第6話 ここはエロゲ世界ですか? いえ阿闍梨にはまだ分かりません
魔物が消えたあとの中庭は、奇妙な静けさに包まれていた。
つい先ほどまで悲鳴とざわめきで満ちていたはずなのに、今は噴水の音だけが妙にはっきり聞こえる。石造りの広い中庭、整いすぎた校舎、色鮮やかな花壇、そして絵巻物のように美しい制服姿の生徒たち。その全員が、まるで一斉に時を止められたように、九十九院霊真を見ていた。
見られている。
かなり見られている。
霊真は、そういう視線に慣れていないわけではなかった。史上最年少で千日回峰行を成したという肩書のせいで、比叡山でもたびたび好奇の目や敬意の視線を受けてきた。だが、今ここにある視線はそれとは少し違う。
驚き。
困惑。
警戒。
興味。
そして、わずかな熱。
それらが入り混じった、説明しづらい空気だった。
「……」
霊真はひとまず、もう一度中庭を見渡した。
やはり、どう見ても日本ではない。
いや、日本ではないどころか、自分の知るどの世界観にもすんなり当てはまらない。石造りの学舎、華やかな制服、整いすぎた容姿の若者たち、そして魔物と呼ばれた異形の存在。にもかかわらず、言葉はなぜか通じる。文化は明らかに違うのに、会話の意味だけは不思議なほど素直に理解できる。
これはつまり、本当に異世界とでも呼ぶべき場所なのだろう。
そう結論づけかけたところで、中庭の奥から低く通る老人の声が響いた。
「――そこまでだ。皆、落ち着きなさい」
ざわめきがわずかに割れる。
人垣の向こうから、ひとりの老紳士がゆっくりと歩み出てきた。長い白髪を後ろでまとめ、深い紺色のローブをまとっている。杖をついてはいるが、弱々しさは感じられない。むしろ、その場の空気そのものを一息で整えてしまうような存在感があった。
周囲の生徒たちの反応から見て、相当の地位にある人物らしい。
「学園長……」
「オルバス様だ」
そう囁く声が聞こえた。
老人――オルバス・グランディールは、中庭の中心へ進み出ると、まず周囲を一瞥し、それから霊真へ視線を定めた。その目は老いているのに濁りがなく、長年多くのものを見てきた者の眼差しだった。
「君が、今の魔物を鎮めたのだね」
問われ、霊真は静かに頭を下げた。
「そのつもりはなかったのですが、結果としては」
「そのつもりはなかった?」
オルバスの片眉がわずかに上がる。
「はい。危険があったように見えましたので、静まっていただこうと」
「……静まっていただこうと」
オルバスはその言葉を繰り返し、しばし沈黙した。老人の周囲にいた教員らしき者たちも、互いに顔を見合わせている。どうやら霊真の説明は、あまり説明になっていないらしい。
それでもオルバスはすぐに結論を急がなかった。
「まずは場所を移そう。ここでは落ち着いて話もできまい」
そのひと言で、生徒たちはようやく息を吹き返したようにざわつき始めた。
「でも学園長、あいつ何者なんですか?」
「見たことない魔法だったぞ」
「いや、魔法だったのかあれ?」
「リリアーナさんを抱きとめて、そのあと魔物を一瞬で……何この展開」
「展開って言うな」
いくつか妙な単語が混じった気がしたが、霊真は今は聞き流すことにした。
オルバスは軽く杖を鳴らし、生徒たちを下がらせる。それから霊真と、まだ少し顔の赤いリリアーナに向かって言った。
「君たちも来なさい。特にフェアミント嬢、落下の直後だ。無理はしないほうがいい」
「は、はい……!」
リリアーナは慌てて頷いた。
霊真も一礼する。
「お心遣い感謝いたします」
その礼の深さに、またしてもリリアーナが「えっ」という顔をした。どうやらこの世界では、感謝のたびにここまで丁寧に頭を下げる者は少ないらしい。
◇
学園長室は、中庭に負けず劣らず立派だった。
高い天井、ずらりと並ぶ本棚、壁にかかった絵画、磨かれた机。窓からは学園の敷地が広く見渡せる。書斎というより、城の一室に近い。にもかかわらず、不思議と息苦しさはなかった。整えられた知性の匂いがする部屋だった。
霊真は通された椅子に座る前、一瞬だけ迷った。
この世界の作法が分からない。
勝手に座るべきか、勧められるまで待つべきか。
結局、勧められるまで静かに立つことにした。
それを見ていたオルバスが、何とも言えぬ顔になる。
「……律儀だね、君は」
「礼を失したくありませんので」
「そうか。では座りなさい」
「はい」
ようやく腰を下ろす。
その間にも、室内には何人かの若者たちが集まっていた。中庭に駆けつけてきた面々だろう。あらためて見ると、やはり全員の見た目と雰囲気があまりにも“できすぎて”いた。
まず、ひときわ目立つ金髪の青年。
背筋は真っ直ぐで、姿勢には生まれつきの威厳がある。青い瞳は強く、端正な顔立ちには人の上に立つ者らしい整いがあった。良くも悪くも、“王子”という言葉が最も似合う顔である。
その隣には、赤銅色の髪をした長身の青年。体格がよく、肩幅も広い。剣士然とした雰囲気で、いかにも実戦向きの鋭さを持っている。考えるより先に動くタイプに見える。
さらに、銀髪の細身の少年。年齢は近そうだが、こちらはまるで別種の鋭さだ。視線が冷静で、何かを観察することに慣れている。学者か魔術師か、そういう理知の匂いがした。
そして、柔らかな金の髪をした少女。装いは清楚で、祈りや聖性を思わせる気配がある。だが目の奥には、ただ優しいだけではない芯もあった。
リリアーナを含めれば、まるでそれぞれが別の役割を背負わされているような顔ぶれだった。
霊真は正直に思った。
――皆さま、芝居の配役のように整っておられる。
つい、そのまま口にしていた。
「……皆さま、芝居の配役のように整っておられる」
室内が静まる。
オルバスがゆっくりと瞬きをした。
「配役?」
「はい。あまりに、そう、出来すぎておられます」
「出来すぎているとは何だ」
と赤銅の髪の青年――おそらく騎士気質の彼が眉をひそめる。
霊真は少し考えた。
「それぞれ、非常に分かりやすく役割を背負っておられるように見えます」
「……何を言っている?」
今度は金髪の青年が口を開いた。落ち着いてはいるが、訝しげである。もっともだろう。
オルバスはこめかみを押さえた。
「君の感性は独特なようだね」
「よく言われます」
「自覚はあるのか」
赤銅の青年が少しだけ呆れた顔をする。
「少々」
本当はかなりあるのだが、霊真にとっては“少々”のつもりだった。
そんなやり取りを見ながら、銀髪の少年は一人だけ興味深そうに目を細めている。彼だけは、霊真の妙な表現を笑わなかった。変だとは思っているだろうが、それ以上に「なぜそう見えるのか」に関心を向けている顔だった。
やがてオルバスが姿勢を正す。
「まず自己紹介をしておこう。私はオルバス・グランディール。この学園の学園長だ」
「九十九院霊真と申します」
「ツクモイン……レイシン、でよいのか」
「はい」
オルバスはその名を何度か心の中でなぞるように繰り返した。
「不思議な響きだ。この国の名ではないね」
「はい。遠い地より参りました」
異世界から来ました、とは言っていない。
だが嘘でもない。
オルバスはその返答を咎めず、次に他の面々へ視線を向けた。
「こちらは第一王子、アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタイン殿下」
やはり王子だった。
金髪の青年が一歩進み、静かに頷く。
「アルフレッドだ。先ほどの力、見事だった……と言いたいところだが、まずは君が何者かを知りたい」
王子らしい、正面からの物言いだった。
続いてオルバスが示す。
「こちらはガイゼル・ヴァン・ドレイク。剣術科の筆頭だ」
「どうも」
赤銅髪の青年――ガイゼルは腕を組み、値踏みするように霊真を見た。敵意とまではいかないが、あからさまに警戒している。強い者特有の視線だ。
「ルシアン・エーデル=クロイツ。魔術理論科の首席」
銀髪の少年が会釈する。
「……興味深いものを見せていただきました」
それだけで、この少年がかなり面倒な部類だと霊真にもなんとなく分かった。静かだが、執拗に追究してくる気配がある。
「そしてミレーユ・セラフィナ。聖女候補としてこの学園に在籍している」
柔らかな髪の少女が、上品に一礼した。
「ミレーユです。先ほどの気配……とても不思議でした」
柔らかい言い方だが、彼女もまた霊真を“ただの謎の転入者”とは見ていないのだろう。祈りに似た何かを感じたのかもしれない。
最後にオルバスがリリアーナを見る。
「君は先ほど既に名乗ったね」
「は、はい。リリアーナ・フェアミントです」
やや緊張気味に答える。
霊真はその様子を見て、あらためて不思議に思った。彼女は善良そうで、やわらかな空気をまとっている。なのに、この場では妙に注目を集める位置にいるように見える。周囲の視線の集まり方が少し特別なのだ。
その理由を考える前に、オルバスが本題へ入った。
「さて、レイシン君。先ほどの力についてだが」
「はい」
「君が扱ったものは、この世界に存在する通常の魔法体系とは明らかに違う」
室内の空気が引き締まる。
「結界に似ていた。浄化にも見えた。しかし詠唱もなく、魔術式の展開も観測できなかった。にもかかわらず、結果だけは極めて高度だ。あれは……この国の常識の外にある」
霊真は少しだけ考えた。
魔法体系、と言われてもよく分からない。自分の感覚では、ただ祈りに近いものを向けたら、そうなっただけだ。
「私にも詳細は分かりません。ただ、乱れたものを鎮めようとしただけです」
「鎮めようとして、あれか」
ルシアンが小さく呟いた。
その声音には、半ば呆れ、半ば感嘆した響きが混じっている。
オルバスは長く息をついた。
「事情は分からない。だが、危険人物と決めつけるには君の挙動はあまりに真っ当だ」
ガイゼルがぼそりと言う。
「真っ当……か?」
「少なくとも、リリアーナ嬢を受け止めたあと正座しそうな勢いで謝る不審者は、そう多くあるまいよ」
オルバスのその言葉に、リリアーナが耳まで赤くした。
「が、学園長……!」
ガイゼルが吹き出しかけ、アルフレッドは咳払いでごまかし、ミレーユは口元を隠して少し笑い、ルシアンは無表情のまま視線だけで面白がっていた。
霊真だけが真面目だった。
「あれは必要な謝罪でした」
「うむ、そうだろうね。君にとっては」
オルバスは面白そうでもあり、困ったようでもあった。
「ともかく、行き場も事情も定かでない以上、しばらく学園に滞在しなさい」
その一言に、室内の数人が反応した。
「学園に?」
アルフレッドが問う。
「はい。問題が?」
とオルバス。
「問題というほどでは……ただ、身元不明者を」
「身元不明者がこの学園を救ったのも事実だ」
王子は口をつぐんだ。
オルバスはさらに言う。
「外へ放り出すより、私の目の届くところにいたほうがよい。それに、彼自身もこの世界の常識を知らぬ。学ばせる必要がある」
霊真に向き直る。
「君に異存は?」
「ご厚意には感謝いたします。ですが、ご迷惑には」
「今さらだよ」
オルバスが即答した。
「君はすでに、中庭で十分に目立った」
たしかにそうだった。
霊真は小さく頭を下げた。
「では、お世話になります」
「よろしい」
オルバスは満足そうに頷き、次にリリアーナを見た。
「フェアミント嬢」
「は、はい!」
「君が案内役をしなさい。最初に接触したのも君だし、彼も君になら多少は話しやすいだろう」
リリアーナは目を丸くした。
「わ、私ですか?」
「不服かね」
「い、いえ! そんなことは……!」
ないのだろう。むしろ少し嬉しそうですらあった。
霊真は、その微妙な表情の変化を見てしまい、なぜか少し緊張した。女性が善意を向けてくれると、どうしてよいか分からなくなるのである。
「それでは、よろしくお願いいたします」
霊真が深く礼をすると、リリアーナはまた少し慌てた。
「そ、そんなにかしこまらなくても……」
「女性に無礼があってはなりません」
「えっ」
リリアーナが固まる。
ガイゼルが「は?」という顔をする。
アルフレッドも一瞬言葉を失い、ミレーユは目を瞬かせ、ルシアンだけが露骨に興味を深めた表情になった。
そして、周囲の空気が一拍遅れて同じ反応を返す。
「えっ」
奇妙な同時発声だった。
霊真は内心で首をかしげる。
また何か、おかしなことを言ったらしい。
「……その考え方は、君の故郷のものか?」
ルシアンが問う。
「一概には申せませんが、私の修行上の感覚ではあります」
「修行」
ガイゼルが眉をひそめる。
「おまえ、ほんとに何なんだよ」
「阿闍梨です」
「それが分かんねえんだっての」
もっともである。
結局、学園内の案内は本当にリリアーナが引き受けることになった。
学園長室を出て、石造りの廊下を並んで歩く。窓からは午後の光が入り、磨かれた床に長い影を落としている。通り過ぎる生徒たちは、皆あからさまに霊真を見ていた。中庭の一件はすでに広がり始めているのだろう。
リリアーナは最初こそぎこちなかったが、少し歩くうちに落ち着いてきた。
「ええと……まず、学園の寮と食堂、それから教室棟を」
「ありがとうございます」
「だから、そんなに丁寧じゃなくても」
「いえ、お手数をおかけしておりますので」
「う、ううん……」
距離感が難しい。
霊真はそれを痛感していた。
リリアーナは優しい。明るい。気遣いもある。だからこそ、こちらも礼を尽くすべきだと思う。だが礼を尽くすと、なぜか毎回少し戸惑われる。世の女性との距離感とは、ここまで複雑なものなのだろうか。
霊真が真面目に悩んでいると、リリアーナが少しおずおずと訊ねた。
「あの……レイシンさんは、本当に遠いところから来たんですか?」
「はい」
「ご家族とか……心配してたり」
その言葉に、霊真はほんのわずかに表情をやわらげた。
「してくださっていると思います」
「……帰る方法は、分かるんですか?」
「いえ」
「そ、そうなんですか!?」
「はい」
あまりに落ち着いて答えるので、リリアーナのほうが焦る。
「もっと、こう……不安になったりしません?」
「不安がないわけではありません」
「ですよね……!」
「ですが、今は困っても状況が好転するわけではありませんので」
そう言われると、リリアーナは返す言葉がなかった。
この人は、妙に落ち着いている。
それが強がりではなく、本当にそういう性質なのだと、彼女は少しずつ理解し始めていた。
そのときだった。
廊下の向こうから、空気が変わった。
人の流れがわずかに割れ、ざわめきが小さくなる。誰かが道を開けるように脇へ寄り、その先から一団が歩いてくる。
先頭にいたのは、ひとりの令嬢だった。
白銀に近い金髪。
紅玉のような赤い瞳。
背筋は真っ直ぐで、歩く姿には一分の隙もない。気位の高さと美貌が、そのまま人の形を取って歩いてくるようだった。制服も同じはずなのに、彼女だけは別の衣装のように見える。周囲の者が自然と道を空けてしまうのも分かる、圧のある美しさだった。
取り巻きらしき生徒たちも従えている。
その一団を見た瞬間、リリアーナの肩がわずかに強張った。
周囲から小さな囁きが漏れる。
「ローゼンベルク様……」
「悪役令嬢だ」
「また何か言われるんじゃ」
悪役令嬢。
霊真はその言葉に、一瞬だけ引っかかりを覚えた。
あまりにも役割めいた呼ばれ方だ。
だが、それ以上に彼の注意を引いたのは別のことだった。
令嬢――セレスティア・フォン・ローゼンベルクの顔色は、一見すると完璧だった。だが霊真には分かった。呼吸がごく浅い。肩に力が入りすぎている。目の下にはわずかな疲労の影がある。そして何より、張りつめ方が尋常ではない。
これは高慢な人間の余裕ではない。
倒れぬよう、必死に立っている人間の張りつめ方だ。
廊下の空気が変わる中、霊真だけが静かに思った。
――この方は、ひどく疲れている。




