表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/17

第7話 高慢な悪役令嬢は、誰より静かに傷ついている

 セレスティア・フォン・ローゼンベルク。


 その名は、九十九院霊真が学園へ滞在することになった、その日のうちに何度も耳へ入ってきた。


 しかも、あまりよい意味ではなかった。


「ローゼンベルク様は、ああいう方ですから」

「完璧主義でいらして、他人にも同じものを求めるんです」

「リリアーナさんにも、いつも厳しくて……」

「厳しい、というか……冷たい、かな」

「王子殿下の婚約者だからって、少し思い上がっているところはありますよね」

「悪役令嬢って、まさにああいう方のことを言うんじゃない?」


 廊下ですれ違う生徒。

 食堂でひそひそ話す女子たち。

 案内役を務めるリリアーナに話しかけてくる級友たち。


 皆、ローゼンベルクの名を知っていた。

 そしてそのほとんどが、似たような評価を口にした。


 第一王子アルフレッドの婚約者。


 公爵家の令嬢。


 成績優秀。


 礼法も完璧。


 容姿端麗。


 そのくせ厳格すぎて息苦しく、人を寄せつけず、庶民出身のリリアーナにも冷たく、高みから人を見下している――そんな人物像である。


 まるで、最初から筋書きが決まっているかのようだった。


 優秀で気位が高く、美しい婚約者。


 そこへ現れた、素直で親しみやすい庶民出身の少女。


 前者は“悪役”で、後者は“好かれる側”。


 霊真は、その構図の分かりやすさに、かえって違和感を覚えた。


 人はそこまで単純なものだろうか、と。


 どれほど高慢に見える人であっても、呼吸をして、疲れて、誰にも見せぬ表情を持つはずだ。逆に、どれほど善良そうな人であっても、何一つ曇りのないまま生きているわけではない。


 にもかかわらず、この学園ではセレスティアという令嬢に対して、あまりにも“役”が固定されすぎていた。


 それが霊真には、どこか不自然に見えた。


 もちろん、本人をよく知らぬうちに周囲を疑うのも公平ではない。


 だから霊真は、いつもどおり、見たものだけを受け取ることにした。


 自分の目で見て、耳で聞いて、そこから考える。


 比叡山でも、御岩の山でも、それ以外に正しいやり方を彼は知らなかった。


    ◇


 学園の構造は、少しずつ頭に入ってきていた。


 中庭を中心に校舎が並び、教室棟、食堂、図書館、講堂、寮などがそれぞれ石造りの渡り廊下で繋がっている。広い。無駄に広い。しかも景観まで妙に整っていて、どこを歩いても絵になる。


 リリアーナは案内役として丁寧に説明してくれた。


「こちらが図書塔で、上の階は魔術理論科の資料が多くて……」

「ありがとうございます」

「だから、そんなに毎回丁寧に言わなくても」

「いえ、お手数を」

「うう……」


 こういうやりとりも、だいぶ定着してきた。


 リリアーナは優しく、気遣いのできる少女だった。だが霊真にとっては、その優しさこそ緊張の種でもある。善意に雑に応えることはできない。結果として、どうしても対応が少し重くなる。


 もっと自然でよい、と言われても、その“自然”が分からないのだから仕方なかった。


 その日も、ひと通り案内を受けたあと、リリアーナが教室へ戻る用事があるというので、霊真はしばらくひとりで学園の回廊を歩いていた。


 石造りの廊下は涼しく、窓の外には手入れの行き届いた庭園が見える。行き交う生徒たちは皆どこか華やかで、背筋が伸びていて、やはり舞台の役者めいていた。


 その中で、ふと人の気配が途切れる場所があった。


 中庭脇の回廊である。


 正面は木々に囲まれていて、昼間でも少し影が落ちる。人通りは完全になくはないが、主動線からは少し外れているらしい。静かで、ようやく呼吸のしやすい空間だった。


 霊真はそこで、足を止めた。


 少し先に、人影があったからだ。


 白銀に近い金髪。


 すらりとした立ち姿。


 背筋を保ったまま、それでもわずかに肩を落としている、その姿。


 セレスティア・フォン・ローゼンベルクだった。


 霊真は反射的に立ち去るべきか迷った。ひとりになっているなら、人目を避けたい事情があるのかもしれない。ならば、見なかったことにするのも一つの礼儀である。


 だがその直後、セレスティアが小さく息を吐いた。


 本当に、小さく。


 誰にも聞かれぬよう、胸の奥から漏れたような息だった。


 そして、袖の陰から小瓶のようなものを取り出し、手慣れた動作で口元へ運ぶ。薬だと分かった。飲み込んだあと、彼女はわずかに目を閉じ、壁へ片手をつく。


 その所作は一瞬だった。


 誰かが見ればすぐに隠せるような、一瞬の崩れ。


 けれど霊真には、それで十分だった。


 無理をしている。


 しかも、かなり長いあいだ。


 ただ疲れているのではない。無理を“続けている人”の身の張り方だ。呼吸が浅く、力を抜く瞬間さえ警戒している。倒れないためではなく、弱っていると悟られないために立っているように見えた。


 霊真は少しだけ考えた。


 ここで声をかけるべきか。


 放っておくべきか。


 答えは難しくない。


 苦しそうな人がいるなら、声をかける。


 ただし、土足では踏み込まない。


 それだけだった。


「ご気分が優れぬなら、少しお休みになったほうがよい」


 静かな声でそう告げると、セレスティアの肩がびくりと揺れた。


 振り返る。


 赤い瞳が、鋭く霊真を射抜いた。


「……見たのですか」


 声音は低く、よく通る。だが怒鳴ってはいない。怒鳴れないほど、むしろ張りつめていた。


「少々」


 霊真は正直に答えた。


 セレスティアの眉がきつく寄る。


「誰にも言わないでくださいまし」


 その言葉には命令の形があった。だが、霊真には命令というより、懇願を無理に硬くしたものに聞こえた。


「お望みなら」


「お望みなら……?」


「はい。無闇に他言するつもりはありません」


 セレスティアは霊真を睨んだまま、少しだけ息を整えようとした。だがその息がすでに浅い。胸が上下しているのに、十分に吸えていないのが分かる。


「あなた……」

「はい」

「どうして、そんな顔をしているの」


「どのような顔でしょうか」


「……哀れむでもなく、怯えるでもなく、怒るでもなく」


 そこで彼女は言葉を切った。


 続きが出てこないらしい。


 霊真には、その問いのほうが不思議だった。


「お加減の悪そうな方を見れば、そのように声をかけるのは自然ではないでしょうか」


「自然……?」


 セレスティアが、かすかに笑いそうな、泣きそうな、奇妙な表情をした。


「わたくしを見て、そう言ったのはあなたが初めてですわ」


 その一言で、霊真の中の違和感が輪郭を持った。


 なるほど、と。


 この人は、周囲から“悪役令嬢”として見られすぎているのだ。


 高慢な令嬢。

 王子の婚約者。

 完璧主義で冷たい女。


 そういう役割のほうが先に立ちすぎて、疲れているとか、無理をしているとか、そういう当たり前の人間らしさを見てもらえていない。


 だからこそ、今の言葉が出る。


「そうですか」


 霊真はそれ以上、余計な同情の言葉を重ねなかった。


 かわいそうですね、とか。

 おつらいでしょう、とか。


 そういうことを言われたい状態ではないと分かったからだ。


 セレスティアのような人は、たぶん、哀れまれることにも傷つく。


「……それだけですの?」


「はい」


「普通は、もっと何か言うところではなくて?」


「必要でしたら申しますが」


「いえ、結構ですわ」


 ぴしゃりと切り返される。


 だがその声に先ほどほどの棘はない。


 霊真は少しだけ近づきすぎぬ距離を保ったまま、令嬢の呼吸を見た。浅い。肩にも力が入っている。薬だけでどうにかしているのだろうが、それでは根本的には整わない。


「少し、息を整えられますか」


「……は?」


「大げさなことではありません。呼吸の仕方を少々」


 セレスティアは訝しげに目を細めた。


「あなた、医師か何かですの?」


「いいえ」

「では、なぜ」

「修行で教わりました」


「……修行」


 その単語の響きが、この学園では妙に異質らしい。セレスティアもまた一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに取り繕った。


「別に、わたくしは苦しくなんて」

「そうですか」

「……」


 即座に引かれると、逆に困るらしい。


 霊真は静かに続けた。


「それでも、少し楽になるなら損はないかと」


 セレスティアは数秒黙り込んだ。


 拒絶するかと思ったが、やがてごく小さく言った。


「……聞くだけなら」


「承知しました」


 霊真は自分でも不思議なくらい、自然に言葉を選べた。


「背筋を無理に張りすぎず、肩を少し落とします」

「こう、ですの?」

「はい。もう少しだけ力を抜いて」

「……難しいですわね」

「力を入れるのに慣れすぎておられるのかもしれません」


 その指摘に、セレスティアのまつげがわずかに揺れる。


 霊真は続けた。


「すぐ深く吸おうとしなくて構いません。まず、吐けるだけ吐きます」

「吐くほうから?」

「はい。吸うのはそのあとで自然に入ります」


 彼女は半信半疑のまま従った。


 細く息を吐く。


 途中で肩が上がりそうになるのを、霊真が言葉で止める。


「肩ではなく、下へ落とすように」

「……」

「急がなくて大丈夫です」

「あなたは簡単そうにおっしゃいますけれど」

「慣れれば簡単です」


 少しずつ、呼吸の波が整っていく。


 ほんの数回、それを繰り返しただけだった。


 だがセレスティアの顔色は、最初よりわずかにましになっていた。目の奥の鋭すぎる張りが、ほんの少しだけ緩んでいる。


「……不思議ですわ」


「呼吸は大事ですので」


「そんな当たり前のことを、今さら教えられるとは思いませんでした」


「当たり前のことほど、忙しいと抜けがちです」


 その返しに、セレスティアは初めて少しだけ口元を緩めた。


 笑った、というほどではない。

 だが、先ほどまでの氷のような顔とは明らかに違う。


「変な方ですのね、あなた」


「よく言われます」


「自覚がおありなの?」

「多少は」


 それで、今度こそセレスティアはかすかに笑った。


 本当にごく小さな笑みだった。


 けれど霊真には、その変化のほうが大事だった。


 高慢な令嬢でも、悪役令嬢でもない。

 ただ、少し疲れた年頃の少女が、ようやく少しだけ息をつけた。

 今見えたのは、そういう顔だった。


「……あなたは、わたくしが怖くないのですの」


 ふいにセレスティアが訊いた。


「なぜでしょう」


「皆そうですわ。表向きは取り繕っていても、結局は距離を置く。わたくしが何か言えば怯えたような顔をして、陰では好き放題に……」


 そこで彼女は言葉を飲み込んだ。


 言いすぎたと思ったのかもしれない。


 だが霊真は追及しなかった。


「怖い、とは思いません」


「……どうして」


「ひどく疲れておられるように見えますので」


 セレスティアは、また黙る。


 今度の沈黙は長かった。


 霊真も急かさず、その場の静けさを壊さなかった。回廊の外では葉が揺れ、遠くから授業の鐘のような音が聞こえる。学園全体は動いているのに、この場所だけ別の時間で止まっているようだった。


「あなた」

「はい」

「そのことは、誰にも言わないでちょうだい」


「承知しました」


「……本当に?」


「はい」


「どうして、そんなに簡単に」


 霊真は少し考えた。


「言わぬほうがよいとおっしゃるなら、そうすべきかと」


「普通は、見返りの一つでも求めるところではなくて?」


「見返り、ですか」


「……いえ、忘れてくださいまし」


 その問いのほうが、彼女のこれまでを物語っているように思えた。


 親切には理由がある。

 口止めには代償がいる。

 何かを守ってもらうには、何かを差し出さねばならない。


 そういう世界で立ってきた人の問いだった。


「では、一つだけ」


 霊真がそう言うと、セレスティアの目が少しだけ警戒に細くなった。


「な、何ですの」


「先ほどの呼吸を、今夜もう一度なさってください」


「……それだけ?」


「はい」


 彼女は呆れたように、しかしどこか拍子抜けしたように息をついた。


「変な方」


「そうかもしれません」


 そこで、わずかに人の気配がした。


 霊真は振り向かなかったが、誰かが少し離れた場所からこちらを見ているのが分かる。視線は鋭いが、敵意よりも観察の色が強い。


 セレスティアも何かを感じたのか、瞬時に表情を戻した。令嬢の仮面が、まるで何事もなかったかのようにぴたりと戻る。さっきまで壁に手をついていた人とは思えないほど、姿勢も眼差しも完璧だった。


「では、わたくしはこれで」


「はい。どうかご無理なさらず」


「その言い方、余計に気になりますわ」


「失礼しました」


「本当に失礼だと思っていらっしゃるの?」

「少し」

「少しですのね……」


 かすかな呆れを残しつつ、セレスティアは身を翻した。


 取り巻きもおらず、ひとりで歩き去っていく背は美しい。だがやはり、どこか張りつめすぎて見えた。


 霊真はその後ろ姿を見送りながら、改めて思った。


 この学園で彼女を“悪役令嬢”と呼ぶ者は多い。


 けれど少なくとも自分には、そうは見えない。


 見えたのは、誰より静かに傷ついている人間の姿だった。


    ◇


「……面白いものを見た」


 不意に後ろから声がした。


 霊真が振り向くと、そこにいたのは銀髪の少年――ルシアン・エーデル=クロイツだった。壁際に寄りかかるように立ち、無表情のままこちらを見ている。


「聞いておられたのですか」


「全部ではありません。最後のほうだけです」


 それはたぶん、全部ではないがだいたい十分に聞いていた、という意味なのだろう。


 ルシアンは視線をセレスティアの去った方向へ向け、次いで霊真へ戻した。


「あなた、変わっていますね」


「よく言われます」


「そういう意味ではなく」


 ルシアンは少しだけ目を細めた。


「皆がローゼンベルク嬢を見る目と、あなたのそれがあまりに違う」


 霊真は答えなかった。


 ルシアンは続きを言う。


「他の者は“悪役令嬢”を見る。けれど、あなたは違う。まるで最初から、そういう役など見えていないみたいだ」


「役より先に、人がおりますので」


 霊真がそう言うと、ルシアンは一瞬だけ黙った。


 そして、ほんのわずかに口元を上げる。


「なるほど。やはり興味深い」


 その声には、純粋な好奇心以上の色があった。


 研究対象を見つけた学者のような。

 あるいは、盤上の予想外の駒に目を奪われた者のような。


 霊真は内心で少しだけ思った。


 ――この方は、たぶん面倒です。


 だが、口には出さない。


 ルシアンはそんな霊真の心中を知る由もなく、静かに言った。


「あなたがこの学園へ来た理由、少し分かる気がしてきました」


「私にもまだ分かりません」


「ええ、そうでしょうね。だからこそ面白い」


 そう言い残し、銀髪の少年は音もなく回廊の奥へ消えていった。


 ひとり残った霊真は、しばらくその場で静かに立っていた。


 風が回廊を抜ける。


 葉が揺れる。


 遠くで人の声がする。


 異世界へ来てまだ間もないはずなのに、物事はすでに静かに動き始めていた。


 その中心にいるのが、疲れ切ったひとりの令嬢であることを、霊真はまだ十分には知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ