第3話 千日回峰行――史上最年少阿闍梨は、恋愛どころではなかった
山は、歩けば歩くほど静かになる。
少なくとも、立花恒一にはそう思えた。
もちろん実際には風が鳴り、枝が擦れ、鳥が飛び、落ち葉を踏めば音もする。山は決して無音ではない。だが、人の中にある余計なざわめきだけは、歩くほどに削ぎ落ちていくのだ。言い訳も、見栄も、誰かと比べる気持ちも、足を前へ出し続けるうちに少しずつ薄れていく。
そして最後に残るのは、己の息づかいと、地面の確かさだけだった。
千日回峰行。
その名を師僧の口から聞いた日から、恒一の時間はまた一段深い場所へ入った。
それは若さでどうにかなるものではない。体力だけでも足りない。まして根性論で越えられるものでもなかった。歩き続けることそのものが目的でありながら、歩くという行為の中に己の弱さ、傲り、逃げたい心、死の気配までがすべて浮かび上がる。人が人のまま立ち入り続けてよい領域なのかと疑いたくなるような、厳しい道だった。
恒一は、その道へ入った。
誰より若く。
そして、誰より静かに。
◇
夜明け前の山は黒い。
朝ではない。まだ夜の延長だ。空の底がようやくわずかに薄まるくらいの時間に起き、冷水で身を清め、支度を整える。夏でも肌に冷たく、冬には骨の芯まで刺さる。眠気はぬぐうものではなく、切り捨てるものとして扱うしかなかった。
最初のころ、恒一は何度も思った。
人は、本当に毎日これを続けてよいのだろうか、と。
だが、続けるのだ。
一歩を出す。
次の一歩も出す。
足が重くても、出す。
風が強くても、出す。
雨でも雪でも、出す。
地面は日によって違う顔を見せた。乾いた土の日もあれば、ぬかるんだ坂の日もある。雨のあとの石はよく滑り、霧の濃い朝は木々の輪郭さえ曖昧になる。冬の冷え込みが厳しい日は、手の感覚が鈍くなり、耳の先がじんじんと痛んだ。夏は逆に湿気がまとわりつき、呼吸一つするにも肺の内側に重みが張りつくようだった。
眠い。
腹も減る。
足も痛い。
景色を愛でる余裕など、最初のうちはなかった。
それでも歩き続けるうち、恒一の中の何かが変わり始めた。
きついとか、つらいとか、そういう言葉が消えたわけではない。だが、それをいちいち言葉にして自分の中で膨らませる習慣がなくなっていった。苦しいなら苦しいまま歩く。眠いなら眠いまま歩く。弱音を吐く暇があれば一歩進める。そうやって日々を積み重ねていくうちに、感情の凹凸は次第に削られ、代わりに一種の透明さのようなものが生まれていった。
ただし、それは悟りでも何でもない。
弱さが消えたわけではなかった。
むしろ逆だ。
歩けば歩くほど、自分がどれほど未熟で、揺らぎやすく、脆いかがよく分かる。油断すれば足を取られ、気を抜けば所作が乱れ、心が曇れば呼吸にまでそれが表れる。修行とは、強くなることより先に、自分の弱さから目を逸らせなくなることなのだと恒一は知った。
だから、誰かと比べる気持ちはますます薄れた。
比べる余裕がないのである。
己の足元と向き合うだけで精いっぱいだ。
とはいえ、俗世の気配が完全に消えるわけではなかった。
たまに麓の町を見下ろす位置に出ると、遠くに車の明かりが見えることがある。人々の生活が、どこか別の世界のようにそこにあった。大学へ進む同級生、就職した者、恋人ができた者、夜遅くまで友人と語らっている者。自分と同じ年頃の若者たちが、別の時間の流れの中で生きていることくらい、恒一にも分かっていた。
ごくたまに、その情景が頭をよぎることがある。
大学のキャンパスというものは、どんな場所なのだろう。
仲のよい友人たちと酒を飲んだりするのだろうか。
恋人と手をつなぎ、将来の話などをするのだろうか。
そういう想像が、風のように一瞬だけ胸をかすめる。
だが、嫉妬はしなかった。
羨ましいとも、惜しいとも思わない。
ただ静かに受け入れていた。
自分は違う道を歩いているのだ、と。
それだけのことだった。
同じ年齢でも、同じ生き方をする必要はない。誰かの青春がまぶしいからといって、自分の歩みが間違いになるわけではない。山道に足を置き、冷えた空気を肺に入れるたび、恒一の中ではその事実だけが確かになっていった。
ある意味では、これは恋愛どころではない日々だった。
本当に、文字どおり。
恋愛に割く感情の置き場がなかったのである。
誰かに好かれたいとか、誰かを独り占めしたいとか、そういう発想自体が、遠い町の灯りのように感じられた。見えはするが、手の届く場所にはない。しかも恒一は、それを特に寂しいとも思わなかった。
むしろ時々、自分は普通の若者からかなり外れているのではないか、とだけ思った。
それは不安というより、確認に近い。
たぶん、自分はもう俗世の“普通”からだいぶ離れている。
それでもかまわなかった。
なぜなら、自分で選んだ道だからだ。
◇
歳月は、人の顔つきを変える。
恒一もまた、歩みを重ねるごとに少しずつ変わっていった。
もともと大きな声で騒ぐ性格ではなかったが、その静けさはさらに深まり、年齢不相応の落ち着きをまとい始めていた。痩せたわけではない。無駄のない、引き締まった体つきになったというべきだろう。余計な力みが削がれ、身のこなしに癖がなくなっていく。
一方で、世間のほうは放っておいてくれない。
史上最年少で大行に挑む若者がいる――そういう話は、どうしても外へ漏れる。最初は山内だけの話だったものが、少しずつ周囲へ伝わり、いつのまにか新聞社だの、地方局だの、取材の話まで来るようになった。
恒一としては、本当に困る。
修行の最中に目立つこと自体が落ち着かないし、そもそも取材で何を話せばよいのか分からない。
だが周囲の事情もある。完全に無視するわけにもいかず、ごく短い対応だけはすることになった。
ある日、取材に来た記者が、いかにも感銘を受けたという顔で聞いた。
「史上最年少達成者として、今後の夢は何ですか?」
恒一は少し考えた。
夢。
夢と言われても、壮大な目標がぽんと頭に浮かぶわけではない。世界平和と言えば聞こえはいいかもしれないが、そういう飾った答えをする気にはなれなかった。しばらく沈黙したあと、恒一は正直に答えた。
「静かな山で休みたいです」
記者が息を呑んだ。
その場にいた者たちも、なぜか深く感じ入ったような顔をした。
「……過酷な行を終えた先にもなお、静寂を求められるのですね」
「精神の在り方が違う……」
「やはり本物か……」
すべて誤解である。
いや、誤解と言うのも違うかもしれない。
本当にそう思っているのだから。
ただ、恒一の中ではたいへん現実的な本音だった。静かな山で、少し休みたかった。それだけである。足が痛く、肩が重く、腹も減る。人は疲れたら休みたい。いたって普通のことだった。
しかし周囲は感動した。
その温度差に戸惑っていると、別の記者がさらに踏み込んだ質問をしてきた。
「若くしてこれほど注目されていますと、女性ファンも多いのでは?」
恒一は固まった。
女性、という言葉に対する反応が露骨すぎたのか、記者は一瞬だけ「あ、まずい質問だったか」と顔に出した。だが時すでに遅い。
「え……その……」
恒一は珍しく言葉に詰まった。
修行に関する質問なら答えられる。山についても話せる。日々の所作や心得についてなら、自分なりの言葉で説明もできる。だが“女性ファン”は困る。
どう返すのが正しいのか、まるで分からない。
「そ、そのような方々に失礼があってはなりませんので……」
「は、はい?」
「ええと、私は……その……」
しどろもどろである。
答えになっていない。
それでも恒一は真剣だった。女性に対して軽々しい言葉を向けること自体が、彼にはひどく不遜に思えたのだ。知らない相手であってもそうだ。向こうが好意を向けていようといまいと、自分が雑に扱ってよい存在ではない気がする。
だから困る。
近づくのも失礼、軽く笑うのも失礼、かといって黙り込むのも失礼。結果として顔だけが真面目にこわばり、返答はあいまいになり、余計に相手を困らせる。
このころには、恒一の中で女性という存在はすっかり“未知であり、触れてはならないほど清らかなもの”になっていた。
もちろん理屈としては分かっている。
女性も自分と同じ人間であり、気安く触れてはならない聖像ではない。そんなことは理解しているつもりだった。だが実感が追いつかないのだ。恋愛経験の欠片もないまま、青春らしい時期をまるごと修行へ投じてきた結果、普通の異性観からどんどん離れてしまったのである。
誰かを欲の対象として見る、という感覚が、自分の中にほとんどない。
ではどう見ているかと問われれば、清らかなもの、神聖なもの、敬意を向けるべきもの、としか言いようがない。
そのあたりを、あるとき先輩僧に半ば冗談で相談したことがある。
「どう接するのが自然なのでしょうか」
「誰にだ」
「女性です」
「急に重い話をするな」
先輩は茶を吹きそうになった。
「いや、普通に接すればいいだろ」
「普通、とは」
「おまえ、そこからか」
「はい」
「目を見て話して、礼をして、必要以上におびえない」
「おびえているつもりはありません」
「じゃあ何で女性参拝者に毎回そんな顔になる」
「失礼があってはならないので」
「発想が儀式なんだよおまえは」
笑われて、恒一は本気で考え込んだ。
たしかに自分の対応は、やや儀式的かもしれない。
だがだからといって、いきなり気安くなれる気もしなかった。
結局その答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。
◇
千日回峰行は、日数の長さだけが恐ろしいのではない。
今日を乗り越えれば終わる、という種類の苦しみではないところが本質的に厳しいのだ。明日もある。明後日もある。その先もある。疲労は一日で消えず、むしろ少しずつ積み重なっていく。昨日まで無事だった足の皮膚が急に裂けることもあるし、心が弱った日に限って雨が降ることもある。
そして、孤独だ。
人は一緒にいても、最後は自分の足で歩くしかない。
誰かが代わりに呼吸してくれるわけでも、代わりに痛みに耐えてくれるわけでもない。修行とはつくづく、自分の中にある逃げたい心と向き合い続ける営みなのだと恒一は知った。
だからこそ、ときどき奇妙な静けさが訪れることがあった。
雨の中を歩いているのに、雨音がまるで遠く聞こえる瞬間。
凍える朝なのに、冷たさよりも空の色だけがやけに鮮明に見える瞬間。
風が吹き抜けるたび、木々の揺れがまるで意味のあるもののように感じられる瞬間。
人が極限まで削られると、感覚の輪郭が変わるのかもしれない。
恒一はそういう瞬間、ふと御岩の山を思い出した。
日立市のあの山道。
少年のころ、大きな岩の前で空気が変わるのを感じた場所。
誰にも理解されなかった、あの不思議な感覚。
比叡山の厳しさは、御岩の静けさとは違う。
だが根のところで、どこか繋がっている気がした。山は人の言葉を聞かない。媚びない。甘やかさない。そこにあるだけで、人の心を映す鏡になる。恒一にとって山とは、そういうものだった。
歩きながら何度も思う。
始まりは、あの山だった。
もし幼いころ御岩の空気に惹かれなければ、自分はここまで来なかっただろう。
誰かに導かれたのか、自分で選んだのか、その区別はもうどうでもよかった。ただ確かなのは、原点が日立の山にあるということだけだった。
そしてついに、その日が来た。
長い長い歩みの果てに、恒一は千日回峰行を成し遂げた。
史上最年少。
その事実はすぐに広まり、山内はもちろん、外の世界まで大きくざわついた。新聞は見出しをつけ、テレビは若き達成者として取り上げ、世間は驚きと称賛の声を寄せた。
だが当の本人は、どこまでも静かだった。
達成の瞬間、感激で泣いたわけでもない。
雄叫びを上げたわけでもない。
ただ、深く息を吐いた。
長かった。
それが最初の感想だった。
次に胸に浮かんだのは、やはりあの山の景色だった。
「始まりは、あの山だった」
誰に聞かせるでもなく、恒一は小さく呟いた。
日立の空気。
御岩の朝靄。
岩肌に触れたときの冷たさ。
少年のころ、何も知らないまま好きだった静けさ。
すべてが遠く、けれど鮮やかに蘇る。
周囲がどれほど騒ごうと、恒一の中でこの歩みはずっと一本の道として繋がっていた。史上最年少という肩書きも、たしかに外から見れば大きいのだろう。だが本人にとっては、自分がどれだけ小さく、未熟かを思い知る日々の延長でしかなかった。
阿闍梨となっても、何かが終わった気はしなかった。
むしろ逆だ。
ここまで来てもなお、まだ入り口に立っただけなのではないか。そんな感覚さえあった。
◇
達成後しばらくは、周囲が落ち着かなかった。
祝意を示す者、敬意を向ける者、興味本位で見に来る者。人の視線は増えたが、恒一は相変わらずそれに慣れなかった。礼をされれば礼を返す。声をかけられれば答える。だが、注目されること自体には居心地の悪さしかない。
ある日も、記者からこんなことを聞かれた。
「史上最年少阿闍梨として、今後はどのような立場を目指されますか?」
恒一はしばらく考えてから答えた。
「目指す、というより……今できることを増やしたいです」
「たとえば?」
「困っている方がいれば、少しでも力になれるように」
その答えは記者にとっては理想的だったらしい。感心したように何度もうなずかれた。
だが恒一の中では、特別きれいなことを言ったつもりはまったくなかった。
修行とは結局、自分を整えるためだけにあるのではない。人の苦しみに向き合うため、自分の弱さで逃げないため、その下準備でもある。自分が歩いてきた道は、たぶんそういうものだと感じていた。
だからこそ、その夜のことは奇妙だった。
祈祷の最中である。
堂内は静かで、灯明の火だけがわずかに揺れていた。読経の響きは一定で、呼吸も整っている。こういう時間、恒一の心は普段なら水面のように静まっていく。
だがその夜、ふいに何かが触れた。
見たこともない星空。
それが最初だった。
比叡山の空でも、日立の空でもない。もっと遠く、もっと澄みきっていて、けれどどこか冷たい星の並び。次いで、知らない言葉の響きが微かに耳の奥をかすめた。意味は分からない。人の声のようでもあり、歌のようでもあり、あるいは風が言葉の形を取っただけのようにも感じられる。
恒一は一瞬、息を止めた。
幻聴だろうか。
疲労が残っているのかもしれない。
そう理性では思う。だが、それにしては感覚が生々しすぎた。
星空は一瞬で消えた。代わりに、何か別の気配が胸へ落ちてきた。
助けを求めるような、遠い誰かの気配。
声ではない。叫びでもない。もっと曖昧で、もっと深いところから滲み出てくるようなものだ。悲鳴というより、押し殺した祈りに近かった。
――たすけて。
そう聞こえたわけではない。
なのに、そう感じた。
恒一は目を開けた。
堂内は変わらず静かだ。灯りもそのまま。周囲の者たちにも異変はない。自分だけが、別の何かに触れたようだった。
しばらくして読経が終わっても、その感覚は薄れなかった。
夜気の中へ出ると、山の空はいつもどおりだった。見慣れた星々。見慣れた風。冷たい空気。だが胸の奥だけが、まだ微かにざわついている。
知らない星空。
知らない言葉。
助けを求める気配。
夢とも違う。妄想とも違う。説明できないが、ただの錯覚と片づけるにはあまりに輪郭があった。
そのとき、恒一は初めてはっきり思った。
自分は、まだ終わっていない道の途中にいるのだ、と。
千日回峰行を成し遂げ、阿闍梨となっても、それで歩みが閉じたわけではない。むしろ何か別の扉が、ようやく音もなく開き始めたのではないか。そんな気配があった。
夜風が吹いた。
木々がさざめく。
その音の向こうに、ほんの一瞬だけ、また見たことのない景色が重なった気がした。
石造りの建物。
見知らぬ装いの若者たち。
大勢の視線の中で、ひどく孤独そうに立つ、ひとりの少女。
そこで像は途切れた。
恒一は長く息を吐き、冷えた夜空を見上げた。
分からないことばかりだ。
だが、分からないからこそ目を逸らしてはいけない気がした。
山の静けさは、いつだってそう教えてきたのだから。




