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第5話 史上最年少阿闍梨、異世界の学園中庭に落ちる

 白かった。


 いや、白い、という言葉で本当に足りているのかは分からない。


 光とも違う。霧とも違う。目を閉じていても開けていても視界の奥まで満ちるような、境目のない白さだった。上下の感覚も、地面に立っているのか落ちているのかという感覚も、すべてが曖昧になる。ただ、自分の体だけは確かにここにあり、呼吸もできていて、胸の奥には先ほどまでの祈りの余韻がかすかに残っている。


 立花恒一は、白の中で一瞬だけ思った。


 ――これは、いよいよ分からない。


 だが不思議と、恐怖はなかった。


 御岩の山で大きな岩の前に立ったときの、あの「空気が変わる」感覚。比叡山で祈祷の最中に見知らぬ景色に触れたときの、あの「どこかへ続いている」感覚。今起きていることは、それらの延長線上にあるような気がした。


 どこへ行くのか分からない。


 何が待っているのかも分からない。


 だが、困っている誰かがいるのなら、行くべきなのだろう。


 そう思った直後、白が一気に弾けた。


 風が頬を打つ。


 光が薄れ、音が戻り、地面の気配が急速に近づいてくる。


 恒一は反射的に姿勢を整えた。足から着地するつもりで体勢を制御する。山道で転ばぬよう何度も叩き込まれた身のこなしが、こういうときにも勝手に働くらしい。


 次の瞬間。


 どん、と両足が石の地面を踏みしめた。


 衝撃はある。だが致命的なものではない。少しだけ膝を曲げて受け流し、すぐに体勢を戻す。呼吸は乱れていない。視界も明瞭だ。


 そこで恒一は、ようやく周囲を見た。


「……」


 無言になるしかなかった。


 そこは、日本ではなかった。


 断言できる。


 まず建物が違う。石造りだ。しかも単に古い西洋風というだけではなく、妙に整いすぎている。白っぽい石材で組まれた校舎らしき建物は無駄に格調高く、柱も窓枠もやけに装飾的だ。中庭には噴水があり、その周囲には季節感を無視したように色鮮やかな花壇が広がっている。芝生は絵に描いたように整い、石畳は汚れひとつなく、美しすぎて逆に現実味が薄い。


 そして何より、人である。


 人が、いちいち整いすぎていた。


 中庭のあちこちにいた若者たち――おそらく学生なのだろう――は、皆そろって服装が華やかだった。制服らしきものを着ているが、日本の学校のそれとはまるで違う。男子は長い上着に刺繍や装飾が入り、女子は上品だが妙に目を引く意匠のスカートやリボンをまとっている。色合いも豊かで、姿勢までどこか出来すぎている。


 しかも顔立ちが、どうにも整いすぎだった。


 ひとりふたりならともかく、周囲にいる者が皆、やたらと目鼻立ちがいい。金髪、銀髪、深い青の髪など、日本ではまず見ない色まで混じっている。背が高く、姿勢がよく、女子は華やかで、男子は妙に絵になる。


 恒一は思った。


 ――これは、何かの劇でしょうか。


 あまりにも舞台めいていた。


 しかもその劇の中へ、自分だけが衣装も知らずに放り込まれたような場違い感がある。


 だが、ここで困惑していても仕方がない。


 まずは状況を整理しようと恒一が呼吸を整えた、そのときだった。


「きゃっ――!」


 鋭い悲鳴が頭上から降ってきた。


 反射的に見上げる。


 二階のテラスらしき場所から、ひとりの少女が身を乗り出すようにして体勢を崩していた。いや、身を乗り出したのではない。足を滑らせたのだろう。そのまま、ふわりと、しかし確実に落ちてくる。


 考えるより先に体が動いた。


 恒一は一歩踏み出し、両腕を差し出す。


 落ちてくる少女を、受け止める。


 軽い、とは言わない。だが受け止めきれない重さではない。衝撃を逃がしながら足をずらし、体勢を崩さないようにして支える。


 問題は、そのあとだった。


 受け止めた瞬間、恒一はようやく自分がどういう格好になっているかを理解した。


「……」


「……」


 少女が、恒一の腕の中にいた。


 文字どおり、完璧に。


 距離が近いなどというものではない。かなり近い。いや、近いという表現すら生ぬるい。互いの呼吸がかかるほどの至近距離で、しかも少女は体勢を崩したまま恒一に支えられている。周囲から見れば、どう考えても絵面が強い。


 加えて、少女の髪から甘い香りがした。


 それだけで恒一は内心ひどく動揺した。


 女性との距離が近い。


 近すぎる。


 これはよくない。


 極めてよくない。


 その認識だけが、鐘のように頭の中で鳴り響く。


 恒一は少女の体勢が戻ったと確認するや否や、ほとんど飛び退くように一歩引いた。


「も、申し訳ありません!」


 勢いよく頭を下げる。


 勢いがつきすぎて、ほとんど正座に近い体勢になった。


「お怪我はありませんか。受け身が不十分で、どこか打たれていませんか。失礼を……その、触れてしまい……誠に……」


 謝罪が渋滞した。


 少女は目を丸くしている。


 淡い栗色の髪が肩のあたりで揺れ、整った顔立ちは驚きで固まっていた。年齢は恒一より少し下だろうか。やわらかな雰囲気の少女で、服装からしてこの学園の生徒であることは間違いない。そして、顔が真っ赤だった。


「あ、あの……え……」


「足首、手首、腰に痛みはございませんか」


「えっ?」


「落下の直後は異常がなくても後から――」


「えっ、えっ?」


 少女は完全に混乱していた。


 無理もない。


 落ちそうになったところを見知らぬ青年に受け止められ、その直後に深々と謝罪されながら怪我の有無を尋ねられているのだ。普通ならもっと別の反応があっていいのかもしれないが、恒一にはそんな余裕はなかった。


 まず、安全確認。


 次に謝罪。


 それが当然の順番である。


 だが周囲の反応は、それとは違っていた。


「えっ?」

「何あれ!?」

「い、今の見た!?」

「転入イベント?」

「いや、何で謝ってるの!?」

「しかもめちゃくちゃ低姿勢!」


 中庭にいた学生たちが、一斉にざわつき始める。


 転入イベント、という言葉が聞こえた気がしたが、恒一には意味が分からない。イベントとは何だろうか。祭事のようなものだろうか。だが今の状況で祭りめいた単語が出てくる理由もよく分からない。


 少女は赤い顔のまま、ようやく言葉を絞り出した。


「あ、あの……だ、大丈夫、です……」


「本当でしょうか」


「ほ、本当です!」


「そうですか。よかった……」


 恒一は心底ほっとした。


 その安堵の表情がまた、妙に真剣だったせいで、少女の顔がさらに赤くなる。


 周囲はもう完全に変な空気である。


 そこで恒一は、ようやくもう少し大事なことに気づいた。


 自分の服装が、この場にまったく合っていない。


 当然である。比叡山で祈祷の最中に来たのだ。こちらの華やかな制服や礼服めいた装いの中で、恒一だけが明らかに異質だった。浮いているどころではない。落ち武者ほどではないにせよ、舞踏会に山伏が紛れ込んだくらいの違和感はある。


 視線が集まるのも当然だった。


「……」


 恒一は一度、深く呼吸した。


 まず、ここがどこかを知らねばならない。


 そして、この少女に聞くのがたぶん一番早い。


「あの」


「は、はいっ」


 少女がびくっとする。


 そんなに怯えさせてしまっただろうかと恒一は反省した。声音を少し柔らかくする。


「失礼ですが、こちらは何処でしょうか」


「えっ……?」


「国名、あるいは土地の名でも構いません」


「え、ええと……王立エーヴェルシュタイン学園、です」


「……学園」


 学園。


 たしかに、学舎のような建物だった。


 だがそれは答えの半分にすぎない。


「ありがとうございます。では、この国は――」


「あ、あの、あなた……誰、ですか?」


 もっともな質問だった。


 恒一は一瞬だけ口を閉じた。


 たしかにそうだ。名乗りもせずに所在地を確認している場合ではない。


 もっとも、この世界において「立花恒一」と名乗ってよいのかという迷いも、ほんの一瞬だけ生まれた。比叡山で阿闍梨となって以降、外では俗名よりも僧名で呼ばれることも増えていた。もしここが本当に自分の知る世界ではないのなら、立花恒一というより、今の自分を表す名で名乗るべきかもしれない。


 恒一は静かに姿勢を正した。


「九十九院霊真と申します」


「つ、くもいん……れいしん……?」


「はい」


 リリアーナは、その名を口の中で確かめるように繰り返した。


 当然だろう。この世界の名前の響きではない。しかも姓も名も、かなり独特だ。だが恒一――いや、霊真は、それが今の自分にもっともふさわしい名だと感じていた。


「あ、あの、私はリリアーナ・フェアミントと申します」


 そう言って、少女は少し緊張したようにスカートの裾をつまんで礼をした。庶民的なやわらかさのある所作だが、どこかぎこちない。丁寧にしようとしているのだろう。


 霊真はその礼に、反射的にさらに深く礼を返した。


「ご丁寧にありがとうございます」


「い、いえっ」


 リリアーナはまた少し目を白黒させた。


 どうやら霊真の礼の深さは、ここでも少し重いらしい。


 だがそれはさておき、リリアーナという少女は、この場で最初に話しかける相手としては幸運だったのかもしれない。目に見えて善良で、混乱していても他人を突き放さない空気がある。


 そのとき、テラスの上から慌てた声が飛んできた。


「リリアーナさん! 大丈夫ですの!?」


 何人かの女子生徒が身を乗り出していた。どうやらリリアーナは上で誰かと話している最中に、何かの拍子で足を滑らせたらしい。


「だ、大丈夫です! その……助けていただいて……」


 リリアーナがそう言うと、上からの視線が一斉に霊真へ向く。


 見られている。


 かなり見られている。


 しかもその視線には、純粋な驚きだけでなく、何やら妙な色が混じっていた。


 好奇心。


 ざわめき。


 そして一部には、なぜか期待。


 霊真はだんだん落ち着かなくなってきた。


 どうもこの学園では、男女が少し近づくだけで特別な意味が生じる空気があるらしい。日本の学校でも多少はそうだったが、ここはもっと露骨だった。服装も華やかで、会話も身振りもどこか大げさである。


 もしや本当に劇か何かなのだろうか、と再び思ったが、それにしては皆の反応が真に迫りすぎている。


「……」


 霊真は内心で困った。


 男女の距離が近い。


 服装が華やかすぎる。


 しかも、女子生徒たちの胸元や肩まわりの意匠が、日本の感覚からすると少し目にやさしくない。


 見てはいけない気がする。


 いや、見ようとして見ているわけではない。視界に入るのである。だが入った瞬間、霊真の中で「これは失礼ではないか」「視線の置き場を誤っていないか」という警報が鳴る。


 結果として、彼の目線は少し上か少し下へ泳ぎがちになる。


 余計に不審である。


 そんな霊真を、リリアーナは不思議そうに見ていた。


「あの……本当に、大丈夫ですか?」


「私が、でしょうか」


「はい。その……すごく困っているように見えるので……」


 図星だった。


 霊真は正直に答えるべきか一瞬迷ったが、嘘をつく理由もない。


「少々」


「少々……」


「はい。文化の違いに、やや」


「ぶ、文化?」


 リリアーナはきょとんとした。


 どう説明すべきか。


 あなた方は全体的に華やかで、距離が近く、劇中の人物のようです――と言えば、たぶんますます困らせる。


 霊真が慎重に言葉を選んでいると、今度は中庭の別の入口から何人かの生徒が駆け込んできた。


「何の騒ぎだ!?」

「魔力反応が急に――」

「……って、誰だあいつ」


 男子生徒たちだ。


 彼らもまた、整いすぎた容姿をしていた。背が高く、姿勢がよく、まるで人物画のモデルのようである。霊真はますます思った。


 ――やはり配役が整いすぎています。


 だがそれを口にする前に、空気が変わった。


 上空から、不快な羽音が聞こえたのだ。


 ぶぅん、と。


 中庭の明るい空気に似つかわしくない、濁った振動音。


 霊真が見上げると、噴水の上あたりを黒い影が横切った。鳥ではない。蝙蝠にも見えるが、もっと歪で、身体のまわりにどす黒い靄のようなものをまとっている。


「魔物!?」


 誰かが叫んだ。


 その瞬間、中庭の空気が一変する。


「きゃああっ!」

「下がって!」

「防御魔法を――!」

「先生を呼べ!」


 悲鳴が上がり、生徒たちが一斉に動き出す。だが統制は完全ではない。訓練されている者もいれば、ただ逃げるしかできない者もいる。リリアーナも一歩下がったが、体勢を崩した直後だったせいか足元がわずかにふらついていた。


 霊真はそれを見た。


 そして、考えるより先に手をかざしていた。


「……静まりなさい」


 無意識に出たのは、比叡山で祈りを向けるときの自然な所作だった。


 手のひらの先に意識を通す。


 魔力という概念を理解しているわけではない。だが霊真の内には、祈りと共に澄みきった力が流れていた。浄めるためのもの。乱れたものを鎮めるためのもの。千日回峰行の果てに、そしてこの世界へ招かれたときに身に宿った、理屈を越えた力。


 空気が、ぴんと張る。


 次の瞬間、霊真の周囲から透明な波紋のようなものが広がった。


 それは光っているのに眩しくなく、清らかなのに鋭かった。波紋が広がるにつれて、中庭全体を包むように薄い結界が展開される。その中へ入った黒い小型魔物は、ぎゃっと耳障りな声を上げた。


 靄が剥がれる。


 黒が薄れ、輪郭がほどける。


 まるで汚れを洗い流されるように、魔物を包んでいた禍々しさが一瞬で浄化されていった。


 そして――消えた。


 跡形もなく。


 中庭に、沈黙が落ちた。


「……」


「……え?」


「今、何が……」


 誰もすぐには言葉を発せなかった。


 悲鳴も止まり、羽音も消え、噴水の水音だけが妙に大きく聞こえる。


 リリアーナが、呆然と霊真を見る。


 先ほどまでざわついていた生徒たちも、駆け込んできた男子たちも、テラスの上の女子たちも、全員が一様に固まっていた。


 霊真だけが、その反応を少し不思議に思っていた。


「……今の程度、この世界では普通ではないのですか」


 ぽつりと、そんなことを口にしてしまう。


 普通ではなかったらしい。


 次の瞬間、中庭じゅうがさらに静まり返った。


 霊真は、また少し困った。


 どうやら自分は、異世界へ来て早々、何かをやりすぎたのかもしれない。

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