第4話 祈りの果てに、史上最年少阿闍梨は異世界へ招かれる
阿闍梨となってからも、立花恒一の日々は大きく変わらなかった。
世間は変わったのかもしれない。
史上最年少達成者。
若き阿闍梨。
比叡山に現れた稀有の修行者。
そんな言葉が、新聞やテレビや雑誌の中で一人歩きしているらしいことは、恒一にも何となく分かっていた。山内にいても、外から来る人々の視線や、言葉の端々からそれは伝わってくる。珍しいものを見るような目。敬意と好奇心が入り混じった目。時には、勝手な期待まで込められた目。
だが、恒一自身にとってはどうにも実感が薄かった。
阿闍梨になったからといって、人間がいきなり完成するわけではない。煩悩が消えるわけでもなければ、疲れなくなるわけでもない。朝起きれば眠いし、冬は寒いし、説法の途中で言葉を探すこともある。むしろ、ここまで来たからこそ、自分の未熟さが以前よりよく見えるようになった気さえしていた。
だから彼は、相変わらず華やかな注目を好まなかった。
呼ばれれば出る。
問われれば答える。
けれど、自分から前へ出たいと思うことはなかった。
むしろ、人の少ない時間のほうが落ち着いた。
朝のまだ暗い山。
掃き清められた石畳。
読経の前の、わずかに澄みきった静けさ。
堂内に漂う香の気配。
そういうものの中に身を置くたび、恒一はようやく呼吸が整うのを感じる。
史上最年少だの、稀有だの、そんな言葉よりもずっと確かなものが、山の静けさにはあった。
だが、その静けさの中に、近ごろ奇妙なものが混じり始めていた。
最初は、本当にごくわずかだった。
祈祷の最中だけ、ふと胸の奥へ落ちてくる感覚があるのだ。
言葉ではない。
音でもない。
けれど確かに、何かだった。
それは、ただ一つの願いに似ていた。
――助けてほしい。
誰かがそう叫んだわけではない。
声が耳に聞こえたわけでもない。
それなのに、胸の奥へ直接沁み込むように、その願いだけが伝わってくる。悲鳴とも違う。嘆きとも違う。もっと静かで、もっと切実で、押し殺されているのに消えない祈りのようなものだった。
最初にそれを感じた夜、恒一は自分の体調を疑った。
疲労が残っているのだろうか、と。
千日回峰行を終えたとはいえ、人の身である。極限の日々の反動が今になって出てもおかしくはない。疲れれば幻を見たような気になることもあるだろう。そう理屈では考えた。
だが、二度、三度と同じ感覚が続くうちに、恒一の中でその理屈は少しずつ力を失っていった。
なぜなら、あまりにも輪郭がはっきりしていたからだ。
祈祷に入る。
呼吸が整う。
読経の響きが一定になる。
心が静まる。
その、心が静まりきったところへ、すうっと別の気配が差し込んでくる。
見たことのない風景が断片的に浮かぶこともあった。
石造りの学舎。
それが最初だった。
日本の寺社とも、日立の町並みとも、比叡山の建築とも違う。西洋めいた、と言えば近いのかもしれないが、恒一にはその語彙もあまり馴染みがない。ただ、重たい石でできた建物があり、大きな窓があり、広い中庭のような場所があった。
次に見えたのは、華やかな服を着た若者たちだった。
色合いが鮮やかで、飾りが多く、どこか舞台衣装めいて見える。男子も女子も容姿がやけに整っていて、恒一は一瞬、何かの芝居か祭りでも見せられているのかと思った。
だが、そこにある空気は楽しげなものではない。
どこか張り詰めていて、不自然だった。
まるで全員に役割が割り振られていて、その筋書きに従って立ち回っているような、奇妙なぎこちなさがあった。
さらに、泣きそうな目をした金髪の令嬢らしき少女の姿も見えた。
美しい、と思った。
それは恋情ではなく、まず整った絵のような美しさとして目に入ったのだ。長い金髪。張りつめた横顔。気位の高そうな立ち姿。けれど、その目だけがあまりに孤独で、あまりに苦しそうだった。
誰かに助けを求めているのに、声を上げることすら許されていないような目。
そして最後に、大勢の前で糾弾される誰かの気配。
顔はよく見えない。
けれど空気だけは分かる。
大勢が一人を責める場だ。
それも、冷静な話し合いではない。最初から結論が決まっていて、その結論へ向かって誰もが言葉を積み上げていくような、息苦しい場だった。
恒一には、その意味がまるで分からなかった。
何処なのか。
誰なのか。
なぜそんなものが見えるのか。
分からないことだらけだった。
だが、ただ一つだけ、はっきり伝わってくるものがある。
苦しんでいる人がいる。
それだけは疑いようがなかった。
◇
異変に気づいたのは恒一だけではなかった。
いや、異変そのものではなく、恒一の様子の変化に、である。
「少し顔色が悪いな」
ある日、師僧のひとりにそう言われた。
祈祷のあとのことだった。恒一は自覚がなかったが、どうやら少し考え込みすぎていたらしい。普段以上に口数が少なく、視線も遠くを見ていたのだろう。
「いえ、体調は問題ありません」
恒一はそう答えた。
実際、熱があるわけでも、足元がおぼつかないわけでもなかった。食事も取れている。眠りは浅い日もあるが、それは修行者として特別珍しいことではない。
師僧はしばらく恒一を見ていたが、やがて静かに問うた。
「では、何を見ている」
その問いに、恒一は少しだけ言葉を探した。
「……うまくは申せません」
「申せるだけでよい」
「祈祷の最中に、知らぬ景色を見ます」
師僧の目がわずかに細くなる。
「夢ではないのか」
「夢とも違う気がします」
「幻では?」
「そうかもしれません。ですが……」
恒一はそこで、一度呼吸を整えた。
「苦しんでいる方がおられるように思えるのです」
それを聞いても、師僧はすぐには答えなかった。
僧の世界には、理屈だけでは割り切れぬこともある。だからこそ、軽々しく“それは神託だ”とも言わないし、“気のせいだ”とも決めつけない。師僧は長く山にいる人だった。分からぬものを分からぬまま扱う慎重さを知っている。
「体を壊しているのでなければよい」
やがて、そう言った。
「ただ、見えるものに引きずられるな。見えぬものに酔うな。どちらであれ、足元を失えば本末転倒だ」
「はい」
「……だが」
師僧は少しだけ間を置いた。
「苦しんでいる気配を感じるというのなら、お前はたぶん放っておけぬのだろうな」
恒一は答えなかった。
答えなくても、たぶん顔に出ていた。
その沈黙を見て、師僧は小さく息をついた。
「難儀な性分だ」
叱責というより、見透かしたうえでの苦笑に近い声音だった。
恒一も、自分で少しだけそう思う。
見なければよかったのなら、どれほど楽だろう。
聞かなければ済むのなら、どれほど穏やかだろう。
けれど、苦しんでいるものの気配に気づいてしまった以上、それを“なかったこと”にはできない。
子どものころから、そうだった。
転んだ同級生を見れば駆け寄る。
荒れている相手にも声をかける。
倒れた仲間を見れば支える。
それが善人ぶっているわけでも、立派なことをしたいわけでもなく、ただ、目の前にあるから放っておけないだけだということを、恒一自身がいちばんよく知っている。
だから不安よりも先に、妙な確信が芽生えていた。
これはただの幻ではない。
どこかへ続く祈りだ。
誰かが、どこかで、確かに助けを求めている。
◇
その夜、恒一はひとりで縁側に座っていた。
山の夜気は冷たい。だが痛いほどではない。季節の境目なのか、風には冬の名残と春の気配が半分ずつ混じっていた。遠くで木々が擦れる音がする。山内はすでに寝静まり、足音ひとつ聞こえない。
こういう時間、恒一はよく故郷を思い出した。
比叡山も山だ。
厳しく、深く、静かな山だ。
けれど故郷の山とは違う。
日立の御岩の山は、もっと柔らかい記憶と結びついている。少年の足でも歩けた山道。家族と登った道。木漏れ日の匂い。岩の前で立ち止まり、空気が変わると感じた、あの不思議な感覚。
恒一は目を閉じた。
すると、すぐに思い浮かぶ。
朝の御岩だ。
湿った土の匂い。
靄のうっすらかかった木立。
朝日がまだまっすぐ差し込む前の、青い静けさ。
胸の奥まで洗われるような澄んだ気配。
そして、ふと気づく。
今、自分が感じている“遠い異界の呼び声”は、あの山で昔から感じていた何かに、どこか似ているのだ。
もちろん同じではない。
御岩の気配はやわらかく、自分を受け入れてくれるような静けさだった。いま胸に届くものは、もっと切迫していて、救いを求める色が濃い。けれど根のところで、何か通じるものがある。
言葉にするなら、澄みきっている、だろうか。
人の欲や雑念で濁っていない、もっと奥のほうから触れてくるような感覚。
「……不思議なこともあるものですね」
小さく独り言をこぼす。
返事はない。
だが、静寂は不思議と冷たくなかった。
御岩の山を思うとき、恒一はいつも自分の始まりを思う。なぜあの場所に惹かれたのか、今もはっきりとは分からない。けれど、人生の最初の一歩があそこにあったことだけは疑いようがない。
だから今、見知らぬ気配に触れながらも、完全には怯えなかった。
もしこれが何かへ続く道なら、自分の歩みはまたそこへ向かうのだろう。
それだけのことだ、と。
◇
そして、転移の夜が来た。
その夜もまた、祈祷の時間だった。
堂内は静かだった。灯明の火が細く揺れ、香の匂いが薄く漂う。外の風の音は遠く、内側の空気だけが別の時間で流れているように感じられる。恒一は定められた所作で座し、呼吸を整え、祈りに入った。
最初はいつもと変わらなかった。
心を静める。
雑念を手放す。
声と呼吸を揃える。
だが、ある瞬間、空気が変わった。
変わった、というより、澄みきった。
光でもない。
闇でもない。
もっと別の何かだ。
清らかという言葉でも足りないほど、何も混じっていない気配が、堂内いっぱいに満ちていく。まるで空気そのものが洗われ、世界の輪郭だけが異様にはっきりしていくようだった。灯明の火は揺れているのに、その揺れすら音を失ったように感じられる。
恒一は目を開いた。
その瞬間、空間がわずかに軋んだ。
音ではない。けれど、確かに“揺らぎ”があった。目の前の景色が水面のように歪み、堂内の柱や壁の輪郭が、ほんの一瞬だけ別のものと重なった。
石造りの学舎。
広い中庭。
華やかな服の若者たち。
そして、あの金髪の令嬢。
今度は、前よりはっきり見えた。
彼女は大勢の中に立っている。
立っているのに、ひどく孤独だ。
誰にも助けを求めない。
いや、求められないのだ。
泣きそうな目をしているのに、誇りだけで立っている。
その姿が胸を刺した。
同時に、あの“声なき声”がこれまでで最も強く落ちてきた。
――助けてほしい。
叫んでいるわけではない。
けれど、助けを求める気配だけは、もう疑いようがなかった。
恒一は驚いていた。
だが、恐れてはいなかった。
理由は自分でも分からない。
普通なら、未知の現象に足がすくんでもおかしくない。幻覚かもしれないし、何かの禍かもしれない。修行者として慎重になるべき局面ですらある。
それでも恒一の中では、恐怖より先に別の感覚が立っていた。
呼ばれている。
その確信だった。
偶然ではない。
見せられているのでもない。
招かれているのだ。
それが善いものなのか、危ういものなのかは分からない。だが少なくとも、そこには“助けを求める誰か”がいる。その一点だけで、恒一が立ち止まる理由はなくなった。
堂内の揺らぎはさらに強まる。
柱の向こうに、見知らぬ空が覗いた。
比叡山の夜空ではない。
もっと高く、もっと遠い、異なる星の配置。
足元が頼りなくなっていく。
床が消えるのではない。世界そのものの境目が薄くなっていくのだ。
そのとき、恒一の脳裏に最後に浮かんだのは、御岩の山の朝の景色だった。
湿った土の匂い。
木漏れ日の前の青い光。
大きな岩の前で立ち止まった、幼い日の自分。
始まりの場所。
あの山で感じた澄んだ気配が、今ここへ繋がっている気がした。
不思議と、胸が静まる。
そうか、と恒一は思った。
自分は結局、ずっとこの道を歩いてきたのだ。
日立の山から、比叡山へ。
比叡山から、その先へ。
ならば、行くしかない。
揺らぐ空間の中で、恒一は前へ一歩を踏み出した。
次の瞬間、堂内の景色が反転する。
上も下も失われ、光でも闇でもない白さが視界を満たした。体が持ち上がるような、沈むような、落ちるような感覚。足元の確かさが消え、音も、香の匂いも、夜の冷たさも、すべてが遠ざかっていく。
恒一の体が澄んだ光に包まれる。
それは眩しいのに、目を焼かない。
静かなのに、確かに世界を動かしている。
足元が消えた。
完全に消えた、その一瞬。
恒一はただ一言だけ、祈るように、しかし迷いなく呟いた。
「困っている方がおられるのなら、参ります」
その言葉を最後に、視界が白く弾けた。
そして世界は、まったく別の場所へと繋がる。




