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第8話 悪役令嬢を救うつもりはない、ただ見捨てないだけだ

 その日のうちに、学園中の噂は三回ほど形を変えた。


 最初は、

 「中庭に謎の転移者が現れた」

 である。


 次に、

 「その転移者がリリアーナを抱きとめた」

 へ変わった。


 そして夕方には、

 「その転移者は悪役令嬢にも近づいているらしい」

 になっていた。


 学園という場所は、どうしてこうも情報が走るのが早いのかと、九十九院霊真は少し感心し、少し困惑していた。比叡山でこんな速度で噂が広がったら、たぶん朝の読経の前に全員が知っている。


 とはいえ、ここは山ではなく学園である。


 しかも、どうやらかなり“人間関係が劇的に動くこと”を好む場所らしい。


 食堂で水を飲んでいても、

 廊下を歩いていても、

 図書塔の前を通っていても、

 耳に入るのは似たような話ばかりだった。


「リリアーナさんの教材、また水に濡らされたんですって」

「ローゼンベルク様の取り巻きがやったとか?」

「でも証拠はないんでしょう?」

「証拠なんてなくても、あの方ならやりそうじゃない」

「まあ、それは……」


 セレスティア・フォン・ローゼンベルク。


 悪役令嬢。


 高慢で、冷たく、庶民出身のリリアーナにだけ厳しい公爵令嬢。


 その筋書きを補強するような噂ばかりが、よどみなく流れていた。


 だが霊真は、そういう話をそのまま受け取る気にはなれなかった。


 なぜなら、妙に整いすぎているからだ。


 誰も彼も、

 「きっとあの人が悪い」

 という前提を共有していて、

 その前提に合う出来事だけを拾い上げ、

 合わない部分は曖昧に流しているように見える。


 その感じが、どうにもよくない。


 修行の場でも、集団の空気というものはある。

 誰かが一度“怠け者”や“問題児”という役割を押しつけられると、その後どれだけ真面目にしても色眼鏡で見られることがある。人間とはそういうものだと、霊真も知っている。


 だが、知っているからこそ、流されるべきではないとも思う。


 その日の昼、霊真はリリアーナと廊下を歩いていた。


 リリアーナは相変わらず案内役を買って出てくれていたが、今日はどこか元気がない。笑おうとはしている。けれど、声の端に少しだけ曇りがある。


「何か、お困りごとでも」


 霊真が静かにそう問うと、リリアーナはぴくっと肩を揺らした。


「えっ」


「先ほどから、呼吸が少し浅いようです」


「呼吸で分かるんですか?」


「多少は」


「……レイシンさんって、本当にそういうところありますよね」


 何が“そういうところ”なのか、霊真にはよく分からなかった。


 リリアーナは少し迷ったあと、ぽつりと言った。


「その……私のこと、またセレスティア様がいじめたって噂になっていて」


「事実なのですか」


 霊真はすぐにそう聞いた。


 リリアーナは驚いたように目を瞬かせる。


「え?」


「あなたがそうおっしゃらぬなら、決めつけるべきではないかと」


 リリアーナはしばらく黙った。


 それから、かすかに苦笑する。


「……なんだか、変な感じです」


「変、でしょうか」


「皆、先に“セレスティア様が悪い”って言うんです。でもレイシンさんは、まず私に聞くんですね」


「そうしたほうが、正確かと思いましたので」


 実際、それだけのことだった。


 リリアーナは少しだけ視線を落とす。


「正直に言うと……私にも、よく分からないんです」


「分からない」


「はい。嫌われているとは思います。冷たいですし、怖いですし……でも、全部が全部、セレスティア様のせいかって言われると……」


 そこで彼女は言い淀んだ。


「はっきりしないのですね」


「はい。取り巻きの人が勝手に動いてるみたいな時もありますし、周りが話を大きくしてる気もするし……」


 霊真は小さく頷いた。


 やはりそうか、と思う。


 曖昧な事実。

 過剰に整った悪役像。

 そして、それを補強する周囲の噂。


 この学園は最初から、誰かを“その役”に押し込めるのが早すぎる。


 リリアーナは困ったように笑った。


「私、セレスティア様のこと苦手です。でも……たぶん、怖いからって、それで全部片づけちゃいけないんですよね」


「はい」


「そこ、即答なんですね」


「苦手と、悪人であることは別ですので」


 その返答に、リリアーナは少しだけ目を丸くしたあと、やがてふっとやわらかく笑った。


「レイシンさん、やっぱり変わってます」


「よく言われます」


「それ、便利な返事になってません?」


「便利でしょうか」


「ちょっとだけ」


 そんなやり取りをしながらも、霊真の中では違和感がはっきり形になりつつあった。


 この学園は、最初から役割を決めて、誰かを悪者にしすぎている。


 そうでなければ、“悪役令嬢”などという呼ばれ方があまりに自然に通るはずがない。


    ◇


 その夜、霊真は中庭脇の回廊を歩いていた。


 学園の夜は、昼よりも少しだけ静かで、ようやく人の輪郭が柔らかくなる気がした。昼間はあまりに皆が“学園の誰か”として完成しすぎていて、見ているだけで少し気が詰まる。夜はその仮面が少し薄くなる。


 風が吹き抜け、回廊の外の木々が揺れる。


 霊真は昼間のリリアーナの言葉を思い返していた。


 リリアーナは善良だ。

 だからこそ、自分が“正しい側”に置かれていることに居心地の悪さを覚え始めている。


 一方でセレスティアは、疲弊している。

 高慢な仮面を貼りつけたまま、周囲の役割期待に押しつぶされかけている。


 そして周囲は、その両者を見て物語を補強する。


 なんとも息苦しい構図だった。


 ふと、気配がした。


 人ひとり分。

 しかもかなり不安定な気配。


 霊真は足を速めた。


 回廊の角を曲がった先、月明かりの届きにくい柱の陰に、セレスティアがいた。


 前回と同じように一人だ。


 だが今回は、前より悪い。


 壁に片手をつき、もう片方の手で胸元を押さえるようにしている。息が乱れ、顔色も青い。無理に立っているのがはっきり分かる。


「お加減が」


 霊真が声をかけた瞬間、セレスティアははっと顔を上げた。


「……また、あなたですの」


 その声には苛立ちが滲んでいた。


 いや、苛立ちというより、余裕のなさの表れだったのだろう。誰にも見られたくない姿を、よりにもよって同じ相手にまた見られた。そういう恥と焦りと疲労が、一緒に出ている声音だった。


「少し、お座りになったほうが」


「結構ですわ」


「ですが」


「結構だと申しました」


 ぴしゃりと言い放つ。


 それでも霊真は退かなかった。


 言い返さない。ただ、その場にいる。


 セレスティアの眉がつり上がる。


「なぜあなたは、わたくしに構うの」


 その問いは、怒りの形をしていた。


 だが霊真には、その奥に別のものが見えた。


 戸惑い。

 警戒。

 理解できなさ。


 どうしてこの人は、自分に関わろうとするのか。

 何を求めているのか。

 何が目的なのか。


 そう問うている目だった。


 霊真は、考える間もなく答えた。


「苦しんでいる方を、見捨てる理由がありません」


 セレスティアが、動きを止めた。


 目を見開く。


 さきほどまでの怒気が、唐突に行き場を失う。


「……は?」


「それだけです」


「それ、だけ……?」


「はい」


 セレスティアはしばらく何も言わなかった。


 壁に手をついたまま、ただ霊真を見ている。まるで、今まで一度も聞いたことのない言葉を聞いたかのような顔だった。


 たぶん、本当にそうなのだろう。


 見返りでもなく。

 打算でもなく。

 哀れみでもなく。

 役割でもなく。


 ただ“苦しんでいるから見捨てない”という、あまりに単純な言葉。


 それは、この令嬢の生きてきた場所では、意外なほど希少だったのかもしれない。


「……あなた、いつもそうやって」


 セレスティアがようやく絞り出すように言う。


「何も考えずに人を助けるのですの」


「考えていないわけではありません」


「では、どうして」


「困っている方がおられるからです」


「答えになっていませんわ」


「私には、それで十分な理由です」


 その返答に、セレスティアは完全に言葉を失った。


 怒ればよいのに。

 呆れればよいのに。

 そういう反応すら、一瞬できなくなっている。


 霊真は前回と同じく、近づきすぎぬ距離を保った。


「今日は、前より息が乱れておられます」


「……見ないで」


 小さな声だった。


 怒声ではない。


 令嬢の仮面が、ほんの少しだけ剥がれた声だった。


「承知しました」


 霊真はそう言って、視線を少し外した。

 完全に背けるのではなく、しかし圧をかけぬ位置へ。

 それだけで、セレスティアの張りつめた呼吸がほんの少し緩む。


「お座りになれますか」


「……」


「立ったままでは、余計に苦しいかと」


 数秒の沈黙のあと、セレスティアは悔しそうに唇を噛み、それから近くの石の縁へ静かに腰を下ろした。座る動作一つが優雅なのが、この人らしいと霊真は思う。限界に近いはずなのに、崩れ方にまで矜持がある。


「呼吸を」


 霊真が言う。


「前回と同じでよいです。吐くことから」


「……覚えていらっしゃるのね」


「必要と思いましたので」


「本当に変な方」


 セレスティアはそう言いながらも、わずかに指先の力を抜いた。


 霊真は静かに導く。


「肩を少し落とします」

「……こう?」

「はい。では、無理に深く吸おうとなさらず」

「……」

「吐けるだけ、細く長く」

「……ふぅ……」


 夜の回廊に、細い吐息が溶けていく。


 月明かりの下で見るセレスティアは、昼よりいっそう作り物めいて美しかった。けれどその美しさの奥にある疲弊を、今の霊真はもう見誤らない。


「あなたは」

 呼吸を整えながら、セレスティアがぽつりと言った。

「わたくしを悪役令嬢だとは思わないのですの」


「その言葉をよく耳にします」


「それで?」


「役割の名より先に、お人がおられるかと」


「……また、そういうことを」


「間違っておりましたら申し訳ありません」


 セレスティアは息を吐いた。


 今度は、少しだけ自然に。


「間違っているのかもしれませんわよ」

「かもしれません」

「わたくしが、本当に嫌な女なのかもしれませんわ」

「それでも、お疲れの方であることは変わりません」


 またしても、予想外の返しだったのだろう。


 セレスティアは目を閉じ、小さく笑った。

 笑ったというより、降参に近かった。


「……ずるい方ですのね、あなた」


「そうでしょうか」


「そうですわ。そういうことを真顔で言うから」


 その一言の意味は、霊真には半分も分からなかった。


 ただ、彼女の呼吸は確実に整ってきている。


 それで十分だった。


 そのとき、回廊の向こうから人影が見えた。


 数人の生徒たちだ。

 夜の散歩か、あるいは寮へ戻る途中か。


 彼らは柱の陰のこちらに気づいた瞬間、ぴたりと足を止めた。


「……え」

「ちょっと待って」

「あれ、ローゼンベルク様?」

「隣にいるの……あの転移者!?」


 小声のつもりなのだろうが、静かな回廊ではよく響く。


 霊真が振り向くと、生徒たちは明らかに動揺していた。

 無理もないだろう。

 夜の回廊。

 ひとり座る悪役令嬢。

 その傍らに膝を折って静かに付き添う謎の転移者。


 絵面だけ見れば、いろいろ誤解を招く。


「い、いや違うわよ、たぶん看病とか……」

「でもローゼンベルク様、なんか妙に静かじゃなかった?」

「転移者の賢者が悪役令嬢に取り入ってる?」

「いや、逆じゃない? 悪役令嬢のほうが妙にしおらしいっていうか……」


 しおらしい、という単語に、セレスティアのこめかみがぴくりと動いた。


 次の瞬間、彼女はすっと立ち上がる。


 もう先ほどまでの脆さは見せない。

 完璧な令嬢の顔が戻っている。


「――そこで何をしていらっしゃるの」


 冷たい声音が飛ぶ。


 生徒たちはびくりと肩を跳ねさせた。


「ろ、ローゼンベルク様! これは、その……」

「夜の回廊で立ち聞きとは、感心しませんわね」

「も、申し訳ありません……!」


 あっという間に逃げていく。


 去り際にも、ひそひそと何か言っているのが分かった。明日にはたぶん、別の形の噂になって学園中を回るだろう。


 セレスティアは小さく額を押さえた。


「……最悪ですわ」


「何がでしょう」


「何もかもですわ」


 その返答はわりと本気らしかった。


 霊真は少しだけ考え、それから言った。


「誤解は広がるかもしれません」


「分かっていますわ」


「ですが、今夜少し楽になられたなら、それでよいのでは」


 セレスティアは霊真を見た。


 それから、ふっと力の抜けた顔をした。


「そういうところですわよ」


「何がでしょうか」


「もうよろしいです」


 完全に理解を諦められた声音だった。


 だが、その声は前よりずっとやわらかい。


「……今夜のことは、忘れなさいまし」


「承知しました」


「本当に忘れられますの?」


「難しいかもしれません」


「では忘れたことにしておきなさい」


「善処いたします」


 セレスティアは呆れたように、しかしどこか笑いを含んだ息を漏らした。


 そして去り際、ほんの一瞬だけ振り返る。


「……ありがとうございました」


 かすかな、かすかな声だった。


 だが霊真には十分に届いた。


「どういたしまして」


 自然にそう返すと、セレスティアはなぜか少しだけ顔を赤くして、今度こそ足早に去っていった。


    ◇


 翌朝には、噂は見事に増殖していた。


「聞いた? 転移者の賢者、ローゼンベルク様と夜の回廊で密会してたらしいわ」

「密会っていうか、弱みでも握られたんじゃ」

「いや逆に、ローゼンベルク様のほうが妙に大人しかったって」

「えっ、あの方が?」

「転移者に取り入ってるのかしら」

「でもあの人、リリアーナさんにもすごく丁寧よね?」

「誰にでもああなんじゃない?」

「それが余計に怪しいのよ!」


 人間は、見たいものを見る。


 そして見たい形へ話を整える。


 霊真はそれを、朝食のパンを食べながらしみじみ理解していた。


 すると、食堂の入口からオルバス・グランディールが姿を見せる。学園長が直接こんな場所へ来ること自体が珍しいのだろう、一瞬で周囲のざわめきが収まった。


「レイシン君、少しいいかな」


「はい」


 霊真が立ち上がると、周囲の視線がまた集まる。

 完全に目立つ側の人間になっている気がして、少し落ち着かない。


 オルバスは廊下へ出ると、低い声で言った。


「近く、王子殿下主催の大規模な懇親会がある」


「懇親会、ですか」


「そうだ。本来は新たな交流を深めるための場だが……今回は少し空気が違う」


 その言葉に、霊真は夜の回廊でのセレスティアの顔を思い出した。


 オルバスは続ける。


「ローゼンベルク嬢への風当たりが、さらに強くなっている。殿下ご自身も、周囲の声を抑えきれていない」


「……」


「まだ表立って何かが決まったわけではない。だが、嫌な流れだ」


 霊真は静かに聞いていた。


 嫌な流れ。


 その言葉は、妙にしっくりきた。


 この学園には最初から、不自然なほど整った空気がある。誰かを主役に、誰かを悪役にして、筋書きどおりへ押し流そうとするような空気だ。


 そして今、その流れの中心にいるのがセレスティアなのだろう。


「レイシン君」


「はい」


「君は事情を知らぬ外の者だ。だからこそ見えるものもあるかもしれん」


 学園長の言葉は、それ以上のことを命じなかった。


 だが霊真には、それで十分だった。


 命じられなくても、見るべきものは見たい。

 見過ごしてはならぬものがあるなら、目を逸らしたくはない。


 オルバスが去ったあと、霊真はしばらくその場に立っていた。


 窓の外では、朝の光が学園の石壁を白く照らしている。

 美しく、整っていて、何も問題などないように見える景色だった。


 だが、その内側で立ち上がる気配は、少しずつ不穏さを増していた。

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