第7話 高慢な悪役令嬢は、誰より静かに傷ついている
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
その名は、九十九院霊真が学園へ滞在することになった、その日のうちに何度も耳へ入ってきた。
しかも、あまりよい意味ではなかった。
「ローゼンベルク様は、ああいう方ですから」
「完璧主義でいらして、他人にも同じものを求めるんです」
「リリアーナさんにも、いつも厳しくて……」
「厳しい、というか……冷たい、かな」
「王子殿下の婚約者だからって、少し思い上がっているところはありますよね」
「悪役令嬢って、まさにああいう方のことを言うんじゃない?」
廊下ですれ違う生徒。
食堂でひそひそ話す女子たち。
案内役を務めるリリアーナに話しかけてくる級友たち。
皆、ローゼンベルクの名を知っていた。
そしてそのほとんどが、似たような評価を口にした。
第一王子アルフレッドの婚約者。
公爵家の令嬢。
成績優秀。
礼法も完璧。
容姿端麗。
そのくせ厳格すぎて息苦しく、人を寄せつけず、庶民出身のリリアーナにも冷たく、高みから人を見下している――そんな人物像である。
まるで、最初から筋書きが決まっているかのようだった。
優秀で気位が高く、美しい婚約者。
そこへ現れた、素直で親しみやすい庶民出身の少女。
前者は“悪役”で、後者は“好かれる側”。
霊真は、その構図の分かりやすさに、かえって違和感を覚えた。
人はそこまで単純なものだろうか、と。
どれほど高慢に見える人であっても、呼吸をして、疲れて、誰にも見せぬ表情を持つはずだ。逆に、どれほど善良そうな人であっても、何一つ曇りのないまま生きているわけではない。
にもかかわらず、この学園ではセレスティアという令嬢に対して、あまりにも“役”が固定されすぎていた。
それが霊真には、どこか不自然に見えた。
もちろん、本人をよく知らぬうちに周囲を疑うのも公平ではない。
だから霊真は、いつもどおり、見たものだけを受け取ることにした。
自分の目で見て、耳で聞いて、そこから考える。
比叡山でも、御岩の山でも、それ以外に正しいやり方を彼は知らなかった。
◇
学園の構造は、少しずつ頭に入ってきていた。
中庭を中心に校舎が並び、教室棟、食堂、図書館、講堂、寮などがそれぞれ石造りの渡り廊下で繋がっている。広い。無駄に広い。しかも景観まで妙に整っていて、どこを歩いても絵になる。
リリアーナは案内役として丁寧に説明してくれた。
「こちらが図書塔で、上の階は魔術理論科の資料が多くて……」
「ありがとうございます」
「だから、そんなに毎回丁寧に言わなくても」
「いえ、お手数を」
「うう……」
こういうやりとりも、だいぶ定着してきた。
リリアーナは優しく、気遣いのできる少女だった。だが霊真にとっては、その優しさこそ緊張の種でもある。善意に雑に応えることはできない。結果として、どうしても対応が少し重くなる。
もっと自然でよい、と言われても、その“自然”が分からないのだから仕方なかった。
その日も、ひと通り案内を受けたあと、リリアーナが教室へ戻る用事があるというので、霊真はしばらくひとりで学園の回廊を歩いていた。
石造りの廊下は涼しく、窓の外には手入れの行き届いた庭園が見える。行き交う生徒たちは皆どこか華やかで、背筋が伸びていて、やはり舞台の役者めいていた。
その中で、ふと人の気配が途切れる場所があった。
中庭脇の回廊である。
正面は木々に囲まれていて、昼間でも少し影が落ちる。人通りは完全になくはないが、主動線からは少し外れているらしい。静かで、ようやく呼吸のしやすい空間だった。
霊真はそこで、足を止めた。
少し先に、人影があったからだ。
白銀に近い金髪。
すらりとした立ち姿。
背筋を保ったまま、それでもわずかに肩を落としている、その姿。
セレスティア・フォン・ローゼンベルクだった。
霊真は反射的に立ち去るべきか迷った。ひとりになっているなら、人目を避けたい事情があるのかもしれない。ならば、見なかったことにするのも一つの礼儀である。
だがその直後、セレスティアが小さく息を吐いた。
本当に、小さく。
誰にも聞かれぬよう、胸の奥から漏れたような息だった。
そして、袖の陰から小瓶のようなものを取り出し、手慣れた動作で口元へ運ぶ。薬だと分かった。飲み込んだあと、彼女はわずかに目を閉じ、壁へ片手をつく。
その所作は一瞬だった。
誰かが見ればすぐに隠せるような、一瞬の崩れ。
けれど霊真には、それで十分だった。
無理をしている。
しかも、かなり長いあいだ。
ただ疲れているのではない。無理を“続けている人”の身の張り方だ。呼吸が浅く、力を抜く瞬間さえ警戒している。倒れないためではなく、弱っていると悟られないために立っているように見えた。
霊真は少しだけ考えた。
ここで声をかけるべきか。
放っておくべきか。
答えは難しくない。
苦しそうな人がいるなら、声をかける。
ただし、土足では踏み込まない。
それだけだった。
「ご気分が優れぬなら、少しお休みになったほうがよい」
静かな声でそう告げると、セレスティアの肩がびくりと揺れた。
振り返る。
赤い瞳が、鋭く霊真を射抜いた。
「……見たのですか」
声音は低く、よく通る。だが怒鳴ってはいない。怒鳴れないほど、むしろ張りつめていた。
「少々」
霊真は正直に答えた。
セレスティアの眉がきつく寄る。
「誰にも言わないでくださいまし」
その言葉には命令の形があった。だが、霊真には命令というより、懇願を無理に硬くしたものに聞こえた。
「お望みなら」
「お望みなら……?」
「はい。無闇に他言するつもりはありません」
セレスティアは霊真を睨んだまま、少しだけ息を整えようとした。だがその息がすでに浅い。胸が上下しているのに、十分に吸えていないのが分かる。
「あなた……」
「はい」
「どうして、そんな顔をしているの」
「どのような顔でしょうか」
「……哀れむでもなく、怯えるでもなく、怒るでもなく」
そこで彼女は言葉を切った。
続きが出てこないらしい。
霊真には、その問いのほうが不思議だった。
「お加減の悪そうな方を見れば、そのように声をかけるのは自然ではないでしょうか」
「自然……?」
セレスティアが、かすかに笑いそうな、泣きそうな、奇妙な表情をした。
「わたくしを見て、そう言ったのはあなたが初めてですわ」
その一言で、霊真の中の違和感が輪郭を持った。
なるほど、と。
この人は、周囲から“悪役令嬢”として見られすぎているのだ。
高慢な令嬢。
王子の婚約者。
完璧主義で冷たい女。
そういう役割のほうが先に立ちすぎて、疲れているとか、無理をしているとか、そういう当たり前の人間らしさを見てもらえていない。
だからこそ、今の言葉が出る。
「そうですか」
霊真はそれ以上、余計な同情の言葉を重ねなかった。
かわいそうですね、とか。
おつらいでしょう、とか。
そういうことを言われたい状態ではないと分かったからだ。
セレスティアのような人は、たぶん、哀れまれることにも傷つく。
「……それだけですの?」
「はい」
「普通は、もっと何か言うところではなくて?」
「必要でしたら申しますが」
「いえ、結構ですわ」
ぴしゃりと切り返される。
だがその声に先ほどほどの棘はない。
霊真は少しだけ近づきすぎぬ距離を保ったまま、令嬢の呼吸を見た。浅い。肩にも力が入っている。薬だけでどうにかしているのだろうが、それでは根本的には整わない。
「少し、息を整えられますか」
「……は?」
「大げさなことではありません。呼吸の仕方を少々」
セレスティアは訝しげに目を細めた。
「あなた、医師か何かですの?」
「いいえ」
「では、なぜ」
「修行で教わりました」
「……修行」
その単語の響きが、この学園では妙に異質らしい。セレスティアもまた一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに取り繕った。
「別に、わたくしは苦しくなんて」
「そうですか」
「……」
即座に引かれると、逆に困るらしい。
霊真は静かに続けた。
「それでも、少し楽になるなら損はないかと」
セレスティアは数秒黙り込んだ。
拒絶するかと思ったが、やがてごく小さく言った。
「……聞くだけなら」
「承知しました」
霊真は自分でも不思議なくらい、自然に言葉を選べた。
「背筋を無理に張りすぎず、肩を少し落とします」
「こう、ですの?」
「はい。もう少しだけ力を抜いて」
「……難しいですわね」
「力を入れるのに慣れすぎておられるのかもしれません」
その指摘に、セレスティアのまつげがわずかに揺れる。
霊真は続けた。
「すぐ深く吸おうとしなくて構いません。まず、吐けるだけ吐きます」
「吐くほうから?」
「はい。吸うのはそのあとで自然に入ります」
彼女は半信半疑のまま従った。
細く息を吐く。
途中で肩が上がりそうになるのを、霊真が言葉で止める。
「肩ではなく、下へ落とすように」
「……」
「急がなくて大丈夫です」
「あなたは簡単そうにおっしゃいますけれど」
「慣れれば簡単です」
少しずつ、呼吸の波が整っていく。
ほんの数回、それを繰り返しただけだった。
だがセレスティアの顔色は、最初よりわずかにましになっていた。目の奥の鋭すぎる張りが、ほんの少しだけ緩んでいる。
「……不思議ですわ」
「呼吸は大事ですので」
「そんな当たり前のことを、今さら教えられるとは思いませんでした」
「当たり前のことほど、忙しいと抜けがちです」
その返しに、セレスティアは初めて少しだけ口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
だが、先ほどまでの氷のような顔とは明らかに違う。
「変な方ですのね、あなた」
「よく言われます」
「自覚がおありなの?」
「多少は」
それで、今度こそセレスティアはかすかに笑った。
本当にごく小さな笑みだった。
けれど霊真には、その変化のほうが大事だった。
高慢な令嬢でも、悪役令嬢でもない。
ただ、少し疲れた年頃の少女が、ようやく少しだけ息をつけた。
今見えたのは、そういう顔だった。
「……あなたは、わたくしが怖くないのですの」
ふいにセレスティアが訊いた。
「なぜでしょう」
「皆そうですわ。表向きは取り繕っていても、結局は距離を置く。わたくしが何か言えば怯えたような顔をして、陰では好き放題に……」
そこで彼女は言葉を飲み込んだ。
言いすぎたと思ったのかもしれない。
だが霊真は追及しなかった。
「怖い、とは思いません」
「……どうして」
「ひどく疲れておられるように見えますので」
セレスティアは、また黙る。
今度の沈黙は長かった。
霊真も急かさず、その場の静けさを壊さなかった。回廊の外では葉が揺れ、遠くから授業の鐘のような音が聞こえる。学園全体は動いているのに、この場所だけ別の時間で止まっているようだった。
「あなた」
「はい」
「そのことは、誰にも言わないでちょうだい」
「承知しました」
「……本当に?」
「はい」
「どうして、そんなに簡単に」
霊真は少し考えた。
「言わぬほうがよいとおっしゃるなら、そうすべきかと」
「普通は、見返りの一つでも求めるところではなくて?」
「見返り、ですか」
「……いえ、忘れてくださいまし」
その問いのほうが、彼女のこれまでを物語っているように思えた。
親切には理由がある。
口止めには代償がいる。
何かを守ってもらうには、何かを差し出さねばならない。
そういう世界で立ってきた人の問いだった。
「では、一つだけ」
霊真がそう言うと、セレスティアの目が少しだけ警戒に細くなった。
「な、何ですの」
「先ほどの呼吸を、今夜もう一度なさってください」
「……それだけ?」
「はい」
彼女は呆れたように、しかしどこか拍子抜けしたように息をついた。
「変な方」
「そうかもしれません」
そこで、わずかに人の気配がした。
霊真は振り向かなかったが、誰かが少し離れた場所からこちらを見ているのが分かる。視線は鋭いが、敵意よりも観察の色が強い。
セレスティアも何かを感じたのか、瞬時に表情を戻した。令嬢の仮面が、まるで何事もなかったかのようにぴたりと戻る。さっきまで壁に手をついていた人とは思えないほど、姿勢も眼差しも完璧だった。
「では、わたくしはこれで」
「はい。どうかご無理なさらず」
「その言い方、余計に気になりますわ」
「失礼しました」
「本当に失礼だと思っていらっしゃるの?」
「少し」
「少しですのね……」
かすかな呆れを残しつつ、セレスティアは身を翻した。
取り巻きもおらず、ひとりで歩き去っていく背は美しい。だがやはり、どこか張りつめすぎて見えた。
霊真はその後ろ姿を見送りながら、改めて思った。
この学園で彼女を“悪役令嬢”と呼ぶ者は多い。
けれど少なくとも自分には、そうは見えない。
見えたのは、誰より静かに傷ついている人間の姿だった。
◇
「……面白いものを見た」
不意に後ろから声がした。
霊真が振り向くと、そこにいたのは銀髪の少年――ルシアン・エーデル=クロイツだった。壁際に寄りかかるように立ち、無表情のままこちらを見ている。
「聞いておられたのですか」
「全部ではありません。最後のほうだけです」
それはたぶん、全部ではないがだいたい十分に聞いていた、という意味なのだろう。
ルシアンは視線をセレスティアの去った方向へ向け、次いで霊真へ戻した。
「あなた、変わっていますね」
「よく言われます」
「そういう意味ではなく」
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「皆がローゼンベルク嬢を見る目と、あなたのそれがあまりに違う」
霊真は答えなかった。
ルシアンは続きを言う。
「他の者は“悪役令嬢”を見る。けれど、あなたは違う。まるで最初から、そういう役など見えていないみたいだ」
「役より先に、人がおりますので」
霊真がそう言うと、ルシアンは一瞬だけ黙った。
そして、ほんのわずかに口元を上げる。
「なるほど。やはり興味深い」
その声には、純粋な好奇心以上の色があった。
研究対象を見つけた学者のような。
あるいは、盤上の予想外の駒に目を奪われた者のような。
霊真は内心で少しだけ思った。
――この方は、たぶん面倒です。
だが、口には出さない。
ルシアンはそんな霊真の心中を知る由もなく、静かに言った。
「あなたがこの学園へ来た理由、少し分かる気がしてきました」
「私にもまだ分かりません」
「ええ、そうでしょうね。だからこそ面白い」
そう言い残し、銀髪の少年は音もなく回廊の奥へ消えていった。
ひとり残った霊真は、しばらくその場で静かに立っていた。
風が回廊を抜ける。
葉が揺れる。
遠くで人の声がする。
異世界へ来てまだ間もないはずなのに、物事はすでに静かに動き始めていた。
その中心にいるのが、疲れ切ったひとりの令嬢であることを、霊真はまだ十分には知らない。




