。もっとずっと重くて、逃げ場のない、濁流のような「恋」の予感だった。
定時を過ぎ、月曜日の夜。
夏美は帰宅するなり、クローゼットの前に立ち尽くした。
「これでもない……これも、違う」
ベッドの上には、次々と放り投げられた服の山ができていく。
淡いベージュのニット。質感の良いプリーツスカート。
鏡の前で合わせてみる。悪くない。でも、何か足りない。
「今の私」を一番綺麗に見せてくれて、かつ「彼に失礼ではない」絶妙なライン。
結局、彼女が選んだのは、深いアイボリーの柔らかなボートネックニットに、落ち着いたチャコールのタイトスカートだった。仕事着としても通用するが、ニットの鎖骨のラインが、ほんの少しだけ「女」を意識させる。
アクセサリーは、主張しすぎないパールのピアス。
「よし。……これでいい。これが、今の私の精一杯」
深夜、ベッドに入っても眠りは浅かった。
夢の中にまで、渋谷駅の迷宮のような階段が現れた。
自分が一段登るたびに、佐野が二段遠ざかっていく。
「待って」と声をかけようとした瞬間に、スマートフォンのアラームが鳴った。
火曜日。当日の朝。
鏡に映る自分を見て、夏美はホッと胸を撫で下ろした。
懸念していた肌荒れも、目の下のクマもない。アドレナリンが出ているせいか、むしろ血色はいつもより良いくらいだ。
「おはよう、私」
自分に言い聞かせ、丁寧にメイクを施す。
ファンデーションを薄く伸ばし、マスカラはダマにならないよう慎重に。リップは、派手すぎないけれど、表情を明るく見せるコーラルピンク。
家を出る直前、お気に入りの香水を、空中にひと吹きしてその下をくぐった。
会社での時間は、もはやカウントダウンのようだった。
十九時に間に合わせるためには、十八時十五分にはオフィスを出なければならない。
「瀬戸さん、この修正、明日でもいいですか?」
「ええ、もちろん。無理しないで」
いつもなら「今日中にやっておいて」と言うような案件も、今日だけは寛大になれた。
十八時。
夏美はデスクを片付け、バッグを手に取った。
「お疲れ様です」
周囲に声をかける声が、わずかに弾んでいるのを自覚して、顔が赤くなる。
エレベーターを降り、駅へと向かう。
夕方の冷たい空気が、火照った頬に心地よい。
電車に乗り込むと、窓に映る自分の姿を何度もチェックしてしまう。
髪は乱れていないか。メイクは崩れていないか。
(私、本当にどうしちゃったんだろう)
二十八歳。人生の三分の一を過ぎた、立派な大人だ。
仕事でトラブルがあっても動じないし、大抵の人間関係はうまく回せる。
なのに、たった一人の男性に会うというだけで、指先が凍えるように冷たい。
電車が渋谷駅に滑り込む。
かつて彼を見かけた、あの場所。
ホームに降り立つと、人で溢れかえる喧騒が彼女を包んだ。
改札を抜け、ハチ公口へ向かう。
待ち合わせは、お店の前に直接、という約束だった。
駅から徒歩十分ほど。喧騒を離れた、奥渋と呼ばれるエリアにある店だ。
歩道を歩きながら、夏美は何度もスマートフォンで地図を確認した。
道に迷って遅刻するなんて、それこそ効率が悪すぎる。
(落ち着いて。深呼吸して)
一歩、また一歩。
渋谷の派手なネオンが、少しずつ落ち着いた街灯の明かりへと変わっていく。
ふと、一年前のことを思い出した。
あの頃の私は、恋を「義務」のようにこなしていた。
記念日にはこれをしなきゃいけない。こういう時はこう言わなきゃいけない。
「三段飛ばしの恋」を無理やりしようとして、足元がまるで見えていなかった。
でも、今は違う。
一段一段、足の裏に伝わる地面の感触を確かめるように、彼へと近づいている。
この緊張も、この不安も、すべてが「生きている」という実感となって、夏美の全身を駆け巡っていた。
角を曲がると、古いレンガ造りの建物が見えた。
そこだけが、柔らかいオレンジ色の光に包まれている。
看板には、指定された店名が控えめに記されていた。
お店の前。
街灯の柱に背を預けて、スマートフォンの画面を眺めている一人の男性がいた。
ネイビーのコート。あの日と同じ、手入れの行き届いた革の靴。
彼は不意に顔を上げ、こちらを見た。
眼鏡の奥の瞳が、夏美を捉える。
「……瀬戸さん」
彼の声が、冷たい夜の空気を通って、夏美の胸の奥深くまで届いた。
夏美の心臓が、大きく一度、跳ねた。
それは、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の「恋」の始まりを告げる合図だった。
「お待たせいたしました、佐野さん」
震える声を必死に抑え、夏美は彼に向かって、最高の一歩を踏み出した。
三段飛ばしではない、彼女自身の、等身大の一歩を。




