第二章:震える指先、青い光の迷路
エレベーターの重厚な扉が、吸い込まれるように閉まった。
佐野蒼介の姿が消え、ホールには再び無機質な静寂と、空調の低い唸りだけが残された。
夏美は、その場に釘付けになったように動けなかった。
自分の右手の指先には、まだ微かな熱が残っている。彼が手渡してくれた、白いカードの感触。それは、ビジネスの場で交わされる、厚みのある高級な名刺とは明らかに違っていた。少しだけ柔らかく、手触りのある、個人のためのプライベートなカード。
(……私、なんてことを)
喉の奥が、熱い。
心臓の鼓動が、耳のすぐ下で早鐘を打っている。
深呼吸をしようとしたが、肺に吸い込まれる空気はひどく冷たく、震えた。
自分から誘った。あんなふうに、真っ直ぐに。
「三段飛ばしの恋はしない」と心に決めていたはずなのに、今の自分は階段を一段ずつ登るどころか、手すりを飛び越えて、得体の知れない深淵に飛び込んでしまったのではないか。そんな恐怖と、それを上回る激しい高揚感が、夏美の体を支配していた。
「瀬戸さん? どうしました、そんなところで」
背後から声をかけられ、夏美は跳ねるように肩を震わせた。
振り返ると、同じチームの若手社員、由香が不思議そうな顔をして立っていた。
「あ、いえ。……なんでもないの。少し、考え事をしていて」
「顔、赤いですよ? 会議室、暑かったですよね。佐野さんのプレゼン、熱量すごかったですし」
「そうね。……そう、だったわね」
夏美は、由香の視線から逃げるように、早足で自分のデスクへと戻った。
周囲は、午後の業務に向けて慌ただしく動き始めている。電話の音、キーボードを叩く音、誰かの笑い声。すべてが遠くの出来事のように感じられた。
デスクに座り、バッグのポケットにそっと忍ばせたカードを取り出す。
そこには、シンプルで整ったフォントで「佐野 蒼介」という名前と、メッセージアプリのID、そして個人のメールアドレスだけが記されていた。
会社のロゴも、役職も書かれていない。その「空白」が、かえって彼という人間の奥行きを物語っているようで、夏美の目を離させなかった。
指先で、カードの端をなぞる。
佐野蒼介。
あの日、渋谷駅の混雑の中で、誰もが目を逸らすような場面で、当たり前のように立ち止まった人。
そして今日、完璧なロジックで周囲を圧倒してみせた人。
その二つの顔が、夏美の中で重なり、火花を散らす。
なぜ、あんなに惹かれたのだろう。
一年前、三年の月日を費やした恋を終わらせた時、自分の中の「恋」という機能は、永久にシャットダウンされたのだと思っていた。
次に誰かを好きになるとしても、それはもっと穏やかで、条件が一致し、お互いのリソースを損なわないような、静かな「契約」のようなものになるだろうと、どこかで信じていた。
けれど、今、この胸を締め付けているのは、そんな賢明な感情ではない。
もっと原始的で、コントロール不能な、暴力的なまでの「ときめき」だった。
(二十八歳にもなって、何をやっているんだろう……)
夏美は手で顔を覆った。
午後からの仕事は、壊滅的だった。
PCの画面に並ぶ数字やテキストが、記号の羅列にしか見えない。
プロジェクトの進行表をチェックしていても、気づけば意識は二週間前の渋谷駅、あの急な階段の踊り場へと引き戻されていた。
冬の朝の、鋭い光。
佐野が老人の肘を支えた時の、手の角度。
「お荷物、お持ちしますよ」と言った時の、柔らかい声の余韻。
夏美は、自分が思っている以上に、あの一瞬に心を奪われていたのだと痛感した。
それは、効率や合理性が支配する世界で、唯一見つけた「本当の温度」だったからかもしれない。
「瀬戸さん、この見積書、判子いただけますか?」
「……え?」
「瀬戸さん?」
隣の席の先輩に指摘され、夏美は慌てて書類を手に取った。
反対向きに持っていたことに気づき、顔が燃えるように熱くなる。
「すみません、ちょっと寝不足で」
「珍しいわね、瀬戸さんがそんなミスするなんて。今日はもう早めに上がりなさいよ」
先輩の言葉に曖昧な笑みを返し、夏美は時計を見た。
まだ、午後三時。
退勤までの時間が、気の遠くなるほど長く感じられた。
頭の中では、一つの問いがループし続けている。
(……連絡、いつすればいいのかな)
カードをもらったのは、つい数時間前だ。
今すぐに送るのは、あまりに「がっついている」と思われるだろうか。
「誘ったのはそっちなのに、連絡が早すぎる」なんて、冷笑されるだろうか。
かつての夏美なら、もっと冷静に「恋愛のセオリー」を計算できたはずだ。
三日待つのが定石。あるいは、明日の昼休みにさらりと送るのが、重すぎず軽すぎない。
けれど、今の夏美に、そんな計算を働かせる余裕はなかった。
仕事の話はしたくない、と彼に伝えた。
それはつまり、彼女が「女としての瀬戸夏美」として彼に向き合うと宣言したのも同然だ。
その言葉の重みに、今さらながら押し潰されそうになる。
(夜……がいいのかな。仕事が終わって、一息ついたくらいの時間)
いや、夜は夜で「親密さ」を演出しすぎているかもしれない。
「今夜、何をしていますか?」なんて深読みされたらどうしよう。
でも、明日まで待つのも辛い。
もし、明日になって彼の熱が冷めていたら?
あのカードをくれたのが、ただの社交辞令や、その場の空気に流されただけのものだったら?
考えれば考えるほど、ネガティブな想像が膨らんでいく。
自分から誘うなんて、初めてだった。
これまでの人生、恋愛はいつも「受け身」から始まっていた。
相手から声をかけられ、品定めをし、リスクがないと判断してから、ようやく一歩を踏み出す。それが夏美の処世術だった。
なのに、佐野に対してだけは、すべての防衛本能が麻痺してしまった。
階段を一段ずつ、慎重に確かめながら登るはずの自分が、目隠しをしてジャンプしてしまったのだ。
午後六時。
定時を告げるチャイムが鳴ると同時に、夏美は逃げるように会社を飛び出した。
横浜へ向かう東横線の車内。窓の外を流れる夜景が、滲んで見える。
スマートフォンを握りしめた手のひらが、汗ばんでいる。
帰宅し、部屋の明かりもつけずにソファに倒れ込んだ。
バッグから再び、あのカードを取り出す。
暗闇の中で、白い紙が微かに光っているように見えた。
(……送ろう。今、送らなきゃ、一生後悔する)
夏美は起き上がり、スマートフォンの画面を開いた。
メッセージアプリの「友達追加」の欄に、カードに書かれたIDを打ち込む。
検索結果に表示されたのは、モノクロの風景写真のアイコンと、「Sousuke Sano」という名前。
それだけで、鼓動がさらに一段階、速くなった。
指が震えて、文字がうまく打てない。
『佐野さん、お疲れ様です。本日はありがとうございました。瀬戸です』
削除。あまりに堅苦しい。仕事のメールみたいだ。
『先ほどはありがとうございました! 急にお誘いしてしまって驚かせましたよね。もしよろしければ……』
削除。ビックリマークが安っぽい。必死さが伝わりそうで怖い。
『佐野さん。今日はありがとうございました。駅でお見かけした話を、どうしてもお伝えしたかったんです。お食事の件、お忙しいとは思いますが、ご都合の良い時に教えていただけたら嬉しいです』
……これなら。
誠実で、けれど自分の意思も入っている。
夏美は何度も読み返し、誤字脱字がないかを確認し、さらに深呼吸を三回繰り返した。
窓の外、横浜の街の喧騒が遠くから聞こえる。
今、この送信ボタンを押せば、私の世界はもう後戻りできなくなる。
「……えいっ」
小さく声を出し、親指を画面に押し当てた。
メッセージが送信されたことを示す、軽やかな音が響く。
その瞬間、夏美はスマートフォンをベッドの上に投げ出し、自分もその横に突っ伏した。
送信完了。
時刻は、午後八時十五分。
心臓の音が、静かな部屋に響き渡っている。
青い光を放つスマートフォンを、夏美は恐る恐る盗み見た。
既読は、まだつかない。
彼は今、何をしているだろう。
まだ仕事だろうか。それとも、誰かと食事をしているだろうか。
私のメッセージを見て、どんな顔をするだろう。
「ああ、あの時の人か」と、面倒くさそうに溜息をつくのだろうか。それとも……。
夏美は天井を見上げた。
一年前の自分には、想像もできなかった夜だ。
誰かの反応に一喜一憂し、二十代後半にもなってベッドの上で転げ回るような、こんな無様で、けれど鮮やかな感情。
「三段飛ばしの恋はしない」
自分に言い聞かせたその言葉は、もしかしたら、傷つくのを恐れて自分にかけた「呪い」だったのかもしれない。
一段ずつ登るのもいい。
けれど、たまには足を踏み外してでも、手を伸ばさなければ掴めないものがある。
佐野が、階段で老人の手を掴んだ、あの瞬間の優しさのように。
十分後。
ベッドの上で震えたスマートフォンのバイブレーションが、夏美の魂を激しく揺さぶった。
通知画面に表示された、一通のメッセージ。
夏美は息を止め、震える指でロックを解除した。




