第三章:既読のあとの迷宮、二十八歳の臆病な詮索
スマートフォンの青白い光が、暗い部屋の中に浮き上がっている。
夏美は、ベッドの上で丸まりながら、届いたばかりのメッセージを何度も読み返した。
『ご連絡ありがとうございます。瀬戸さんからメッセージをいただけて、正直、驚きましたが……とても嬉しいです。食事の件、ぜひ。来週の火曜日か水曜日あたり、ご都合はいかがでしょうか?』
「……っ」
声にならない吐息が漏れた。
嬉しい。単純に、天にも昇るような心地だった。
一年前、あんなに惨めに終わった恋のあと、心に分厚いかさぶたを作って生きてきた。もう二度と、こんなふうに通知ひとつで鼓動が跳ねるような日は来ないと思っていた。
けれど、喜びの波が引いたあとに押し寄せてきたのは、二十八歳という年齢相応の、冷ややかで現実的な「疑念」だった。
(……どうして、あんなにスムーズにOKしてくれたんだろう)
夏美は、枕に顔を埋めた。
彼は、業界最大手企業の優秀なビジネスマンだ。今日のプレゼンを見ればわかる。論理的で、隙がなくて、おそらくは人付き合いの機微にも通じている。
そんな彼が、出会って間もない、しかも「取引先の担当ディレクター」からの誘いを二つ返事で受けた。
もし、これが純粋な好意ではなく、ビジネス上の「配慮」だとしたら?
広告制作会社のディレクターである夏美は、彼らにとって大切なパートナーだ。無下に断って、プロジェクトの進行にさざ波を立てるわけにはいかない。
「ないがしろにできない相手」だからこそ、彼は大人の余裕を持って、その誘いに乗ったのではないか。
そう考えると、先ほどまでの高揚感が、急速に温度を失っていくのを感じた。
「私、バカみたい……」
天井を見上げる。
よく考えれば、私は彼のことを何も知らない。
佐野蒼介。名前と、仕事ができることと、駅の階段でお年寄りを助けるほど優しいこと。知っているのはそれだけだ。
彼は何歳なのだろう。
落ち着いた雰囲気からすれば、三十代前半だろうか。
結婚はしているのだろうか。左手の薬指には、今日は指輪はなかった。けれど、今の時代、結婚していても指輪を外して仕事をする男性なんていくらでもいる。
あるいは、同棲している彼女がいるかもしれない。
あんなに清潔感があって、仕事ができて、誰にでも分け隔てなく優しい男性を、世の女性たちが放っておくはずがない。
(もし、奥さんがいたら? 彼女がいたら? 私はただの『仕事で知り合った、ちょっと積極的すぎる痛い女』になるだけじゃない……)
想像するだけで、胃のあたりがキュッと縮み上がる。
二十八歳。もう、勢いだけで突き進んで「ごめんなさい、知りませんでした」で済まされる年齢ではない。
恋愛に対しても、仕事と同じくらいの「リスクヘッジ」を求めてしまう自分が嫌だった。でも、そうせずにはいられないほど、夏美は傷つくことに臆病になっていた。
翌朝。
夏美は重い足取りで出社した。
オフィスはいつも通りの活気に溢れている。けれど、彼女のアンテナは、昨夜からずっと「佐野蒼介」というキーワードにだけ過敏に反応していた。
(誰か、彼のこと詳しく知っている人はいないかな……)
今回のプロジェクトは、複数の部署が絡んでいる。
営業部の佐藤さんなら、以前からあの企業と付き合いがあるはずだ。あるいは、受付のあの子なら、出入りする業者の噂話を知っているかもしれない。
「佐藤さん、ちょっといいかな。例のキックオフの件なんだけど……」
夏美は、さりげなく営業部のデスクに歩み寄った。
「ああ、瀬戸さん。昨日の佐野さんのプレゼン、評判いいですよ。上もノリノリだし」
「そうね、本当に素晴らしかったわ。あんなに優秀な方だと、やっぱり社内でも目立つ存在なのかしらね?」
心臓がドクン、と鳴る。
聞きたいのは仕事の評価じゃない。
「彼は独身ですか?」「誰か決まった人はいますか?」
喉元まで出かかった言葉を、夏美は必死に飲み込んだ。
「……ああ、佐野さんね。彼は中途で入ってから、ずっとエースらしいですよ。私生活は謎ですけどね。あ、でも……」
「でも?」
夏美は身を乗り出しそうになるのを堪え、努めて冷静な表情を保った。
「いや、あんなにイケメンで性格良ければ、まあ、普通に考えて相手はいるでしょうね。瀬戸さん、まさか興味あるんですか?」
「なっ、そんなわけないでしょ! プロジェクトの進行上、相手のパーソナリティを知っておいた方がやりやすいかなって思っただけよ」
早口でまくし立て、夏美は逃げるようにその場を去った。
最悪だ。絶対に怪しまれた。
自席に戻り、PCのモニターを睨みつける。
今の自分は、まるで思春期の女子学生だ。
仕事、仕事、仕事。
自分に言い聞かせる。私はプロだ。私情を仕事に持ち込むなんて、一番嫌っていたことじゃないか。
けれど、スマートフォンの通知が鳴るたびに、指先が勝手に動いてしまう。
午後二時。彼から再びメッセージが届いた。
『お疲れ様です。来週の火曜日、十九時から渋谷のイタリアンを予約しようと思うのですが、いかがでしょうか。駅から少し離れますが、落ち着いて話せるお店です。』
「……渋谷」
あの日、彼を見かけた場所。
彼が指定してきたのは、駅から少し離れた、隠れ家的なお店だった。
「落ち着いて話せるお店」という言葉が、また夏美を悩ませる。
何を話すつもりなのだろう。
あの日、駅でお年寄りを助けていた話。
仕事への情熱の話。
それとも、もっとプライベートな、誰にも話していない秘密の話?
(普通に食事して、普通に話す。それだけでいいはずなのに)
どうして、こんなに苦しいのだろう。
一年前の失恋で、夏美が学んだのは「期待しないこと」だった。
期待するから、裏切られた時に動けなくなる。
期待するから、自分の価値が否定されたように感じてしまう。
だから、今回のことも「ただのビジネスディナーの延長」だと思えばいい。
そう自分に言い聞かせる。
でも。
佐野蒼介という人は、そんな言い訳を軽々と飛び越えてくる。
『ありがとうございます。火曜日、楽しみにしています。』
短く、簡潔に返信を送る。
送信したあと、夏美はデスクに突っ伏した。
当日、彼の前に立った時、私は冷静でいられるだろうか。
仕事の顔を脱ぎ捨てて、ひとりの女性として彼と向き合う勇気が、今の私にあるのだろうか。
もし、食事の席で彼が「実は婚約者がいて……」なんて話し出したら。
私は笑って「おめでとうございます」と言えるだろうか。
窓の外、渋谷の喧騒へと続く空は、少しずつ夜の色に染まり始めていた。
三段飛ばしの恋はしない。
一段ずつ。
けれど、その一段が、今の夏美にはあまりにも高くて、険しい崖のように見えていた。
「……頑張らなきゃ、私」
夏美は小さく呟き、鏡を取り出した。
そこには、恋に怯えながらも、どうしようもなく光を求めている、二十八歳の女の顔が映っていた。




