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『三段飛ばしの恋はしない』  作者: 久遠 睦


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第一章:モノクロームの朝、止まった秒針

午前七時十五分。

 スマートフォンの無機質なアラーム音が、横浜にある控えめな広さのワンルームに鳴り響く。

 瀬戸夏美せと なつみは、重い瞼を押し上げ、天井の一点を見つめた。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ少し白んでいて、冬の気配を色濃く残している。

 彼女は二十八歳。中堅の広告制作会社でディレクターを務めて一年が経とうとしている。

 起き上がり、慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットする。豆を挽く音が静かな部屋に響く間、彼女は鏡の前で自分の顔を検分した。

 目元には隠しきれない疲労の影がある。けれど、それをコンシーラーで塗りつぶす術を、彼女はこの十年の社会人生活で嫌というほど学んできた。

「……よし」

 小さく呟く。それは気合を入れるというより、自分を「仕事モード」という機械に切り替えるためのスイッチのようなものだった。

 一年前まで、この部屋にはもう一つの気配があった。

 三年付き合った恋人。結婚の話も出始めていた。けれど、ある日突然、糸が切れるように終わった。理由は「価値観の違い」なんて便利な言葉で片付けられたが、本当はもっと残酷で単純なものだった。お互いに、相手のために自分を削ることに疲れてしまったのだ。

 それからの夏美の毎日は、色を失った。

 友人に誘われた食事会に行かなかったわけではない。新しい出会いを求めて、アプリを覗いてみたこともある。けれど、相手の年収や学歴、メッセージの返信速度を「効率的かどうか」という物差しで測ってしまう自分に、何よりも早く冷めてしまった。

 階段を一段ずつ登るような丁寧な関係の築き方を、彼女は忘れてしまったのかもしれない。

 あるいは、かつてのように「三段飛ばし」で熱烈な恋に飛び込むエネルギーが、もう残っていないだけなのか。

 八時十分。夏美は家を出た。

 横浜から東横線に揺られ、降り立ったのは、迷宮のような工事が続く巨大なターミナル――渋谷駅だった。

 駅の構内は、通勤ラッシュの熱気と殺気で満ちていた。

 人々は一分一秒を惜しみ、スマートフォンの画面を睨みながら、あるいはイヤホンで世界を遮断しながら、出口というゴールへ向かって競走馬のように突き進む。夏美もまた、その群れの一人だった。

 その時だった。

 JR線への乗り換えに向かう、あの長く、急な階段。その踊り場で、人の流れが不自然に淀んでいる場所があった。

(……何?)

 舌打ちをして避けていく男性。眉をひそめて通り過ぎる女性。

 その視線の先に、一人の老人がいた。古びたキャリーケースを抱え、震える足で段差を前に立ち尽くしている。その周りを、濁流のような群衆が容赦なく追い越していく。ここは渋谷だ。優しさよりも速度が優先される戦場だ。

 夏美も、止まるつもりはなかった。

 九時からの打ち合わせに遅れるわけにはいかない。昨夜遅くまで作った資料の最終確認もしたい。

「すみません、ちょっと失礼」

 心の中でそう唱えながら、老人の脇を通り抜けようとした。

 けれど、その視界に、一人の男が割り込んできた。

 彼は、夏美の数歩先を歩いていたはずだった。

 パリッとしたネイビーのコートに、手入れの行き届いた革のビジネスバッグ。彼もまた、この戦場のような朝を生きる一人のビジネスマンに見えた。

 彼は迷いがなかった。

 流れるような動作で、老人の前に膝をつく。

「お荷物、お持ちしますよ。上までですよね?」

 喧騒の中でも、不思議と耳に届く落ち着いた声だった。

 男は老人の重そうなキャリーケースを軽々と片手で持ち上げ、もう片方の手を、老人の肘に優しく添えた。

 老人は驚いたように顔を上げ、申し訳なさそうに何かを言った。

 男は、ふっと微笑んだ。

 それは、見返りを求めるような「善意の押し売り」ではなく、ただ、そこにあるべき自然な行いであるかのような、穏やかな笑みだった。

 夏美は、知らず知らずのうちに足を止めていた。

 背後から来た誰かに肩が当たり、「危ねえな」と毒づかれたが、謝る言葉も出なかった。

 男が老人の歩幅に完璧に合わせて、ゆっくりと階段を登っていく。

 一歩、また一歩。

 「三段飛ばし」で急ぐ者たちが彼らを追い越していく。その中で、彼ら二人だけが、別の時間軸を歩いているようだった。

 男の背中は、広く、どこか頼もしかった。

 吹き抜けから差し込む冬の朝の冷たい光が、彼のうなじのあたりを白く照らしている。

(どうして……)

 夏美の胸の奥で、小さな、けれど確かな振動が起きた。

 それは、久しく忘れていた「心の揺れ」だった。

 効率や損得を考えれば、あそこで立ち止まることは間違いだ。打ち合わせの時間に間に合わないリスク、服が汚れる可能性、面倒に巻き込まれる不利益。

 けれど、彼はそのすべてを無視して、ただ目の前の老人の歩幅に合わせて、一段ずつ、丁寧に登っていた。

 階段を登りきった男が、老人に軽く会釈をして、人混みの中へと消えていく。

 その横顔は、一瞬しか見えなかった。

 けれど、眼鏡の奥にある穏やかな眼差しが、夏美の脳裏に焼き付いて離れなかった。

「……急がなきゃ」

 夏美は我に返り、時計を見た。

 止まっていた時間は、わずか数十秒。

 けれど、彼女が再び歩き出した時、先ほどまでモノクロームに見えていた渋谷の景色が、心なしか彩度を増しているような気がした。

 オフィスに着くと、現実はすぐに彼女を飲み込んだ。

 鳴り止まない電話、積み上がるメール、部下からの相談。

「瀬戸さん、例のプレゼン資料、修正終わりました!」

「ありがとう。こっちの数字、もう一回確認しておいて」

 夏美はテキパキと指示を出し、会議室へと向かう。

 駅で見かけたあの男のことは、日常の荒波に揉まれるうちに、記憶の端へと追いやられていった。

「そんなこともあったな」

 昼食のコンビニおにぎりを口に運びながら、ふと思い出す程度。

 現代を生きる彼女にとって、一瞬のときめきよりも、目の前のタスクを消化することの方が、よほど重要で、生存に直結する課題だったからだ。

 二週間後。

 夏美は、新しいクライアントとの共同プロジェクトのキックオフ会議に参加していた。

 相手は業界大手のITソリューション企業。

 会議室の重厚な扉を開け、夏美は自社のチームと共に席に着く。

「お待たせいたしました。本日、プレゼンテーションを担当させていただきます、佐野です」

 扉が開き、入ってきた人物を見て、夏美は手にしていたペンを落としそうになった。

 そこに立っていたのは、あの日、渋谷駅の階段で老人の手を引いていた、あの男だった。

 ネイビーのスーツを完璧に着こなし、落ち着いた足取りでプロジェクターの前へと進む。

 眼鏡の奥の眼差しは、あの日見た穏やかさを保ちつつも、今はプロフェッショナルとしての鋭い知性を宿している。

 佐野さの 蒼介そうすけ

 配布された資料に記されたその名前を、夏美は指でなぞった。

 彼はプレゼンテーションを始めた。

 その語り口は、非常に論理的で、無駄がない。

 夏美たちが抱えていた課題を鮮やかに紐解き、解決策を提示していく。

 

(仕事ができる人なんだ……)

 夏美は圧倒されていた。

 あの日、駅で見せた「非効率な優しさ」と、今目の前で展開されている「圧倒的な効率性」。

 その二つが、佐野という一人の人間の中で、矛盾することなく美しく共存している。

 会議室を包む緊張感。

 佐野の声が、心地よい低音で耳に響く。

 夏美は、気づけば彼の唇の動き、資料を指し示す指先、時折見せる真剣な表情を、食い入るように見つめていた。

 一時間半の会議は、あっという間に過ぎた。

「……以上の理由から、本プロジェクトを提案させていただきます。ご検討よろしくお願いいたします」

 佐野が深く一礼し、プレゼンを締めくくった。

 自社の上司が満足げに頷き、挨拶を交わす。

 夏美も立ち上がり、名刺交換の列に加わった。

 心臓が、耳の下でうるさいほど鼓動を刻んでいる。

 仕事の付き合いだ。挨拶をすればいいだけ。

 でも、なんて言えばいい?

「素晴らしいプレゼンでした」

 そんなの、誰でも言える。

「今後ともよろしくお願いいたします」

 そんなの、仕事の話でしかない。

 彼女が求めているのは、今の彼との「効率的なビジネス」の接点ではない。

 もっと前の、あの日。

 あの階段の踊り場で、彼女の心が震えた理由を確認したいという、ひどく個人的で、非効率な欲望だった。

 列が途切れ、佐野が帰り支度を始める。

 彼はバッグを手に、エレベーターホールへと向かっていった。

「あ、佐野さん!」

 気づけば、声が出ていた。

 周囲の同僚が不思議そうな顔をしたが、構っていられなかった。

 佐野が立ち止まり、不思議そうに振り返る。

「はい。……瀬戸さん、でしたね。何か不足している資料でもありましたか?」

 彼は丁寧な、けれど距離のあるビジネススマイルを浮かべた。

 その瞳に、夏美は映っていない。

 ただの「取引先のディレクター」としてしか、彼は彼女を見ていない。

 夏美は喉の渇きを感じながら、一歩、彼の方へ歩み寄った。

 三段飛ばしで近づくのは、私のスタイルじゃない。

 でも、ここから先は、仕事の自分を捨てなければ届かない。

「いえ、お仕事の話ではないんです」

 夏美は、まっすぐ佐野の目を見つめた。

 

「二週間前の朝。渋谷駅の階段で、お年寄りの方の荷物を持ってお手伝いされていましたよね」

 佐野の動きが、ぴたりと止まった。

 眼鏡の奥の瞳が、驚きに大きく見開かれる。

「……え?」

「私、すぐ後ろを歩いていたんです。あの日、みんな急いでいて……私もそうだったんですけど。でも、佐野さんがその方の歩幅に合わせて、一段ずつ、本当に丁寧に登っているのを見て……すごく、胸を打たれました」

 夏美は、一気に言い切った。

 頬が火照るのを感じる。

 二十八歳になって、ビジネスの場でこんなプライベートな、しかも少し気味の悪い告白のようなことをするなんて。

 静寂が、エレベーターホールに流れる。

 佐野は数秒の間、呆然としていた。

 やがて。

「……見られていたんですね。少し、恥ずかしいです」

 佐野が、ふっと笑った。

 それは、プレゼンの時の完璧なビジネススマイルではなかった。

 あの日、駅の階段で老人に向けた、あの柔らかい、太陽のような微笑み。

「あの時は、ただ……あの方の靴が少し滑りそうで、放っておけなかっただけなんです」

「その『だけ』が、私にはとても綺麗に見えたんです」

 夏美の心臓の音が、さらに速まる。

 普段の自分なら、ここで「お忙しいところ失礼しました」と会釈をして立ち去るはずだ。それが「正解」で「効率的」な大人の振る舞いだから。

 

 けれど、指先が微かに震えていた。

 今、ここでこの手を離したら、彼とは二度と「仕事以外の関係」にはなれない。

 そんな予感が、彼女の背中を強烈に押した。

「あの……」

 唇が震える。自分でも驚くほど、声が上ずっていた。

「もし……もし、ご迷惑でなければ。今度、お仕事抜きで……お食事でも、いかがですか?」

 自分でも信じられない言葉が、口から飛び出した。

 自分から男性を誘うなんて、人生で一度もしたことがなかった。

 ましてや、二週間前に一度見かけただけの、今日初めて言葉を交わした取引先の相手に。

 佐野は、今度こそ目を見開いて絶句した。

 夏美は、自分の心臓の音が廊下に響いているのではないかと思うほど激しい動悸に襲われていた。

(私、何を言っているんだろう。バカじゃないの? 仕事に影響が出たらどうするの?)

 頭の中の「冷静な夏美」が叫んでいる。けれど、目の前の佐野から目を逸らすことだけはしたくなかった。

 数秒が、永遠のように感じられた。

 佐野がゆっくりと、その端正な顔を綻ばせる。

 

「……驚きました。瀬戸さんのようなお仕事に厳しい方が、そんなふうに仰ってくださるなんて」

 佐野はバッグの中から手帳を取り出し、一枚のカードに、スラスラと何かを書き込んだ。

「嬉しいです。ぜひ、こちらこそ。……これ、僕の個人の連絡先です」

 差し出された白いカードを受け取る時、夏美の指先が佐野の指に触れた。

 ほんのわずかな接触。

 けれど、そこから伝わってきた熱は、冬の空気の中で驚くほど鮮烈だった。

 一年前、止まってしまった夏美の秒針が、カチリ、と音を立てて、かつてないほど力強く動き出した。

 三段飛ばしの恋は、もうしない。

 そう決めていたはずなのに。

 自分から踏み出したこの一段は、今までの人生のどのジャンプよりも、高く、深い場所へと彼女を運ぼうとしていた。


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